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23小説 「天 網」
それまでの経過から考えて、果たしてそんな強力な手続がとられたのだろうか。森下は、無錫の派出所に聞いてみた。驚き。無錫では、法的手続きは、何もなされていない、と。では、郝謹は、嘘をついたのか。聞いてみる。郝謹は、「控布」はしていないが、逮捕手続はとったと変えた。逮捕手続は、「控布」と同じではないのか。違うという。くるくる変わる、言い訳にすぎない。
翌年の二月、森下は、通訳と用心棒いや日本人仲間を連れて無錫に調査に行った。派出所長はこう言う。「あの時、郝謹が来た。しかし、何も手続はしなかった」と。つまり、「控布」はもちろん「逮捕手続」もなされていないのだ。ますます分からない。「控布」手続とは、一体、どこでするものか。上海でして、その効果が全国に及ぶのではないか。日本の「指名手配」手続から考えて、そうであるに違いない。しかし、無錫派出所長の話から判断すると、「控布」は無錫でするように聞こえる。結局、すべては、郝謹の作り事なのだ。おそらく、中国公安が、日本領事館からの要請に応えるため、嘘をでっち上げ、事件解決を遅らすために郝謹に攪乱戦術を指示したに違いない。日本政府は、ここまで愚弄されているのだ。
森下は、この時、もう一つ聞き捨てならないことを聞いた。ある派出所員が、この春節、呉敏娜を見たというのだ。
逃げ隠れしているばかりでなく、ここ数年、一年に二、三回しか帰郷していない呉敏娜、それが所員に分かるのか。分かるという。呉敏娜宅は、派出所の真ん前、田舎(いなか)のことであり、分かりやすいとは言える。だが、無理だ。そうすると、こう言った。「この辺りの田舎では、日本語を勉強する者はいない。だから、呉敏娜が始めれば最初のことで目立つ。呉敏娜の兄と呉敏娜が中心となって、この辺りで日本向けの事業を始めれば、本当に地域のためになる」と。だから、「分かるのだ」と。田舎では、それを待っているのか。だから、呉敏娜を逮捕したくないのか。
「それで、あなたは、どうしましたか」
「事件の事は知っていますが、上海から何の指示もないので、挨拶しただけで別れました」
郝謹は、「呉敏娜逮捕」を目的に、一度は無錫に来なければなかった。その時、無錫・港下の社会的状況を見て、呉敏娜を逮捕するがいいか、しないがいいか判断したのだ。どちらでもよく、賄賂が動けば、動いた方に決定が傾いたのだ。いや、間違いなく、反日教育だ。いや、分からない。
森下は、それから、呉敏娜宅へ向かった。森下、日本人、通訳、警察官二名の合わせて五名。迎えたのは、父親、母親、兄夫婦の「帰れ、帰れ」の大合唱。特に、母親は、「帰らないと殴るぞ」、と拳を振り上げてきた。まるで、歯をむき出した子犬スピッツだ。一年前にお茶を出してくれた、あの娘の逮捕を憂慮した、あの一心な顔はなかった。警察官が居れば、逆に安心なのだ。
事件は終わった。ふと見ると、玄関先には、この田舎には不釣り合いの新車が一台止まっていた。下ろしてから一週間も経っていない。事件が「解決」した明確な証拠だ。
周桂芳から、日本に電話があった。森下の知らない時だ。一年目の「在宅確認」だった。反応があるかも知れない。森下は、中国国内から、周宅に電話してもらった。
「うちの娘が泥棒なんかする訳がないじゃないか。何をもってそんなことを言うのだ。何、証拠だと。そんな物は、証拠じゃない。お前たちが勝手に証拠だと言っているだけじゃないか。馬鹿野郎。何、お前、衡陽の俺に会いに来たいだと。衡陽にビラを持ってくるのはいいが、帰りは死ぬぞ。今度は、容赦しない」、プツン。
なぜ、周易明がこれほど高飛車に出るのか。それは、共産党幹部の「不捜査特権」だ。聞き慣れない名称だ。一体、どんな特権なのだ。
日本の国会議員には、「不逮捕特権」という憲法上の権利がある(憲法五一条)。議員の中には、この特権によって救われた者が何人もいる。が、この権利は、百年前、反政府野党議員が言われもなくめったやたらと逮捕された苦渋の経験から、せめて国会会期中だけでも議員は逮捕されないとした制度で、堕落した政府幹部議員の犯罪を野放しにしたものではない。
それで、中国の「不捜査特権」も似たようなものか。歴史的にはそんな感じもある。「共産党員諸君、旧来の諸悪に恐れるな、国家建設のため、社会主義建設のため、我が身を挺して奮闘しよう。それが党員として最も輝かしい名誉だ。雷峰に学ぼう。必要なら、あらゆる手段で。そのために、あなた方には、不捜査特権を与えよう」。
だが、最近は違う。最近では、「不捜査特権とは、党・政府の幹部の汚職事件では、捜査手続、取調べ場所、その期間などで、幹部の権利が侵されないこと」とされている。それなら、汚職腐敗政治の奨励か。どうも、そうらしい。「新京報」編集長解任事件(二〇〇六)は、この新聞が幹部共産党員の悪事を暴露したために起きた事件で、ここでは、真かという「汚職奨励」権がまかり通った。不捜査特権が優先すると、言論が弾圧された、訳だ。最近、上海市を牛耳っている上海閥の最高首脳、陳良宇・市党委員書記(=政治局員)が汚職事件で逮捕されたが(二〇〇六)、これは権力闘争の結果、いぶり出されたものに過ぎない。
それなら、周易明は、不捜査特権に与れるのか。衡陽市内なら可能だろう。というより、幹部にも上下いろいろあり、特権もいろいろある。例えば、犯罪にも、こそ泥や地位利用、あるいは、闇物資の横流し、とそういうものから、政府決定を利用して莫大な構造的利益を得るものまである。つまり、これらの犯罪が、地位相応に免責されているのだ。これまでも政府幹部の腐敗を糾弾した新聞社が弾圧されてきたが、こんな弾圧がまかり通るようだと、世界中から、いつまで経っても「暗黒国家中国」の汚名は消えない。「中国中央宣伝部を叩き潰せ(焦国標)」は嘆く。
それで、分かる。周易明が上海の陳良宇のような事にさえならなければ、娘・桂芳の地位は、絶対に、絶対に安全なのだ。怖いのは、真実を暴く「非合法」のビラだけだ。分かるだろう。「帰りは死ぬぞ」の捨てぜりふ。
一年後の結末。二〇〇六年四月、郝謹が、「この事件はもう終わった。今後、この捜査はしない」と言った。「それは、何で」、「些細な事件で、取るに足らないからだ」と。なら、「大事件とは何か」、「それは、殺人事件だ」と。
中国では、三千元盗めばだいたい三年の懲役だという。生涯賃金にも近い一五万元の例はないが、常識的には五年以上だという。これで、この犯罪は、些細な事件か。なるほど、日本人に対しては、中国公安の色仕掛けによる日本領事自殺事件でも、「個人的な自殺」で幕が引かれた。
五
森下のやることなす事はすべて壁。中国公安にやる気のないのは当たり前として、日本国民を護る義務を負っている日本領事館までやる気がない。森下が自由にできた事とは、元学生を利用して、自分の足を使って、情報を集めることだけだった。とにかく、呉敏娜を捕まえるには、上海徐家汇界隈の友達を探し出さなければならない。森下は、事件直後からずうっと努力してきたが、ひょんな所からその糸口がつかめてきた。事件後半年ほどした二〇〇五年一〇月の頃のことだ。
森下は、二年ぶりと、ある元江川日語講師の所に行ってみた。ここから偶然が始まる。その講師は、ある学生とメール交信をしていた。その学生が、森下が昆山の個人塾で指導した学生・鄭莉蓉のアドレス(住所)を知っていたのだ。帰ってメールしてみると返事が来た。鄭は、朝日日語の一級班の名簿を持っていると言う。「何だって」「朝日日語がどうしても見せてくれなかった、あの名簿を持っているのだって」。
鄭は、結婚して上海・朱家角に住んでいた。観光地としては有名だが、上海の中心から二時間もかかる田舎だ。当時、森下は、上海を離れ蘇州に住んでいたが、近いの遠いのとは言っておれない。名簿の写しをもらいに走った。これこそ、事件以来、半年間ずうっと探し求めてきたものだ。三五人分あった。
朱家角で一泊して帰ってきた森下。その名簿で、どのようにして呉敏娜の住所を聞き出すか。あるいは、友達の名前を聞き出すか。幸運。蘇州にも元江川日語の学生がおり、彼女が電話役を買ってくれた。三日がかりだった。メール・アドレスの記載のある者もいた。メールは、森下が出すことにした。元学生は、それぞれ、断片的にいろいろ知っていた。だが、残念。電話でもメールでも、現住所を知っている者はなかった。直後なら、誰か、ひょっとして知っていたのに。
一つ、重要な事が分かった。呉敏娜が朝日日語卒業後、上海・嘉定で短期間同居していた女の名が分かったのだ。郭静。森下は、郭は一級班だと思っていたが、呉敏娜が二級班にいるとき同室の学生だった。よし、郭静を手繰れば、必ず呉敏娜にたどり着ける。こういう場合、得てして多いのが、大所高所から見ている第三者には、どうしたらいいか簡単に分かるのに、当事者には、なかなか幸運の女神が味方しないことだ。結局、郭静の電話番号を知っている者は見つからなかった。
一縷の望みは、朝日日語。そうだ、朝日だ。だが。あの時、こちらは、その名前が分からないから「その名前を教えてくれ」と言ったのに、向こうは、「その名前を申告したら、その名前を教えてやる」と、絶対に出来得ない禅問答で返してきた。だが、今は「出来得ない名前」が言える。ついに、禅問答に勝った。なら、朝日は、何とするか。答は分かっている。別の理由を付けるだけだ。止めた。
偶然の糸は直ぐそこまで来ている、なのに残念だ。
森下のメールに、こんな返事があった。「アホ、死ね」「南京大虐殺を知れ」。森下に当たり散らしたところで何もならないが、誰でもいい、誰かが日本人から金を巻き上げると、中国人は、相当の痛快感を覚えるのだろう。胡楊典から聞いた話がその典型だが、森下は、他にも、いろんな学生から同趣旨のことを言いている。相当の反日教育を受けているのは確かだが、彼らだって反日教育の呪縛がなくなれば、協力してくれる可能性がある。その一つの偶然が、呉敏娜に結びついて欲しい。
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