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31、日本語を世界語に高めよう
ⅲ 自動詞・他動詞、受け身・使役
近代社会になるに従って、動作の正確な表現が要求された。一項でその歴史を述べたが、ここでは、それを纏めてみよう。
「自動詞」とは、「自らの動きを表現する動作」、つまり「相手方がなくても成立つ動作」と定義される。それに対して、「他動詞」とは、「相手に対して働きかける動作」、つまり「相手方がいないと成立たない動作」と定義される。勿論、これでいいが、これは英語的発想法で、日本語の構成ではそうはならない。
日本語の「自動詞」は、主にその漢字に直接「く(←そのように動く。更に広く「u」)」を付ける、更に、派生語では「動 ある する(←その動作が、あるようにする)」→「動 ある」という感じにして作る。例えば、「付く、明く、空く、開く」「行く、往く、逝く、征く」、「当たる、受かる、下がる、至る」など。尤も、逆に「く」が付くから、「ある」が付くからと言って「自動詞」だとは言えない。動作の性質による。他動詞は、「u」「得る」型になる。「書く、叩く、打つ、噛む」「終える、受ける、避ける、当てる」など。
自動詞・他動詞をややこしくしているのが、中国語。中国語は、漢字だけで自・他の区別がない。先に書いた「電停(自)」「停電(他)」。日本語は、これに倣っているものが多い。例えば、「ドアが開く」「ドアを開ける」の区別。前者は「ドアが(自分で)開いた」、後者は「(誰かが)ドアを開けた」だが、前者は、理屈から言って矛盾しているか。こういう事から、日本語では、自動詞・他動詞が混用されることがある。
次は、使役と受け身。使役とは、相手に働きかけて、ある動作を促す動作。受け身とは、その人の意思とは無関係に、その動作をしてしまう動作。そこで、使役は「動ある する(←為る)」、受け身は「動ある 得る」となる。中国語では、これは明確に表現しているようだが、そうでもない。「让」の解釈は複雑。日本語でも、やはり複雑(省略)。
ⅳ 複合語の送り方
和語による複合語に、送り仮名の原則を適用すると、意味は一つなのに、漢字間に平仮名がはいる。ごく少数の慣用語は、連続漢字で表記されているが、大半は個別に原則が適用され(中間に送り仮名をいれて)表記されている。最近では、その傾向が加速している。だが、この傾向は、日本語に表音性を拡大するものだが、表記言語としては不適当だ。
私は表記語では表意語が断然有利だ、ということを何度も主張してきたが、将来の日本国民に引渡す表記日本語は、以前の表意性を回復した方がいいのは歴然としている。これを行うのに、1981年の国語審議会の規則を変更する必要はない。その範囲内でできる。現在、最大の障害は、ワープロで複合語を変換すると中間に平仮名が入ることだ。この変換に、私が主張する変換形式を導入すれば、識者は、直ちに私の主張する送りができる。複合語は、
① 2文字の「i段」文字の省略
② 3文字「i段」文字は、使用頻度(慣用)に応じて省略
③ 2文字の「e段」文字は、使用頻度に応じて省略
の法則を新たに認めよう。この原則は、上で述べた送り仮名を意味中心にする、とも矛盾しない。
まず、その原理について説明しよう。中国語で、単純に意味が連続する時は、漢字を単純に連続すればよい(単純連続)。例えば、「去買」で「行き買う」→「行って買う」となる。そして、「何々して、何々する」の場合は、中間に「得」の文字を入れる(得る連続)。例えば、「听得懂」で、「聞く、それを得て、分かる」となる。
これを日本語に直すと、「単純連続」の場合は、動詞の連用形連続で、つまり「i段」連続、「得る連続」の場合は、「e段」連続となる。尤も、この組合せ原則は、自動詞・他動詞、使役・受け身などの他の変化に優先する訳ではない。
なお、多くの言葉は、「複合語(一語性が高い)」か、単なる「連続語(一語性が低い)」なのかは不明で、判断が困難な場合もある。その時は、読みやすさで判断すればよい。現にここに書いた「読みやすさ」を漢字で表記すると、「読み易さ」とするか「読易さ」とするかが問題となる。連続が「i段」だから「み」は不要とも言えるし、「読み」は名詞化の「み」だから必要だとも言える。結局は、全体として「読易さ」という一語を認めるかどうかの判断になる。私には、まだこの判断はできない。
さあ、具体例に行こう。第1例は、「取り締まり」。これを「取締り」とすれば、読みが分からなくても、意味は一瞬で分かる。「取り締まり」では、「取り」を見て「とり」と読み、「締まり」を見て「しまり」と読み、最後に、「とりしまり」と続けて、「取締り」として把握する。
どちらがいいか。「取締り」をどう読むかだが、「取締」が「しゅてい」と読めないことが分かれば、「取」を「取る」→「取り」と「i段」変換して読めばいいことは容易に分かる。いや、それが分からないのだよ、か。寝ぼけるな、ここが国語教育の根幹だ。続けて、「締」をどう読むか、「締まる」だ。なら、続けて「とりしまる」→「とり しまり」と読める。いや、「取締まり」じゃないかとも言える。だが、「まり」という動作の類型は認めめにくい。だから、「取締り」として、「取締」の名詞化語尾とした方がよい。
また、「取り締まる」の動詞の場合はどうするか。これは、原理的には、「締る」「締まる」の送り方の問題で、「締める」という言葉があるから「締まる」でないと行けないかとなる。これは、先に書いたが「当たる」「当てる」と同根の問題だ。難しい。だが、ここでは、「取り締める」という言葉はないから、「取締る」でよい。
第2例は、「受け付け」「受け付ける」。前半は、「受かる」「受ける」の区別があるから、「受け」でないとダメか。「e段」明示の必要性が問題となる。よく見てみると、「受きて‥‥する」という言葉はない。なら、「e段」明示は不要で、「受付け」となる。次は、「け」が必要かが問題だ。「け」は、この場合は名詞化語尾で、「付」単独ならば、当然「け」が必要だが、「うけつけ」となれば、もう「け」は不要だ。「受付」の慣用はこうしてできたのだ。
なら、動詞の場合の「受け付ける」はどうか。後半は、「付る」か「付ける」か。前半の「受付」が名詞だから、それに動詞化語尾「る」を付加したとみて、「受付る」とすれば十分だと分かる。更にまた、「付く」の変化として、「付きる」という言葉はない。なら、「受付る」で十分だ。なお、「付ける」と「e段」形で表現するのは、「付く」「付ける」の明示にあるが、ここでは、その区別は不要だ。「る」付加の動詞として捉える方が自然だ。このような判断は、特に思考を必要としない。
第3は、「飛び込む」「受け取る」「走り始める」「思い込む」「思い悩む」を考えてみよう。これから、中間の仮名を抜くと、「飛込む」「受取る」、「走始める」「思込む」「思悩む」となる。これで、無理なく読めるか。
前2語に、違和感はない。「飛込む」は、「飛び、そして、込む」でよい。「受取る」は、「e段」接続だが、「受く」型動作は現代では消滅しているのだから、「け」を付加する必要はない。「け」はない方が、一語の動詞として受取りやすい。
後3語には、少し違和感がある。「走り始める」は、「走 始」が複合語か、単に動詞の連続かだ。判断は難しいが、まあ、単純接続だろう。なら、「走」は、「走り」とした方がいい。そうすれば、「始」は、単純に「始」の送りを考えればよい。「始」には、「始まる」「始める」があるから、その区別が必要で、「走り始める」となる。
「思い込む」「思い悩む」は、「i段」形だが、「おもい」と3文字で、「思」が「おもい」と読めるかどうかが問題となる。3文字の慣用として認められるかだが、無限の慣用を認めると、次は、記述した文字の読みが難しくなってしまう。まあ、妥当な判断は、慣用性の強さと誤読の有無、読み易さから妥当な判断を下すべきだ、となる。この場合は、両用を認めるべきだ。
第4例は、「立ち込む」「立て込む」を考えてみよう。「立」は、「立つ(自動)」と「立てる(他動)」の2態がある。「立ち込む」の意味ならば、「自然に立ち込んできた」の意味。「立て込む」なら、「誰かがそれをやったので、立て込んできた」の意味で「人為性」を表している。両者の意味にそれほど差はなく、「立込む」だけで、その理解は自由だとの解釈も成立つが、微妙な違いを表したいこともある。この区別をどうするか。ちなみに、中国語では、こういう区別はなく、表現がぶっきらぼうに感じられる。
繋ぎの言葉がなければ「i段」接続とするのでもいい。そうすると、表記は、「立込む」「立て込む」となる。さて、これでいいかであるが、「立込む」で「たてこむ」の誤読が心配なのであるが、それでもいいとも言える。結局、両用を認めていいとなろう。
全体を纏めると次のようになる。
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日本語を、世界語に高めよう
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30、日本語を世界語に高めよう
ⅱ 送り原則の変更と多様化 ‥‥意味中心に
送り仮名は、前項で述べた歴史的経過を経て、その必要性に応じて送られてきた。だが、戦後、国語審議会は、「画一的に、変化する所から送る」との原則を定め、それでは具合の悪い所に「例外」を設けることにした。だが、この原則は、派生語の場合には、原語の送りを検討せねばならず、極めて分かりにくい法則になっている。
私は、日本語の表意原語性を重視して、変化する所からの原則は認めつつも、語尾の言切りの形(語尾優先)によって送りを統一した方がいいと考える。また、複合語は、誤読の恐れがない限り、連続漢字の一語性を重視して、できるだけ送り数を減らす方がいいと考える。このような変化は、日常生活基本語、含敬語語に多い。
具体例で考えてみよう。「あかるい」は、どう表記するか。「明るい」は、文法からすれば、「明るかろう、明るかった、明るくなる、明るい、明るい月、明るければ」と変化するので、「明い」とすればよい。だが、「明い」では読みにくい。また、「明」には、「明く」という原語がある。これは、「明かない、明きます、明く、明くとき、明けば、明けよ」と変化し、派生語の送りは、原語の変化に従属し「明かるい」とせねばならない。これは少し冗長で、実際には、「明るい」と表記される。「〜るい」とする方が意味取得しやすいからだ。結論として、「明るい」が適当だ。というより、「るい型(「する い」で、継続状態をとる、の意味)」を重視する法則が適用されるとした方がよい。
第2例は、「承る(うけたまわる)」。語源解析すると「受ける 給わる(/賜る)」で、これは、一見派生語のように見えるが、一語とされたものだ。だから、「賜る」の変化に合わせられ、「承る」と送られるようになった。だが、これでは、極めて読みにくい。また、「賜る」は、「給わる」と類似なのに、何で送りが違うのか。言うまでもなく、「承わる」とした方がいい。「ある(わる)型」の基本動作とする訳だ。
第3例は、「慮る」。いや、これ名何と読むのか。「おもんぱかる」。いや、こんな読みは思いつきもしないぞ。語源解析すると「思う 量る」。これは、「かる型」として、「慮かる」としたいが、「はかる」は「量る」だから、統一が取れない。なら、「量」を「量かる」とするか。だが、「量る」は、「は かる」ではなく、むしろ「はかる(はか する)」だ。やはり、「量」は、「量る」でないと行けない。他にも、「図る」「測る」「謀る」「諮る」がある。そうすると、結論として、派生語には、「かる型」も認めて、「慮かる」と「慮る」の二系列にするのがよいことになる。
第4例は、事のついでに「離れる」。この語の語形変化を調べると、「はなれる」で、「離る」と送ればよい。だが、何故、「離れる」か。歴史過程も見てみると、この字は、「離」→「離る」→「離れる」と変化している。だから、「離れる」となったものだろう。他にも「放れる」がある。だが、筆記の最中に、こんな歴史は考えられない。だが、やはり、「離れる」と送りたい。何故か。この言葉は、元々「離 得る」で、受け身の動作だからだ。だから、「れる」と送りたい。なら、「れる型」類型を認めるべきだ。
第5例は、「新しい」。この語は、「新」→「新た」→「新たしい」→「新しい」と変化してできた。いや、こんな変化を経た言葉はどうしたらいいのだ。原則によれば、「美しい」と同じで、「〜しい」と送ることにした。勿論、これでよい。これは、「しい型」とすればいいからだ。「しい」とは、「し(強め)い(居る(その状態))」のことだ。
第6例は、「高らか」「朗らか」。「らか」を辞書で調べても語源が分からない。私の感じでは、「ら」と「な」は発音が似ており、「らか」は「なか」から来ているのじゃないかと思う。ちなみに、九州では、「〜なか」と言うと、「‥‥ですね」の意味で使われるから、「高らか」とは、「高いですね」の意味で大きな矛盾はない。ちなみに、島嶼日本に大きな影響を与えた中国・長江を西へ遡った四川省では、「な」と「ら」の区別が全くない。原則によると、「らか」「やか」の付く語は、「〜らか」「〜やか」とするが、「らか型」「やか型」を認めたとみてもよい。
第7例は、「寂」。これは、変化が多い。「寂」「寂しい」「寂れる」「寂びる」「寂びらかす」などが考えられる。まず「寂」。これに送り仮名を付け「寂び」とするかどうか。送りの原則では、どちらでもよい。これは、抽象名詞になると、読みにくいから「び(「i 居る」の意味)」を付加した訳だ。それよりも、「寂」に「い型」を付加したと見たほうがいい。次は、「寂しい」「寂れる」。これは、前述のように「しい型」「れる型」にしたとみてよい。「寂びる」は、「寂び する」と見ればよい。「寂びらかす」は、「寂 び a化 する(「化する」は使役の意味)」と考えればいいが、こんなややこしい言葉は、「寂び」の変化語としておけば十分だ。
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29、日本語を世界語に高めよう
4、送り仮名の柔軟化
何故、送り仮名を付けるか。訓読を読みやすくするため。歴史的に見ると、読み誤らない程度に送られ、その時、送り方に法則はなく、千年間その状態が続いた。とは言え、少しずつ法則化され、第2次大戦後には、国家がそれを法則化された。
その法則とは、変化する言葉には、原則変化するところから送り、変化しないものには、送らないことにする、だ。これでは画一化し過ぎるので、歴史を考慮し、例外を多く設けた。即ち、慣用を重視した慣用送りを認め、派生語や複合語は元の言葉を重視して送り、読みにくいものには送りを多くする、などとした。
こうすると、誤読は少なくて済むが、語尾変化の送りが不統一で、筆記時に苦労する。当然、間違いが多くなる。何とかならないか。これが、送り仮名の現状だ。国際化のためには、私は、融通を利かし送りをもっと柔軟化して、半分以前の送りに戻すべきだと考える。
ⅰ 送りの必要性の歴史
中国語の漢字の取扱いは、「裸の漢字」そのものは、「全体として、その状況」を表した。文法用語を使えば、名詞、動詞、形容詞、接続詞、その他の品詞の区別のない「その状況」だ。現在でも、中国語は、その本質は変わっていない。例えば、名詞、動詞の区別はないので、「学習」は、「学習(すること)」なのか「学習する」なのかは分からない。英語でもそういう感じはあるが、中国語は、もっと漠然としている。
文明が進むに従い、事物の表現は複雑になる。どの言語でも同じで、漢語も和語も変化した。特に大きな変化は動作で、受け身、使役、完了、継続などの正確な表現が必要になる。だが、漢語・和語の語形変化は同じではなく、日本語は、そういう諸々の変化が全て語尾変化(語尾、助動詞、助詞)となって表れた。それをするのが送り仮名だ。こうして出来たのが、自動詞・他動詞の区別、受け身・使役の区別だった。その他の言葉(品詞)は、特に変化の明示は必要なかったが、漢字の読みやすさの点から、送り仮名を付するものが出てきた。
具体例で話そう。「明」は、このままでは未分化で、「明」全体を表している。動詞にするには、「く」を付け「明く」とした。形容詞にするには「い(「居る」で、継続の意味)」を付けて「明く い」→「明るい」となった。次の動詞に自動詞・他動詞の変化が生じた。自動詞には「ある(「在る」、その状態が自然に発生する)」が付き、「明く在る」→「明かる」となった。他動詞には、「える(「得る」、その状態を得て可能にする)」が付き、「明く得る」→「明ける」となった。ついでに言うと、「他動詞型」は、「可能動詞」にもなった。語尾を「える型」にするが、「える」とは「得る」の意味なのだ。例えば、「走る+得る」→「走れる」。言葉によっては、「受け身」的なものも出てきた。「受ける」「倒れる」「彷徨える」。
別の例。「当」は、動詞になって「当る」となるが、これは中国語の影響か自動詞「あたる」だった。その後、他動詞も必要になり「あてる」という言葉が出来た。こうなると、「あたる」と「あてる」をどう区別するか。歴史的には、「当る」「当てる」だったが、現代送りでは、「あたる」は「当たる」となった。とは言え、「当る」も残された。
纏めよう。漢字に「u」を付ければ、「動詞」になり、これに「ある(在る)」を付けると「自動詞・使役系動詞」に変化し、「える(得る)」を付けると「他動詞・可能・受身」に変化する。
更に別の例。「静」は、「静か(な状態)(←「静 ある」→「静か」)」。これを「静かになる」「静かにする」に変化させるには、「静か在る」→「静まる」、「静か得る」→「静める」となった。この言葉は、「静」の二段変化で、どうしても「静まる」「静める」と送らないと区別できない。
次は、使役・受け身型動詞の例。「浮」は「浮く」で、使役にするには「あるする(←その状態が「あるように する」)」を付け「浮かす」となり、受け身の時は「ある える(意思と関係なく、その状態が「あるように える」)」を付け「浮かれる」となる。ちょっと待て、「浮かれる」の「れる」は「助動詞」じゃないのか。いや、そんな事はどうでもいい。本動詞の変化形でも助動詞の付加形でいい、とにかく、動詞の語尾が「aする」「aれる」の形をしていることが大事なのだ。こうして、動作の変化形が広がった。
動作から色々な態様に変化させる語尾もできた。動作に「i(居る=継続)」を付ければ、その動作をすることの意味に変化する。例えば、「読む」→「読み」。状態に「さ(様)」「み(味)」を付ければ、その状態にある事、その程度を表した。「美しい」→「美しさ」「美しみ」。「哀れ」→「哀れさ」「哀れみ」。
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28、日本語を世界語に高めよう
ⅴ 偏と旁の統一化
日本が教育漢字、当用漢字を制定したときは(1949)、漢字廃止が前提だったから、それ以外の字の改革には未着手で、同じ偏や旁を持つ漢字でも不揃いになった。
漢字を将来も使い続ける以上は、当然、それらの不統一を調整する必要がある。また、将来の日本漢字として、中国漢字を指向すれば、それとの調整も問題となる。ここでは、その事について考えてみよう。
簡単な不揃いの例。「竜(龍)」と「襲」「滝(瀧)」「朧」は、「竜」で統一できるか。「襲」の字以外はできる。なら、「襲」はどうするか。私案としては、「竜」の下部を「田」にし、「立 畏」を上下に配置したらどうか。中国の「亀」の簡体字が似た感じで、「龟」と簡体化した。「立 畏」に音符はないが、他の字の読みも統一されていないので、まあ、これで我慢できる。なお、中国では、「龍」の付く字は多数あり、この部分は「龙」と簡略化されている。竜が踊っているようで面白い。
次は、「仮」。元の字は「假」と書き、「暇」「霞」「瑕」とも読みは「カ」で同じ、意味も「無」で共通する字だった。なら、「仮」には音符がないから「假」に戻すか。ちなみに、中国は「假」と書く。だから、戻してもいい。ただ、もう50年も「仮」の字を使っているから、難しいところだ。逆に、他の字を「仮」で置換える事もできるが、難しいところだ。だが、まあ、中国語では「反」の読みは「ファン」だから、日本は、「仮」だけ例外として我慢すべきだろう。
第3は、「1点辶」と「2点辶」の問題。こんな字形の問題は、考えるまでもなく「1点辶」としてよい。だが、現実は、「正字」が「1点(改革新字)」と「2点(未改革旧字)」で揉めている。馬鹿げた争いだ。例えば、正字が「進、透、通、蓮、迪、逃」と「辻、迂、這、漣、褪、迹、逡」などと、こんなに割れている。筆記では区別していないのだから、「1点辶」に変更するのには何の躊躇もない。
第4は、「点なし」と「点付き」字の区別。殆どの人は、「者」「著」「箸」「曙」「臭」「圧」「塚」などの字に、「点なし」と「点付き」の2態のある事を知らない。いや、1%も知っている人はいない。私も、長い間知らなかった。なら、何で、こんな事で字体を区別するのか。これも「点なし」で統一せねばならない。ちなみに、中国は、「zhu」の発音には点はないが、それ以外のもの「臭」「压」「塚」などには点がある。日本が中国簡体字を倣っても、こんな「点付き」は止めた方がいい。
次は偏の話をしよう。中国は、簡体字を創るとき、その字体の草書を参考にした。だから、偏が妙に簡略されていて、区別しにくいものがある。そういう物を真似る必要はないし、真似る場合でも、もう少し日本字に近づけた方がいい。
「食」「金」「言」「氵」は、日本字では余り似ていないが、中国簡体字では似ている。「食」は、単体で書くときは「食」するが、偏になると、「饮」「馆」のように簡略化する。「金」は、単体では「金」だが、偏になると「铜」「钱」となり、「食」と似てくる。「言」は、「言」だが、「读」「词」となり、これは「波」「河」などの「さん水偏」と似てくる。いや、そればかりじゃない。「饮」「钱」「词」「河」の全体が似ている感じじゃないか。そう、区別できない訳ではないが、筆記ではよく見間違う。「飲」「銭」「詞」「河」とどちらが区別しやすいか比べていただきたい。それほど重要な問題ではないが、印刷文字は、日本字に近い方がいい。
次は、旁に行く。中国簡体字では、「車」は「车」、「東」は「东」と書く。日本でも、筆記ではよくこのように書くから、日本の簡体字を「车」「东」としても大きな問題はない。先にも書いたが、印刷体では「車」「東」の方がいいかもしれない。
第2は、「見」「貝」「頁」。これらは、「见」「贝」「页」となるが、大きな問題はない。
第3は、「臣」。この字が漢字の一部になった字は多いが、書きにくい。中国簡体字では、「刂」と簡略する。なら、この簡体形は採用した方がいい。「緊」→「紧」、「濫」→「滥」、「鑑」→「鉴」、「艦」→「舰」となる。いくらか字体が異なるものもあるが、日本がこれらの字を採用しても大きな混乱はないだろう。
第4は、「脑」「为」「齐」「乔」。これらの字は、日本字とかなり違うが、形はよく似ている。中国字を採用しても問題はないだろう。
他にも色々ある。続きは5章で述べる。通常使う偏や旁は、日本と中国では非常によく似ている。形の統一は必要だが、どちらの文字を採用しても大きな問題はない。
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27、日本語を世界語に高めよう
ⅲ 理科離れは、理数系漢字への無策
次は、理数系漢字の創造だ。創造と言うより漢字の充当だ。現在、数字・単位の呼称は、カタカナ書きで、その日本語の呼称がない。これが、理数系学問の発展を大きく阻害している。なら、できるだけ中国に見倣って、同じ字を充当するのがよい。この点を説明には沢山の字数を要するし、他の本に詳述したので、ここでは結論だけ述べる。
これを実施すれば、今流の「経済効果」で表せば、私の試算では、年間7兆円にもなる。尤も、使えば、それだけ無駄な費用が減るというだけで、やはり机上の計算にすぎないが、十年2十年、子々孫々までの節約を考えれば、ウン百兆円の節約になる。こういう事こそ、私は、敗戦の時に制度切替しておきたかった、と言いたい。
① 基本枠単位の3桁制
② 百倍、千倍などの倍数制の表示
③ 基本度量衡の漢字表示
第一は、数字の呼称枠単位。日本・中国・朝鮮は四桁枠、欧米は三桁枠制度だ。世界の潮流は、というより、世界は欧米に支配されていて、これは動かしがたい事実。そればかりか、東亜は、度量衡の全てを国際標準の三桁枠に移行し、わずかに呼称だけ四桁枠制としているにすぎない。日本は、その東亜の一員で、世界に対して数値発表に極めて不利な立場にある。なら、即刻、三桁枠の世界に仲間入りすべきだ。
問題は、どうしたら現行制度に最小の変更を加えるだけで、四桁枠から三桁枠に移行できるかだ。私は、十年以上考えて、次の制度を考えた。現行は、万・億・兆と枠組みが上がり、新制度では、○・○・○・兆と上がることになるが、「兆」の所で一致する。そこで、「兆」で一致するのを利用して、何とかならないか、となる。私の答は、「千・万・億・(兆)」とすれば、最小の労力で3桁枠制が出来上がる、となる。
ちなみに、現行でも、統計数値などでは、12万4千(円)という数値は、124千(円)とよく表記し、十万の位までは、単位枠「千」を使っても抵抗はない。問題は「万」と「億」だが、「新万」は、「百万」の事、「新億」は、「ゼロ」を1個付けて「10億」の事だとの感触が分かれば大きな抵抗はない。「兆」より上は、現在余り使われていないから、そのまま「兆・京・‥‥」としても全く抵抗がない。最近、国債が「1千兆円」を超えたとか、電脳の計算能力が「1京回」を超えそうになったなどと言いだしたので、三桁枠への移行は喫緊の課題だ。
第二は、「キロ」「メガ」、「ミクロ」「ナノ」などの西洋枠との調和を、漢字でどうやってするかだ。これは、中国が既に実施している。早く見倣うべきだ。数値の三桁枠制度ができれば、その取扱いは極めて簡単だ。小学校算数は、学習時間が1年短縮できるほどの威力を発揮する筈だ。
京 兆 億 万 千
P T G M K
ペタ テラ ギガ メガ キロ
分 厘 毛 微 塵 漠
m μ n p
ミリ ミクロ ナノ ピコ
中国: 毫 微 毛微 微微
見た通り、これだけ整然とする。これだけ数値呼称が便利になるのに、日本政府は、国際標準取入れにどれほどまで盆暗なのことか、私は理解に苦しむ。
ついでに言うと、「京」に「ペタ」、「兆」に「テラ」などの読みを与えるかどうか。当面、その「意読」として「京、ペタ」「兆、テラ」などとすることは認めてよい。なお、小数点以下の中国呼称は、日本といくらか違うが、数値計算の合理性から言うと、やってみれば、中国表示が勝る。ゼロ3つで「毛」、ゼロ6つで「微」、以下その繰返しとなる。
第三は、物理単位の問題。「1メートル」は、どう表示するか、どう呼称するか。例えば、「1km」を何と呼ぶか、「1ml」を何と呼ぶか。「1キロメートル」か「1ミリリットル」か。いかにも冗長だし、筆記したとき読みにくい。私は、基本単位は、漢字で短く纏まっていた方がいいと考える。だから、上に掲げた呼称と以前使っていた「米」「瓦」「升」などの字を新制度に復活するのが好いと考える。だが、この際、中国制度に合わせた方が国際性が出、その方がいい。嫌なら、止めてもいい。
メートル:米 グラム:克 リットル:升
とすればよい。そうすると、「1km」は「1千米」、「1ml」は「1毛升」となる。なお、呼称をどうするかは、暫く様子見でもよい。
ここには書けないが、この単位と呼称系を取入れると度量衡の計算は半分暗算でもでき、日本は確実に世界一になれる。詳述すれば、一冊の本になる。日本が世界に冠たる技術大国になるには、一刻も早くこの制度を実施すべきだ。
ⅵ 対になる言葉は漢字で書こう
最後は、通常よく使う言葉は漢字で書こうであるが、これは、漢字の簡体化と関連する。2、3指摘しておきたい。
「きれい・きたない」。「きたない」は、「汚い」でいいが、「きれい」が「奇麗」では、ややこしくなり都合が悪い。やはり、簡単な漢字が欲しい。中国語で「麗」は「丽」で、「麗」の上の部分を使う。こういう字は、真似た方がいい。
「うまい・まずい」。漢字で書けば、他にもあるが、「巧い・拙い」「美味い・不味い」となる。これらの漢字は、訓読では余り使わないが、どんな「うまさ」かを表現したい時は、どうしても漢字が必要になる。字の意味を覚える意味からも、積極的に使うようにしたい。
他にも、「難しい・易しい」「狡い・賢い」「悲しい・嬉しい」などある。ついでだが、「嬉」は、「性差別」を生む言葉だとの指摘があり、将来もこの字を使うかどうかは再考を要する。何で、「女を見たら喜ぶことになる」のか。女は、男の道具か。「女扁」に関する字は、卑猥な想像を掻立てるものが多い、よく考えよう。ちなみに、中国では、「嬉」の字は余り使わず、「高兴(興)」の語を用いる。また、「嬉」は、よく発音が同じ「嘻(日本字はない)」ともする。いずれにしても、国際化時代に向かって、考慮すべきことは多い。
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