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関西テレビの消費税、教育議論を見て
8月7日夕食後、関西テレビで消費税、国際教育競争議論をしていた。私は、中国に10年住んでいたのでその観点から意見を言ってみよう。
1、消費税議論 …日本の消費税は低いのか、欧州と中国
内閣、経済界では、日本の消費税は5%、欧州は20%前後だから、日本の税率をもっと上げようとの議論が喧しい。
消費税値上げ反対派から、そんな事はない、欧州では軽減税率が多く、日本水準で解釈すると、全体では5、6%で、日本が低いとは言えないと言っている。その根拠として、消費税の国家税収に占める割合が殆ど同じだということを上げている。日本の法人税は、欧米と殆ど同じだから、全体としての消費税は、欧州と同程度なことは確かだろう。
テレビでは、日本は、青息吐息で実質破綻にある欧州と比較しているが、なんで中国のことは議論しないのか。ここで、中国を見てみよう。
中国の消費税は、大雑把に言うと、17%と6%がある。17%は、外国製造業にかかる税率。いや、中国国内企業も、製造業は17%だが、還付税があるため9%まで行かない。いや、見かけ上、内外企業で公平な税率になっているが、還付事項は国内企業だけにあてはめられる不公平税制になっている。
そして、一般事業は6%だが、実質は5%以下だ。領収書を要求した場合にのみ消費税がかかるからだ。ええ、なら、領収書の必要のない一般国民には、消費税はかからないのか。そうなのだ。だから、1%以下であることは間違いない。私は、この中で生活してきた。間違いない。
それなら、中国の税収のうち、誰が最も多く納税しているのか。外資系企業じゃないのか。そう、その中でも、中国進出企業のうち6割程度が日系企業だそうだから、中国への最大の納税者は、日本から夜逃げした日系企業なのだ。この事は、皆さん、しっかり記憶しておいていただきたい。
夜逃げ企業は、TPP(環太平洋経済協定)を早期に実現してくれと言っているが、なんでそんなに中国へ献金せねばならないのか、よく頭を冷せ。ついでに言うと、日本人社員からは、健康保険料も取始めた。日本への納付もあり、2重納付になっている。
2、教育水準 … 欧州、中国との比較
最近、世界規模で学生の学力比較が行われるようになった。実施機関は忘れたがよく知られた機関だった。
その比較によると、2000頃は、日本は世界1だったが、2009年には10位まで下がった。何処が上がったのか。そう、中国。いや、中国・上海だ。そして、韓国、台湾などの東アジアが続く。点数で言うと、中国が700点くらいに対して、日本は500点台だ。150点以上の差が付いていた。
で、本当に、それほどの差があるのか。中には、ゆとり、少人数制のフィンランドが1位じゃないのかという者もいる。だが、今では、かなり下位に落ちてきた。ある演者は、自分は米国で生活してきたが、よく勉強していたのは、中国、韓国人だったと言って、日本人の学力低下を具体例でもって説明していた。
私の感想を言おう。私は、中国で日本語講師をやってきた。中国では、大学生になっても、必死で勉強する。図書館が勉強するところになっている。授業がないとき、学生はそこで勉強し、何時でもほぼ満員だ。自分の学寮は、10人が1室というようなすし詰めで勉強どころじゃないからだ。
学生は、こう言った。自分たちは、中学・高校では、3点1線という生活をしてきたというのだ。3点1線とは、寝室、教室、食堂の3点のみを往復する生活を言う。ちなみに、生活は、朝7時から授業が始り夜10時まで続く。部活はないのか。ある。夕食前だ。運動が終ると食事、その後少し休憩して7時から夜の授業が始る。でも、土日は休みだろう。違う。日曜日の昼から日用品を買いに行く時間があるだけしかない。なら、夏休みはどうか。2ヶ月の休みだ。だが、その間に夏期講習があり、実質的な休みは2、3週間だという生活を送っているのだ。
私は、最後は、そういう高校で日本語を教え、それを自分の目で見た。学校の周囲には4mくらいの塀があり、正に監獄生活だった。競争の激しい中国では、これくらい努力しないと、有名大学には入れないのだ。最近の中国は、学問もスポーツもぶっちぎりの世界1。当然のことだ。
最後に一言付け加えておこう。中国の勉強法は、基本的には「暗記」中心だ。これには、中国でも少しずつ批判が大きくなってきた。私は、日本語教育では、作文を中心に指導し、毎週毎週文章を書かせた。非常に厳しくやったので、学生の作文能力は日増しに上達した。ちなみに、湖南省では、作文大会があり、私の学生が湖南省で1位と2位になった。全学生は、5000人。ついでに言うと、10年分のそういう作文を纏めて、作文の本を発行してきた。評判は上々のようだ。
皆さん、以上より、日本が中国に負けるのは当り前だ、とは思わないか。
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教育
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4、中国語を日本文法で解釈してみる
私は、中国語と日本語の関係をずっと研究している。そうすると、日中両言語は非常によく似ていることが分ってきた。一般には、中国語は、独特の文法形式をもつ「孤立語」、日本語は、目的語と動詞が結合した「膠着語」だとされているが、この考えは、英語流の文法を世界標準として見た場合の区分の仕方だ。
思い出してみよう。日本語は、2千年以上前、元あった大和言葉の上に、大陸人が被さって出来た中国語類似の言語なのだ。単語数では、漢語が6割、和語が4割の言葉であるが、言葉の使用頻度では、漢語4割、和語6割の言葉なのだ。この事は、拙著に詳しく書いておいた。
中国語の構造は、「介詞(/動詞)− その内容」「内容−動詞」の形をしている。この内、前者は、構造が日本語と逆転しており、理解するのも会話するのも非常にやりにくい。だが、それを克服する方法がある。これも古代人が発明した。「呼応する副詞」を使うのだ。そうすると、見事に中国語が日本語として読める。例えば、「不」を読下すには、「全く……ない」のようにすればよい。
これらの全貌を概説したのが
「中国語を常識と呼応で前から解釈する中国語」と
「日本語を単語ごとに前から中国語に翻訳する」だ。
ここでは、簡単な例でそれ実践してみる。私は、この形式を考えるために大体10年を要したが、この作業が終ると、中国語が実によく分るようになってきた。65才を超えてから、喋るのに余り苦労しなくなった。この方法も、中国語の一つの学習方法、特に中国語会話に力を入れたい人はこの方法を実践してみては如何かと思う。
今日からしばらく、中国語の解説をする。
例1 昨天他给我打电话了。
例2 昨天他给我来电话了。
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ⅲ 説明語の介詞と助詞への分化
説明語が「介詞」と「助詞」に分れた背景を考えてみると、言語発祥の根源が見えてくる。人類の発声が動物から分れたのは、発音が複雑になったからだ。
百万年とかいう昔、人間も動物と同じ発声の仕方をしてきた。その発音は、未分化で単純な二重母音・三重母音で、「ウァ」とか「ウゥゥ」とか「ウォォ」という音だったに違いない。それが、喉の発達により、十万年くらい前までに、原始言語音としての「ウヮ/ウゥ/ウォ」「イァ/イゥ/イォ」などという過程を通り、「ウ/ヲ」「イァ/イゥ/イォ(←二重母音)」「ア/イ/ウ/エ/オ(←単母音)」という言語母音になったと考えられる。
十万年くらいから先を見てみると、地球上では「単母音」が出来ていく過程に違いが生じた。今日の特徴から見ると、
海洋民族では、母音化が進み「母音系」言語となり、
東亜民族では、行音化が進まず、二重母音を多く残す「単音語系」言語となり、
非欧民族では、子音化が進んだ「子音系」言語になっていく。
ここから、日本語音と中国語音の特徴を見てみよう。日本では、時代と共に「単母音」化が進み、これぞ言語音として最高の域まで達したことだ。
即ち、まず第一は、奈良時代以前には8音だった母音が5音になったこと。一般には、この3音が何だったかははっきりしないと思われているが、実は簡単で、表記の上では1音半くらいに思われる「拗音」が完全な1音になったことだ。この点は、中国音の二重母音と比較してみると一目瞭然だ。
次は、戦後、方言に多く残っていた「クヮ/クィ/‥‥」が「カ/キ/‥‥」あるいは「シャ/シュ/‥‥」が「サ/シ/‥‥」などとなって実質上なくなった事が上げられる。この点は、北九州方言と朝鮮族の発音が似ていることから分る。また、表記の上でも、「わ行」「は行」「や行」音の大部分が、「あ行」に合流されてなくなった事が挙げられる。例えば、「ゑ」「ゐ」音がなくなり、「を」音は特殊音として残らなかった。その結果、日本語は、世界で最も区別が明確で単純な言語音になったと思われる。
次は、中国語を見てみよう。発音が「ア/カ/サ/タ」行の特定の音に極端に集中し、これを清音・濁音で区別し、単・二重母音で区別し、更に四声によって区別するようにしている。我々日本人がこの音を聞くと、どの音も殆ど同じに聞え、区別が非常に難しい。だから、こういう音は、言語音としては良くないと思われるが、当事者としてはそれほどでもないのかも知れない。
本論に戻って、次は、「時」だとか「場所」の要素の説明語が、大陸では「介詞」になり、島嶼では「助詞」になったか考えてみよう。
説明語は、なるべく短くて単純な方がいい。そう考えると、説明語を付けないか、付けても1文字の方がいい。となると、母音語では語末に、必要に応じて1文字を付加するのが合理的だとなる。例えば、「で京都」というよりも「京都で」とした方がいい。多分、こういう理由で日本語では、要素の後に「助詞」が付くことになった。この構造は、複雑な説明をするには更に言葉を続ければ事は足り、合理的だ。例えば、「京都で」が不十分ならば、「京都に行って」とすればいい。日本語の助詞(副詞)には中国介詞から転成したものが結構あるが(例えば、「由→ゆ」、「要是→もし」)、この音は語頭には着かずに語尾に着いたことを考えると、母音語では「助詞構造」になる事にある必然性があったように思われる。
なら、「介詞」はどうか。二重母音程度の発音は、1音助詞より複雑な内容を表せる。そうなると、その二重母音は適度な長さで、文頭に置いても不都合な長さで、必ずしも文末に置く必要なない。例えば、「京都」を説明するには、「在京都 →(発音)ザイ、チンドウ」となる。この表現は、文字が発明されると益々便利になった。なら、長い説明を要するときはどうか。例えば、「部屋の外で」のような時はどうしたらいいのか。日本語と同じになるには、「場所は外、京都の」となるが、この構造は要素である「京都」に比べて前置説明語の比重が大きすぎて表現として不適当だ。こういう理由で、大陸語は多分「在京都外面 → 場所は、京都、その外で」という構造に落着くことになった。まだ、何と面白い、大陸語では、先頭に場所記号「在」を置くこと以外は、説明語を後置する母音語と同じになっているのだ。
以上より、日本語と中国語は、大枠構造ではとてもよく似ているのに、細部では、単母音と二重母音の違いが「助詞」と「介詞」の違いをつくった、と私は考える。
今日は、ここまでにする。
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ⅱ 日本語と中国語の共通性
言葉は、人の動きと共に動く。反対に、人の動きを見れば、言葉の動きも分かる。それによると、日本人は、海洋民族の末裔らしい。日本に最初にたどり着いた古古日本人は、その起源は遠く、百万年とか2百万年前、南シナ海南部海域で浮沈していたスンダランド大陸を出発点とし、フィリピン、台湾、沖縄、南九州へと流れ着いてきた人らしい。南九州へ到達したのは、5万年前くらいだろうが、はっきりとは分からない。
中国人も、民族の系統は同じだが、こちらは、スンダランドから大陸の海岸沿から川沿いに広がり、居住時期は島嶼より遙かに古く、百万年前から大陸全体に広がったかもしれないし、中国には人類の発祥・雲南説があり、これより古いかも知れない。ここから、日本語と中国語には「東亜」という共通項があり、両言語の深層には、何かしら共通点があるらしい。
つまり、こう考えられる。現在、中国語は、細部では「介詞」という前置する構造をとっていて、日本語とは異なるように見えるが、大枠では「話題−その評価」の構造とっていて同じ構造なのだ。しかし、このように分化したのは、私見では、多分高々新石器時代に入ってからだ。それ以前は、生活は極めて単純で、言葉も極めて単純で、単に「話題−その評価」とするだけだった。そして、その後、生活が複雑になれば言葉も複雑になり、場所なら場所、時なら時を表すための説明語が必要になった。この時、大陸では、簡単な記号みたいな「介詞」を前置した。そして、島嶼では、「助詞」を後置することになり、次第に両言語は分化することになった。その理由は、次に述べる発音にある、と私は考える。
今日は、ここまでとする。
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1、大陸と島嶼の言語(私説)
現在、世界には6千という言語があると言われている。その言葉は、バラバラか、そうでもないらしい。なら、言葉の分化に何か法則はないか。ある筈だが、分化が余にも複雑で法則が見えにくい。私は門外漢だが、この難問に挑戦してみようかと思う。
ⅰ 言語構造の基本(通説)
世界言語の分類は、通説に従うと、膠着語(日本語、トルコ語)、孤立語(中国語)、抱合語(アイヌ語、東北アジア諸語)、屈折語(英語)の4つに分類されるという。しかし、このように分類する根拠は、英語を基準として「主語−動詞−目的語」とする構造を基本としたもの。この中には、「時」「場所」「手段」などをどう捕えるべきかは考えられておらず、また、言語の発達も考えられておらず、私には不十分に感じられる。
私は、言葉の原始形態は、言葉の進化過程を考えると、その基本は、
「何−それどうした」 またはその反対の
「どうした−それ何」 である筈だと考える。
さて、ここで「何」とは何か、「それ」とは何か。英文法に則れば、「動作」に対する「主語」だとか「目的」が大事になる。そうなると、「時」だとか「場所」はどう扱えばいいのか、また、本当に「主語」と「目的」を区別する必要があるのか。例えば、「私−食べる」と「魚−食べる」は、文法上区別すべきことか。更に、「象−鼻−長い」において、「鼻」は、「象の鼻」とすべきか、「鼻が長い」と解釈すべきなのか。我々は、日本語文法におけるこのような取扱いは当り前だと思うが、英語を基準とすると大いに疑問が湧く。
そこで、まず、日本語的発想で日英の文法構造を対比してみる。
日:話題、(何が)、時、場所、手段等、何を、どうする。‥‥話題に対する描写
英:何が、どうする、何に、その結果、手段、場所、時。‥‥主語から遠ざかる描写
この対比から次のことが分る。日本語では、「ある話題に付いて話をする」から始り、その内容を深める形で、「誰(/何)が、時は、場所は、手段は、‥‥」と説明し、最後に「どうする」と結論を述べている。後述するが、この構造は、中国語の構造とも類似している。
それに対し、英語では、「何が、どうする、何に」と事の中心を切りだし、次に「その結果がどうなる」と説明し、最後にそれに付随する事実を行為者から遠ざかる形で述べるわけだ。かなり違うように見えるが、「手段、場所、時」などは、「事の中心」とは切離せるので文頭で述べてもよく、その構造なら、日本語にかなり近づいてくる。ここで、日本語の「誰が」の部分は、「話題」と同じ時は省略してもよく、そうなると、更に日本語に近づく。
そうなると、日本語と英語は、もう余り違わないのか。いや、大きな違いがある。一つひとつの「場所」「時」などの説明の仕方が反対になることだ。つまり、日本語では、「要素−助詞」となるのに対して、英語では「前置詞−要素」となることだ。この違いが大きいと言えば大きいが、それは感覚の問題だとも言える。なお、後述するが、中国では、「介詞−要素」となり英語と類似しているが、「介詞」は「前置詞」と違って「場所」とか「時」を表す記号程度に軽く、中国語は、その分日本語に近い。
次は、英文法を中心として、先の世界言語4分類の特徴を見てみよう。この見方で日本語文法との違いが出るのは、英語では「主語」と「目的」を明確に区別することだ。つまり、「何が、どうする」と「何を、どうする」は全く別の文章構造となることだ。
SV → S Vo ‥‥‥ 何 − どうした(何に) ‥‥英語
S oV/Vo ‥ 混合型 ‥‥中国語
S oV ‥‥‥ 何 −(何に)どうした ‥‥日本語
s/o V ‥‥‥ (何 が/を)どうする ‥‥アイヌ語
VS → Vo S ‥‥‥ どうした(何に) −それは何が ‥‥アラビア語
他にも、Vs O、O Vs などの構造がある。
このように分類して気づくことは、「何を、どうする」とするか「どうする、何を」とするかの点だ。そうすると、日本語と英語は、この部分では表現が全く逆になる。そして、中国語では、「どうする、何を」の部分は、抽象的に述べるには、「どうする、何」として「介詞−要素」と同じに表現するのに対し、具体的に述べるには、「何を、どうした」と日本語と同じに述べることだ。ただ、「どうする、何」の部分は、例えば「読書」は、これだけを全体として一語の動詞と見ることも可能で、また、「給他」の構造は文法上「介詞−要素」だと説明されるが、「与える、彼に」と「動詞−目的」のように解釈され、「動詞−目的(←中国文法では「客語」)」の部分は程度の差だけで「介詞−要素」と同じ構造だと見ることも出来る。そうなると、中国語は、更にいっそう日本語に近づけて解釈出来る。この点に気づけば、日本語、英語、中国語を並べて解釈できるようになる。
続きは、また明日。
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