日本の再生と国際化を考える

英才教育、日本語の国際語化、数値の3桁読み、度量衡改革、漢字仕様電脳、やる事は多い。

中国事情、一般

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中国内陸の状況

中国内陸の状況

 日本に帰ってきてテレビを見てくると、深セン、東カン辺りの輸出企業は軒並み倒産だとのこと。内陸では、そこまで進んではいないようです。
 長江中央平原(湖北、湖南省辺り。ちょっと、都市名は言いにくい、言論統制あり)の都市では、駅前、繁華街では、開発がどんどん進んでいます。あちこちで、100m四方とかいうばかでかい土地の建物が更地にされ、以前と余り変わらない開発が進んでいます。日本企業が進出している様子はありません。

 2年ほど前と比べると、乞食の増加はは10倍どころではありません。私が思うには、再開発で汚いアパートから追い出された人でしょう。ゴミ箱漁りがまた凄いです。繁華街では、鉱泉水の空き瓶、ジュースの空き瓶の回収、中には、食べ残しを食べている人もいます。

 テレビで見る姿は、どうも、話題になりそうな所ばかりで、全体を表している感じがしません。

 今、日本に一時帰国中、忙しいので今日はここまで。

中国の性教育

中国の性教育

 12月30日、朝日新聞によると、中国では、小学校の高学年から性教育が始まったと載っていた。
 こんな小さいうちから何の積もりだろう、日本人は、みんなそんな気持ちだろう。

 だが、中国は「一人っ子政策」。これを徹底するためには、どうしても「闇の子供」を許すわけにはいかない。只でさえも、都市では「浮浪者」がうなぎ上り。食えない者が都市へ都市へと押しかける。

 中国では、たぶんこれを止めたいのだと思う。
 都市ではどうか。住宅地の近くには、大きな看板で「避妊具」と書いてある。こんな店が無数にある。子供がそれは何か興味を持つのは当たり前。時には、その隣には「売春宿」がある。はっきり言って、中国人は、これほどもセックスが好きかと思うほどだ。だが違う。多くの夫婦が別居している。そうしなければ、生活が成立たないのだ。日本の以前の東北地方の人の「出稼ぎ」と同じ状況にある。
 夫婦は、半年に1回、1年に1回しか会えない。小商店の一人での店番の女など、そういう別居がとても多い。男も同じだ。なら、子供はどうするのだ。じいさんばあさんが面倒を見ている。かなり酷い状態が続いている。
 
 だったら、どうしても「性教育」が必要になる。

 面白い話をしよう。私の寮の前。大きな掲示板があり、そこに「避妊方法」の教育があった。大学生向きの教育だ。奇麗な色刷りの紙に丁寧な指導がある。大学生にとっては、就職前に子供ができては都合が悪いのだ。驚きは、薬物で、数年妊娠しないといいう方法もあった。

 中国の政策、日本人が理解できないものが多い。だが、中国の現状を知ると、なるほどと思うものばかりだ。

中国の忘年会(宴会)

中国の忘年会

 中国では、忘年会はするのだろうか。皆さん、興味があるでしょう。
 驚きです。中国の忘年会は、費用は、会社持ち、学校持ち、政府持ち。個人の金で飲んでいる人は、勿論います。が、ささやかなものです。いや、はや、中国は、公私混同はとても凄い。国家・公金を使う時は、豪華なもの。いや、辺鄙なところにホテルがあるな、と思っていると、会議用などに使われています。常識などありません。そんなところには、たぶん特殊サービスもついています。ある時、中国人が教えてくれました。ホテルのロビーに、奇麗に服を着て立っている女がいれば、間違いなく売春婦だと。

 以前、日本では、公務員の宴会が、色々な費用を水増ししておいてその時に使われてきましたが、これと全く同じだと言うより、はっきりは分かりませんが、組織の大きさによって使ってもいい額が決まっているようです。私が、学校で接待される時はいつも豪華です。日本語科で招待される時は、食事だけは十分あるという程度です。

 驚きは、まだ、まだ。会社では、個人で消費したものでも、領収書を貯めておいてある時の費用に合算されています。私は、こういうやり方で、何回でもご馳走になっています。昔、赤坂の料亭が政府の会議で賑わっていましたが、あれと同じでしょう。そう、宛名白地の領収書は、無限にあります。

 中国では、幹部連中は、殆ど知合いばかりです。もう、ちょっとした会議をすれば、すぐ、その後は、一杯飲み会です。私も何回も行きました。ある時、結婚式に行きましたが、ホテルを借切って2、300人のかなり豪華なものでしたが、一銭の負担もありませんでした。どう考えても、組織が出したとか思えません。こういうところから、腐った幹部の連環ができていくのでしょう。

 参考にして下さい。

イメージ 1

(図面は、電網からお借りしました)




2、尖閣諸島は、誰の物かー「井上清論文」を論評する

★ 京都大学名誉教授・井上清(故人)の主張
 1971年、中国は、「尖閣諸島」の領有を宣言してきた。それに対して、井上清は、「尖閣諸島」はもともと中国の物で、日本領有は間違いだとの論文を発表した。その後、第一次論文を多少修正はしたものの、一貫して「中国領正当説」を続けた。

 論拠の第一は、中国・明の册封師が沖縄に来る時、この「尖閣」を灯台代わりに利用していた物で、その事が中国の文献に多数見られること。
 第二は、日本は、日清戦争当時の「先占」を主張しているが、これは、「帝国主義」理論に手を貸すもので、「先占」理論は成立たないこと。
 第三は、日清戦争で奪った物は、元の国に返すのが当然であること。

 まとめると、「册封師」の記述から中国の「実効支配」が認められるか。さらに、「先占」論は妥当かだ。
 事実関係は、次に述べるとして、
ここでは、「文献調査」により「その地が誰の物だったかが断定できるか」、
帝国主義論に手を貸す「日本の先占論は不当か」について論ずる。



★ 文献で「領有」云々を論ずるのは、大国に味方するだけだ
 井上は、文献を調べてみると7人の著書があり、それには、すべて「中国領」が明記されていたと言う。明朝の陳侃、郭汝霖、胡宗憲および清朝の汪楫、徐葆光、周煌、斉鯤のことだ。そして、日本の林子平の『三国通覧図説』にも、「中国領」が明示されていたと言う。
 そう、だから、元は「中国領」だというのだが、これには2つの大きな問題がある。
まず、第1は、7著書の目的は、「領土」に関して著した著書ではない。たまたま、その文献の中に「尖閣(魚釣島)」の記述があるに過ぎない。中には、「航行指南」のため、あるいは、「和冦対策」などで書いた物がある。これが、「領土」を宣言になるか。

 井上、頭を冷やせ。当時は、農業社会。農業社会で最も大事な物は、「土地」つまり「領土」だ。「領海」じゃない。海なんか、何の価値もない。邪魔なだけだ。いや、海だって魚が捕れるじゃないか。そう、獲れる。だが、魚がたまたま捕まっただけだ。魚は、海を泳ぎ回るもの。だから、今から50年も前でも、領海は3海里(説)、つまり沖合10キロくらいがその国の物として認められていいが、それより遠くは誰の物でもない「公海」だったのじゃないか。海の価値は、非常に小さかった。
 册封師にとって、岩だけ、あるいは、いくらか緑のある無人島に価値はない。5百年前、その土地の領有宣言をして何の価値があるのだ。だから、中国の著者の関心は「領土」ではなく、この無人島の「目印」性だった。だから、その程度にしか利用されなかった。いや、「目印」だって大事だ。そう、大事。なら、どこか遠足に行き、そこのある物を目印にしたら、その目印は自分の物になるのか。今でこそ、海洋は、海洋資源確保に大きな意味を持つ。だが、「册封師」の時代に「目印」程度の利益しかない物に、今日の「領土」価値が認められるのか。中国文献からは、「領土支配」は認められない。

 「尖閣」に意味があったのは、そう、現地の「漁師」なのだ。彼らは、「漁」のためにこの「尖閣」を大いに利用した。嵐のときは一休みし、また、行き帰りの航海の目印にした。彼らが利用していれば、「領土」としての価値も認められよう。
 なら、「尖閣」を「漁場」としたのは、どこの民族か。勿論、「琉球民」だ。いや、中国沿岸民だって同じじゃないか。「尖閣」は、琉球側から言っても、中国沿岸側から言っても等距離じゃないか。その通り。よく考えろ。当時の漁業は、どちらが進んでいたのか。勿論、琉球だ。中国沿岸民は、そんな沖合に出なくても、沿岸で漁ができるし、陸地を耕せばいくらでも食糧は得られる。だから、危険な漁なんかには興味はなかった。それに対して、「琉球民」は、漁をしなければ生きていけない。この差が、漁業術に大きな差をつくってきたのだ。ちなみに、50年前まで、日本は漁業水揚げ世界一。九州、瀬戸内海の漁民は、日本海、東シナ海を自分の海として活躍してきたことを知るべきだ。
 いや、尖閣の日本寄りには深い開講があり、その黒潮海域は、小舟での漁は無理だとの意見もある。これは、こじつけだ。中国側が穏やかで、日本側が荒れ安いのは分かる。海は誰の物でもない。どこまで行ってもいい。何で、わざわざ、琉球漁船が尖閣付近で漁をせねばならないのか。中国沿岸まで行ってもいい。航海術は日本の方が優れていた。「尖閣」に行く前にいくらか危険な所があれば避ければ済むことだ。「尖閣」まで行けないだって、トンでもない。
 ちなみに、琉球漁民は、中国・福州まで出かけることもあった。册封師が来る時は、彼らがよく水先案内をしたという。7人の中国文献にもその旨の記述があるだろう。日本と中国の往来は、圧倒的に日本(琉球)からの方が多かった。公式の記録では、5百年間に日本からは3百回、中国からは20回程度だ。
 東シナ海を「実効支配」してきたのは、海洋民族・琉球の漁師だった。忘れるな。

 第二の点へ行こう。「文献偏重」は、「学者」の陥りやすい病気だ。「権威主義者」も同じだ。井上は、「文献偏重」であるばかりか「帝国」擁護も嫌っている。だが、これは相矛盾する。琉球漁民には、経験と勘に頼り「海図」はあまり必要としない。それに対して、中国側の册封師にとっては重要。だから、琉球側には文献は少ない。これでは、日本側が負け。
 ところが、井上は、「帝国主義」が作った理論は、それ自身我田引水で、そんなもの受け入れられないと言う。だが、「文献偏重」は、誰が行っているのだ。当時の「帝国・清」を助ける理論でしかない。当時から東シナ海を生活の場として「実効支配」してきた「琉球民」の利益を無視するものじゃないか。井上よ、「中華帝国」の片棒を担いでいることが分からないのか。私は、「中国」の理論が間違っていると言っているのじゃない。現実(実効支配)を無視し、強い者を擁護する理論に凝り固まっている所が間違っていると言っているのだ。
 「実効支配」とは、「文献に記録を残すこと」じゃない、「実際にも、生活実態としての支配があること」だ。



★ 先占論は、帝国主義の産物か。それなら、どちらが「帝国」だったのか。
 井上は、明治の「大日本帝国」は、「清国」が弱まっているのに乗じて、「尖閣」を奪うことを考え、その機会を9年窺っていたが、好機到来と「日清戦争」に乗じて略奪したと言う。その時、明治政府が主張した、「清国の支配」が及んでいない(国際法上の無主地)のを確認して「先占」したと主張したのは、「帝国主義」理論で受入れられないと言う。

 なら、当時、「日本」は「帝国」で、中国は「弱小国」だったのか。確かに、「日清戦争」に負けた「清」は「弱小国」になり、以後、欧州帝国の「餌食」になり、20年保たずして滅亡する。
 なら、やはり、「清」は「弱小国」だったのか。トンでもない。次の歴史を見てみよ。

1636年、建国。1644年には北京入城し、これ以降大陸経営に乗出す。
  山麓線(西安と重慶辺りを結ぶ観念的な線)の東は、漢族固有の地域で、各地で明・清の戦いが起き
  たが、征服戦と言うより、一種の国内戦だとみてもよい。ついで、それまで明の域外だった周辺国に
  手を付けていくが、これは単なる国内戦ではない。
1659年、雲南を占領し、支配する。雲南は、タイ、ビルマと国境を接し、半分中国、半分南アジアの風土
  のある地域だ。
1684年、台湾(明の残党)を滅ぼす(前述)。
1690年、蒙古を征服した。現在のモンゴル国だ。
1724年、青海を平定。チベット族の多い地域。
1760年、新彊地方の征服。1884年には、新彊省をつくる(支配開始)

 この征服戦は、康熙帝(1654―1722)・雍正帝(1678―1735)・乾隆帝(1711―1799)の3代で行われ、これにより清の国威が急速に盛上がった。特に乾隆帝のときは、最盛期を迎え、10回も外征している。

ジュンガル(新彊)、
金川(四川・チベットの中間領域)、
グルカ(ネパール)に2回ずつ、
回部(ウイグル)、
台湾、
ビルマ、
安南(ベトナム)に1回ずつ。
そして、安南、シャム(タイ)、ビルマからは入貢させている。

 どうだ。この戦歴。欧州列国が恐れるに値する強さだ。その業績は、1750年から1800年の間。その後、没落期(バブル崩壊)に入り、アヘン戦争(1840)で、醜態をさらすのだ。しかし、1回の戦争に負けたからと言って、「清帝国」の「世界帝国」振りは、いささかも減じるものではない。
 日本は、明治維新後(1867)以後、朝鮮(征韓論)から中国大陸の進出を狙っていたが、日本軍(25万人)では、清帝国の大軍隊(100万人)の前には、なかなか手が出ない。特に、軍艦の差が歴然としていた(4分の1)。
 だが、日本は、朝鮮支配を巡って日清戦争(1895)に突入してしまう。結果は、日本の勝ち。清軍は、旧式装備で、兵隊志気も丸でなし。それまで、清は、「眠れる獅子」と呼ばれ、世界から恐れられていたが、「アヘン戦争」と「日清戦争」の2回の敗戦ですっかりウドの大木となるのだ。とは言え、その間の日本中枢部の苦悩は大変なものだった。
 それに対する日本、1867年に明治維新を行い、富国強兵を強力に進めていくのだが、先に見たように、清の「侵略性」と「凶暴性」を知っているが故に、清が「アヘン戦争」に負けたくらいでは簡単には手は出せなかった。
 だから、1884年、福岡県の古賀辰四郎が「尖閣諸島」で「海産」事業(鰹節、羽毛)始め、翌年、この島を借受けたいと訴えた時、この島が「清国」の物なのかどうか慎重に審査せざるを得ず、また審査後もなかなか事業許可が出せなかったのだ。やっと、出したのが「日清戦争」勝利の見込みが出てからだった(1895)。
 この点について、井上は、1885年以来、「尖閣諸島」の窃取を窺っていたと言っているが、日本が「世界帝国」で、中国が「被侵略国」なら、即座に営業許可を出してもいい筈。東シナ海のほんのちっぽけな島を領有するのに何年も思案する必要はない。「窺う」とは、「ためらいの思案」なのだ。間違えるな。そもそも、清は、「台湾」にさえ目がいっていないのに、「尖閣」はその遠い海の先だ。ちなみに、日本漁民が台湾に漂着した時、原住民に69人中54人が虐殺された(1871)。この時、清政府は、「台湾」は「域外」だと答えている。
 井上は、どちらが帝国で、どちらが被侵略国か、その評価を見誤っている。いや、たぶん、苦し紛れの言い訳だ。

 なお、井上は、「古賀辰四郎」の「尖閣」借受けの件は、日清戦争時にこっそり窃取したとしているが、中国は、下関条約の結果、台湾と同時に窃取したとしている。条約では、「台湾」「澎湖諸島」を中国から割譲したとして、「尖閣」は入れていないからだ。そして、苦しい言い訳。「尖閣」は台湾の付属島部だと。最も近い「魚釣り島」で170キロ、最も遠い大正島までは300キロもある。もう、言葉の綾(遊び)では、済まない距離だ。

 次は、日中双方の言い分を検討する。

イメージ 1

尖閣諸島は、誰の物か

 中国が尖閣諸島の海洋調査を強行すると言出してから、にわかに東シナ海がきな臭くなってきた。日・中双方が、疑いの余地なく「自国領」だと言うがどちらの主張が正しいのか。


★ 「尖閣」を実効支配してきたのは、現地人(琉球人)だ
 大まかな結論で言うと、歴史的には、「植民地支配(帝国主義)」的観点から言えば、中国(中華帝国)主張に分があるが、「実効支配(生活実態)」的観点から言えば、日本に分がある。しかし、現代的には、植民地支配があるから、自国領だとは言えない。やはり、生活実態のあった日本主張が正しい。

 少し詳細に言うと、中国は、15世紀から琉球王国に対して册封体制(半植民地支配)を取り始め、19世紀までそれを続け、その間に、東シナ海防衛、商業活動のために各種の文献を残した。この中に「釣魚島(=尖閣諸島)」の名が出てくる。しかし、この文献の目的は、直接領土に言及する物ではなく、見聞録だったり、航海手法に関する物だったりで、それに伴って地図が作られているだけだ。いや、解釈は無限だ。彼らは、この無人島に対して、何ら手を下したことは一度もない。只、灯台代わりに見て通っただけだ。これは、自国領の根拠とするには弱い。

 册封体制とは、「朝貢」すれば、した者をその国の「国王」と認めてやろうという、言わば弱い「植民地」制度なのだ。支配される方は、面倒が起こらないように、少し「あめ玉でも」ねぶらしておこうかという意味になる。言葉も習慣も違う周辺部の民族が「中華帝国」の一部などと言うことはあり得ない。唯一、中華帝国の求心力を果たしていたが「漢字」の使用。だが、その程度のものだった。
 次は、「琉球」の中華帝国からの支配力だが、これは、福州(封建領主)を通じての支配で、間接支配にあたる。このような支配では、「琉球」が帝国に支配されていたとは言えない。ましてや、中華帝国中枢が、この海域で漁業や商業活動をしていたとは言えない。

 実体のない「支配」を、自国領の根拠には出来ない。これが総括的結論だが、これに到るまでには、各方面からの検討が必要である。



★ 東アジアの民族と社会形成
 中国政府は、よく「歴史的に見て」というので、まず、東アジアの民族の生成(歴史)を見ておく必要がある。そうでないと、当時、「世界帝国」をなしていた「明・清」帝国の論述にはまる。

 人類の発祥は、「アフリカ中央高地」だが、第二の発祥地がある。「スンダランド」だ。地球歴史上何度も「氷河期」が訪れ、その都度、海面が百m以上後退し、南シナ海南部一帯は陸地になった。これを「スンダランド」という。「スンダランド」は、水は豊富、食糧も豊富、また、海では魚も獲れ、地上の楽園だった。アフリカから渡ってきた猿人は、ここで大繁殖したと思われる。この陸地に隣接するジャワ・トリニールから「ジャワ猿人」が発見された。百万年くらい前のことだ。

 「間氷期」に、「スンダランド」はどうなるか。そう。海中に没する。「猿人」は、慌ててどこか陸地を捜さねばならない。海に飛込むか、木の枝にしがみついて流されるか。いや、もっと前に陸伝いに逃げた者もいた。いずれにしても、賢い「猿人」が生延びた。これが、人類の「進化」だった。

 「スンダランド」は、出来たり消えたりし、その間に、多くの猿人が東アジアの北方へと吐き出されていった。陸伝いに移動した者は、中国・北京まで移動していた。北京原人の発見されている(60万年前)。遺伝的に見ると、「ジャワ原人」の直接の子孫かどうか分からない。海に飛込んだ者は、フィリピン方面に行ったが、人骨の発見がないので、はっきりしたことは分からない。このまま、黒潮に乗れば、日本に来た筈だが、その証拠もない。死に絶えた可能性が強い。

 何回目かの氷河期、たぶん10万年くらい前に、人類(現生人類)は大繁殖し、その時もやはり、「スンダランド」から追出され、またやはり、陸路と海路で北方に散らばることになった。この時は、様子が違った。知恵が発達していて、強く生延び、各地に遺跡を残してアジア中に広がる。

 陸路をとった者は、中国南部から中国中央低地に着いた。長江を700キロ溯ったところで海抜5、60m。正にここは、陸半分、水半分で、楽園だった。陸上では稲を栽培し、湖では漁をして大いに人口が増えた。長江文明という。さらに、北へ進む。いや、大変、北からは、狩猟民族が武器を持って攻めてきた。ここで、農耕民族と狩猟(牧畜)民族のせめぎ合いが起き、その結果、古代文明が発祥していく。黄河文明だ(4000年前)。これが進化発展したものが「中華帝国」だ。

 海路をとった者は、フィリピンから時速7キロにも達する強い「黒潮」の流れに乗って、「台湾」、「沖縄」、「九州」へと流れ着いた。そして、その所々に人類の足跡を残した。特に「台湾」では人種のルツボと言われるほど、後から後から人類が流れ着いた。これが、台湾の少数民族である。一般に「高砂族」などと呼ばれているが、細かく分けると、9部族ほどになるという。さらに、沖縄から九州に流れ着いた者は、鹿児島県に到達した。「宮之原遺跡」。これらの人は、「縄文人」と呼ばれている。この人が話した言葉が「和語(古日本語)」だ。3、4万年前からの話。驚きは、小笠原諸島にも運んでいる。

 次が大事。中国大陸で国家を造った漢族は、武器を持って、今度は逆に広がり始めた。武器を持たない民族は、一目散に逃げた。西に逃げた者は、中国の少数民族になり、東に逃げた者は、上海辺りから日本に流れ着くことになった。少数民族・苗族、上海人、日本人の顔立ちがよく似ているのはこのためだ。

 もう少し正確に言うと、最初に日本に流れ着く者は、福建省、浙江省辺りの漁民だ。さらに、武器を持った人も流れてきた。この人たちの発音は、日本語発音とよく似ている。次に流れてくるのは、上海辺りから。戦に負けた者が、武器を持って流れてきた。それから、次第に北部の人も船を使って、あるいは、朝鮮半島伝いに流れてきた。

 こうして武器を持って流れ着いた人たちは、瞬く間に、日本を征服した。「弥生人」と呼ばれている。この弥生人が日本中に広がることにより、日本民族の構成がほぼ定まることになる。弥生人は、大量の中国語を持込んだ。この中国語と元の和語が融和したのが今日の「日本語」だ。少し注意して欲しい。沖縄と東北は、方言の訛りが強いだろう。そう、これは、弥生人が北九州から入り、南へあるいは東へ流れていったために、その先端部分では十分融和せず、元の「和語」の要素を残しているのだ。遺伝子も沖縄と東北では似ていると言われているが、たぶんこのためだ。ついでに言うと、日本は、台湾を日清戦争でとって、台湾で「日本語」教育をしたが、「台湾人」が日本語がとても上手なのは、「古古日本語」の精神が染込んでいるからだ。



★ 「現実国家」の形成
 長々と書いたが、「台湾」「沖縄(琉球)」「九州」へと続く「古海洋人」は、歴史時代以前は同一の文化圏を造っていた。大人しい民族だ。これが言いたい。そして、「漢民族」が「北方民族」と戦争を繰返しているうちに賢くなり、「中華帝国」を建設し、さらに北部へ西部へ南部へ東部へと膨張していくことになる。この時の武器が「漢字」と「册方制度」だ。この制度は、緩やかな支配。大陸の東部と南部の民族は、皆んな穏やかな民族。武器を持った「漢民族」には、「戦」わないで次々と融和していった。こうして、中華帝国は、大陸には直轄地、周りには「册封地」を広げていく。日本も、朝鮮も、琉球も、台湾も、さらにベトナムも册封地になった。とても鷹揚な植民地支配だが、こんな制度だったから、「册封」関係が長続きしたとも言える。

 ところで、この「册封国」は、中国の「一部」なのか「独立国」なのか。「大陸内」の「地方」は、喋る言葉では意思疎通できないが、曲がりなりにも「漢語」を喋っているので、その「一部」だとしても、違和感は少ない。日本、沖縄、台湾はどうか。日本と沖縄は、日本語を喋っているので、「まさか、中国の一部だって」となる。だが、安心はできない。中国北京政府は、台湾は「中国の一部」、さらに「沖縄も中国が支配してもいい地方」だとの含みを残した言い方をしている。ある人は、「チベ○○」や「新○」の二の舞になると言うがあながち嘘じゃない。ただ、海を隔てているから、簡単じゃないだけだ。

 台湾は、「明」が滅亡した辺りから「漢族」がどっと流れ込んできて、台湾は、漢族の国のようになったが、元々は、沖縄などと共通の民族だ。つまり、東シナ海の東に連なる弧状列島は、元は「中華帝国」に「册封」されていた兄弟国なのだ。

 とは言え、3国は、中国との関係では連絡はあっても、3国間には連絡は弱かった。日本は、漢族の侵入で直ぐに「古代国家」ができていく。それに対して、琉球はそれより遅れること千年。中国・福州からの刺激と九州・鹿児島辺りの刺激により、「国家形成」が促される。沖縄では、中国の影響はあるものの、日本語を使っているところを見ると、日本からの影響が大きかった。

 琉球は、「福州」に250年朝貢を続けたところで、最後は、日本の薩摩(鹿児島県)に滅ぼされ、薩摩の植民地になる。これが1609年。その後、「琉球」は、「薩摩」との関係が深くなるが、二重朝貢し、日本の明治維新後、完全に日本に組込まれる(1871)。その後、米国に占領され、さらに、1972年「本土復帰」を果たす。「本土復帰」は、「住民の意思」により、「帝国主義的取引」ではない。「言葉」「生活」「社会制度」が日本と似ているところから考えると、「琉球」の日本帰属は自然の流れだ。

 そして、台湾。ここは、元は、未開地区。大陸人には見向きもされなかった。「文明人」が手を付けていくのはずっと遅い。その前もあるが「スペイン」が最初に手を付け(1626)、続いて「フランス」が手を付けていく(1642)。福建省の対岸だから「中国」の方が速いかと思いきや、欧州人がアジア経営の方が早いのだ。そして、明の「鄭成功」がフランスを追出すのが1662年。そしてさらに、「鄭」が清に滅ぼされるのが1684年なんだ。清が「鄭」を滅ぼした目的は、「明の残党」の根絶で、「台湾経営」ではない。この頃から、福建省(福州)や遠く広東省から残党や一発屋が乗込んでくるのだ。この間に、200年の空白がある。この間の歴史は、原住民が「北海道のアイヌ」と同じ運命を辿るのだ。ついでに付加えると、1895年日本が日清戦争に勝ち、植民地支配を本格化してから台湾開発が始まったと見てもいい。その後の台湾の成長は著しい。日本の戦後復興と類似の関係だ。米軍の所業をどう解釈するか、それが台湾人の日本に対する感情だ。さらに、戦後の成長は、奇跡の成長を果たしている。
  
 これで、琉球の歴史が分かった。だったら、「尖閣」は、誰が「実効支配」してきたかは明らかだ。「明」や「清」じゃない。「台湾」でもない。やはり、「琉球」だ。

 今日は、ここまでにしておく。

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