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2、「物・動作」の説明
日本語で「物」「動作」を説明するには、説明の態様により、使う「助詞」が多岐に亘る。これは、説明が「即物的(客観的)」か「情緒的(主観的)」の違いによる。これに対し、中国語では、「的(物)」「地(動作)」「得(複合動作)」の3つしかない。しかも、発音は、全て「de軽」で同じだ。なるほど、「絵画的言語」では、説明の主観性は問題にしないのだ。なお、「複合動作」は、接尾語との関係があり、6章2節で説明する。
「物」の説明と中国語 ‥‥「−、の、な、が」と「的」
「物」を説明するには、通常、「の(一般)」で行うが、他にも「が(古風)」「な(情緒)」、あるいは、説明語なしで「−」とする。この区別は、外国人にとっては難しいが、日本人には易しい。これに対し、中国語では、もっぱら「的」で単純だ。やあ、日本語は難しくて、中国語は易しい。幸運かどうか、日本人は、中国語が学び易しい。
日本語では、「動作・状態(動詞、形容詞)」から物を説明する場合は直接結び「−」、繋ぎの言葉を必要としない。「もの(名詞)」から説明するには、「の(一般)」または「な(情緒)」を使う。市販の本によると、「な」の場合は、「形容動詞(/な形容詞)」でするとの説明もあるが、こと中国語に関する限りこうはしない。中国語では、いずれも「的」だからだ。
物を説明する助詞 ‥‥「の」→「その」、「な」→「そのような」
例を挙げよう。
動 詞:「走る 少年」「走っている 少年」 ‥‥直接説明
形容詞:「美しい 花」「青い 山」「新しい 服」‥‥直接説明
名 詞:「私の 家」「丘の 上」「世界の 屋根」‥‥一般の「物−物」の説明
「平和な 世界」「静かな 森」「華やかな宴」‥‥「抽象名詞」による説明
「美ヶ原」「関ヶ原」「三ヶ根山」「我が家」「我が友」‥‥古風な日本語
これで一件落着のように見えるが、「抽象名詞」による説明の場合は、「平和の 世界」「静かの 森」でも、通常の意味と少し違うが、説明語として有意で、困ったことが起きる。どう考えたらいいのか。解決の鍵は、「な」にある。「な」とは何か。実は簡単。「な」とは、「その様な」「この様な」の意味で、その物を「比喩的」に「似ている」という形で「情緒的」に説明する言葉だ。それとの対比で言えば、「の」とは、「その」「あの」の意味だ。「そ」とは、「前の語全体」を受ける言葉。そうすると、この違いは、「は(主観)」「が(客観)」の違いと類似する。そうなのだ。「〜な 物」とは、「主観的・情緒的」な説明で、「〜の 物」とは、「客観的・即物的」な説明なのだ。ついでに言うと、「な」が出てきたら常に「そのような」に置換えて考えると分かりやすい。
そうすると「静かの 森」「静かな 森」の違いは、言葉では説明しにくいが、前者は、「静か、という名の物(一語の名前)」の感じで、後者は、「静か、そのような 森」という感じの物になる。そして、「平和の 世界」「平和な 世界」も同様な理論で説明がつく。更に言うと、「大きい」と「大きな」の違いも、この理論で片づく。
「動作」の説明と中国語 ‥‥「て、く、に、と、−」と「地」
「動作」の説明は、物の説明と同様に考えて、「動詞」「形容詞」「名詞」更に「副詞」からの続き具合を考えればよい。中国語の場合は、「動詞−動詞」の場合は一連の動作として捉えるので、繋ぎの言葉は「得」となり、一般の場合は「地」で繋ぐ。
一般に、「動詞」を説明する言葉は「副詞(句)」として捉えるので、複雑で手に負えないように見えるが、整理してみると意外に簡単だ。「動詞」で説明するには、「走って 行く」「急いで 歩く」となる。他に「て」が消去されて「i」となる場合があるが、これは複合動作となる。後述する(6章2節)。
「形容詞」でするには「明るく振舞う」、「名詞」でするには「静かに歩く」などとなる。「名詞」の場合は、「〜のように(「i」型)」が短縮されたもので、ここには「抽象名詞」が当てはまる。そして、「ドボン、ドカン」などのように「動詞」説明の専門語もあり、これを「副詞」という。これらに「と」を付けた「ドボンと」「ドカンと」もまた「副詞」だ。なお、この場合、「と」とは、次に変化する結果を予想させる。
「動作」の説明語
「i」とは「い段」のこと。例を挙げよう。
動 詞:「書き なぐる」「走って 行く」「転んで 泣く」‥‥「i」「て」による説明
形容詞:「美しく 咲く」「青く なる」「新しく 作る」 ‥‥「く」による説明
名 詞:「静かに 歩く」「飛ぶ様に 売れる」「まぜこぜに する」‥「に」による説明
副 詞:「ドブンと 飛込む」「ドカンと 当る」 ‥‥「副詞」による説明
「さらさら 流れる」「ごりごり 押込む」‥‥「と」なし「副詞」による説明
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常識と呼応で解釈する中国語
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最後の「可能」のところは、「和語」と「漢語」では取扱いが異なり、少し説明したいが、紙数の関係で結論だけを述べる。「〜を することが できる」型の表現は分かりやすく、辞書類にもこの種の解説があるが、私は、いかにも冗長で、筆記の時は「可能形」または「できる型」ですべきだと思う。例を出そう。なお、「可能」については、後述する(5章2節)。
「可能表現」の「和語」と「漢語」の違い
「に」の論理構造‥‥中国語では、この部分が細分化する(使役、受け身)
「に」は、動作に相手方を伴う場合に使う。日本語では、相手方にはただ「に」と表示するだけで、その内容は、「動詞の変化」として捉える。それに対して、中国語では、最初に「相手方」との関係を明示し、それに続く動詞には語形変化は与えない。この部分は、日本語と中国語の根本的な差異だ。4章で改めて解説する。
「起点・終点」と中国語 ‥‥「から、まで」「に、へ」と「从,自,到」
起点を表すには、「から」と「より」がある。「か」は、「K行」音で、この音は強く明確に発音でき、「から」は、明確に「起点」を表している。それに対し、「よ」は、「i,o」の二重母音を含んでいて発音が曖昧で、「より」は、発音も意味も類似の中国語の「由于(発音:youyu)」から来ており、情緒的な言葉だ。「から」は、「物理的起点」を表し、「より」は、最近では「心情的起点」に多く使う。
起点を表す中国語は、「从」と「自」で、さらに「离」「于」もある(これらは、多義)。「从」は、旧漢字「從(従)」の旁の上部だ。「从京都」を、「従うのは、京都から」とするのでは違和感がある。適当な「呼応副詞」がなく、結局、「起点は/出発点は、京都から」とするしかない。「自」も類似で、無理やり「自ら進んで、京都から」としても釈然としない。「起点は/出発点」でよい。「离(離)」は、この字を活かして、「距離は(/離れるのは)、京都から」とすると分かりやすい。「于」は、「〜に おいて」であるが、「于」の意味は広く、その中に「から」の意味もあると捉えておけば十分だ(2章1節参照)。
場面は異なるが、「原因・理由」は、観念的には「起点」と矛盾せず、「から」「より」が「原因・理由」にも使われる。
「終点」を表すには、「まで、に、へ」でする。「まで」は「終点」だけを表すので、最も客観的で明確だ。それに対して、「に」「へ」は、「あちら側(/〜へ)」を表す。「に」は、「その点に」の意味で、英語の「at」に似ている。「へ」は、「そちらへ」で「to」に近い。区別は、「at」「to」でするとよい。これら2つの違いは、「に」「へ」には、いくらか情緒性があることだ。
中国語では、通常「到」で表す。他にも「往(行き先)」「至(主観的な終着点)」「向(方向)」などが使われる。なお、「到」は、物理的な「終点」だけでなく、「到達点」を表し「至」と重なる。
(図が表現できません)
起点・終点と中国語
例を挙げよう。
彼は、京都まで 行った。 ‥‥「移動したところ(距離)は、京都だ」。
彼は、京都に 行った。 ‥‥「目的地は、京都だ(多分、到着している)」。
彼は、京都へ 行った。 ‥‥「行き先は、京都だ(厳密には、到着したかどうかが不明)」。
付帯状況 ‥‥「で、に、その他」と「在、于、その他」
「付帯状況」とは、「誰が、誰に、どうする」以外の要素のことだ。別の言葉で言えば、動作が行われる周辺の状況説明のことだ。「場所」「時」「手段」「原因・理由」「仮定・条件」などだ。通常、「です」の短縮形「で」で行うが、「点」を意味する時は「に」と変化する。他に「より」「と」「ば」を使うが、これでも表現仕切れないときは、動詞を使う。「より(←依る)」は、「よって」となり、「ば」は、「れば(←得る ば)」となる。
場所の表現:「で‥‥する(一般動作)」、「に‥‥行く/来る/なる(移動動作)」、「に‥‥ある/住む」となる。「で」は英語で「in」、「に」は「at」としておくとよい。中国語では、一般には「在」だが、それ以外は不定だ。詳細は、2章1節。
時の表現:「時」の表現は、日本語と中国語では全く同じだ。ただ、日本語の場合は、ことさら「に」あるいは「には」と「助詞」が付けられ、表現する意味が微妙に変化する。例えば、次のようになる。詳細は、2章1節。
「3時」:剥出しの「時」を表し、中国語と同じ。
「3時に」:通常の表現。
「3時には」:「(他の時は分からないが)特に3時には」の意味だ。
手段の表現:「手段」は通常「で」で表すが、それで不十分なときは、「によって」とする。中国語では、「用(即物的)」「以(観念的)」。詳細は、2章3節。
原因・理由:「原因・理由」の態様は多く、「で」「から」「ので」「より」などで表現される。中国語も同様だ。
「(因为〜)風邪を引いたので 学校を休む」「(因〜)風邪で〜」「(由〜)風邪により〜」
「(从〜) 風邪から 肺炎になる」(←「从」は起点。一般には、「由感冒 引致肺炎」とする)
「(因为〜)事故が原因で」「(因〜)事故により」「(?)事故から」
「(要是〜)事故(が起きた)ならば」「(当〜的时候)春になれば/春になると」
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3章 繋ぎの言葉
1、基本「格」の表示‥‥て、に、を、は
読者諸氏は、2章までの説明で、中国語の解釈は、漢字の間に繋ぎの言葉を入れる要領で読めることが分かったと思う。なら、どんな言葉を挟み込んだらいいのか。簡単だ。そう、原則として「助詞」だ。この章では、日本語の「助詞」と中国語の「介詞」との関係を、日本語の方から明らかにしよう。
基本助詞を、中国語と対比して観念的に表にして表せば、次の様になる。
(申し訳ありません。図が出ません。)
図から分かるように、「こちら側」とは、話題とか主語、出発点、比較の基準のように、「近く」と観念的される物を指す。「あちら側」とは、話題の相手方、目的物、目的地など「遠く」と観念される物だ。これらは、「は」と「に」で表す。そして、「こちら側」から「支配・指示」されている物を「を」で表す。
そして、面白い「助詞」が「が」だ。「が」は、「は」または「を」を、眼前の物として「視覚的(客観的)」に表現する。これとの対比で言うと、「は」は脳内の物として「頭脳的(主観的)」に表現するのだ。違いの詳細を、下で順次述べる。
図において、「付帯状況」とは、本体文意から切離せる要素で、「時」「場所」「原因」「理由」「仮定」「条件」などを言い、これらは、基本的には「で・て」で表す。現実の付帯状況は、広く広がり「で・て」だけでは不十分だ。その時は、「他の助詞」または「動詞」を使って表現する。
「は」と「が」の区別と中国語
「は」は、「主観的」にその物事を「取上げる」助詞。一般に、「取上げ助詞」と言う。それに対して、「が」は、一般には「主格助詞」と言われるが、私は、その物を「客観化」し、「明示する」助詞とするのが妥当だと考える(1章4節に詳細)。要するに、「は」も「が」も「主語」を表すことが多いが、「目的語」を表すことがあり、その区別は、「主観的(頭脳思考)」か「客観的(現実観察)」かで区別するのがよいと考える訳だ。特に、英文法との整合性を考えるとその感が強い。
中国語では、「主語」か「目的語」かの区別はしない。「動詞」の後の言葉は「客語」といい、「目的語」と同じに文法解釈する。だが、「主語」に当る部分が「事柄」の場合は、「それを」のようにした方が、日本語として把握しやすいこともある。例えば、「它以母音語系为中心」という文は、「それは、手段は母音語系をもって、それを中心とする(/それが中心となる)」と両用に訳しても少しも構わない。どちらがいいかは、その文脈中で決まる。
なら、中国語は、「主語」も「目的語」もない未熟な言葉か。そんなことはない。日本語の「は」「が」と同じで、どちらにでも解釈できるだけだ。例えば、日本語で、「学校が 建つ」というのは変な表現か。「学校を 建てる」とせねばならないか。そんなことはない。中国語では、漢字に語尾変化がないから、「自動詞」「他動詞」の区別がなく、上のような事が頻繁に起きるだけだ。よく出てくるのは、「停電」と「電停」の区別。学生は、これは、どちらでも間違いじゃないと言う。解釈すると、前者は、「停めた、電気を」で、後者は、「電気が、停まった」となるわけだ。この区別は、捉える「主体/客体」が「具体的な物」の場合は、「主語」として捉え、「抽象的・一般的な物」の場合は、「客語」として捉えることによる。例文を挙げよう。
「下雨了」は、「雨が降った」だ。表記と語順を同じにすれば、「降ったのは、雨だった」となる。それに対して、「今天的雨下得很大」は、「今日の雨は、とてもひどかった(ものだ)」となる。つまり、「降雨」という現象は一般現象で、「雨下」とはできないが、「今日の雨」のような形ならば、動詞の前(主語)に持って行けるのだ。
英語には、ほぼ同じ意味で、「a/the」「some/any」などの2系列の言葉がある。文法書の説明はよく分からず、特に「some」の「any」区別は分からない。何で、「疑問文」なら「any」なんだ。いや、「肯定文」でも例外として「any」が出てくるとなると、なお一層分からない。だが、詰まる所、その区別は「漠然表現(一般形)」か「個別表現(強調形)」かの差になるはずだ。そう理解すると、疑問は、一挙に解決する。
日本語でも、同様の区別がある。「a/the」の差なら、「漠然表現」には「(と)ある猿が」、「個別表現」には、「あの猿が」とすればよい。「some/any」なら、「猿という物は」、「(僅かでもいいが少ない)それらの猿が」となる。漢字でしか表現できない中国語では、「有一个猴子」「那猴子」として区別できる。
さあ、ここで何か感じることはないか。そうなのだ、「は」は「一般」に対応し、「が」は「個別」に対応するのだ。この原理を使って、古文調の文を解釈してみよう。そうすれば、「は」「が」の違いがよく分かる。「山 高し」「鳥 鳴く」。形は同じだが、意味まで同じじゃない。「は」は、「一般系」だから「〜という物は」となり、「が」は「個別系」だから、「とある〜が」となる。纏める。
「山 高し」:一般系ならば、「山というものは、高い」となるが、これは可笑しい。山が常に高いわけではないからだ。この場合は、「とある山が、高い」となる。
「鳥 鳴く」:鳥は一般的に鳴くから、「鳥というものは、鳴くものだ」となる。
そうすれば、「象、大きい」なら、「象というものは大きい」となる。また、「魚、餌食べた」なら、「ある魚が、餌を食べた」となり、何の矛盾も起きない。だが、難しことに、日本語は「が」が本則の所でも、「は」で代替できる。そうすると、「は」「が」の区別が付けにくい。「は」の解釈はこうなる。「取上げの助詞」は、「強調(←これも、取上げの一種)」としても解釈でき、「鳥は 鳴く」は、「他の動物は分からないが、こと鳥は 鳴く」、となるのだ。これが事を極めて複雑にしている。
中国語表現は、日本語の文語調の文章と同じだ。いや、日本の文語は漢文に合わせて表記していて、道理から考えて当然同じになる。中国語の理解は、文語文を参考にすると分かりやすい。先の例文は、そう考えると自明だろう。
「は」「が」を「標語的」に纏めると、こうなる。
「を」と「が」の区別と中国語
「を」は、「その物を 持って」となり「物の支配」を表し、その物が手から離れていれば、「その物を指さして」となり「物の指示」を表わし、合わせて「支配・指示」を表す。中国語では、この違いが「把、−」となって現れる。
日本語では、「を」を省略しても、大体意味が採れる。「読書をする」→「読書する」。「動詞・名詞」の区別をしない中国語調の単語では、「を(=把)」を付けないのが普通だ。更に、最近では、生活の複雑化に伴い、会話では「お茶する」「ゲームする」、更に筆記でも「科学する」などという言葉が出てきた。つまり、「を」が軽いときは、省略した方がいいのだ。
中国語も類似で、明示の必要のある「を」は、動詞の前に置いて「把 东西 (掴む、その物を)」とし、後に置くときは「を 把」が不要なのだ。何、動詞の後は、最初から「介詞」は要らないのだ、か。そうでもない。「上海に 住んでいる」は、「住在 上海」じゃないか。どうだ、「介詞」が要るだろう。ちょっと待て、「助詞」は「を」でなく、「に」に替わっているじゃないか。なるほど、そうすると、「を」が有意の場合は「介詞」が必要で、無意の場合は不要なのだ。そう、それで正解だ。だから、「読んだ、本を 掴んで(×读 把书)」とはしないのだ。
最終的に「を」は、「支配」の場合なら「を」が必要で、「指示」の場合には、必ずしも必要ではないのだ。
「が」の意味は、「選択・明示」だ。「あれが、病院だ」という場合は、沢山の建物の中から、「病院を選択」する必要があり、これでよい。しかし、「部屋の中に、机がある」という場合は、「選択」の必要はない。「明示」だけでよい。中国語では、前者は「那是 医院」で、後者は「屋子里有桌子」とする。使う文字が「是」と「有」で違っていて、「が」の意味の違いがよく分かる。
だが、「が」は、「運動が 好き」「運動ができる」のような場合にも使う。この時の「が」は「明示」だが、これは、「指示」の「を」と同じだ。そうすると、「が」と「を」の区別が問題となる。
これを英語で表現すると、「I like sports.」「I can do sports.」となり、「スポーツを好き」「スポーツをできる」としてもいいのじゃないか、との疑問がわく。日本人の中には、英語の影響を受けてこのように表現する者が多くなった。困ったもんだ。いや、余談だが、日本人は、この「を」を変に感じる。だから、軽い(無意)「を」では、「スポーツ好き」「スポーツできる」との表現が出てきた。いや、困った。そう、日本語では、「愛好」「可能」は動作の「性質」であって、「動作」ではないと見なしている。ちなみに、英語では、「好き」だって「〜したい」だって動作として捉える。中国語は、「愛」などの漢字一文字だから、更に幅広く、「動作(動詞)」「事柄(名詞)」「性質(形容詞)」更には「希望(助動詞)」など何とでも解釈できる。いや、凄いことになっている。
なら、「好き」は、動作の「性質」なのか、「動作」その物か。そんな事、百年考えても分からない。なら、「が」の用法を並べれば分かる。分かった。「が」の用法には「存在」から「可能」まで各種あるが、「動作性」が強くなるに従い、日本人の感覚では、助詞を「が」→「を」と替えたくなるのだ。なら、並べて「表」にしてみよう。ついでに、中国語とも対比してみよう。
「が」の用法と「を」との重なり
なるほど、よく分かる。日本語では、「愛好」辺りから、英語の影響もあって、「を」としたくなるのだ。
最後の「可能」のところは、「和語」と「漢語」では取扱いが異なり、少し説明したいが、紙数の関係で結論だけを述べる。「〜を することが できる」型の表現は分かりやすく、辞書類にもこの種の解説があるが、私は、いかにも冗長で、筆記の時は「可能形」または「できる型」ですべきだと思う。例を出そう。なお、「可能」については、後述する(5章2節)。
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4、「否定」は「不、没」で
否定語をどの位置で表現するか。世界の言語の流れは、動詞の前だ。それに対して、日本語は後。大陸から渡ってきた人は、困って一工夫した。そう、やはり、「呼応」の技術を使ったのだ。「全く‥‥ない」「少しも‥‥ない」「余り‥‥ない」と呼応させることにより、「全く」と表意した瞬間に「ない」が予想できる論理を創り出したのだ。現在、よく「全然」は「ある」に続くのか「ない」に続くのか議論されるが、そんなことは考えるまでもない。「ない」だ。「呼応」とは、そういう役割をする。
今日、日本語と中国語の溝が大きくなり、日本語には、「全く」という言葉が不要になる感じがある。また、「ない」と繋がるのが見えにくくなってきた。そして、「全然」が、「非常に」の意味で使われる日が近づいている。だが、中国語を習うには、この「否定予告語」である「全く」「少しも」などの使いこなしが、上達のコツだ。
少し変な感じのもあるが、次のように呼応させるとよい。
有無:「全く‥ない」。「ここには、全く火の気がない」「あの森には、全く木がない」
程度:「余り‥‥ない」。「ここは、余り寒くない」「彼は、余り丈夫じゃない」
強め:「少しも‥‥ない」。「この柿は、少しも渋くない」「冬でも、少しも寒くない」
一般:「〜ても‥‥ない」。「寝ても、眠れない」「聞いても、分からない」
「不」の用法 ‥‥説明は、6章1節参照
では、例題を見てみよう。
中国作家 写 的 书 不 是 理论 而 是 以 文法。
中国の作家が 書いた そういう 本は 全く それは 理論ではなく そして それは 手段は 文法だ
怎样 产生 的 呢 还 不 太 清楚。
一体どのようにして 作りだしたのか そういう事 はね まだ 全く 余り はっきりしない
会话用语 和 汉字的 发音 不 同也 无 障碍。
会話用語 それと 漢字の 発音は 全く 同じでなくても 全く 障害にならない
では、ここでちょっと説明を入れよう。「而」は、「上から、いくつか物がぶら下がった感じ」を表し、「これが有れば、あれも有る」という論理を表す。通常、「順接(しかして、しこうして)」を表すが、「逆接(しかし、しかるに)」の場合もある。通常、「そして」として掴んでおけばよい。具体的内容は、後で考えるのだ。
「怎样」は、「どのように」だが、「疑問」の意味を強調して表現すると分かりやすい。そうすると、「一体、どのように」となる。「不太」は、「程度」を表すので、「余り‥‥でない」として掴む。
「和」は、前から繋ぐときは、「そ」を補い、「それと」とすると下へ繋がりやすい。「同 无」などと後に「否定語」がある時は、「でも」と「逆接」の形にするとよい。
不是,海洋语 的 骨架 依然 保留。
いや 海洋語 の 骨格は 依然として 保留している
否则 就 不能 说 你 理解了 助词。
全くそうでなければ それなら 全く不能で 話せない あなたが 理解できたと 助詞を
そうでなければ − − 言えない
仅 靠 三字语言 并 不能 表明 意思 的 时代 到来了。
ただ 寄りかかるだけ 3文字の言葉に それでは 併せても 不能で 表明できない 意思を そういう 時代が 到来した
− − 3文字の言葉だけでは − 全く
却 不 知道 它们的 真正 含义。
だが、却って 全く 分からない それらの 本当の 含意が
予想に反し(6章3節)
ちょっと難しかったかな。否定語、疑問語を含む文はやはり日本人には馴染みにくい。まあ、頑張って欲しい。では、解説しよう。
「不是」、これは独立語で、これだけを考えればよい。ここでは、「逆接」の気持ちを表していると考えればいい。
「否则」は、「否定すると、こうなる」で、「そうでなければ」となる。「就」は、「それなら、つまり」となり、全体として強めの意味になる。
「仅」は、「ただ‥‥だけ」。「并」は、「不」が着いているから、「併せても‥‥ない」となる。「的」は、前の言葉が長いので、「そ」を付けて「そういう」とする。
ついでに、「不」と論理が似ている「難」について考えておこう(詳細は、6章2節)。
很多 中国学生 便 一步也 难 以 前进。
多くの 中国の学生は 簡単に 一歩も 難しく それで以て 前進できない
前進しにくい
文章构思的 根本点 是 难 以 改变的。
文章構想の 根本の点 それは 難しく それで以て 改変できない
文章発想の − − 変え難い
「没」の用法
通常、「没有」と繋がり「不」と同じ意味になるが、「没」には、「まだ‥‥ない」の
意味がある。「没有」の発音は、「メイヨウ」で、日本語の「ナイヨウ」と似ている。覚えやすい。ひょっとすると、「ない」は、「メイ」からきたのかも知れない(6章1節)。
「魚、食べた、私」也 没有太 大的 障碍。
「魚、食べた、私」 それでも 全く 余り 大き な 障害にはならない
你们 现在 并 没有 考虑 日语的 深层意义。
あなた方は 今 併せても 全く 考えていない 日本語の 深層の意味を
− 全然
説明しよう。「也」は、次に「没」があるから、逆接にして「でも」とする。「的」は、「大(抽象語)」から繋がるから「な」とする(3章2節)。
「并没有」の「并」は、「強め」の役割で、全体で「全然」くらいにしておけばよい。
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3、「手段」は「用、以」で
「で」は、「です」で、文を下へ連結する。「て」は、「手」の意味で、これも文を下へ連結する。ということで、「で/て」は、広く「付帯状況」を表す。明確に状況を表現したかったり、複雑な状況の場合は、「で」1文字では付帯状況が表せない。その時は、「で」の後に詳しい説明語を補う。
「手段」は「付帯状況」の一場合で、「手段」を表すには、広く「で」で表す。そして、その詳細表現には、「を使って」「でもって(「もって」は、「持って=以て」の意味)」などの言葉で行う。この場合、中国語では「用」「以」を使い、「用」は「具体的」な手段、「以」は「抽象的」な手段に使う。これは、「用」→「を使って」、「以」→「でもって」に対応する。尤も、日本語では反対に使っても、それほど大きな違和感はない。中国語でも、判断に迷うときは、同様な意味合いがある。
なお、「使」も意味からして当然「手段」を表すが、「使」の場合は、次に続く「人−動作」との連動性が重視され、意味の上からは「使役」として捉える。「把」にも類似の意味(使役)があるが、これは、「〜を(支配して)、どうする」として捉える。
上の説明から分かるように、日本語では、「手段」は「付帯状況」として捉えるが、中国語は違う。意味の弱まった「個々の動作」として捉える。そうすると、「介詞」とされている「用」「以」には、当然「動詞」解釈ができる。これは、日本語で、「手段」を詳しく説明するかどうかというのと対比される。解釈は、次の様になる。
用 剪刀 以 文法
介詞解釈 手段は ハサミで 手段は 文法で
手段は 文法をもって
動詞解釈 使う ハサミを そして 使う(/持つ)文法を そして
ここで、何か気づくことはないか。そう、句末の文字が「て(/で)」になっていることだ。これは、日本語と中国語の語順に関する根本的な差異に基づくもので、これは、日本語では「倒置表現」から、いきなり次の文が続けられないことによる。そんなことをすると、「〜を」とした語が、次の動詞の目的語と重なってしまう。つまり、「倒置」にすれば、末尾に「そして」を入れねばならない、この事を知っていると、日本語文は、自然に下へ繋がる。
纏める。
介詞解釈:「用 剪刀」→「(手段は)ハサミで」‥‥次は、直接、次の文に移ってもよい。
「以 文法」→「(手段は)文法で」,「(手段は)文法でもって」
動詞解釈:「用 剪刀」→「使う、ハサミを、そして」‥‥「そして」を入れてから次の文を続ける。
「以 文法」→「使う(持つ)、文法を、そして」
「用」の用法
「用」は「本動詞」としても使われることを加味して、解釈例を見てみよう。
它们 现在 也 在 使用。
それらは 今 それもまた 今 使用中です (→「现在也」は、「今でも」)
[呼应副词] 使用 的 频率 也 很高。
呼応する副詞の 使用 その 頻度 もまた 非常に高い
「まさに」在 別的文章中 也 経常 用 到。
「まさに」は その場所は 別の文章中 でもまた いつも 使っている
通常 使われている
用 这种方式 来 表现 的 话, 有了 「くぁん」 发音。
手段は この種の方式で それから 表現した そういう 話では そこに 有った「くぁん」という 発音が
使う この種の方式を そして 場合には
下一步 就 是 将 这些事物 用 文章 表达 出来。
次の一歩では それなら 直ぐに それは 今 これらの事物は 手段は 文章で 表現されて 外へ出てくる
次は − − 使う 文章を そして
− 文章によって
若干説明する。「用」を動詞として使う場合は、「使用」などと熟語にされることが多いようだ。「也」は、「も」だが、適宜意味が通じるように「でもまた」としてよい。「用到」は、「使って到る」だが、主語が「まさに」だから、それに合わせて「使われる」と「受け身」にしてよい。このような表現は、日本語にも非常に多い。「使う」なら、主語の「我々は」が省略されていると考えればいいからだ。
「有了」は、「そこに‥‥があった」としてもいいが、倒置でも文が続けられると思えば、「有った‥‥が」の形でもいい。「就」「将」は、後述する(6章3節、5章3節)。
「以」の用法
「以」の文字は、「以上」「〜で以て」くらいしか使わず、意味が取りにくい。だが、「もつ」は「持つ」に相通じ、「それを使う(内部に入れる)」の意味になる。そうすると「以」の意味が簡単に掴める。中国語では、他の漢字と結合し各種の意味を表す。「以‥‥为」「以为」、さらに「可以」「所以」「以致」など。
以 我的经验 来看, 有一个学生的 学习进步 很快。
手段は 私の経験で それから見ると ある学生の 学習の進歩が 非常に速かった
我们 对 传染病 以 新药的力 防御。
我々は 相手は 伝染病に対して 手段は 新薬の力で以て それを防御する
対する 伝染病に そして 持つ 新薬の力を そして それで 防御する
「来」は、「ある所から、ここへ来た」の意味だから、文中では、「〜そ れから」とすると下へ繋がりやすい。「对」は、「に」だけよりも、「相手は、‥‥に対して」とするとよい。「以」も同様で、「手段は、‥‥でもって」とする方がよい。一般に、具体物は「で」、抽象物は「でもって」とした方が日本語の調子がいい。
在 记述中 就 以 此 为 原则, 考虑 这是 对不对。
場所は 記述中において そこで直ぐに 手段は これで それを 原則として 考えるべきだ これが 正しいかどうか
記述中において、そこでこれを原則として、これが正しいかどうか考えるべきだ。
以 我 为 主。
その手段は 私でもって それを 主体とする
持つ 私を そして → 私が主導権を握る。
我 以为 房子的温度 很合适。
私は その手段をもって為す 部屋の温度 とても 適していると
思う
「就」は、「それは、(次の様に)就く」だから、「強い順接」を表す。その導入語(呼応語)は、「それで(/それなら)」とし、続けて「直ぐに、そのまま、即ちそれは、まさしく」などを補うと意味が正確になる。後述する(6章3節)。
「以‥‥为」は、「(その)手段は、それを‥‥とすることで以て、(‥‥とする)」→「‥‥として」となる。また、「以为」と繋がるときは、「手段」の部分がないので、「それで以て為す(/する)、それは‥‥」つまり「思う‥‥と」とすればよい。
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