日本の再生と国際化を考える

英才教育、日本語の国際語化、数値の3桁読み、度量衡改革、漢字仕様電脳、やる事は多い。

日本語改革、漢字、表記

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日本語の崩壊を防ごう、送り仮名の法則を調べてみた
 
 
 最近の新聞を読んでみると、分からない言葉が多い。カタカナ語が分からないのだ。私は、そこそこ英語もできるから、普通の英語由来のカタカナ語は分かる。だけど、分からないのだ。そのカタカナ語は、英語の意味とは違うのだ。
 中国で日本語講師をしている時、同僚が、先生、日本に帰ったら、日本語が変わっていますよ、と言ったことを思い出した。当時は、まさか、と思っていたが、本当だった。10年で、新聞にカタカナ語がとてつもなく増えてきたのだ。
 最近、原発事故で、「ホットスポット」云々というのだ。「局部汚染地点」のことだ。私の知っていた「ホットスポット」は、岩盤移動論では「熔岩噴出地点」の意味で出てきた。だから、分からないわけではないが、いきなり「ホットスポット」では、地下から何か噴出してくるのかと思ってしまう。
 あるいは、「ストレステスト」云々と出てくる。私の知っている言葉では、医療用語で、通常検査では異常が見つりにくい時、「負荷機能テスト」をすることを言う。同じ言葉が、あっちでもこっちでも出てくると、こんな事にもこんな言葉を使うのか、と覚えなければならない。
 
 言葉を、こんなに好き勝手に別の場面に使ってもいいのか。専門用語が、他の場面に使われるようでは、英語の語原を知らなければ、次々とできるはずはない。振返って見ると、その言葉を使っている人は、本当に、自分の使っている言葉が、自分の分野で使われる使い方が正常かどうかにも知っているのか。疑問なしとしえない。
 また、常識に考えて、テレビを見るのに、辞書をそばに置いてみないと理解できないということ自体異常だ。多分、多くの人が何となく分かったような気になって聞き流しているに違いない。
 そればかりではない。原子炉の「メルトダウン」「メルトスルー」と言われてどんな事が起きているか分かるのか。最近は、「メルトアウト」と言い始めた。多くの人が感覚では分かるだろう。だが、こういう言葉を使う背景を見てみると、なにか空恐ろしいものを感じる。というのは、「メルトダウン」と言われても余り恐ろしいことが起きた気がしないのだ。「炉心溶融」と言ったらどうか。原子炉が解けてしまうことが明確に分かる。それなら急に身震いするぞ。そして、「炉心崩落」「炉心地下落下」の訳語を使ったらどうか。カタカナ語からくる心象の何倍も強烈な心象を受けるのじゃないか。
 カタカナ語には、意味を柔らかくする効果がある。こんな事がどんどん進めば、日本語がどんどん曖昧な言葉になってしまう。皆さんは、そんな心配はないか。私は、聞きたい。
 
 話は、これくらいにして本論に移ろう。
 
 
4、動詞の送り仮名
 ・ 活用語尾を送る          ‥‥原則
 ・ 派生動詞は、元の変化を基本とする ‥‥元の読み
 ・ 形容詞系の言葉も、同様にする   ‥‥元の読み
原則1 読 生きる 考える ‥‥活用語尾を送る
     原則1は、大原則。原則に従えば、「表」は「表す」。いくらか読みにくいので、「表す」を認めるかどうか。通則は、これを認めた。これは、「あす」の「典型動作」に該当する。
     次の動詞で同種の問題が起き、共に認められる。「れる→表れる」「す←現す」「れる→現れる」「す←著す」「れる→著れる」「う←行う」「す←脅す」「る←断る」「る←賜る」「る←群る」「げる→和げる」。
 
原則2:(←動く) 照(←照る) 及(←及ぶ)  (←積む)
                        ‥‥原動詞 → 使役型、他動詞への変成
    「動詞」は、「使役型」「他動詞型」へ変化した。これは、「通則」に従うと読みにくい。「動−す」は「うごかす」とは読めない。そこで、「動かす」と送ることになる。ただし、原動詞が実質消滅したものは、「慣用」に従うことになる。他に、次のものがある。
     える(←聞く) 浮(←浮く) 向(←向く) 語(←語る) 計(←計る)  悔(←悔いる) 定(←定める) 起 す/る(←起きる) 終(←終える)
     注:多使用優先(慣用)が認められ、「向う」「起る」「終る」も可。
 
原則3:づく 遠のく 重んじる 赤らめる 怪む 悲む 苦がる
                       ‥‥形容詞からの転化した動詞
原則4:確める 暖まる 静める 異なる
                  ‥‥な形容詞(形容動詞)からの転化した動詞
     「確める」は、「確める」とすることは、現在認められていない。だが、「確」は、「確かめる」以外に読みがないので、「典型動作」扱いしても不当ではない。将来の課題だ。
 
原則5:色づく 傷つける 指さす 黄ばむ 春めく 横たわる 先んじる
                            ‥‥名詞からの転化した動詞
     これらの動作は、名詞に「着く/付ける/指す/ばむ/めく/たわる/むする」の動詞化語尾が付いたもので、「典型動作」の仲間だ。このような送りにすることに異論はない。
 
原則6:移る 思 流 譲  ‥‥複合動詞
    「複合動詞」の送りは、「連続漢字」による「一語性」を認めるかどうかが問題となる。
 
     「複合動詞」は、意味の重要性は「前語」「後語」「平等」の3種に分かれる。原則6では、「平等型」を基本に送りることを定めた。「移り−変わる」「思い−出す」のような調子だ。しかし、前後どちらかが軽く一語になったものは、「一語性」を認めた方がよい。そこで、「一語」になったものは、許容として、中間の送り仮名を省略してもよいとした。勿論、この方が読みやすい。
     切る(→打切る) 差上げる(→差上げる) 取扱う(→取扱う) 
     引受ける(→引受ける) 受取る(→受取る) 繰返す(→繰返す)
     乗換える(→乗換える) 割当てる(→割当てる)
 
 
ⅳ 形容詞の送り仮名 ‥‥「動詞」に準じて考える
 ・ い形は、「い」「しい」は、活用語尾を送る        ‥‥形容詞の原則
 ・ な形は、「た」「ら」「か」「やか」「らか」とする ‥‥な形(=形動)の原則
 ・ 派生形容詞は、元の形を基準とする
 ・ 複合型の形容詞は、「複合動詞」型に準ずる
原則7:  白  高  若         ‥‥「い」型形容詞
    い 美い 苦い 珍い         ‥‥「しい」型形容詞
     読みやすさを考えて、次の例外を認めた。はっきりしないが、一種の「典型状態」だ。
     い 危い 大い 少い 小い 冷い 平
 
原則8:たい 憎らしい 古めかしい       ‥‥これは、主に「aしい」型
    「たい/らしい」は、「典型状態」だ。「めかしい」は、少ないがこれも「典型」だ。
 
原則9:しい 輝しい 喜しい 恐しい 頼しい
                                              ‥‥動詞から変化形容詞
    「あしい(/おしい)」は、「ある らしい」 の意味で、「典型状態」だ。
原則10い 暖い 柔らかい 愚しい 
                         ‥‥な形からの変化、主に「かい」
    「細」と「短」を比較してみよう。共に「〜かい」なのに、「細」は「細かい」だが、「短」 は「短い」 となる。これは、「細かい/細い」の区別のためだ。これは、共によく使うので共に譲れない。「柔」は「やらか」、「愚」は「おろか」としか読まないから「柔かい」「愚しい」でも特に混乱はない。今後、検討されるかも知れない。
 
原則11しい 待しい             ‥‥「動詞」との「複合」
   だ 晴やかだ(→晴やかだ)冷やかだ(冷やかだ)‥‥な形容詞型
       上段では、「聞苦しい」 「待遠しい」 はよくある言葉だが、一語と判断できるかが難しい。今後の問題となろう。下段では、「切切れだ」の表現はやや違和感があるが、「切々だ」ならない。「せつせつ」という読みがあるから「切々れだ」なら間違いない。「晴やかだ」「冷やかだ」 には、特に違和感はない。「許容」として認められる。
原則12積極的 穏便 らかだ 高らかだ 同だ    ‥‥「aかだ」型
    だ 平だ 静だ 確だ 穏やかだ健やかだ 明らかだ 朗らか
                                ‥‥「た」「ら」「か」「やか」「らか」型
       原則12に掲げられているものは、文法では「形容動詞」に分類されるもの。「抽象名詞だ」とする方が合理的で、そう見ると、「た/ら‥‥」は、抽象名詞化の語尾に過ぎない。
 
  今日はことまでにしておく。
 
 
 
日本語の崩壊を防ごう、送り仮名の法則を調べてみた
 
 このところ、テレビを見ていると、1時間ほど見ていると、20語も30新カタカナ語に出くわす(単独カタカナ語、複合カタカナ語)。分からないわけではないが、中には全く分からないものがある。だから、私は、テレビを見るにはいつも電子辞書を用意している。もし、1日テレビを見ていたら、50語は新しいカタカナ語が出てくるだろう。
 いや、もう、恐ろしい。こんな調子で、カタカナ語が増えてきたらどういう事になるのか。なら、ちょっと計算してみよう。
 1日に50語新語が出てくるのなら、1年では、50×36518千語、10なら180千語18万語)だ。新語ができるということは、今の日本語がそれだけ死んでいくこと。10年後、これだけの単語がカタカナ語に置換わったら、その時、日本語は生き残っているだろうか。深層をなす文法までは死なないと思うが、単語は、大半が入れ替わっているかも知れない。
 
 話は、これくらいにして本論に移ろう。
 我々は、日本語を、捨ててはならない。もし捨てれば、近い例では、フィリピンのようになる。いいじゃないか、とは言えない。自民族語がなくなってしまうのだ。いや、安心。フィリピンで全て英語で生活している人は、10%程度だ。なに、あれで10%なら、フィリピン国内の状況はどうなっているのか。他国の事ながら心配してやりたくなる。ちなみに、アフリカ諸国は、何百年も外国に支配されたので、自民族語がなくなってしまった。
 今、私は、中国学生用の日本語の本を書いている。最近書いたところをここに紹介してみよう。漢字の送り仮名の送り方だ。
 
 
1 送り仮名の通則
 日本語とは、主部の「漢字」に、語尾の「平仮名」を付けたような言葉で、平仮名部分の表記をどうするかは、「意味把握」と「読みやすさ」に大きな影響を与える。歴史的には、必要最小限度の「送り仮名」を送ってきたが、特にそれに関する規則はなかった。大戦後は、国民のための国語ということで、「漢字は、易しく」「送りもできるだけ多く」という平易化原則を掲げて改革を行った。
 当時の政策は、日本語から「漢字」を亡くすという占領政策に基づき、暫定的な措置として行われたものだった。その後、日本の占領政策が中止されると、暫定政策の不都合が噴出し、国語政策は変更された。その後、国家は、「漢字」と「送り」に関する政策を小出しにし、「送り仮名」については、1981年の決定が最終版となっている。
 この最終版に従っても、「送り仮名」は、統一が取れていない。ただ、最終版では、この矛盾をいくらかでも緩和するため、公文書等は「最終答申版」に従うが、それ以外は「合理的」な方法に従ってよいとした。将来の「改訂」準備だと思われる。
 
 
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2 最終版(81年版)の「送り仮名」準則の拘束性
 3つの規制原則を決めたが、大きな原則は、「公用文書」に「常用漢字 2500字」を用いる場合に適用するとしたことだ。詳細は、
 ⅰ 拘束:「公用文書(法令・公用文書・新聞・雑誌・放送など)」に「常用漢字」を使う場合に適用。
 ⅱ 非拘束学術文書(科学・技術・芸術その他専門分野)、個人文書には適用しない。
 ⅲ 特殊使用の不適用漢字の記号的使用、表記入、固有名詞には適用しない。
 この決定で大事なところは、我々一般国民や外国人は、合理的だと思われる送り仮名を採用していい事だ。現行の送り仮名準則は、「形式」に重きを置き、「意味」に対する配慮が少なく、転成語の送りが極めて複雑なことだ。だから、準則に従うには、極論すれば「暗記」するしかない。だが、それは無意味。
 私は、後に示すが、決定の「許容」が許す範囲で「送り」を統一した方がいいと考える。決定には、「送り法則」について、「本則」「例外」「許容=慣用」という3つの枠を設けたので、この「慣用」の解釈により「合理性」を追求してみる。
 
 
3 準則の大枠事項と私案 ‥‥「慣用」を広く使おう
 準則は、読みが「変化するか/しないか」という原則を設け、それぞれに例外を設けた。例外の適用範囲が「通則」と同じくらい広く、更に、例外の中にまた「例外の通則」を置かねばならない状況にある。それが、「許容」となっている。
 ・変化するもの(活用 → 動詞、形容詞、形容動詞)は、変化するところから送る。
    但し、転成語は元の送りに従う。(→これが、大問題だ)
 変化しないもの(非活用 → 名詞、その他)は、送り仮名を送らない。
    但し、読みにくいもの(副詞、接続詞、抽象名詞)は、最後の読みを送る。
     (→転成語の場合、長期間へたものは、転成語かどうか判断に困る)
 
   「送り」の考え方(私案):私は、「例外」と「許容」にまたがる範囲に、3つの原則「典型動作」「連続漢字の一語性」「多使用の優先」を追加したい。
 
 
  「典型動作」:動詞の態様は、語尾形式によって決まる。例えば、「〜れる」とくれば「受け身」、「〜せる」と来れば「使役」という具合。他にも「動かす」→「かす動作」、「深める」→「める動作」、「隔てる」→「てる動作」など。このような語尾は、一定の役割を持っているので「典型動作」と言える。
  私は、この「典型性」を重視すべきだと考える。「通則」に従っても、大体「典型性」を崩さないようになっているが、完全ではない。「許容」でやっと統一が取れ、それでも外れるものがある。だから、特殊な事情がなければ、「かす/める/てる」などの「動作」の特性を優先すべきだと考える。
  基本動詞は、「□う」の形をしており、これでは不十分だと「継続性/獲得性」表示の動作として、「いる/える」型の「上/下 一段活用」の動詞ができた。この「一段活用」自身が「典型動作」なのだから、「いる/える」を優先して送るべきだ。
  更に厄介なのは、「表(わ)す」のような動作だ。「あす」は、「使役系」の動作だが、長年月がたち「使役性」がなくなった。「洗わす」とは明らかに違う。となると、「表す」とすべきか「表わす」とすべきかが問題だ。国家は、「表す」を原則として、「表わす」も許容した。これでいいが、このような例は広く認めるべきだ。
  「連続漢字の一語性」:漢字は、読まなくても見ただけで意味が採れる。これが、「表意言語」の最大の特徴だ。「禁煙」を見てみよ。自明だ。これを「禁じる煙を」では、却って読みにくい。送りを多くして読みにくくなるのは、「複合動詞」の場合だ。「通則」に従えば、「受−取」る動作は、「受け取る」と送る。だが、「受−取 る」は1つの動作だ。通則は、慣用として、「受取る」方式の送りを認めているが、「連続漢字の一語性」広く認めて当然の送りとしよう。
  だが、「思−返 す」のように一般化していない動作に「一語性」を認めると、一瞬「しへん す」と読みたくなり混乱する。ここまで、「一語性」を広げる必要はない。
  だから、結論として、私は、「読み返す」のように前半の読みが2文字の「□i」の形の「複合動詞」には「一語性」を認め、例えば「読返す」の表記を認め、3文字以上には、「慣用」を重視し他方がいい。大半は、「一語性」を否定した方が読みやすくなる。
  「多使用の優先」:漢字「当」からは、「自動詞/他動詞」の必要性から「る/当」ができた。とは言え、使用率は「当たる」が多く、「当てる」は少ない。問題は、少ない「当てる」があるために、「当−る」の送りは、常に「当たる」とすべきかだ。他にも「終わる/終える」、「隔たる/隔てる」などがある。
   慣例では、「当る/当てる」と書いてきた。それで、誤読の恐れがないからだ。送りを入れれば誤読は少なくなるが、瞬時の判断が難しくなる。だから、この慣用性は大事だ。そうすると、「当−る」の送りは、「当る/当たる」「当てる」とするのがよいが、国家はこれを認めている。更に、この慣用性は広く認めるべきだ。とは言え、両使用が多いものまで、「□−る」型を使ってはならない。例えば、「受かる/受ける」「掛かる/掛ける」「伝える/伝わる」など。
  全般的に言うと、歴史的送りを広く認めて、出来るだけ送りを少なくし、漢字の表意言語性を重視することが大事だ。
 
今日は、ここまでにする。
 

日本語の創世記と終末期



 暫くぶりに日本に帰りました。日本語が日一日と破壊されていくのには寂しい感じです。
 テレビでも雑誌広告でも、平仮名と片仮名、それに目立ちそうな所に僅かばかりの漢字。これが日本語でしょうか。勿論、英語でもありません。英語の音読から作られた奇妙な片仮名語です。分かる人は分かるのでしょうが、一般的ではありません。もう10年もしたら、日本語が残っているかどうか分かりませんよ。尤も、文法までなくなってしまう訳ではないでしょう。
 そこで考えてみました。日本語はどういう過程をとってでき、どういう過程をとって終末期を迎えるかと。



 日本語は、1万年以上前、インドネシア辺りに棲んでいたオーストロネシア語族(南東語族)が黒潮に乗って流れ着き、彼らが話していた言葉が基になって出来た。大和言葉と言われる。彼らの生活は、魚を獲る程度の単純で素朴な生活で、言葉も極めて単純、どんな風に喋っても意味は通じた。言語構造は未熟だが、そこは常識で分かる程度のものだった。例えば、「魚」と言えば、「魚を釣る」「魚を獲る」「魚を食べる」など、現場に合わせて判断された。文法も有るような無いような言葉だった。ただ言えることは、表現要素の後にその評価語を付けるという「格付与」の原則はあったようだ。
 その後、2、3千年前から、闘争に負けた民族が長江沿いに流れ下り、杭州・寧波辺りから海に飛込んだ。彼らは、小舟に乗って日本列島へなだれ込んできた。50万人とも言われている。これが弥生人だ。彼らは、大和言葉の中で、名詞、動詞をどんどん中国語に置換えていった。日本は、植民地状態だが、幸いした。漢字は表意文字で、それまでの曖昧な大和言葉が漢字に置換わると、意味が正確になっていったのだ。それまでの評価語としての「助詞」は、平仮名が発明されて、有意部分は「漢字」、評価と繋ぎ部分は「平仮名」という具合の言葉になった。これが古日本語、つまり創世記の日本語だ。
 今考えてみると、実に好くできていた。意味は漢字、繋ぎは平仮名と、実に言語として完成度が高くなった。それから1千年の農業社会、この日本語は表記用として絶大な効果を発揮した。

 そして、今から200年前、西洋から新しい文明が入ってくると、新しい権利関係、新しい生活様式の描写には、やはり不都合な所があった。西洋流に合わせて、「受け身」「使役」「自動詞」「他動詞」の概念が創られた。この時代になって、現代日本語が完成されたと言ってもいい。明治の文豪の文は、本当に名文だろう。そして、1945年、日本の敗戦。その後、米国の影響が大きくなった。それ以降は、米国を見習う必要はなかったが、英語を真似た日本語が氾濫し、日本語の崩壊が始まった。

 戦後の日本語を眺めてみると実に面白い。その前提として、英語とはどんな言葉か。表音言語。表音言語は、音を表すだけで、意味は表さない。意味は、音を読んだ後分かるのだ。見ただけで分かる漢字とは全く異なる。英語の日常用語は、大和言葉に似ていないか。音を基本に聞いて分かる言葉なのだ。
 ええっ、そうなると、英語を取入れることは、日本語表現を曖昧にすることに繋がっていないか。せっかく、漢字を使い言葉の概念が正確に定まるようになったのに、再び、曖昧言語に戻りつつあるのだ。大和言葉への逆戻りだ。これが日本語の破壊でなくて何なのだ。



 もう一つ問題がある事が分かった。それは、「文盲」の問題だ。曖昧語で書けば、正確な内容の文は掛けない。また、一文字違ったら全然別の意味になることもある。漢字では起こりえない危険も待っている。



 例えば、「かめ」という言葉があったとしよう。これは何を表すのか。漢字で書けば、「亀」「甕」が思い浮かぶ。さらに、言い間違えて、「かあ」「かい」「かう」「かえ」「かお」「かか」‥‥と言ったとしよう。これでは、永遠に意味が取れなくなってしまう。最近の日本語は、片仮名語が増えて、このような危険が増えている。
 そこで、「文盲」とは何か考えてみる。「亀」「甕」という字が読めないのではない。語彙が少なくて、通常の文意が把握できない状態じゃないか。つまり、2千年前の弥生人のような人間を言うのではないかと思えてきたのだ。英語ならその文字が読めないということはあり得ないのだから、本来文盲ということは起こりえない。なのに、起きているということが、そのなりよりの証拠だ。


 日本人が、英語に似せて「英語もどき日本語」を作れば作るほど、日本語は崩壊する。そのうち、「入口」って知っているかという時代が来る。レストランにしても駐車場にしても、余り「入口」とは書いてない「IN」または「イン」だ。まさか。だが、そのまさかがもう10年もしたら来るのじゃないか。私は心配する。皆んなで日本語を守ろう。

鼻濁音は、あった方がいいのか


 鼻濁音とは、「ガ行音」を発音するのに「ンガ」のように、「ガ」の前に軽く「ン」を添えてする発音のことをいう。
 鼻濁音で発音すると、何となく柔らかく聞こえ、ある人は、「ガ」と濁るよりも鼻濁音の方がいいと言う。そして、そもそも、「ガ行」というのは、もともと「ガギグゲゴ」の行と鼻濁音の「ガギグゲゴ」があったが、鼻濁音の方が軽く取扱われるようになったに過ぎないと言う。そして、この奇麗な「鼻濁音」を残したいが、残念だのように言う。

 「ガ行」は、本当に2系列か。少なくとも私の知っている「ガ行」は、更にもう1系列ある。「グァ、グィ、グゥ、グェ、グォ」とう中国語類似の「ガ行」がある。古い辞書には、この「音」が記されているし、現に九州地方では、この音で「ガギグゲゴ」を発音している。だから、ガ行は、そもそも2系列だというのは、見識が狭すぎる。

 もっとよく考えてみると、動物が発する「音」を「自然音」とすると、人間の出す音は「作為音」で、「言語」用に発音が変化し明確化したものだ。そう考えると、「ガ行」音なんて、いくらでもある。ちなみに、この「グァ」の鼻濁音化した「ングァ」というのも、「ガ行」の1系列だ。そんな発音が実際にあるのか。ある。本来、「鼻濁化」しない音を鼻濁化して発音する人がいる。その人は、鼻が詰まっているのかと思うことがあるが、いや、「鼻濁音」に発音しているのだ。この人の発音は、非常に聞きにくい。

 そう、人間音の歴史を考えてみると、自然音である「二重母音」「三重母音」の発音から「短母音」の発音に収束されてきたと言える。日本語発音を見てみると、以前は「ゐ」や「ゑ」などという二重母音系の発音を表す文字まであったが、現在は、発音の不明確性のゆえ、「い」「え」に統合された。残っているのは、「わ」「を」だけだ。文字のない物で言うと、「ィヤ」「ィユ」「ィヨ」「ゥエ」が「ヤ」「ユ」「ヨ」「ヱ=エ」になった。つまり、これらの文字は、区別しない方が現代日本語の表記には適しているということだ。

 こういうことから考えると、「鼻濁音」がなくなってきたというのは、発音の単純明快性から当然の帰結なのだ。表現に情緒性がなくなると言って嘆くのは、郷愁に過ぎない。とは言え、会話では、情緒性が大事で、軽く鼻濁音を出すことは許される。だが、特に必要な音だとも思えない。ちなみに、NHKでは、アナウンサーに、ガ行鼻濁音の訓練をし、それで発音させているというが無駄な試みだ。
 それでも、「鼻濁音」が大事だという者がいるが、なら、強く「ガ」を発音したい時は、どのように発音すればいいのか。柔らかければいいという訳ではない。
 最も強い音は、「カ音」だ。息が強く出、この息を吹きかけられた相手は、必ず何か強く反応する。そう、だから、「〜カ」という発音は、「疑問」「反語」という内容を表すのだ。そして、「ガ行」は、これに次ぐ音だ。だから、「ガ行」を鼻濁音にしてしまえば、強い内容が表現できなくなる。ちなみに、「が」の意味は、「選択し明示する」助詞だ。一般に主語を表すと言われるが、よくよく精査すると、それだけじゃない。「明示」という強い内容を表すのだ。例えば、

  「ここが、学校です」

という場合は、目の前に沢山の建物があり、その中から、ある一つの建物を選択し明視して、「ここが」と言うのだ。これを「ここンが」と鼻濁音にしたら、「ここ」の意味が弱くなる。これでは行けない。
 鼻濁音でいい場合もある。例えば、

 「今日は、雨が降っていますが、足下にご注意下さい」

というような「が」は、相手に強く印象づける必要がないから鼻濁音でもよい。それに対して、よく似ているが、

 「今日は、雨が降っているが、運動会を決行する」

と言う場合の「逆接」の「が」は、「鼻濁音」では良くないのだ。

 以上より、「鼻濁音」は、有意のが「ガ」の時は「鼻濁音」にせねばならず、単に文の接続の「ガ」の時は「鼻濁音」にしてもいいのだ。
 もう少し考えてみよう。



1、中国発音には、「二重母音」が非常に多い、何故か


 中国語発音は、非常に難しい。「ガ行」でいえば、いや、本当は、日本人は聞きようによれば「ガ行」に聞こえる「ガ音」は、「ガ」「ガン」「ガンg」「グァン」「グァンg」に分けられ、更に、これに4声の区別が加わる。日本語から見ると、同じじゃないかとも思われる音がこのようにも複雑に分化した。これでは、「音」が単音に収斂してしまった日本人にとって、発音の区別は極めて困難なった。
 これを音声学から思考してみると、単純な「二重母音」「三重母音」では、「自然音」に近く、言語音としては不適当だ。だから、それが時代の流れと共に、4声付加により「言語音」に変化進化したと考えられるわけだ。

 このような歴史過程をとっているのは、「漢字」の発明が大きく影響している。

   「1漢字ー1音ー1意味」


の構造をとることにより、言語としての「人為音」を創りだしていった。ちなみに、日本語は、音数を1音から2音、2音から3音という具合に音数を増やして言語音を創った。中国語を取入れてからは、二重母音系の音は、2音にあてがうという具合にした。研究によると、奈良時代の単語には、中国音を取入れた物が多いという。そう考えると、日本語が古古日本語から、古日本語へ進化していく過程は意外に新しいようだ。


2、動物の発する自然音


 我々は、犬の鳴き声は、「ワン、ワン」だと思っていると、実は違う。「ゥワゥ、ゥワゥ」だ。単に喉を開いて音を出すだけだから、こういう音になる。こういう考えの元に、鳥の声を聞いてみると、やはり「ピイピイ」じゃない。表記できない。曖昧な、二重母音だ。
 そこで、気がつくことがある。多くの下等動物は鳴かない。鳴くようになると、「二重母音」「三重母音」だ。つまり、喉を開くだけだ。そして、だんだん進化すると、短母音に近い音が出せるようになる。そして、人間にまで到ると、何でも来いという音になるのだ。こうして、言葉が発生した。


3、世界の言語、子音化した所もある


 英語は、子音の連続。それに対して、ドイツ語は、遙かに子音連続が少ない。そして、スペイン語、イタリア語は、子音と母音が一組になって変化する。なるほど、面白いことが分かる。

 スペイン語は、日本語と同じ運命をたどり、英語は、中国語と類字の運命をたどった。ヨーロッパ系言語に子音の連続が多いのは、表音文字と関係があるのじゃないか。この辺りは、何も証拠はない。私には、そんな気がする。これから、考えてみたい。


4、将来の日本語

 私は、日本語は、表意言語であり、表音言語でもあり、非常に特異な言語であり、表現には適した言語だと思う。十分、世界言語の資格があると思う。
 大雑把に意味を掴む時は、漢字だけを読み、細かく意味を掴むには、平仮名も読めばいい。
 中国語は、簡明で分かりやすいが、漢字ばかりでどこに切れ目があるか分かりにくい。また、漢字では、細かい表現ができず、どうしても曖昧になりやすい。英語は、聞くのには適しているが、読むのには不適当だ。どうしても読んでからしか、意味が取れない。一見して意味が取れない大きな欠点がある。そういう事を考えると、日本語は、両方の欠点を補い合っており、世界最高の言語だ。

 だが、現実の日本語はどうか。よく論客が言う。日本語は曖昧で、中には、言語として不適当だという者もいる。それは、違う。曖昧にも表現でき、曖昧に表現できると言った方が正しい。私は、情緒かを促進する「も」の使用を止め、更に、文末の冗長さをなくせば、日本語は、決して曖昧な言葉ではないと思う。

 それから、もう一つ大事なこと。日本語にもっと漢字を取入れ、有意の所は「漢字」、繋ぎは「平仮名」という原則を徹底する必要がある。
 そうすれば、なお一層、「表意文字」と「表音文字」の利点が引きせる。例えば、「取り決め」などと書かないで「取決め」とすれば、「取決」を見て「意味」が掴め、「取決め」と読んで「音」で意味の確認ができる。

 私は、今こそ、我々の子孫のために、将来の日本語を創る行動を始めるべきだ
 と考える。

「ら抜き言葉」か、いや、「ら入れ言葉」じゃないのか



 一般には「ら抜き言葉」と言われるが、この言葉は、本当に「ら」が抜けたのか。
日本語の「可能動詞」と中国語の「得」の関係を見ていると、私には、先に「可能動詞 える」ができて、次にいわゆる受け身などの「られる」ができたよう感じがする。どうだろうか。

 私は、中国で日本語講師をしている。先日、同僚と「ら抜き言葉」について論じた。私は、常々「ら抜き言葉」は当然許されるし、特に「可能」の場合は、「られる」より優先して使うべきだと考えている。一般にも、「可能」だけは、「ら抜き」がいいという意見が多いようだ。「ら抜き言葉」が好くないと思われている理由は、「ら」音の音韻が柔らかいいい感じがするのに、それを抜いてしまうのは怪しからんということのようだ。

 しかし、「見られる」とか「走られる」と聞いて、直感的に「見ることができる」「走ることができる」の意味が感じられるか。当然、「見れる」「走れる」の方が可能の意味としては適当だと思えるのじゃないか。だから、「可能」だけは、「ら抜き言葉」がいいという者が多いのじゃないか。

 そこで、私は、中国語との関係を考えてみた。そうすると面白い。可能形とは、
   「見る 得る」→「見るeる」→「見れる」
   「走る 得る」→「走るeる」→「走れる」
なのだ。耳に「得る」の感触が残るから、「可能」の感触が出てくるのだ。5段動詞に「える」を付けたら「可能動詞」になるなんて考える必要がないのだ。

 そして、「られる」は、
   「見る 在る 得る」→「見るaるeる」→「見られる」
   「走る 在る 得る」→「走るaるeる」→「走られる」
と変化しているのだ。解釈すると、
   「見る動作について、客観的に在る状態を、得る」
から、「客観」の意味を、「相手の高貴さ」とすれば「尊敬」となり、「自然に」ならば「自発」で、「相手の行為」ならば「受け身」、「能力」ならば「可能」となるのだ。こう考えれば、その動詞の変化形を考える必要がない。

 私は、5年も前、考えに考えてこんな結論を得た。
 だから、「ら抜き言葉」ではなく、語源が異なるのだから、「ら抜き」でも何でもない。「ら」の音韻がいいので、何でもかんでも「ら」を付けたことが「ら抜き」と言うようになったのじゃないだろうか。
 更に、考えてみよう。



1、動詞の分化、5段動詞→上一段、下一段動詞


 動詞の原形は、2文字。例えば「飛ぶ」「蹴る」「明く」「受く」「過ぐ」など。これらの言葉は、「自動詞」のようだが、実は、「自動詞」も「他動詞」もない「中性」の動作だ。漢字一文字で表す中国語を見るとその事がよく分かる。日本は、「自・他」の区別、あるいは他の意味の動詞が必要になった。そして、
 「飛ぶ」→「飛ばす」「飛べる」
 「蹴る」→「蹴飛ばす」「蹴散らす」
 「明く」→「明かる」「明ける」
 「受く」→「受かる」「受ける」
 「過ぐ」→「過ぎる」
などの言葉が出てきた。

 これらの動詞の活用形は、「上一段」か「下一段」に広がったわけだ。
 意味から言うと、「aす」は「使役系」、「aる」は「自動詞系」「eる」は「他動詞系、可能系」、「iる」は「継続系」などに変化したわけだ。


2、中国語の「可能形」は、日本語とほとんど同じだ


 「可能形」を作るには、「得る」を付ければよい。
 中国語は、動詞の後に「得」を付ければ、「可能」の意味、「動作の進行(←「そこまで可能となった」との解釈)」の意味になる。
  「吓得」:「驚いて、得て」→「驚いて‥‥」
  「听得懂」:「聞いて、得て、分かる」→「聞いて分かった」
こんな感じだ。「得」は、幅広く使われる。


3、複雑な動詞の「可能形」はどうするか


 さて日本語では、
  「飛ばす」:「飛ばすeる」→「飛ばせる」
       :「飛ばすaるeる」→「飛ばされる」
  「飛べる」:「飛べるeる」→「飛べれる」 ←?
       :「飛べるaるeる」→「飛べられる」←?
    ああ、なるほど、「飛べる」に既に「可能」の意味があったのだ。
    だが、「飛べる」は、「他動詞型」の動詞、更に「得る」を付けてもいいだろう。
    方言には、「飛べれる」という所もある。私も、中学生の頃まで使っていた。
    「飛べられる」、これは分かるのかな。「可能の受け身」。
  「明かる」:「明かるeる」→「明かれる」 ←?
以下、余り難しく考えないでも、色々できる。だが、全部できる訳ではない。


4、「aるeる」には、本来「可能」の意味はない


 「客観的に」とは、「ある意思にも拘わらず」、つまり、「自分の意思に反して」、つまり、「主導権を奪われて」だ。解釈から分かるように、「aるeる」→「aれる」とは、第一義は「受け身」だ。だから、「aれる」から直接「可能」の意味を引出すのは無理なんだ。


 こういう理由から、私は、「aれる」を「可能」の意味に使ってもいいが、それは、制限的であるべきだと考える。

 「見る」の変化が多いと思ったら、意味の変化、語形変化による物だった理由だった。中国学生はきちっとできるかな。
 見る 見える 見られる 見せる 見せられる 
    見えれる 見れる 見せれる

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