日本の再生と国際化を考える

英才教育、日本語の国際語化、数値の3桁読み、度量衡改革、漢字仕様電脳、やる事は多い。

日本語を、世界語に高めよう

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11、日本語を世界語に高めよう
 
ⅱ カタカナ語の氾濫
 今、現在、創られている言葉は、9割まではカタカナ語だといってよい。漢字で書けても、漢字を知らない世代には無効だと言わんばかりの勢いだ。だが、カタカナ語は、表音文字語で意味薄弱な語が多い。意味が分かりそうで分からないのだ。
 「ビックカメラ」は有名だろう。で、「ビック」とは何か。「big」「びく(←釣りの入れ物)」なら分かるが「ビック」は、辞書に載っていない。私は、店員に聞いてみた。誰も知らなかった。単に音だけの名前か、そんな事はないだろう。それでは、これほど有名にはならない。
 近くに「麺類レノン」という店ができた。「レノン」とは何か。歌手の名前なら思い出すが、一体ここではどんな意味か、と考えても分からない。私には、「のれん(暖簾)」の間違いかの感じだが、カタカナ語では、「レオン」「キシレン」の語感が似ている。「レオン」とは「ライオン」のこと、「キシレン」とは、「有機溶剤・キシレン(←シンナー遊びによく使う)」のことだ。
 また、会社には、「ABCホールディング・カンパニー」「ABCインターナショナル・コーポレーション」などという長々した社名が増えてきた。新聞では、名前が長すぎると「ABCHC」「ABCIC」などと省略される。これで意味が採れるのか。そもそも、これが名前と言えるのか。採れなくても、その会社が、大衆には分からなくても、現代的な会社でどことなく良さそうだ、との心象を与えようという意図のようだが、それを社会的存在として認知していいのか。だが、こんな会社に限って、いかがわしい事業の場合が多い。なら、マスコミは、国民に実体が分かる表現で注意書きを付けた方がいい。場面は異なるが、極端な例では、「援助(←使用不可文字→)○際」。これには、PTA(両親と先生の協議会)や地域団体が堪りかねて「援助(←使用不可文字→)○際とは、売春のことです」と言いだした。敵も只では引かない。「エン(←使用不可文字→)コウ」とカタカナ書きに変えた。
 「ホールディングス/ホールディング・カンパニー」とは、「持株会社」即ち「親会社」のことで、国内の子会社、海外の子会社を支配している会社のことだ。日本語で意味を取れば、子会社を虐めて暴利を得ているとの心象が湧く。なら、昔流に言えば、「(小)財閥」だ。先の「ABCホールディング・カンパニー」は、実体の形象とは縁遠い。「裕仁天皇」のことを「エンペラー・裕仁」というようなものだ。格好いいか。
 「インターナショナル・コーポレーション」とは、字面の意味は「国際会社」のこと。実体は、いかがわしい先物投資会社の場合が多く、何回も不正行為を働き、政府から要注意会社として目印を付けられた会社が多い。だからであろうか、彼らは、「国際云々」としかもカタカナで接頭語を付けるのだ。「先物投機勧誘会社」が一般に悪いわけではないが、自分たちの魂胆を偽るものとして、カタカナ語を使うのだったらそれは社会的に弾劾せねばならない。上の名なら、「インターナショナル・コーポレーション(先物投機勧誘会社)」との注釈を付けるべきだ。
 ちなみに、中国の法人の名前の付け方を言おう。まず、語頭に地名を付ける。「上海」の会社なら「上海」と付ける。「北京」と付けることは許されない。次は、「自分の名前」を付ける。「鈴木、山高」などでよい。だが、先登録があればできない。第3は、外国資本・合弁資本なら括弧書きで、それの登録の資格を「(上海)」だとか「(蘇州)」だとか「(中国)」のように入れる。第4は、業務形態を付ける。「食品」とか「科技」とか付ける。最後は、「有限公司」と付ける。最終的には、「上海鈴木(上海)科技有限公司」となる。そして、この一段階ごとに審査がある。業種の名称も法定されていて、その名前の会社は、どこにあり誰が管轄しているかは一目瞭然だ。
 もっと厳しい例を言おう。個人の身分証明書は、番号に生年月日がすき込まれ、発行地区なども明らかにされ、個人情報は丸裸だ。「116319851023312」なら、「1163地区」の「生年月日19851023日」の受付番号「312」の人物の意味で、公安の電脳でこの番号を打込めば直ちにその人の戸籍情報が家族構成から勤務先まで明らかになる。とにかく、中国の個人認定制度は、厳しい国家管理の下にある。
 日本で中国のように厳格にする必要はないが、本体隠しの名称は、英語翻訳調にして逃げさせてはならない。お前、何で名前のことをこんなに問題にするのだ。いや、他意はないが、あらゆる物をカタカナ化し、実体が分かりにくくなったことを言いたいのだ。さあ、一般論に戻ろう。
 今創られている言葉には、どんな言葉があるか見てみよう。
 広告を開いてみよう。「2010年秋冬モデル」、と電脳(コンピュータ)の広告がある。使用言語は、ペンティアム、メモリ、スーパーマルチドライブ、ワイドFT液晶、などとある。また、BB新規加入特価とある。この表記で、何が書いてあり、その電脳の仕様の良否が分かるのか。一般人には、精々片仮名文字が並ぶと何かいい所があるのだろうくらいだ。ある時、ある項目について店員に聞いてみた。が、ちょっと待って。交代した店長は、更に細かいカタカナ語の連発、ますます分からない。
 テレビ欄に目をやる。ブルーレイ、フルハイビジョン録画、新トランスコーダ採用、Wチューナー。次は、空調機。ハイレベルの省エネ性、除菌対応エアコン、プラズマイオン、低濃度オゾン、買いかえリサイクル、政府エコポイント、体感センサー付など。次は、洗濯機。バスポンプ付、防水パン、パワフルエアドライ、からみまセンサー、エアウォッシュ。次は、レンジ(電子加熱器)。オープンレンジ、ウォーターオーブンレンジ、スチームオープンレンジ。次は、化粧品。シミ・ソバカスを防ぐとあり、それに、VCケア、クスミ肌、ホワイト美容液、モニター特別品、アレルギーの可能性あり、プインプルと続く。次は、ホテル。ソフトドリンク付、フリードリンク、デザート、ローストビーフ、フェイスタオル、アドベンチャーワールド、ハピー・ニューベビー、極みプラン、クレジットカード。次は、マンション(高層住宅)。フードマーケット、環境コーディネータ、クレバリーホーム、ピアゴカーマ、スクラッチカード、フレンドマート、スーパーサンディ、セントラルガーデン、ビーナスビラ、フラットマンション等々。
 これらの言葉は、日常語化してきたから、分からない訳ではない。だが、「犬」「猫」「猿」「鳩」という言葉と同列に分かるのか。現代社会は高度なのだ、同列には行かないよ、で済まされるのか。また、これらのカタカナを不意に聞いたり見たりして、直ぐに意味が採れるのか。あるいは、暫く使わないでいても、直ぐに意味が採れるのか。ど忘れして、あれあれ、あれ何だったかいう事にならないか。初めて行く所では、商店名、商品名など、一つだって覚えて帰れない。老人が騙されるはずだ。こんな社会にした政府が悪いのは言うまでもない。
 基本的な言葉で、日本語が好いかカタカナが好いか振返って考えてみよう。「マンション」、この言葉を知らない者はないが、「高層住宅」とどちらがいいか。「高層住宅」がいいのは歴然。「高層」も「住宅」もよく分かる。更に「高層集合住宅」とすればなお良い。なら、「マンション」は。「マン」とは「人」のこと。「ション」とは何か。英語の素養のある者は、「抽象名詞化語(←これ言葉自身が意味不明)」と考えるだろう。「人」を抽象化して何が出てくるのか。結局、何も分からない。英語でマンションとは、「大邸宅」の意味だ。「高層住宅」ではない。だから、米国人に「マンション」と言っても分からない。そこで、最近では、「コンドミニアム」という言い方が出てきた。なら、「コンド」で意味が採れるのか。「コンドム」じゃないかと連想すれば、顔がにやっとする。いや、米国人の発音を聞いてみよ、よく似ているぞ。
 レンジは「電子加熱器」のことだ。英語で「レンジ」とは、「範囲」という意味で、「加熱器」とは縁遠い。英語では、「マイクロウェイブオーブン」と言う。だから、ちょっと長すぎるが、「レンジ」も替わりつつある。いずれ、意味不明で消えていく運命の言葉だ。
 結論。英語でもない日本語でもないカタカナ語、語源が英語と齟齬するものも多い。なら、こういうカタカナ語は、日本語を壊すだけだ。英語のままなら、米国人には分かるが、日本人にとっては、意味不明のことが多い。だが、日本人には、日本式英語発音を強制されている。なら、カタカナ語は、必要不可欠で最小にせねばならない。
 
 
 :この文には、使用不可も時が含まれていると言うことで、上載するのに苦労しました。本文に示してある通りです。
 
10、日本語を世界語に高めよう
 
2章 日本語崩壊の危機
 
1、表意言語の放棄
 1章では、日本語は表意と表音の折衷語であり、これが、世界最高の筆記言語である事を示した。最近、この日本語が激しく崩壊している。一口に崩壊と言ってもその態様は様々だ。総じて言えば、この適度な折衷関係を壊す所行は全て日本語の破壊だといってよい。
 最近の日本語は、漢字表記が極端に減っており、平仮名と片仮名が増え、この意味での崩壊が特にひどい。それほど、日本語の表音語化がひどくなってきた。更に、英語の影響が大きく、英語をカタカナ書きしただけの意味取得不能の言葉も溢れている。それどころか、日本語できちっとした言葉があるのに、何故、漠然として意味の掴めないカタカナを使うのかという状態だ。更に、他にも、話し言葉の変化が大きく、若者言葉の氾濫、文法の変化、文章の冗長化が挙げられる。
 ここでは、その点を詳しく分析してみよう。
 
ⅰ 平仮名化の危機
 平仮名は、簡単に読めるが、音そのものは意味ではない。文化の程度の低い古代社会では、音表記の平仮名だけで十分だったが、これに高度な漢字を使うと、日本社会は漢字社会へと発展した。
 だが、漢字が複雑になると学習に時間がかかり、全国民の国語という点からは好ましくない。だが、漢字の複雑化傾向は、その後千年進むばかりだった。これは行き過ぎだ。敗戦後、漢字の簡素化が始まった。また、米国占領軍の漢字廃止ローマ字化という日本の植民地化政策が重なり、その暫定措置の意味で、漢字の簡略化と使用の制限が行われた。それが、教育漢字1千字、当用漢字2千字(累積)の制定だ。
 そのお陰か、我々は、漢字を知らなくても、文が書けるようになった。便利だ。だが、だんだん不都合も起きてきた。当初は、多くの人がその漢字を知っていたため、その人だけが平仮名で書いても大きな社会問題は起きなかった。だが、多くの人が漢字を学習しなくなると、漢字なら意味がよく分かるのに、平仮名では分からないという事態が起きてきたのだ。1章では、朝鮮語の話をした。
 例えば、「発ぽう」で意味が分かるか。鉄砲を撃つことだろう。いや、違う、アワが出ることだ、ともなる。「発泡」と「発砲」が区別できないのだ。なら、「さく道」とは何か。「えい航」とは何か。「か性」とは何か。自分では書けなくても、漢字で書いてあれば意味が採れるのに、戦後ずっと、日本の国語政策は、画数が多ものだけでなく、簡単な字でも、当用漢字表にない漢字は使わせなかった。
 これでは、困る。そこで、似たような字があれば、それに替えられた。例えば、「滲透」は「浸透」、「遵守」は「順守」という具合だ。できないものは、その部分だけ平仮名書きにした。先に示した「さく道」「発ぽう」がその例だ。これを「交ぜ書き」という。こうして、この交ぜ書きが無限に広がった。更に例を挙げよう。
 憂うつ(憂鬱)、そうそうたる(錚錚たる)、ゆう然(悠然)、さん然(燦然、然)、さんらん(燦爛、爛)、けんらん(絢爛)、そう類(藻類)、捜さく(捜索)、きょ出(醵出、拠出)、破たん(破綻)、びん乱(紊乱)、やし(椰子)、リン酸(燐酸)、よう酸(沃酸、葉酸)、シュウ酸(蓚酸)。
 なお、「然」は中国簡体字。「蓚酸」は、「修酸」とした方がいい。
 まあ、最初は、これでもさほど不便はなかった。問題は、英語崩しの言葉が日本に怒涛のように押寄せると、平仮名部分は補助語と同列にまで地位が下がった。「さく道」とは、「さく」のある道か、なら「さく」とは何だろうとなるのだ。なら、漢字で書こう。ちなみに、中国人に知らない単語を言うと、必ずこの種の質問が返ってくる。「索道」だって、そんな字は知らないよ。日本人ならそう返すだろう。何だ、「ロープウェイ」か、これならよく分かるよとなった。だが、昔ながらの「索道」を「ロープウェイ」と読んだら、全く意味不明のことが起きる。
 日常生活の場では、常識が働くので矛盾もそれほど大きくないが、自然科学の分野では、漢字で書いた方が遙かに意味が明確だ。漢字復活論が強く、徐々に旧漢字復活が許されてきた。だが、大衆が使わなくなった漢字の再学習は困難を極め、漢字使用に困難を感じるようになった。分からない時は、よく英語で表現されているが、これがいまいちよく分からない。「ステレオ・アイソマー」「クロス・カプリング」「ハイパー・コンジュゲーション」、分かるか。だから、勿論、直ぐ忘れる。
 そして、最近では、漢字よりも英語の単語を一語でも覚えた方が将来のためと漢字学習が軽視され、英語のカタカナ表記が蔓延してきた。正に、米国の日本属国化政策にすり寄っている感じだ。こうして、老人には、全く聞いたこともない言葉がテレビや紙面を埋め尽くすようになった。「インフォームド・コンセントを強化する」「コンセンサスを得る」「政府には、アカウンタビリティがある」「ナショナル・ガバメント」「レアアース」、こんな言葉が並んでいて意味が採れるか。
 最後の「レアアース」とは、化学の専門用語で、「(希少な)アルカリ土類元素」をさす。短縮して、「希土類(元素)」と呼ばれる。「アース」は、「地球」の意味で、通常なら訳は「希少(価値のある)地球」となるが、これでは意味不明だ。更に付け加えれば、「アルカリ土類金属」は、「遷移金属」に属し、金属らしからぬ金属の意味で、頭に「土類(←金属でなく土の成分と類似の)」という説明語が付くのだ。「土類」では分かりにくい、日常的には「希少金属」と訳した方がいい。
 平仮名化は大悪。書き言葉としての漢字の効用に気がつかず、数千年かけて創りだした文化遺産をどぶに投げ捨てる愚者の行為だ。中国は、60年前、漢字の複雑化を解消するため、音符を中心とする簡体字を創った。日本も、中国に真似て漢字の改善を図れば、漢字は現代的に復活する筈だ。5章1節1項で詳述する。
 
9、日本語を世界語に高めよう
 
4、言語の消滅
 その言葉を喋る民族がいなくなれば、その言葉も消滅する。当然の事だが、5百万年の人類史の中で、大半の言語はこうして消えたはずだ。北大西洋海流(黒潮)は、世界一強くて速い海流。この海流は、百万年前から、インドネシア辺りに住んでいた猿人を北へ北へ運び、西太平洋の海洋民族を育てたが、これらの民族は、転変地変と共に消滅した。
 私の目の子の推定では、インドネシア出発100万年前、フィリピン到着30万年前、台湾到着10万年前、沖縄到着7万年前、南九州到着5万年前、伊豆到着3万年前だ。ちなみに、この考え方は、「人類の多地域発祥説」を元にしている。この間に、どれだけの言語が発生し消滅したことか。なら、最終到着地である日本言語も、いずれ、どこからかやって来る新言語に置換わり消滅するのか。
 
ⅰ 琉球語の消滅
 今、尖閣諸島は、その領有を巡って日中が激しく対立している。中国の主張によれば、沖縄も、江戸時代(明治以前)までは中国領で、もう間もなく、沖縄にも領土権を主張する勢いだ。今この現在、沖縄は、紛れもなく日本語を話し日本領であるが、以前は、本当に中国領だったのか。ここでは、その傍証となる琉球語の存亡について考えてみよう。
 前述の理論に従えば、海洋語は、南から伝わってきたのだから、沖縄と台湾、台湾とフィリピンの言葉は似ている筈だ。だが、今日では、フィリピンはタガログ語、台湾は台湾語(中国語)、沖縄は日本語で、僅かな海を越えると言葉が丸で違う状態だ。不思議じゃないか。
 その一方で、沖縄の方言は、本土人には理解できない面がある半面、沖縄住民の喋る言葉も本土人と同じだという面がある。現に、私の同僚に、沖縄出身の日本語講師の同僚がいた。何が真実なのか。
 ここに一つの調査がある。1800年頃から今までの、沖縄人(琉球人)の日常語を調査したものだ。大雑把だが、その頃は沖縄方言が3分の2くらいだったが、今では3分の1にも満たず、これから30年もすれば、方言育ちの人は居なくなり、沖縄方言が消滅しそうだとなった。なら、この変化は、いつから起きたのか。それは、方言使用率の経時グラフを過去に向かって外挿すると推定できる。そうすると、1800年より1百年か2百年前のことだった。更に、言葉の変化は加速度的に進む(指数関数的変化)のだから、それからは、3百年前、4百年前から始まった。
 また、方言の残存率は、台湾に近い地方ほど多かった。つまり、台湾寄りの先島諸島では、台湾語との共通性が大きかった。なるほど、そうなのだ。この地域には、黒潮文化が分布していて、南へ行けば行くほど、南島語の影響が残っていることになる。
 そこで、面白い証拠がある。第2次大戦中、日本は、南方戦線拡大のため、台湾の原住民を通訳として同行させた。驚き、通訳は、台湾土着語で南洋の島民と会話できたのだ。こうして、インドネシアから南九州まで分布する南島語族の言葉があったことが明らかになった。
 また、この事から、台湾の言葉は、元々は大陸語(中国語)ではなく、台湾土着語だった事が分かる。余談だが、台湾先住民と先島諸島辺りの事情を調査すれば、この辺りの民族と言葉の移動が分かるはずだ。そうすれば、沖縄は、元は台湾と同列の一連の島嶼をなし、大陸政権とは無縁だったとなる筈だ。ちなみに、倭人(大陸南部住民)が台湾に移住するのは、17世紀(江戸初期)からだ。更に言うと、先島諸島で日本語が話されているのは、台湾からの影響よりも日本本土側からの影響が圧倒的に強かった事を意味する。
 本論に戻ろう。驚きなのは、琉球語に本土語が浸透し始めると、琉球語は、土着民が死亡するとその分だけ使用者が減り、そして、間もなく最後の使用者が死ぬと、琉球語が消滅する運命にあることだ。
 この事実は、インドは150年、フィリピンでは400年経っても英語の浸透が遅遅として進まないという事実と矛盾するのじゃないか。本論じゃないから簡単に言うと、黒潮文化圏全体を見ると、言葉の違いは方言ほどの違いしかなく、言葉の変化は、単語の入替わり程度のものだ。いわば、欧州大陸間の言葉の違い程度のものだ。それに対して、欧州語がアジアへの浸透が困難のは、異質なものの浸透で、言語の基底部分を破壊しながらの進行だったからだ。
 琉球語は、今、消滅に向かっている。これは、共通語の方が便利だという自然消滅。この意味の消滅は、経済の広域化の中での常に現れる現象で、特に問題というものでもない。欧州では、政治・経済の統合という流れがあり、最終的には、言語の統一という問題が出てきただろう。その一つの流れれが、エスペラント語の創造だ。尤も、英語の一人勝ちで、その動きは尻すぼみになってきた。
 
ⅱ アイヌ語の消滅
 アイヌ語も絶滅の危機に瀕している。だが、その事情は異なる。それを話す人が居なくなったのだ。アイヌ人は、北海道に1万5千人ほどいるそうだが、元々少なかった人口であるが、そのほとんどが大和民族に同化してしまった、という事情にある。
 人類の歴史を辿れば、低緯度地帯から漁労民族がじわじわと北上し、大陸内部に入り込んだ民族が農耕民族になった。一方、野獣を求めて草原地帯へ進み、狩猟民族となる者もあった。狩猟民族は、毎年冬になると否応なしに生死を分ける生存競争を強いられ、食糧の減少が南下圧力となった。こうして、新石器時代が始まった頃、厳しい競争で鍛えられた北方民族は、大人しい南方農耕民族を圧倒していったわけだ。
 だが、生産性と人口増大性に勝る温帯農耕民族が、次第に北方狩猟民族を圧倒していく。即ち、北部地帯は、元々地味が悪くて人口が少なく、南部民族が団結すれば、北方民族の後退は必然だった訳だ。日本でいえば、大和民族がアイヌ民族を駆逐していく過程だ。歴史事実でいえば、坂上田村麻呂が征夷大将軍となって東北を攻めたのはその一例だ。
 アイヌ民族が急激に力を落とすのが、江戸時代に入ってからと(17C)、明治時代(19C)になってからだ。この二段過程を経て、アイヌ人口は激減し、最近は、もう芥子粒ほどの存在になった。これを、沖縄方言と比べてみると大きな違いがある。沖縄で琉球語が消滅するのは、人口減少ではなく、自らの選択による類似言語への移行だ。で、なら、アイヌ語の消滅はどう考えたらいいのか。
 アイヌ語の場合は、民族の消滅だから、原理的には当然のことで、特に言うことはない。若干の問題は、今後の学問研究あるいは少数民族保護のために、アイヌ語を残した方がいいかという事だ。
 アイヌ語の特徴は、語順が日本語と似ていて、主語、目的、動詞の順だが、他に動詞部分が包合語をつくっている事のようだ。包合語とは、名詞を取込んだ動詞のこと。例えば、「魚を食べる」という内容なら、「魚食する」とする一語の動詞になるわけだ。この包合語は、エスキモー諸語、インデアン諸語でも大きな特徴になっているそうだ。
 しかし、よく見ると、「食べる」は、「魚」に対する評価語とも見られ、この最短形式が「助詞」だとも見られる。例えば、「箸を使って」は、「箸で」となる。その意味では、アイヌ語は、日本語からそれほど遠くない。
 さらにまた、一見、「魚食べる」と「私行く」は、英文法からすれば異質の文型だが、「魚食べる」「私行く」という「包合」を考えれば十分よく分かり、以前は、「を/が」を区別しなかったので何の問題もない。中国語も、同様に解釈ができる。「包合」という言語構造は、実は、東亜に広く存在し、それほど異質のものではない。
 まあ、このように考えれば、アイヌ語の特徴は、単語が北方由来の東亜語だという事くらいで、言語構造としては、日本語と大きな差異はない。更に、琉球語も朝鮮語も単語だけの違いになる。アイヌ語を残すかどうかは、それほど大きな問題ではない。
 
 地球上では、少数民族語がどんどん淘汰され、極端な見方をすれば、9割が消滅またはその危機にあるという。しかし、世界的産業活動、経済活動の効率を考えた時は、僅かの違いしかない派生言語の消滅は、それほど心配したものではない。
 反対に、全く異なる言語の場合は、一方の言語の抹消は、その民族の抹消を意味する。そんな消滅は許されない。そういう観点から考えると、英語による日本語の末梢は、日本人としては耐えられない筈だ。なら、琉球はアイヌはとなるが、彼らの言語の消滅は、日本語に馴染めるかということにかかっている。結論として、彼らの言語は、日本語と類似の言語であるから、自然の流れに任せても構わない。更に言うと、欧州では、経済ばかりか、全ての物の統合を模索している。それならば、東亜でも、将来の共通語を模索してもいい。特に、朝鮮語と日本語の統一は無理ではない。
 
1章終り
8、日本語を世界語に高めよう
 
ⅲ 日本語は、世界最高の筆記言語だ
 日本語は、有意部分は漢字、その繋ぎの言葉は平仮名で出来ていて、大雑把に読むときは漢字だけ、正確に読むときは平仮名を加えて読めばいい。その意味では、日本語は非常に読みやすい言語だ。
 最近、日本語にはカタカナ語が多くなり、眺めただけでは意味が採りにくくなってきた。そこで、漢字ばかりの中国語と比べて、日本語にはどんな性質があるのか。この点は、表意言語と表音言語のところで概略は話したが、ここでは、それを更に深めてみよう。
 中国語のいい所は、何と言っても概念を短く表現できること。例えば、「禁煙」。これは、「ここでは、タバコを吸うことを禁止する」あるいは「ここでは、タバコをご遠慮下さい」の省略形として表現されている。
 大事な事は「キン」だけでは何の「キン」か分からないが、「キンエン」と発話した瞬間に、「キン」は「禁」の意味、更に、意味不明だった「エン」も「煙」の意味だったと分かることだ。
 何故、分かるか。我々は、「キンエン」という言葉を「禁煙」の意味だと知っているからだ。だが、「キンエン」という情報から、「禁煙」の意味が分かるには、事前の学習と現場の状況が知れている必要がある。そうでなければ、「キンエン」を「近縁」と採るかも知れない。子供なら「近エン」と捉えて、「何かに近づくこと」と捉えるかも知れない。また、意地悪な大人は、「近煙」と言うかも知れない。
 そんな曲解まで考慮する必要はないとは言え、漢字の音は1音節で、しかもそれらは相互によく似ているので、「キンエン」が何を意味するかは自明とまでは言えない。上述の心配が大いにある。だが、いずれにしても、我々が「キンエン」を「禁煙」の意味で理解できるのは、言語学習のお陰だ。
 中国語には、このような言語の短縮機能があり、記述語としては非常に優れている。おそらく世界一だ。「禁煙」は、上述の日本語、あるいは「Don’t  Suck  Cigarette」「Don’t  Smoke」あるいは「No Smoking」などという英語にする必要もない。英語の「Smoke」は、読み終わらないとその意味が理解できないのだから、中国語の時間短縮効果は大きい。日本語で「禁煙」としない場合は、上述の「ここでは‥‥ご遠慮下さい」とせねばならないが、これは「喫煙」とは無関係の文言で、余事表現を強制されている、とも言える。
 この点からいうと、中国語には抜群の短縮機能があり、更に、中国語には四字熟語というが超濃縮用語もある。こういう事を考えると、世界中のどの言葉よりも表現経済(短い言葉での表現の効率性)が優れている。「一石二鳥」「起死回生」「南船北馬」「五十歩百歩」「春宵一刻値千金」。この点に異論はない。
 だが、欠点もある。学習に時間がかかることだろう。それ以外にもある。文が長くなると、切れ目がどこにあるか分からず、却って文意把握が困難になることだ。「春宵一刻値千金」は、「禁煙」のような調子には行かない。必ず、文の解釈が必要になる。
 こうなる。「春の宵の一刻、そのは千金だ」。いや、「春宵の一刻は、千金に値する」とも解釈できる。日本人が中国語語順で理解するには前者がよいが、日本語の動詞は、文末で表現するのがいいなら後者がいい。
 元に戻って、中国語のこの判じ物のような7文字の正確な意味は何なのだ。日本文法や英文法に従って解釈できるのか。そもそも、漢字だけで正確な意味が表現できているのか。外国語に翻訳できるのか。いや、中国人は、上のどちらと確定しなくても、その意味が分かるのだすれば、中国語は曖昧な言葉だとは言えないのか、など。ちなみに、中国語には語尾変化がなく、名詞と動詞、名詞と副詞・形容詞などの区別がない。それで、文全体の意味が分かるのか、大いに疑問だ。
 この点は、文が長くなればなるほど、その弱点の露呈が大きくなる。少し長い文で検討してみる。
 「生是个贫穷读书人,他唯一的愿望,就是能考中科,做大官、
 振返らない日本語でその解釈を示そう。「生は貧しい学生で、彼の唯一の願望は、それは、科挙試験に合格し、大官になり、大金持ちになることだった。」
 日本語にすれば、とても易しい文なのに、いや、本当にどこで切れているか分かりにくい。ちなみに、上の文で「是」「做」「発」は動詞であるが、これを名詞に訳すこともできる。また、「的」は、「連体修飾」を表し、「就」は、「順接接続」を表す。なお、中国語では、単純な文(動詞)の結合には接続詞は用いない。
 中国語が日本人にとって難しいのは、文がどこで切れているのか分からない事。それを明らかにするだけで、中国語は極めて易しくなる。やってみよう。上の文は、こうなる。
 「生/是/个贫穷读书人,/他唯一愿望,/就是/能/考中/科,/做/大官、/大
 英語流に解釈してみる。
 「生は、それは、一人の貧しい、そういう読書人(学生)だ」
 「彼の唯一の愿望」
 「それは詰まり、有能で(可能だ)、合格すること、科挙に」
 「なる(/する)/大官(高級役人)に(/を)」
 「(そして、)発生させる/大財産を」
 ええっ、気がついたって。そうなんだ。日本語とは、中国語文の漢字と漢字の間に適当な繋ぎの言葉を入れたものだとも言えるのだ。難しい文では、こんなに簡単に中国語から日本語への変換はできないが、大昔、古代人の生活が小学生程度のものなら、こんな簡単に中国語が日本語に変換できた。我々は、2、3千年前、大陸から多くの人が島嶼にやって来たと歴史で習うが、当時の大陸語は、中国語をそのまま読んでも(上記翻訳)、和語調にして動詞を後に回して読んでも、島嶼人には、大陸語理解にそれほど大きな支障はなかった。
 
 分かった。日本語には、表現要素の後にその評価(助詞)を付け、これがないと分かりにくい。だが、その評価語(助詞)は、要素の性格を明らかにするだけで、無ければ無いでも何とか解釈できる。詰まり、補助的なのだ。だったら、補助的要素は、平仮名で軽く表現してもいい。実は、日本語とは、助詞を用いて中国語を意味の採れる形に翻訳した言葉だと見てもいいのだ。こういう事情から、後に平仮名が発明されることになる。即ち、日本語とは、漢字ばかりで切れ目の分かりにくい中国語を、補助要素だけは平仮名に置換え、意味取得を容易にした言葉だった、と言えるのだ。
 この点は、前例文では示せなかったが、場所その他前提を示すときは「」、以下、後置条件は「于」、出発点は「从」、終着点は「到」、原因は「因」、結果は「所以」、目的は「」、仮定は「要是」などとする。日本語で示せば、「(何処どこ)で」「(何々)において」「(出発点は)‥‥から」「(到着点は)‥‥まで」「(原因は)‥‥したので」「(結果は)‥‥だから」「(目的は)‥‥のために」「もし‥‥ならば」となる。
 なるほど、日本語は、目障りになる中国語表記の「在」「于」「从」などの言葉を除き、それを平仮名に置換えたものだ。だから、その分読みやすくなった。つまり、先に、表意言語は、高度な内容の記述に向いていると述べたが、日本語は、その中でも更に、本文要素と補助要素を分けているから更に分かりやすくなった。となれば、日本語は、記述文章としては世界最高の言語か。そうだ。私は、そう思う。
 最近、日本語文は漢字をやめて平仮名にしたり、日本語があっても英語崩しのカタカナに置換える傾向があるが、このような行為は日本語を潰すに等しい行為だ。更にいうなら、漢字仮名交じり文の良いところを世界に訴えれば、日本語こそ世界語の資格が十分にある言語なのだ。

 7、日本語を世界語に高めよう
 
ⅱ 高度の筆記には、表意文字が断然有利
 以上より、一般に、会話には表音言語が適し、筆記には表意言語が適していることが分かった。なら、全体としてどちらの言語が好ましい言語か。我々の言語生活では、聞いて直ぐ分かる表音言語がいいのが分かる。だが、高度な知識は書物から得ていて、表意言語から得るものが多い。なら、将来の言語は、少なくとも筆記に関する限り、表意言語を重視するのが筋だ。ここでは、その事を考えてみよう。
 数学でもいい、化学でもいい、物理でもいい、本を開けてみよう。数式や記号が沢山出てくる。「+」や「−」だけじゃない。皆んなは、その文字・記号を何と読むのか分かるか。分からない。なら、そんな記号なんかで書かないで、漢字なり平仮名なりで書いたらどうなのだ。だが、それが出来ない。記号で書けば数行で書けても、1頁では書けない事にもなるからだ。いや、それどころか、複雑な概念は、文字では表現できない。記号は、それほど多くの内容を表している。今日、自然科学はそこまで発達し、記号でしか表現できないのだ。社会科学系のものが、文字でもって大半の概念が表記できるのとは違う。
 ちょっと待て、社会科学系が簡単である訳ではないぞ。例えば、「社会主義」や「民主主義」、この言葉は世界中で同じではない。例えば、中国では、今中国で行われている政治が「社会主義」で「民主主義」だと思われているだろう。だが、日本では、中国の政治は、社会主義でも民主主義でもないと言うだろう。なら、何らかの記号が必要なのか。
 そうとは言えない。これらの知識内容の表記では、最初に「民主主義とは」と定義することもできるし、「中国的民主主義」と前置きして、通常の民主主義とは違うと説明できる。
 なら、自然科学と大きな差はないじゃないか。違う。自然科学の場合は、そういう場合も含めて、簡単な記号で概念を表さないと厳格な意味が表せない。例えば、「」としただけで、ある区間を微少に細分化し、次に、その微少部分を集積するという意味が表せる。「∫」以外に、何の説明も要らない。また、「dy/dx」は、ある微少区間の関数(グラフ)の極限増分(傾き)を表す。「d」とは、微少部分を表す。
 化学で言えば、HM2+31Pとするだけで、その物質のある性質が表せる。順に、水素原子1個(の化合物)、2価の正イオンを持つ(金属)原子、原子量31のリン原子となるのだ。
 物理では、ベクトル(有向量)という概念が出てくる。「A ( → )」で表す。更に、このベクトルの「内積」という概念が出てくる。「 A ( → ) B ( → )」のような記号で書く。前者は例えば力、後者は仕事量を「物理量」として表現する時に使う。見ただけでも吐き気がするって。だが、ここまで濃縮すると、見ただけでその概念が瞬時に理解できるのだ。
 自然科学ではここまで濃縮し、また、このような超濃縮記号がないとその概念表現が不能なのだ。ついでながら、この記号を何と呼称するかは、各国でバラバラ。いや、学者間でも、何と読んでいいか分からず、適当に読んでいる。いわば、漢字を何と読むかという事情とよく似ていて、多くの人が読む読みが次第に正式読みとなるわけだ。
 
 言葉の話に戻ろう。文明が進めば進むほど、短い言葉で複雑な概念を表示する必要が生じる。自然科学部門では、次々と新しい表記を創ってそれに対処してきた。社会科学部門では、最初は新語を創って対処したが、できなくなると、定義と説明語の付加によって対処した。更に対処できなくなると、日本では、英語の片仮名表記で対処しようとした。だが、この社会科学部門の言葉製造方法は、今や行詰まりを見せてきた。
 考えてみよう。通常の「帽子」を「帽子」、少しハイカラな帽子が出てきて、これを「キャップ」と言うようになった。英語の「キャップ」には、「蓋」という意味があり、そこで、「蓋」の形をしている物にまで「キャップ」と言うようになった。「帽子」「蓋」「栓」「最高部分(ボス)」を表し、更に「覆いをする」の意味で、栓以外の各種の覆いが「キャップ」となり、避妊具までが「キャップ」と呼ばれるようになった。「私、キャップ付けているの」と言っても、顔が赤くならなくなった。
 次は、「世話」。「世話」は、英語で「ケア」。そこで、「老人の世話」は言葉として少し長いので、「ケア」を老人の意味に限って使うようになった。なるほど便利だ。そうすると、英語の「ケア」が独り歩きする。商品販売後の「修理」の意味にも使うようになった。「アフターケア」の意味だ。そうすると、事後の「世話」を広く「ケア」というようになった。そうするとどうか、「ケアマネ」「ケアハウス」「ケアフリー」「ケアワーカー」などという複合語が出てきた。「ケア」は、元々無形概念。ここまで「ケア」の意味が広がれば、もう「ケア」の意味が広すぎて意味が掴めない。
 ここで読者は考えて欲しい。「帽子」にしても「世話」にしても、漢字で表現されているうちは、正確な意味は分からなくても、おぼろげでも分かる。だが、それがカタカナ語になってからでも同じように分かるのか。無理だ。どうもはっきりしないじゃないか。テレビでは「ガバナンス」「ユビキタス」などという言葉がよく出てくるが、私など、はて、この意味は何かと考えてみると、分からないことが多い。最近特に多く、なかなか、分からなくてもいいじゃないか、とはならない。従来の日本語じゃないのだ。私は、自然科学の分野では、意味を確実にするために、漢字で新しい造語をした方がいいし、社会科学用語、日常用語でも、新造語と使い分けをした方がいいと思うがどうか。日本国の運命にかかり、大事な事だ。後述する。
 
 

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