|
3、受け身と使役 ‥‥「被、使」
「受け身」の定義は、各言語で異なる。英語では、対峙する二つの「もの」があり、この間の動作を表現するのに、消極的な方から表現する動作のことだ。日本語では、行為者の意思と無関係に行われる動作のことだ。前述の「aれる」動作の一部で、極端な例でいえば、独りでも「受け身」の動作ができる。そして、中国語では、「被」の動作、つまり相手方に覆いを「被せ」、その状態でする動作のことだ。
そして、「使役」とは、英語では、相手方に対し「推進」または「放任」によってする動作だ。日本語では、相手方に働きかけ、ある事を強制する動作、つまり「aせる」動作だ。中国語では、日本語とほぼ同じだが、働きかける動作は更に広く捉える。「叫ぶ」「教える」「使いを出す」「人を派遣する」「顔を合わせる」程度のことでもいい。
(画像が出ません)
受け身 ‥‥「被‥‥做」は受け身だから「‥‥される」、こんな考え方は止める
我々は、「受け身だから‥‥」と発想するのが、対応する日本語が速く出てくると考え勝ちだ。だが、こんな考え方は止めた方がいい。例えば「読」を見て、なかなか「読まれる」とは発想できないからだ。だから、そこで、「られる」と呼応しやすい言葉を考えるわけだが、余りいい言葉がない。私は、長く考えて、「捕まった‥‥誰々に、そして‥‥された」という一連の言い方を考え出した。例えば、次のようにする。
这部书 已 被 译成 多种文字。
この本は 既に 捕まった そして 翻訳された 多くの言語に
この本は、既に各種の言葉に翻訳された。
他 被 父亲 通知 尽快 离开 他的家。
彼は 捕まった 父親に そして 通知された できるだけ早く 離れるように 彼の家から
彼は、父に、出来るだけ早く家を出るように言われた。
使役 ‥‥「人に−弱い使役」「動物を−強い使役」
使役とは、字面から「役務」を強制(/影響)する「動作」だが、相手方に対する強制の程度が異なる。そこで、日本語表現では使役表現が分かれる。「に させる(弱)」「を させる(強)」となる。この違いは、「を」が「支配」であることから容易に想定できる。
中国語では、「使」が一般的だが、強弱と態様により「叫」「让」「派」などと変化する。日本語翻訳では、語末に「させる」を付けるが馴染まない場合が多い。そこで、日本語では、語末を「損得勘定」で表現することが多くなる。「してやる」「してもらう」とするわけだ。いや、「使役」と「損得」を重複してする場合も多い。まず、解釈論。
他 使 群众 满意。
使者の解釈 : 彼は 使いを送った 群衆に そして 満足させた ‥‥「使者」なら、「満足」を促すの意味。
使った解釈: 使った 群衆を ‥‥「使う」なら、「強制的に満足」を促すの意味。
これだけの文では、「彼」と「群衆」の関係は「使」だけだから、それにより「満足」の程度までは分からない。漠然と、「満足を与えた」程度だ。これに、「这样才能」と文字を追加してみる。全体の感じが、少し変わるはずだ。
他 这样 才能 使 群众 满意」
彼は こうして やっとできる 使いを送って 大衆に そして 満足させた/してもらう ‥‥柔らかい(○)
使った 大衆を 満足させた/してもらう ‥‥強権的(△)
彼は、こうしてやっと、大衆に満足してもらった。 ‥‥「損得」
彼は、こうしてやっと、大衆が(/を)満足させられた。 ‥‥「使役」
どうですか。「才能」ときた辺りで、何か柔らかいものを感じる。そうすると、「満足させる」ではなく、「満足してもらう」という感じが伝わってくる。尤も、「満足させられる」という論理解釈が間違いと言うわけではない。強すぎるだけだ。
「满意」の動作の後に「‥‥を」と動作の目的を書くこともできる。そうすると、「を‥‥を」と助詞が続き、違和感がある。その時は、「誰々に‥‥を」とする。例えば、「先生は、生徒に(/を ←×)、宿題をさせた」だ。更に、「犬に(/を ←△)運動場を走らせた」。更に単独に、「犬に(/を ←○)走らせた」。振返って考えると、「に(相手方に対して)」でも「を(相手方を支配して)」でも大差なく、「程度」の差に過ぎないことが分かる。なお、古い言葉「〜をして」を使えば、「を」「に」が共用できる。
他 使 狗 在运动场 跑了。
彼は 使いを送った 犬に そして 運動場を 走らせた → 犬に 運動場を 走らせた(○)。
使った 犬を ←△ → 犬を 運動場を 走らせた(△)。
他 使 狗 跑了。
彼は 使いを送った 犬に そして 走らせた → 犬に走らせた(○)。
使った 犬を → 犬を走らせた(○)。
振返って考えると、相手に与える影響の幅は広く、それに導かれる動作の全体を、情緒的表現の多い日本語で表現するには、表現幅が非常に広い。中国語(絵文字型)では「使役」表現であっても、日本語では、最適は、「受け身」「使役」「損得」に分かれる。
受け身・使役の例文と「主体」の変更
青松 被 积雪压 弯了 腰。
青松は 捕まった 積もった雪の圧力に そして 曲げられた腰を
青松は、雪の重みで腰が曲がった。 ‥‥通常訳
雪の重みは(/が)、青松の腰を曲げた。 ‥‥「こちら」と「向こう」の入替え。
他 被 人 把 衣服 偷走了。
彼は 捕まった 人に そして 掴んだ 服を そして 盗まれた
彼は、人に衣服を盗まれた。
爸爸 珍贵 的 花瓶 被 我 打碎了。
父が 大事にしている そういう花瓶は 捕まった 私に そして 打砕かれた
父が大事にしている花瓶は、私によって割られた。 ‥‥「受け身」解釈(△ ←不自然)
父が大事にしている花瓶は、私が割ってしまった。 ‥‥「は」は「話題」で、「花瓶の話をする、‥‥」の調子に。
父が大事にしている花瓶を、私が割ってしまった。 ‥‥「は」「を」の区別はないので、「を」として下へ続けた。
「しまった」は、「悪い」結果が起きたようなときに使う。
今天,我 被 老师 批评 了。
今日 私は 捕まった 先生に そして 批評された そうした
今日、私は、先生に小言を言われた。 ‥‥「受け身」
今日は、私は、先生に叱られてしまった。 ‥‥「今日は」は「〜の話」。「批評」は私にとって悪い事 →「しまった」。
这些人 被 称 为 弥生人。
これらの人は 捕まって 称される それが 弥生人と(言われる) ‥‥「为」:「それを(/が)‥‥にする(/になる)」
これらの人は 捕まって 称される それを 弥生人と(言う)
これらの人は、弥生人と呼ばれている。
另外 作为 和语的 笔试 用语 的 假名 被 发明。
他に それを 和語の 筆記 用語にする そういう 仮名が 捕まって 発明された
他に、和語の筆記用語である仮名が発明された。
一个字的 助词 即使 被 省略 也 能 明白 其语言的 意思。
一つの字である 助詞は たとえ 捕まって省略されて そうであっても 有能で 明らかになる その言葉の 意味が
一文字の助詞は省略されても、その言葉の意味は分かる。
通常,「は」和「を」 即使 被 省略 掉 句意 也 能 理解。
通常 「は」 と 「を」は たとえ 捕まって 省略されて 落とす 語句 それであっても 有能で理解できる
通常、「は」と「を」は、たとえ省略された言葉であっても理解できる。
屋子 被 洪水 冲 走了。
部屋は 捕まった 洪水に そして突進して 走り抜かれた
部屋を、洪水が走り抜けていった。
洪水により、部屋が水の通り道になった。‥‥「絵」と「格」では、表現形式が大きく異なる(意訳)。
我 使 他 等了 好 久 了
私は 使いを送った 彼に そして 待たせた とても 長い間 そうした
私は、彼に、長い間待たせた。 ‥‥「待たせた」は、表現がきつい。
私は、彼に長い間待ってもらった。 ‥‥「もらった」は、私の利益。表現が軟らかくなる。
雨水 使 植物 生长。
雨水は 使いを送った 植物に そして 成長させた
雨水は 使った 植物を そして 成長させた
雨水は、植物を生長させる。 ‥‥「自然現象」を「受け身・使役」で表現すると「不自然な文」になりやすい。
雨水によって、植物は生長する。 ‥‥「雨水」を「原因」と捉える。
植物は、雨水で生長する。 ‥‥「主題」を「植物」に替えた。
‥‥文章の上から「雨水」は、「主語」であるが、実質的意味は、「原因」だ。だから、「雨水により(原因)」とする。
|
常識と呼応で解釈する中国語
[ リスト | 詳細 ]
|
2、損得表現「やる、もらう」‥‥「请、给」
「请」は「どうか」でいいが、つまり「どうか‥‥して下さい」と呼応し、文は下へ繋がる。しかし、「请」の後に「人」が入ると、簡単じゃない。その時は、倒置にして、「お願いする、誰々に‥‥することを(/するように)」とした方がよい。例えば、「我请人帮忙」なら、「私は、頼んだ、人に、手伝いを(/手伝ってもらうように)」とする。
「给」は、「やる‥‥誰々に、何を」でいいが、動作の場合は、「やる‥‥誰々に、何々を、そして、何々してやる」のようにする。「やる」とすると、「損得表現」では、後にまた「やる」必要になるので、最初から、「手を出して(←呼応語)、‥‥」としておいてもよい(次文)。ついでに言うと、中国語はこの順序に言葉が繋がっているから、その調子を体で覚えることが大事だ。また、後に動詞が続くときは、「そして」を入れる事が肝要だ。例えば、「我给他酒喝了」なら、「私は、やった、彼に、酒を、そして、飲ませてやった」とするわけだ。この論理は、英語の「help,give」と同じだ。
详细 请 见 那课本的 第13章。
詳細は どうか 見て下さい あの教科書の 13章を
大家 请 考虑 一下。
皆さん どうか 考えて下さい ちょっと
他们 请了 一位教授 教 日语。
彼らは お願いした 一人の先生に 教えて下さいと 日本語を
彼らは、ある先生に日本語を教えて欲しいと頼んだ。
请 用 中文 来 观察 它。
どうか 使うのは 中国語で それから 観察して下さい それを
どうか中国語でそれを観察してみましょう。
请 把 它 看作 是 自行车的 辅助车轮。
どうか 掴む それを そして 見なして下さい それは 自転車の 補助輪であると
それが、自転車の補助輪だと思って下さい。
1文の「詳細」は、「詳細については」の意味、「話題」だ。2文の「大家」は、「皆んなが、頼んだ、見るように」ではない。「大家」は、呼びかけだ。3文は、「他们 请了」は、「彼らは、頼んだ」だ。4文は、中心動詞は「看作」か「是」か。「请 看作(どうか思ってください)」が、基本構造だと見抜くことが大事だ。
特別 是 例句4的句子 就 给 人 强烈 感觉。
特別なのは それは 例文4の文で それで直ぐに (やる) 人に そして 強烈な 感じを与える
特別なのは例文4で、それが、人に強い感じを与える。
医生 给 你 治好了 病。
医者は やった(/手を出す) あなたに そして 治療してくれた 病気を
医者は、あなたの病気を治してやった。
あなたは、医者に病気を治してもらった。
我 给 他 让了 一条路。
私 やった(/手を出す) 彼に そして 譲ってやった 一筋の道を
私は、彼に道を譲ってやった。
突然 给出 这些杂乱的 句子。
突然 やって出した これらの乱雑な 語句を
突然、これらの乱雑な語句を出した。 ‥‥この「给」は、「出」がついて通常の本動詞。
1文は、「就(それで)」があるから、その前と後を繋いでいると考える。だが、そうすると、「给 人」の主語は何か。結局、「例文4の句」が二重になっている事が分かる。2文は、動作は「医生 → 你」だが、中国語では「主体」と「客体」の「格」は固定されていないので、どちらを主体としても文が出来る。日本語では、損得勘定を重視するので、「絵文字文」は、誰を中心に表現するかで、完全な日本語訳はいくつかに分かれる。この後で述べる。3文も、「我 → 他、让」は明確だが、こんな文でも「彼は、私に、譲ってもらったと」と訳せる。
「请」と「どうか/どうぞ」
「か」は、「K行」発音の響きが強く、「どうか」は「どうぞ」より、強い意味を表す。そこで、「どうか → 懇願」「どうぞ → 勧誘」の感じになりやすい。ちなみに、中国人は、「请」を「どうぞ」と言う者が多い。向こうでは、いくらか柔らかい「ぞ」が好まれるようだ(教本の例文)。いくつか例文を見てみよう。
练习 请 边 看 图片来 区别 这个和 那个。
練習は どうか 一方で 見ながら 図を それから始めて 区別して下さい これ と あれを
練習は、どうか図を見ながら、これとあれを区別して下さい。
大家 在 [类似性] 以外的 表达中 请 不要 使用 [も]。
皆さんは 場所は 類似性 それ以外の 表現の中では どうか 絶対に 使用しないで下さい 「も」を
皆さんは、「類似」以外の表現では、どうか「も」を使用しないで下さい。
中国学生们 请 首先 记住 该 形式。
中国学生達は どうか まず 記憶して下さい 該当する 形式を
中国学生諸君は、どうかまず該当する形式を覚えて下さい。
这个句型 请 放在 中文语学习的 第二阶段 来 学习。
この句型のものは どうか 置いて下さい 中国語学習の 第二段階に そして それから 学習して下さい
この句型のものは、日本語学習の第二段階から学習して下さい。
请 参照 前页图片 来 考虑。
どうか 参照して下さい 前ページの図を そして それから考えて下さい
どうか前ページの図を参照して考えて下さい。
因 此 请 简单 记住 各种情况。
原因は このようなので どうか簡単に 記憶して下さい 各種の状況を
こういう事ですから、どうか簡単にいろんな状況を記憶して下さい。
请 大家 注意 不要 明天早上 迟到。
どうか 皆さん 注意して下さい 絶対に 明日の朝 後れないように
皆さん、明日の朝、後れないようにした下さいね。
如果 有 用 得 上 我家里,请 联系。
もし そこに 使って 得て 上がるならば 私の家に どうか 連絡して下さい
もし、私(の家)が役に立つならば、どうかご連絡下さい。
「给」と「やる・もらう」の表現 ‥‥損得勘定
「給」は、「こちら → あちら」と物が動いた事を表す「介詞」で、通常「誰々に」とすれば済む。「絵画語」では、その移動がどんな物であれ、素直にその流れを表現するのが、分かりやすい文になる。
それに対して、「格表示語」では、「こちら側の人物が、あちら側の人物に対して、どうした/どうされた」という構造を取るので、「物の移動」より「損得勘定」の方をずっと重視する。そこで、日本語では、「物の移動」とともに、最後に、損得勘定を示すのだ。特に、前項の「医生给你」の文の言切りを見てみるとその事がよく分かる。まず、次に「你 给 我 写信」を例に「给」の取扱いを見てみよう。
你 给 我 写 信
逐語訳:あなたは (手を出した) 私に そして 書いてやった 手紙を
你中心:あなたは、私に手紙を書いてくれた。 ‥‥「あなたは、くれる」で、「あなたが利益を与えた」の意味。
我中心:わたしは、あなたに手紙を書いてもらった。 ‥‥「私は、もらった」で、「私が利益を得た」の意味。
この例では、「利益内容」が単純で、間違うことはない。次の文では、「私」の「彼」に対する真意は何か。被害になることもあり、被害なら「受け身」表現が適当となる。
我 给 他 酒 喝。
逐語訳: 私 (手を出した)彼に 酒を そして 飲ませてやった ←使役表現
我中心:私は、彼に、酒を飲んでもらった。 ‥‥「飲んでもらって」、私も、嬉しいの気持ち。
私は、彼に、酒を飲ませてやった。 ‥‥「飲ませる」は、「使役」表現。第三者に話す感じになる。
私は、彼に、酒を飲まれてしまった。 ‥‥「飲まれる」は、私は被害に遭ったの感じだ。
彼中心:彼は、私に、酒を飲ませてもらった。 ‥‥「飲ませてもらう」は、「使役」だが、「利益」があったの表現。
彼は、私に、酒を飲まされた。 ‥‥「飲まされた」は、「使役の受け身」で、彼に被害があったの感じだ。
いや、とにかく、「絵文字」には感情が入っていないので、解釈は自由だ。何、デタラメに訳していいって。そんな事はない。「絵文字文」では、解釈の幅が広いと言っているだけで、上の文を、中国人がどんな意味で使っているかとは違う。誤解のない言い方をするには、この後に、「私は、嬉しい」とか、「くそったれ」などの文が付ければ、その時、初めてその正確な意味が確定する。ちなみに、上の文は、通常、「使役」の意味と「私も嬉しい」の気持ちが混ざったものだ。日本でも全く同じだ。常識で判断せよ、屁理屈で判断するな。次の文なら、間違いない。
可能的话, 我 想 給 他们 买 一点礼物。
できる 話なら 私は (思う)(手を出し) 彼らに そして 買ってやり たい 贈り物を
できる事なら、私は、彼らに贈り物を買ってやりたい。
宝宝 叫 阿姨 唱歌 给她 听。
子供達は 叫んだ おばさんに そして 歌を歌ってもらい そして 子供達に 聴かせてやった
子供達は、おばさんに歌を歌ってもらい(子供の利益)、それを聴いてやり(おばさんの利益)ました。
‥‥「子供たち」から「おばさんの」の間に、「叫」の関係があり、それに基づく動作が「唱歌」と「听歌」。どんな「損得勘定」が働くか、「子供」と「おばさん」の気持ちを考えながら、日本語訳を考える。
|
|
4章 相手のある動作
1、「aれる、aせる」‥‥「在る」「得る」「為る」の付加
動作は、「私は、ご飯を、食べる」のように、その「主体」は「生き物」で、「客体」は「物」であるのが、「言葉の曙」の典型だ。それが進むと、動作の相手方に「人」が必要になる。どう表現するか。日本語(大和言葉)では、動作の相手方は「に(相手方表示の助詞)」のままにし、その文末で、「動作」に「語尾変化」を与えて表現することにした。「される」「させる」などの変化だ。今日、この表現を、「受け身だ」「使役だ」と言っているが、これは、あくまでも「英語」に合わせた取扱いの便宜に過ぎない。ついでに言うと、「自動詞」「他動詞」という概念もそうだ。
中国語はどうか。「漢字表現」では、「絵文字原理」の帰結からして、最初に、「私」と「あなた」の間の「人間関係」を示し、その後に、どんな「動作」があるか表現する。この場合、「動作」の態様は常識的に分かり、「語尾変化」は付けなかった。
ちなみに、日本語は、この200年、政治、経済、文化の正確な表現のために、「能動・受け身」「自動詞・他動詞」の区別が明確になってきた。それに伴い、「助詞」の取扱い
も正確になってきた。これに対し、中国語では、漢字だけで細かい事を表現するのは無理なのか、今でもこれらへの関心は薄い。日本人から言うと、中国語は、「判じ物」を読んでいる感じだ。だが、論理解釈を続けていると、中国人の心が段々読めてくる。
まず、中国語に合わせた日本語の概要図を示す。
(この図は、極めて大事な図ですが出せません。)
「aれる、aせる」の語源分析 ‥‥「在る−得る−する」「在る−する」
ところで、日本語の「される」「させる」はどこから出てきたのか。それは、語源分析から分かる。鍵は、助動詞「れる/られる(→合わせて、「aれる」)」にある。この意味は、「受け身、尊敬、自発、可能」だ。何で、こんなに複雑になるのか。その上位概念(全体に共通する意味)として、何かの意味があるのじゃないか。そう、それがなければ、こんなに意味が分散するはずがない。
まず、「aれる」から。分析してみると、「aれる」は「在 (a )る (r )−得 (e )る (− )−す (− )る (る )」だ。この語の前に、「本人の意思とは関係なく」という言葉を付けると、何故「得る」のかの答となる。即ち、
① 相手の力で → 受け身 ‥‥「相手の意思で」と挿入可(一般意)
② 相手の高貴さで → 尊敬 ‥‥「相手が高貴なので」と挿入可
③ 現場の状況で → 自発 ‥‥「自然に」と挿入可
④ 自己の能力で → 可能 ‥‥「有能で」と挿入可
一般に「aれる」は、受け身の意味で解釈されるが、それは、ここから出てくるのだ。ちなみに、「得る」を含む「走れる」のような「可能動詞」は、「走る (r )−得 (e )る」と解釈される。また、一般的に「e」には「可能」の意味があり、「他動詞」になるものが多い。つまり、「相手に働きかけた結果、何かが得られる」という意味だ。
次は、「させる」。「aせる」は、「相手の意思を押さえて(/相手に影響を与えて)」、「(ある状態が)在るようにする」と解釈すればよい。ちなみに、対相手動作には、どんな動作でも、必ず相手方に何らかの影響を与え、「使役」の意味合いがある。また、「使役」は、相手方に被害を与えることがあり、「使役」と「受け身」は共通の動作だ。例えば、「給」。
今日、「受け身」だ「使役」だと言っているものの中で、どうもはっきりしない表現があるが、実は、これは、両用に解釈できるものだ。例えば、「私は、母に洗濯してもらった」の文。英作文で困っただろう。英語では、「have」だ「make」だ「get」だと言った、あの表現。中国語では、よく「給」の場合に起きる。
(図省略)
|
|
墓参りのため休みました。
4、「論理」の繋がり
「ある様子」あるいは「ある思想」を表現するには、文章という「一本の線」でする。ここでは、その線をどのように結ぶかについて考えてみよう。
絵文字表現と語順 ‥‥て、に
ものの表現順序は、「絵文字」なら簡単。目に映っていく順序に表現すればよい。つまり、「時系列」だ。「格表示」でも、「時系列」が基本であるが、「表意要素」の「重要性」で順序が少し変わってくる。
例えば、「買い物に行く」なら、「買う」行為と「行く」行為は、「行く」が先で「買う」が後だ。だから、中国語では、「去 买东西(行く、そして、買う、品物)」とする。日本語では、「買う、それに向けて、行く」あるいは「買い物のために、行く」とする。つまり、時系列でなければ、「行く」の前に、「あちら側(終着点)」を示す「に」を付ける。
この場合、日本語でも、中国語語順(絵文字型)で書ける。「(街に)行って 、買い物をする」と。この場合注意すべきは、「助詞」が「に」から「て」に替わったことだ。どういう事か。「て」とは、事が「時系列/論理系列」の順に起こったことを示す言葉だ。この意味でなら、「て」はなくてもよい。つまり、「街に行き、買い物をした」とすれば十分で、「て」は、「上の言葉」と「下の言葉」を単に繋いでいるだけだ。なら、戻って「買いに」の「に」は何を表しているのか。そう、「目的(注:中国語で「目的」とは、「目的語」の意味ではなく、正に動作の目的だ)」を表しているのだ。
結論、もう一度考え直してみよう。「て」と「に」の違いは、「経時」なら「て」、「逆経時(目的)」なら「に」で表すことだ。なら、中国語には、「逆経時」を表す言葉はないのか。ある。「目的は‥‥」とすればいい。「为了 买东西 去城市」という具合にする。「为了」は、「行なった、それ(目的)は、‥‥のため(為)に」の意味で、「目的は、買う、物を、そのために、行った、市内に」となる。面倒か。「去城市 买东西」の方が簡単でいいか。これが、「絵画的表現」と「格付与表現」の根本的な違いだ。纏める。
(図が出せません)
結果表現と目的表現
例題で再検討してみよう。
私は、米国に遊びに 行った。 ‥‥「遊びに」は、「目的は、遊ぶために」の意味。
私は、米国に行って 遊んだ。 ‥‥「行って」は、「行き、そして、その結果は」の意味。
私は、百貨店で 買い物をした。‥‥「百貨店で」は、「場所は、百貨店で」の意味。
私は、買い物のため 百貨店に行った。‥‥「〜のため」は、「為に」の「に」の取れた形。
この二つを比べてみると、「に」「て」は、上で説明した通りだ。だが、「行く」と「買う」には、いくつかの変化型ができる。「百貨店」と言えば、次に「行く」は言わなくても分かるから、「場所は、‥‥」として省略してもよい。
中国語でも同じだ。「我 在百货大楼 买了 东西」となり、「去」はなくなる。「に」が必要な理由は、「相手方」「向こう側」を特定するために必要な言葉で、「〜ため」とすれば、「目的」が特定されたので、更に「相手方」を特定する必要はない。そういう意味で「に」は不要だ。中国語でも似たような状況になる。「去百货大楼」に対して「買い物をするために」は、「購買の為(为购买)」、「購買に向けて(要购买)」「購買をしたいので(想购买)」としても類似の意味になる。
要するに、時系列以外で事実を述べると、表現の仕方は、各種あると言うことだ。
「順接」と「逆接」‥‥「て、ても」、6章3節参照
次に、文の繋ぎで問題になるのが、「順接」と「逆接」だ。「順接」とは、「A(例:降雨)」という事実が起きたのなら、当然「B(例:運動会中止)」という事実が起きるという関係をいう。比喩すれば、「流れに順行する」場合だ。それに対して、「逆接」とは、「A(降雨)」が起きた時は「B(運動会決行)」は起き難いが、それが起きるという関係をいう。比喩すると、「流れに逆行する」場合だ。
「順接」は「自然」に従った表現だから、「順接」である事を示さなくても分かるが、示してもよい。それが、「−」と「て」の差だ。それに対して、「逆接」の場合は、必ず何か説明語が必要で、それを簡単にするには「も」でし、通常「ても」となる。「も」は、「類似」を表すが、その力が余れば、反転して「逆接」を表すと考えるとよい。例えば、「確かに、そうだ」と来ると、「だけれども、‥‥」、と続けたくなる論理を引出すのと同じだ。ついでにいうと、逆接を表す場合は、文頭に「確かに」を付けると、「確かに‥‥であっても」「確かに‥‥であるが」が呼応し、全体の文意が掴みやすくなる。ちなみに、中国語でも同じだ。
例を出そう。
雨が降って、地が固まった。 ‥‥「て」は、「そして」と考える。
雨が降り、地が固まった。 ‥‥「り」は「i」で、「i」は「居る」に繋がる。
少し説明を加えると、「て」は「手(繋ぐ)」の意味。語源は、「降る」→「振りて」→「降って」となった。「振り」の「i」は、「連用形」だと説明されているが、「i」は「居」に繋がり、「その状態で」と考えるとよい。つまり、「格表示語」では、何らかの繋ぎを考え、動詞の「連用形」とは、そういう意味だ。なお、中国語では、「順接」の場合は、そんな小細工はせず、「動作−動作」と文を繋いで行く。先の「去城市 买东西」の文参照。尤も、中国語でも、「そして(然后=然る後に)」を入れて、「去城市 然后 买东西」としてもいい。こうすれば、「去」と「买」は別の動作で、「然后」で、その因果関係をしっかり説明することになる。次は、「逆接」だ。
雨が降っても、地は、固まらない。
確かに 雨が降っても、地は、固まらなかった。
「雨が降っても」の意味は、「雨が降って、そうであっても」の感じだ。「ても」は、最も短い言葉で「逆接」を表している。いくらか古風に表現すると、「雨が降るも、地は固まらない」となる。これは、「雨が降る、そうではあっても」となり、この方が理屈に適っているかも知れない。
逆接文の特徴は、その後が「‥‥ない」に繋がることだ。予定と「違う」と言いたいのだから、確かにそういう傾向がある。とは言え、「雨が降れば、地は弛む」と考えていた人には、結論は「固まる」で「固まらない」ではないから、文末が常に「ない」と確定するわけではない。
文が長くなると、「も」だけでは「逆接」の意味が表しきれない。その時は、「逆接」を導く「呼応する副詞」を文頭に付ける。「確かに」「譬 (たと )え」「仮に」などだ。そうすると、「確かに‥‥降っても」が呼応し、文意がはっきりする。但し、「確かに」などと「情緒的」な言葉を発すると、次は、何らかの意味で「強調」表現を使いたくなる。そうすると、「雨は ふっても」と、本来「が(明示)」となるべき助詞が「は(強調)」に変更されることがある。こうなると、文に解釈の要素が入り込み、「他の事は分からないが、(例えば、雪でなく、)こと雨が降っても、‥‥」という屁理屈解釈の余地が生ずる。老婆心ながら言うと、権利関係が伴う法律文章では、こういう文章は書かないことだ。
中国語でも同じだ。「但是(しかし)」「其事(その実)」「可是(そうあって欲しいのだが、実際は)」「既使‥‥也(たとえ‥‥でも)」「尽管‥‥但是((できるだけ管理しても→)たとえ‥‥でも、しかし)」。
順接、逆接の強さ ‥‥「から、ので、より」「しかし、だが、でも、のに、(け)ども、ところ」
「順接」を表すにも、「逆接」を表すにも、その「強さ」あるいは「明確さ」の違いがある。上に掲げた言葉を並べて比較してみると、先に示した「は(頭脳、主観)」と「が(観察、客観)」の違いと類似の違いがあることに気づく。
即ち、順接の方は、「から」「ので」「より」と順に主観化する。逆接の方は、「しかし」「だが」「でも」と主観化し、更に、「(け)ども」「のに」「ところ」などがあり、また更に、全く不思議な「が」という言葉もある。
順に説明しよう。順接から。「か」は、「K行」音で、この音は強く明確に発音でき、「から」は、最も明確な「順接」を表す(「が」と対比)。それに対し、「の」は、「N行」音で、「鼻音」に発音し柔らかく、「ので」は、中程度の「順接」を表す(「は」と対比)。「より」は、発音も意味も中国語の「由于」から来ており、最も情緒的な言葉だ(「も」と対比)。
次は、逆接。「だ」は断定で、それに「が(明示)」が付くと、全体として「逆接」を表す。「明示」とは、「そこをよく見よ(一種の「強め」)、なるほど、真実が分かった」となって意味が反転し「逆接」になるのだ。「(だ)が」となるのが「通形」。「が」は、後述する。
「しか」は、「その通り」の意味で、順接かと思いきや、次に「し(強め)」が付くと、これも反転して「逆接」になる。「でも」は、「ても」と同じで「も」が柔らかく、柔らかく聞こえる。会話でよく使われる。「に」は、「相手方、向こう側」を表し、語順倒置(「て」「に」の交換)に使い、「逆接」系の言葉になる。「け」は「断定」系の言葉だが、「も」が付くと「逆接」になる。「ところ」は、「場所」で、「逆接」の意味は弱い。だが、「が」を付けて「ところが」とすると、はっきり「逆接」になる。
表にして纏める。使用に際しては、太字のものなら無難だ。
「が」の取扱い ‥‥発音も関連する
「が」は「明示」を表すが、日本人の発音を聞いていると、「鼻濁音」に「nが」と発音する人が多い。「語末」「中間末(文の接続)」でそうだ。何故そうなるか。「鼻音」は柔らかく聞こえ、日本人は情緒が好きだからだろう。だが、よく観察すると、「逆接」を表現するときまで、「柔らかく」している訳ではない。強く「が」だ。
つまり、「が」を「鼻音」に発音するときは、単に繋ぎの言葉として使い、「ガ行」に発音する時は、「逆接系」の言葉として使っているのだ。最近の傾向を言うと、NHKでは「が」を一般的に「鼻音」で発音するように指導しているとのことだが、若者を中心に「鼻音」は減っている。纏める。
「が」音の意味と取扱い
まとめ
繋ぎの言葉には、いろいろある。その「助詞」が何系のものか知っておくと表現に便利だ。次に、表にして示す。
(「i」は、「行音」を伴い、「き、ぎ、し、じ‥‥」を表す)
|
|
3、「並列的」な繋がり
前節では、「物」「動作」の「縦列的」な繋がりを検討してきたが、ここでは「並列的」な繋がりを考えてみる。英語では、並列では「and/or」しかなく、類似では「also, too」などと極めて簡単な言葉しかない。それに対し、日本語と中国語は、かなり多くの言い方がある。特に、日本語の場合は、さらに「情緒性」が加わり、極めて複雑だ。ここでは、「並列」と「類似」を考えてみよう。
「並列」表示と中国語 ‥‥「と、や」と「和、跟、与」
「並列」とは、「AとB」のように、二つの物が並んでいる状態を表す。この基本「助詞」は、「と(客観)」と「や(主観)」で、他にも「など」「ら」が関連する。「と」と「や」の違いは、「や」には情緒性があり、「類似物」が含まれる。例えば、「父と 母」なら、これ以外の物を含まないが、「父や 母」なら、場合により「祖父母」が含まれ、曖昧な表現形体になる。
これに対し、中国語では、「個体」を表す「と」は、「和」だけでする。そして、相手方が関与する「と」は、「跟」「与」となる。「跟」は、「あなたと 一緒に/あなたの 後について」で、「与」は、「あなたと 組んで」。なぬ、それなら、日本語も一緒じゃないか。そう、更に説明語がいるだけだ。英語も一緒だ。なお、「跟」とは、「かかと」の意味で、「与」とは、「与える」だが、ここでは「(こちら側から)組む」の意味だ。
「と」の態様
「類似」表示と中国語 ‥‥「も、や、ら、など」と「又、也、等」
「も」や「や」は、情緒的な助詞で、はっきりした意味が取れない。「も」は、今取上げた物が、別の何かと「似ている」ことを言っている。だが、「類似」物がなくても、日本人はよく「も」を使う。そうすると、「それだけに留まらないで、他にも何かありそうだ」という情緒を表す。例えば、「太陽も、西に傾いた」という文から、諸氏は、何を考えるか。なぜ「も」か分からないって。そう、だが、「太陽が、‥‥」とは違う、何か一種の「強め」を含む情緒を感じるはずだ。更に、「こんなにも 多くのリンゴ」「どうやっても 出来ない」の「も」は何か。「強め」であることは確かで、「ても」では、勢い余って反転し「逆接」を表す。この一連の意味から、「も」の素顔が少し見えただろう。ちなみに、中国語の「么」は、「発音(me)」と「意味(強め)」において日本語の「も」と似ている。私は、何か関連性があるように思う。
また、「や」は、「並列」を表すが、他に「類似」の何かを想像させる。そして、「荒海や、佐渡に横たふ天の川」の句からは、何を感じるか。「佐渡」に呼びかける、何かの情緒がある。いや、本当に、日本語は、情緒が一杯で意味が取りにくい。
なら、中国語には、こんな言葉はないのか。いや、それがあったのだ。「又」「也」がそうだ。「又」は、「ふたまた」を意味し、二つの動作が「並列」または「縦列」に並んでいることを表す。「〜もまた」となる。そして、「也」は、「それもまた」の意味で、「又」より情緒性が広い。さらに、「也‥不」の構造を取るときは、「たとえ〜しても‥‥でない」のように「逆接」になる。日本語で「ても」となる場合と似ている。
次は、「ら」。「ら」は、「彼ら」「我ら」のように出てきて、漠然とした「集合」を表す。中国語で、「啦(発音:「ラ」)」は、「だらだら」という感じを表し、どことなく日本語の「ら」と似ている。最後、「など」は、「類似物への拡大」を表し、日本語では「等」で表すが、中国語も「等」で表し、意味も全く同じだ。
纏めると、こうなる。
「類似・拡大」表現と「又、也、等」
「また」と「又、也」
その他の接続語と中国語
|


