日本の再生と国際化を考える

英才教育、日本語の国際語化、数値の3桁読み、度量衡改革、漢字仕様電脳、やる事は多い。

小説「天網」‥中国の通訳腐敗

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    24小説 「天 網」

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初めての方は、 1「天網」‥‥中国の通訳の腐敗  から

URL: http://blogs.yahoo.co.jp/denoyukio/16936976.html

 一年四ヶ月経った。事件から二年が近づいてきた。何げなく、森下は、呉敏娜に電話してみた。男が出た。ひょっとしたら、ひょっとするぞ。この偶然は、大切にしなければならない。
 胡楊典に電話してもらうと、この男は呉敏娜の知合いのようだ。「呉敏娜は、今、会社だ」とか「これから、呉敏娜と連絡をとる」と言ったという。だが、不思議なのだ。この携帯電話は、呉敏娜が料金を払わなかったため、暫く不通になっていたのだ。その後、この男がこの番号を引継いだことになるが、そうすると、この電話は一旦電話局に戻され、赤の他人がこの電話番号を買った可能性が強い。そうすると、新たな所有者は、元の所持者に電話が掛かってくると、「その人は、元の所有者です」と言って切ることが多い。不思議なのは、この男は、そうしないのだ。胡が「呉敏娜は、‥‥」の話に、長々とお付き合いをしたのだ。次は、重慶(上海から二千キロ)から電話してもらった。やはり、似たような感じがあった。呉敏娜側は、やはり情報が欲しかったのだ。ただ、分からないのは、何故、呉敏娜が直接電話口に出ないのか。
 単なる第三者ではない。何かある。森下は、偽計を図ることにした。「周桂芳からの二年目の春節の連絡」ということにして、周桂芳の名前を使った。少し汚い手だが、この際、小悪は問題ではない。
 胡の女友達がその役を買ってくれた。呉敏娜は出なかったが、男は安心したのかべらべら喋った。「自分たちは、上海・南汇で生活している」「呉敏娜は、妊娠していてもうすぐ子供が産まれる」。言わなくてもいいのに、「呉敏娜の腹が大きいので、俺はセックスがし難い」と。
 そうすると、どうなるか。「南汇」という場所から、「呉敏娜は、繊維関係会社に勤めているらしい」「南汇区は、元南汇県という上海の田舎も田舎で、面積は広いが、その中で繊維会社がありそうなところといえば、二、三の鎮(日本の字に相当する行政区画)しかない。捜して探せないことはない」「男が、セックス云々と下品なこと言うからには、やくざ関係かも知れない」「自分の収入は少なくとも、呉敏娜が通訳として稼いでくれれば、それでいいと考えている」「余談だが、反対に、呉敏娜はブスだから、相手がやくざ家業から足を洗ってくれればいいと思っているに違いない」「繊維関係会社を前提とすると、将来、無錫に戻る予定だろう。あるいは、兄の会社の上海事務所を作る予定だ」「そして、肝心なこと。出産の予定から逆算して、呉敏娜がこの男と同棲を始めた、あるいは少なくとも子をつくろうと決意したのは、前年の春節に、公安が捜査打切を呉の家族に伝えた、ちょうどその時だ」「しかも、中国では、結婚前に子供をつくり、それを既成事実として結婚することが多い。特に農村では、二〇歳になると、そうして子供をつくらせる親が多い。とにかく、「つくれ」なのだ。呉敏娜は、もう二四歳。その可能性が強い。すべての事実が、合理的に説明できる」「だが、まだ結婚届はしていないだろう。これもまた中国では普通で、呉敏娜の場合は、「安全確認」が取れていないのだから、戸籍に「結婚」の文字を記載するのは危険が伴う」。森下は、どんどん連想の環を広げた。
 少し待とう。必ず呉敏娜の子供は無錫の親が預かることになる。その時、事を起こす好機が訪れる。周桂芳だって、子供がいるから李湘南と別れられないのだし、住所も「逃走中」だとはできないのだ。
 だが、この電話という糸も、その後切れた。たぶん、おかしいと思った呉敏娜が周桂芳に連絡をとったのだ。だが、喋ったという「事実」は消えないぞ。周桂芳だってそうだ。銀行印届出のとき不要な自分の印を捺したが、その時、新たな用紙で届出をすればいいのに、元の用紙に「×」印を付けただけで済ましたから、それが証拠となって、犯行が断定されたのだ。知覚に残った事実は、偶然で、しかも意外な場所に、運命的な何かの必然を生む。恋の赤い糸と同じだ。

 周桂芳に関して、やはり偶然が起きた。中国の湖南省は、日本の滋賀県と友好都市契約をしている。湖南省には中国一、二の洞庭湖があり、滋賀県には日本一の琵琶湖があるからだ。こういう関係から、滋賀県では、湖南省から多くの研修者や旅行者を受け入れている。さらに、多くの図書を寄贈している。「滋賀図書」といい、省都長沙市図書館内にある。反対に、湖南省もまた類似の事をしている。衡陽市は、湖南省のほぼ中心にあるが、行政の中心は北部の長沙市にあり、目立った存在ではない。とは言え、湖南省第二の都市。衡陽からも滋賀県に来る者がいくらかある。現に、森下が遭った周飛の、その姉の周秋は、研修員として滋賀県栗東の石田度量衡会社に来ているのだ。
 森下は、たまたま滋賀県職員で廃水処理技術者・村田明を知っている。ある時、村田のところに湖南省の技術者がやってきていた。森下が事件三年目の五月に帰省した時、偶然が起きる。「ええっ、何だって、名簿があるんだって」。調べると、衡陽の技術者三名の名前が載っていた。
 日本では、このようにして名前が分かっても、この者が周桂芳や周易明を知っている可能性はほとんどない。しかし、中国では違う。中秋の名月の晩餐会(交礼会)を見てみよ。あのような会合を通じて、権力指向予備軍がどんどん知合いの網を強めていく。この技術者が交礼会に参加する可能性は高いし、その時参加していなくても、将来参加する可能性は非常に高い。ついでに言うなら、周桂芳が交礼会に参加するのは当然として、通訳だから、日本からの技術者歓迎のために、前面に出てくる可能性だってある。とにかく、この名簿には、大きな期待がかかる。
 面白いことになったぞ。森田は、胡楊典から衡陽市役所に電話してもらった。名は黄婷、衡陽市衛生課長、年齢四〇歳、この人が華南大学卒業つまり周桂芳の夫の親の大学を卒業していた。何かに役立ちそうだ。赤い糸になれ。

  
  六

 森下は、上海の日本領事館に二年目の追求をしてもらったが、もう、中国公安からは返事も来なかった。「終わった」ものに返事を出せば、事を蒸し返す。
 だが、ちょっと待て。事件が終わったことにしたのは、本当に、中国公安か。違う。これは紛れもなく、主権侵害、人権侵害に対して、無能で無気力な日本政府にある。森下は、在上海日本領事館に対して電話と訪問で十回以上、日本政府に対しても二回はお願いしている。それを単に事務処理という形で扱い続け、実質放棄してきたのは、他ならぬ日本政府じゃないか。もし、日本政府が中国政府に対して、「お前、日本からの投資を誘っておいて、制度不備により、投資資金を泥棒させるなんて許さない」と騒げば、上海の公安局がいくら事件を闇に葬りたくても、北京中央政府が黙っておれる筈はない。いや、今からでも、周桂芳と呉敏娜の処罰を要求すると声を張り上げれば、犯罪の証拠だって、犯人の居所だって、何から何まではっきりしているこの事件では、事件解決まで一週間とはかからない筈だ。
 ここにその典型がある。国家機関は、証拠とやる気さえあれば、いつまでたってもやれる。ドイツ・ナチスの戦犯追求を見てみよ。戦犯は、名前を変え、整形手術を施して、国外へ逃亡した。これを追う政府は、怒りはもう収まったことにしようという「時効」の壁さえ、法律により廃棄し、五〇年たってからでも追求し続けたじゃないか。その結果、例えば、アイヒマンは南米で捕まえられた。やろうと思えば、そこまでできる。
 反対に、やらせる気がなければ、証拠がはっきりしていても、国家は、徹底的に抵抗する。同根の半面真理だ。北朝鮮秘密機関による拉致事件、「金正日は、被害者を釈放し犯人を処罰せよ」。日本は、折れに折れて被害者を返すだけでもいいと言うのに、「死んだ」だの「事件は終わった」だの、と世界に嘘をついて国家総力で抵抗する。
 中国側。銀行預金の窃盗が、何故そんなに頑張らなければならない事件なのか、分からない。解決すれば、日中双方に利益があるというのに。共産党幹部の犯罪を隠蔽することが、そんなに国際関係に優先するものか。いや、独裁者となった幹部集団の驕りだ。

 森下は、「丑の刻参り」をしている自分の夢を見た。丑の刻参りとは、小さな藁人形を、敵討ちしたい敵に見立てて作り、その人形に、丑の刻(午前二時)に、誰にも見られないようにして、「死ね、死ね」と心で叫びながら、五寸釘を打込む所行をいう。憎むべき相手が強すぎる時は、尋常な手段では太刀打ちできない。返り討ちにあうだけだ。森下が、衡陽にビラまきに行ったところ、目を殴られて、ひどい目にあったのはその典型だ。そういう時、少しいじけているが、万策尽きた被害者が、少しでも心を癒そうとするのが丑の刻参りだ。
 周桂芳は、事件から二年経過した二〇〇七年には三一歳、娘の桂英は九歳半になった。それから一〇年たてば、桂芳は四一歳、娘は一九歳になる。娘は、将来について何か考える。日本語を勉強したいというかも知れない。いや、偶然は、きっとそうさせるに違いない。その頃、親・桂芳が大泥棒だった事を知る。あれほど隠した夫・李湘南の阿片中毒もバレたし、自分の大金窃盗は、森下によって衡陽中の共産党組織に知れ渡っている。娘は、親を攻める。親は、日本人に謝りたいと言って狂乱する。だが、日本人・森下は、もう中国にはもちろん、日本で生きているかどうかも分からない。だが実際は、森下は、周桂芳と中国公安と日本政府に対し、丑の刻参りをしながら、しぶとく生き抜いている。
 森下は、若い時は「丑の刻参り」という言葉も知らなかったが、六〇歳を過ぎると、何事も、もう駄目だと思うと同時に、いや負けてたまるかという気持ちが交錯する。そういう時、よく丑の刻参りのような、いじけた夢を見るという。人は、偶然の織りなす奇跡の中で、それに逆らうことなく生きている。森下の怒りも、時の流れと共にいずれ収まる。
 だが、天網恢々疎にして漏らさず。すべての追っ手がなくなっても、子・周桂英の足掻きから飛出す情報だけは、それらの一つひとつが黒い糸の網を為し、いずれは、周桂芳に襲いかかる。「天網」、この二文字は、いつの時代でも、いつまで経っても、必ず生き続けるはずだ。 完

    23小説 「天 網」


 それまでの経過から考えて、果たしてそんな強力な手続がとられたのだろうか。森下は、無錫の派出所に聞いてみた。驚き。無錫では、法的手続きは、何もなされていない、と。では、郝謹は、嘘をついたのか。聞いてみる。郝謹は、「控布」はしていないが、逮捕手続はとったと変えた。逮捕手続は、「控布」と同じではないのか。違うという。くるくる変わる、言い訳にすぎない。
 翌年の二月、森下は、通訳と用心棒いや日本人仲間を連れて無錫に調査に行った。派出所長はこう言う。「あの時、郝謹が来た。しかし、何も手続はしなかった」と。つまり、「控布」はもちろん「逮捕手続」もなされていないのだ。ますます分からない。「控布」手続とは、一体、どこでするものか。上海でして、その効果が全国に及ぶのではないか。日本の「指名手配」手続から考えて、そうであるに違いない。しかし、無錫派出所長の話から判断すると、「控布」は無錫でするように聞こえる。結局、すべては、郝謹の作り事なのだ。おそらく、中国公安が、日本領事館からの要請に応えるため、嘘をでっち上げ、事件解決を遅らすために郝謹に攪乱戦術を指示したに違いない。日本政府は、ここまで愚弄されているのだ。
 森下は、この時、もう一つ聞き捨てならないことを聞いた。ある派出所員が、この春節、呉敏娜を見たというのだ。
 逃げ隠れしているばかりでなく、ここ数年、一年に二、三回しか帰郷していない呉敏娜、それが所員に分かるのか。分かるという。呉敏娜宅は、派出所の真ん前、田舎(いなか)のことであり、分かりやすいとは言える。だが、無理だ。そうすると、こう言った。「この辺りの田舎では、日本語を勉強する者はいない。だから、呉敏娜が始めれば最初のことで目立つ。呉敏娜の兄と呉敏娜が中心となって、この辺りで日本向けの事業を始めれば、本当に地域のためになる」と。だから、「分かるのだ」と。田舎では、それを待っているのか。だから、呉敏娜を逮捕したくないのか。
「それで、あなたは、どうしましたか」
「事件の事は知っていますが、上海から何の指示もないので、挨拶しただけで別れました」
 郝謹は、「呉敏娜逮捕」を目的に、一度は無錫に来なければなかった。その時、無錫・港下の社会的状況を見て、呉敏娜を逮捕するがいいか、しないがいいか判断したのだ。どちらでもよく、賄賂が動けば、動いた方に決定が傾いたのだ。いや、間違いなく、反日教育だ。いや、分からない。
 森下は、それから、呉敏娜宅へ向かった。森下、日本人、通訳、警察官二名の合わせて五名。迎えたのは、父親、母親、兄夫婦の「帰れ、帰れ」の大合唱。特に、母親は、「帰らないと殴るぞ」、と拳を振り上げてきた。まるで、歯をむき出した子犬スピッツだ。一年前にお茶を出してくれた、あの娘の逮捕を憂慮した、あの一心な顔はなかった。警察官が居れば、逆に安心なのだ。
 事件は終わった。ふと見ると、玄関先には、この田舎には不釣り合いの新車が一台止まっていた。下ろしてから一週間も経っていない。事件が「解決」した明確な証拠だ。

 周桂芳から、日本に電話があった。森下の知らない時だ。一年目の「在宅確認」だった。反応があるかも知れない。森下は、中国国内から、周宅に電話してもらった。
「うちの娘が泥棒なんかする訳がないじゃないか。何をもってそんなことを言うのだ。何、証拠だと。そんな物は、証拠じゃない。お前たちが勝手に証拠だと言っているだけじゃないか。馬鹿野郎。何、お前、衡陽の俺に会いに来たいだと。衡陽にビラを持ってくるのはいいが、帰りは死ぬぞ。今度は、容赦しない」、プツン。
 なぜ、周易明がこれほど高飛車に出るのか。それは、共産党幹部の「不捜査特権」だ。聞き慣れない名称だ。一体、どんな特権なのだ。
 日本の国会議員には、「不逮捕特権」という憲法上の権利がある(憲法五一条)。議員の中には、この特権によって救われた者が何人もいる。が、この権利は、百年前、反政府野党議員が言われもなくめったやたらと逮捕された苦渋の経験から、せめて国会会期中だけでも議員は逮捕されないとした制度で、堕落した政府幹部議員の犯罪を野放しにしたものではない。
 それで、中国の「不捜査特権」も似たようなものか。歴史的にはそんな感じもある。「共産党員諸君、旧来の諸悪に恐れるな、国家建設のため、社会主義建設のため、我が身を挺して奮闘しよう。それが党員として最も輝かしい名誉だ。雷峰に学ぼう。必要なら、あらゆる手段で。そのために、あなた方には、不捜査特権を与えよう」。
 だが、最近は違う。最近では、「不捜査特権とは、党・政府の幹部の汚職事件では、捜査手続、取調べ場所、その期間などで、幹部の権利が侵されないこと」とされている。それなら、汚職腐敗政治の奨励か。どうも、そうらしい。「新京報」編集長解任事件(二〇〇六)は、この新聞が幹部共産党員の悪事を暴露したために起きた事件で、ここでは、真かという「汚職奨励」権がまかり通った。不捜査特権が優先すると、言論が弾圧された、訳だ。最近、上海市を牛耳っている上海閥の最高首脳、陳良宇・市党委員書記(=政治局員)が汚職事件で逮捕されたが(二〇〇六)、これは権力闘争の結果、いぶり出されたものに過ぎない。
 それなら、周易明は、不捜査特権に与れるのか。衡陽市内なら可能だろう。というより、幹部にも上下いろいろあり、特権もいろいろある。例えば、犯罪にも、こそ泥や地位利用、あるいは、闇物資の横流し、とそういうものから、政府決定を利用して莫大な構造的利益を得るものまである。つまり、これらの犯罪が、地位相応に免責されているのだ。これまでも政府幹部の腐敗を糾弾した新聞社が弾圧されてきたが、こんな弾圧がまかり通るようだと、世界中から、いつまで経っても「暗黒国家中国」の汚名は消えない。「中国中央宣伝部を叩き潰せ(焦国標)」は嘆く。
 それで、分かる。周易明が上海の陳良宇のような事にさえならなければ、娘・桂芳の地位は、絶対に、絶対に安全なのだ。怖いのは、真実を暴く「非合法」のビラだけだ。分かるだろう。「帰りは死ぬぞ」の捨てぜりふ。

 一年後の結末。二〇〇六年四月、郝謹が、「この事件はもう終わった。今後、この捜査はしない」と言った。「それは、何で」、「些細な事件で、取るに足らないからだ」と。なら、「大事件とは何か」、「それは、殺人事件だ」と。
 中国では、三千元盗めばだいたい三年の懲役だという。生涯賃金にも近い一五万元の例はないが、常識的には五年以上だという。これで、この犯罪は、些細な事件か。なるほど、日本人に対しては、中国公安の色仕掛けによる日本領事自殺事件でも、「個人的な自殺」で幕が引かれた。


    五

 森下のやることなす事はすべて壁。中国公安にやる気のないのは当たり前として、日本国民を護る義務を負っている日本領事館までやる気がない。森下が自由にできた事とは、元学生を利用して、自分の足を使って、情報を集めることだけだった。とにかく、呉敏娜を捕まえるには、上海徐家汇界隈の友達を探し出さなければならない。森下は、事件直後からずうっと努力してきたが、ひょんな所からその糸口がつかめてきた。事件後半年ほどした二〇〇五年一〇月の頃のことだ。
 森下は、二年ぶりと、ある元江川日語講師の所に行ってみた。ここから偶然が始まる。その講師は、ある学生とメール交信をしていた。その学生が、森下が昆山の個人塾で指導した学生・鄭莉蓉のアドレス(住所)を知っていたのだ。帰ってメールしてみると返事が来た。鄭は、朝日日語の一級班の名簿を持っていると言う。「何だって」「朝日日語がどうしても見せてくれなかった、あの名簿を持っているのだって」。
 鄭は、結婚して上海・朱家角に住んでいた。観光地としては有名だが、上海の中心から二時間もかかる田舎だ。当時、森下は、上海を離れ蘇州に住んでいたが、近いの遠いのとは言っておれない。名簿の写しをもらいに走った。これこそ、事件以来、半年間ずうっと探し求めてきたものだ。三五人分あった。
 朱家角で一泊して帰ってきた森下。その名簿で、どのようにして呉敏娜の住所を聞き出すか。あるいは、友達の名前を聞き出すか。幸運。蘇州にも元江川日語の学生がおり、彼女が電話役を買ってくれた。三日がかりだった。メール・アドレスの記載のある者もいた。メールは、森下が出すことにした。元学生は、それぞれ、断片的にいろいろ知っていた。だが、残念。電話でもメールでも、現住所を知っている者はなかった。直後なら、誰か、ひょっとして知っていたのに。
 一つ、重要な事が分かった。呉敏娜が朝日日語卒業後、上海・嘉定で短期間同居していた女の名が分かったのだ。郭静。森下は、郭は一級班だと思っていたが、呉敏娜が二級班にいるとき同室の学生だった。よし、郭静を手繰れば、必ず呉敏娜にたどり着ける。こういう場合、得てして多いのが、大所高所から見ている第三者には、どうしたらいいか簡単に分かるのに、当事者には、なかなか幸運の女神が味方しないことだ。結局、郭静の電話番号を知っている者は見つからなかった。
 一縷の望みは、朝日日語。そうだ、朝日だ。だが。あの時、こちらは、その名前が分からないから「その名前を教えてくれ」と言ったのに、向こうは、「その名前を申告したら、その名前を教えてやる」と、絶対に出来得ない禅問答で返してきた。だが、今は「出来得ない名前」が言える。ついに、禅問答に勝った。なら、朝日は、何とするか。答は分かっている。別の理由を付けるだけだ。止めた。
 偶然の糸は直ぐそこまで来ている、なのに残念だ。
 森下のメールに、こんな返事があった。「アホ、死ね」「南京大虐殺を知れ」。森下に当たり散らしたところで何もならないが、誰でもいい、誰かが日本人から金を巻き上げると、中国人は、相当の痛快感を覚えるのだろう。胡楊典から聞いた話がその典型だが、森下は、他にも、いろんな学生から同趣旨のことを言いている。相当の反日教育を受けているのは確かだが、彼らだって反日教育の呪縛がなくなれば、協力してくれる可能性がある。その一つの偶然が、呉敏娜に結びついて欲しい。

    22小説 「天 網」

 日本領事館の情けなぶり。紹介しよう。森下が百度参りをしているときに発生した。一つは、日本叩きデモにより、上海領事館の窓ガラスがぶち割られる事件が発生したこと。もう一つは、中村の前任領事が、中国側の色仕掛けにより自殺に追い込まれていた事件だ。
 それで、窓ガラスは、直ぐに直してもらったのか。違う。「悪いのは日本だ。お前たち、自分で直せ」と。これでは、いかにも国辱。領事館は「ベニヤ板」を張った。そして、館の敷地は、遙か遠くまでロープを張り巡らし、数人の中国人警備員を増配置した。森下は、領事館に行くたびに、割れた窓ガラスと投げ付けられた外壁のカラーボールの跡を「ああ、情けなや」と言って見るのだった。領事も嘆いたというが、本当に国辱を嘆いたのだろうか。
 領事の色仕掛け自殺事件とは、どういうものか。中国公安は、女を送り、日本の秘密を探ろうとした。前任領事は、気持ちよく女を抱いていた。だが、後に秘密漏洩を迫られると、律儀な日本人は、死んで事態を清算するしかなかったという事件だ。中国では、女の送り込み、これは常識。中国の高級官僚には、どれだけ多くの女が与えられているか分からない。ちなみに、毛沢東には、正式の妻が五人、それ以外にも権力者、実業家、有名人からの献上娘が十人くらい、一夜妻は百人なのか千人なのか見当がつかない状態だった(「毛沢東最後の女」参照)。だから、色仕掛けは、軽い気持ち。対する律儀な日本人というより、バラすぞと迫られた日本人、日本外務省に知られたら身の置き場に困る。死ぬしかなかった。驚いたのは、中国側。
「あの事件の落とし前を付けてくれ」、日本側は要求した。「あの事件は、終わった」、これが答だった。真相が言えないのだ。国際問題になる。日本側は、重ねて要求した。今度は、「自殺だ」だった。日本政府は、これ以上もうこの事件に触れようとしない。森下よ、分不相応に女を送られたお前、外交官でなくよかった、のか。

 領事館の無気力、七月、森下は、直接日本外務省に訴えることにした。民主党幹事長・川端達夫事務所を通じてした。妻の兄つまり義兄が大学時代友人だったからだ。何と、その速さ。その日のうちに、外務省と上海領事館に手続をしてくれた。だが、残念。やる気のない上海領事館に重ねて文書を送っても、送った方がいい程度の効果。もう一つ、川端事務所、選挙目当てじゃないか。言わずもがな。いや、内心はどちらでもよい。外務省と比べれば、天地の開き。
 これは、後日談。上海領事館は、二年のうちに五回「早期事件解決」依頼文を送ってくれた。そして、最後から二番目の依頼文には、二度目に川端事務所から送った文書と森下の熱意が功を奏して、「本人が不満に思っている」との簡単な説明文が加えられることになった。異例中を飛び越した異例だ。
 内閣総理大臣・安部晋三は、北朝鮮の拉致被害者救済のために頑張っている。ここまで事が進められたのは、被害者・横田めぐみの両親。彼らは、娘のために、三〇年間、頑張り抜いた。それが、安部のやる気を引き出した。気の遠くなる話だった。

    四

 中国公安から森下の所に電話が掛かってきたのは、事件後三ヶ月経った七月。領事館から二回目の催促状が来たからに違いない。七月一二日、森下は、胡楊典を連れて上海公安局の浦東分局に向かった。担当者は、郝謹。
 森下は、それまでにも、劉雪明を通じて、郝謹の捜査状況を聞いてきたが、気になっていたのが、銀行のビデオと電話の交信記録。やはり、郝謹が出した捜査資料の綴りには、捜査開始決定書の他は、銀行からもらってきたコピーが二、三枚あっただけ。
「捜査資料は、これだけですか」
「そうです。忙しくてできませんでした」
 五月の初め、あれほど期限が切れるから証拠保全をやってくれ、と頼んでおいた捜査。なのに、何にもやってない。あの時の心配が現実のものとなっていた。思うに、被害届を交通事故係に送って事件を闇に葬ろうとしたこと、被害証明の調査時、「女と寝やがって」などと公安の本音を漏らしたり、通訳の学歴詐称をネタに「国益通訳」を強要したり、電話はいつも居留守の感じだったことから、この結果は想像できた。だが、森下は、上海公安の公安局長、出入国管理局長から「鋭意努力中」の返事があったので、ここまでひどいとは思っていなかった。
 次に、郝謹は、「周桂芳は、犯人じゃないから、これからは捜査しない」と言った。それは「何で」、「証拠がないから」。それなら、「捜査をすれば、周桂芳は犯人になり」「捜査をしなければ、犯人でなくなる」のか。禅問答議論が続く。なるほど、そのために、捜査をしなかったのか。ちなみに、皆が恐れている「一つしかない選択肢」の攻め具を使えば、「自白」によりどんな犯罪でも自由に造り出せる。中国では、犯罪の存在とは、そういうものか。
 また、外国人被害の犯罪は、特別班が行うという。「有り難い」。中国は、そんなに外国人の保護が手厚いのか。誰でもそう思う。それが大間違い。課長一人、課員一人の課で、捜査は郝謹が一人でやるのだ。何と、「特別班」とは、世界の目を騙すトリック(見せかけ)に過ぎなかったのか。中国のテレビでは、証拠保全に警察官が黒山のように集っている。外国人は、当然、それが「中国の捜査」だと思う。が、実は、別の場面を見せられていたのだ。実に巧妙なトリックだ。郝謹が忙しいと言ったのは、そのせいもあるが、制度的に特別班が外国には便宜を図れない仕組みにしてあったのだ。「すべて、中国の利益のため」、にある。なお、森下は、それまでに通訳を連れて行った時、二度も会議中ということで、約束を反故にされている。一体、何人で会議をしたというのか。日本人は、その程度に扱っておけばいい。金がなくなり、馬鹿ばかしくなれば、諦めるだろう。
 もう、周桂芳を捕まえることは無理か。いや、森下の提出した証拠を冷静に判断すれば、森下の出資が円元交換の控えで明らかになり、呉敏娜と周桂芳が共謀して銀行手続を行い、その結果、銀行預金がなくなっていれば、二人の犯行が証明される。さらに、周桂芳が用もないのに四女巧英の寄宿舎に三週間も居候したことを考え併せれば、周の犯意が鮮明になる。森下は頑張った。そうすると、郝謹は「まず、呉敏娜を捕まえる」「その後、呉敏娜が泥を吐けば、周桂芳も捕まえる」と言わざるを得なかった。
 何で、「周桂芳は非犯人」にこだわるのか。三ヶ月もあれば、周桂芳がどんな人物か調査できる。そうか、なるほど、「鋭意調査」とは、そういう調査だったのか。その結果、農民の娘である呉敏娜は犯人とし、共産党幹部の娘である周桂芳は犯人としないことにしたのか。
 こうして、「まず呉、次に周」ということが決定された訳だ。

 一〇月、森下が通訳を通じて連絡をとってみると、郝謹は、「呉に控布手続をとった」と言った。「控布」とは何か。日本の「指名手配」と類似の手続だが、日本のものより数段厳しい。これなら、確実に呉敏娜は捕まる。
 「控布」が行われると、戸籍にその旨が記載される。この戸籍は、中国のいかなる地方からでも閲覧でき、本人は、公的手続はもちろん、買い物にも身分証が必要なことが多く、一旦「控布」されたら最後、穴蔵で生活しない限り逮捕は免れない。中国の捜査は、報告捜査で一見ぬるいようだが、犯人はもう袋の鼠なのだ。
 もし、「控布」から逃れたければ、名前を変えるしかない。つまり、身分証を他人から買うのだ。殺人犯がよくそうして逃げ延びるというが、それでも数ヶ月のうちに捕まることが多い。もっとも、公安が犯人を捕まえようという気があっての話だが。呉敏娜の場合は、日本政府からの要請で「控布」手続をとった。それなら、呉敏娜は、網にかかったも同然だ。
 いずれ、こうなることは予想された。だから、森下は、事件から一ヶ月もしない時は、呉敏娜に次のような手紙を書いている。
「皆んな、思っている。戸籍に傷を付けると、本当に大変なんだ。だから、善良に生きようとする。呉敏娜、今ならば、元に戻せる。先生が助けてやる。頑張れ、勇気を出せ。
 一ヶ月は、友達の所に居候できる。その後は、出ていかなければならない。先生の会社を出ていく時、洗面具やまな板、やかん、鍋を持っていった、いや、盗んでいったから、籠城することは確実だ。だが、その後が難しい。そう、就職。それが難しい。まさか、就職しないで、事件のほとぼりが冷めるのを待つのか。それでは、大金を盗む意味がないだろう。
 そもそも、就職するには、会社に身分証を出して、仮住所を定めなければならない。それができない。そうなると、闇の仕事しかない。そんなに多くはない。外灘でポン引き(風俗産業の客引)でもするか。普通の日本人は、怖いから、片言日本語には相手をしないが、お前は日本語一級に合格しているから、日本人を騙すには十分すぎる。だが、そのために、日本語を勉強したのか。自尊心が許さないだろう。
 中国の捜査は緩いが、身分証の管理は厳しいぞ。甘く見ては行けない。そうすると、お前は、結婚もできない、子も産めない。ただ、次々と、やくざみたいな者と同棲するしかない。一生、宙ぶらりんで良いのか。これでは、両親を泣かす。こんな生活は止めなければならない。呉敏娜、頑張れ、勇気を出せ」

    21小説 「天 網」

    三

 森下が在上海日本領事館に援助を求めたのは事件直後であるが、本格的に接触を強めたのは、中国公安が事件解決をうやむやにし始めてからだ。そして、中村領事が上海の投資総元締め会社の社長に、日本叩きがあるから事件に関与したくないと言ったのは、事件から一週間ほど経った時のことだ。本音は本音だが、他にも理由がある。面倒なのだ。つまり、中村は、四〇歳を過ぎたところで、「外交官の仕事」とは何かをわきまえてきたからだ。
 最初、領事は、森下にこう説明した。「森下さん、中国語ができないのに投資なんてするから、行けないよ」「こんな事では、再び金を騙し取られるよ」と。それに対し、森下は「だから、私は、信用できると思った、自分の教え子に通訳を頼んだ」「これで駄目ならどうするか」と領事に釈明を求めた。だが、領事の説明は、詰まるところ、「自己責任」の繰返しだった。
 銀行の不手際、中国公安の犯罪見逃しが、本当に自己責任なのか。制度の不備と日本蔑視ではないのか。一国民なら、当然そう言いたい。さらに、中国に抗議しなければならない。だが、領事は、それは内政干渉にあたると言う。本当にそうか。
 厳密な意味で、相手国の内政にわずかでも影響を与えることが内政干渉なら、外交訪問だって内政干渉だ。この場合、抗議は入るが、友好は入らないとの詭弁は成立たない。友好だって、友好の名を借りた属国支配があり、これは立派な内政干渉だ。沖縄がまさにそうだ。それなら、何処からが、内政干渉か。詰まるところ、日本のように外交無能国なら、「お願い」ですら内政干渉となるだろう。そして、アメリカや中国のように外交強国は、武力を使わない限り、相手国政府に「ある事をせよ、あるいは、するな」とねじ込むことは内政干渉にならないだろう。いや、アメリカの場合は、イラク戦争ですら、報復だから内政干渉ではない、となる。
 領事の結論は、「日本人の投資の安全を図って欲しい」は内政干渉で、「刑事事件解決のお願い」は、干渉ではないと言った。刑事の場合は、「通知」が限度で、解決が遅れる場合は「督促」ができると言った。これでいいのか。胡楊典の指摘を見てみよ。日本人も責められるが、現に日本人が上海でひどい被害にあっているじゃないか。他にも、森下は、羅、史、秦、と数人の日本人からも被害を聞いている。小さなもの言うと、一年以上住んでいる日本人は、スリ・引ったくり、窃盗、強盗、詐欺には八〇%も遭っているという。なのに、何もしないでいい良い訳がない。
 外交官の仕事は多い。隣家の猫が子を産んだ如き事件にまで、相手にはなれない。中村は四〇歳を過ぎて、「外交官の領分」をわきまえてきた。こんなのは、独り合点だ。

 思い返してみよう、長崎国旗侮辱事件(一九五八)。あの時、日本は、法律に基づき犯人を処罰した。だが、中国は、「それでは、中国の面子は丸つぶれ」と因縁をつけ、「日中貿易」に干渉し、貿易を一時停止させた。それからは、貿易面で日本は被害を受け続けた。製品を送ると、技術までただで盗られた事件が、いくつあったか分からない。財界は、嘆きに嘆いた。それでも、日本は「抗議」しなかった。
 尖閣諸島を見てみよ。百年前は、日本の水産会社があり経済活動をしていた。だが中国は、「あれは、日本軍国主義が中国から奪ったものだ」、と二〇年ほど前から自国領だと言い始め、紛争地だとも何とも記すことなく、地図上で「中国領」を宣言している。それだけではない。学校現場で、ガンガン愛国教育を施している。だから、跳ね上がり分子が尖閣諸島に「中国国旗」を立てに行く。
 これは外国での話。一九九二年、中国は「領海法」を定め、南シナ海の「中国領」を宣言した。赤道近くまでだ。これも、中国の地図にはっきり中国領が描かれている。何で、こんな所まで中国領だ。ベトナム、マレーシア、インドネシア、フィリピンは、軍事力に欠けるから手も足も出ない。
 最近では、春暁ガス田事件(二〇〇五)では、中国軍隊のお出ましとなった。このガス田は、東シナ海の日中経済水域の中間付近にあるので、当然、両国の経済交渉が必要なところだ。それを、中国が一方的に「開発」する、と言うのだ。もし、日本の憲法に戦争禁止の条項(憲法九条)がなければ、軍事衝突が起こる。
「領事さん、情けないでしょう」。「そうですね」。やっと、少しは、やる気を出したようだ。

 アメリカの対外政策は、まるで植民地主義だ。
 ある時、ニューヨークで、日本の大和銀行が、行員の不祥事により一一〇〇億円もの被害を被った。善後策が必要。首脳部は、日本の大蔵省に相談した。「どうしよう、どうしよう」という間に六週間。「なぜ報告が遅れるのだ」と罰金三五〇億円。アメリカ司法当局の処置だ。驚いたのは、日本政府。これでは、紛れもなく「日本」処罰だった。何でこんなことができるのか。軍事力、それ以外にない。
 スーパー三〇一条。これは、アメリカ商務省に対し、貿易に関し相手国との交渉を授権した「国内法」に過ぎないが、これが独り歩きする。「お前の貿易のやり方は汚い、制裁する」と。何で、外国会社がアメリカ法で処罰されなければならないのだ。日本は、処罰回避のために頭を下げて言いなりになった。一九八五年頃の貿易摩擦とはこの事を指す。実際に処罰を受けた国もあった。南米の多くの国だ。中国は、「やるなら、やれ」、と処罰に受けて立った。軍事力か、多分そうだ。アメリカが中国に切込んだこともある。中国では十年程前から増値税一七%(=消費税)を課しているが、それがアメリカに不利だと噛みついた。確かに、中国国内企業に対しては税の還付があるから、理由がある。当然のごとく、戦勝した。なお、日本は言いなりだ。
 言論界でもすごい。ただ、手出しまではしていない。中国の人権弾圧、言論弾圧はひどい。これに、どれだけ噛みついたことか。天安門事件(一九八九)の王丹しかり、湖南省共産党教授・何清漣事件(二〇〇一)しかり。弾圧を放置すれば、当事国では、その政治「措置」が正しいことになり、盲信した先鋭部隊が決死する。そんなこと、国際社会が放置できない。極端な例は北朝鮮だが、中国も「大本営」発表が支配しているから、「言論には、言論で」の範囲内で釘を打込む必要がある。最近の話、アメリカは、自国の利益のために、中国国内問題である中国人の人権に介入した。
 ニューヨーク・タイムズの北京支局職員の中国人・趙岩が国家秘密漏洩罪で起訴された。中国事情をアメリカに伝えることが、何で機密漏洩に当たるのだ。アメリカが激しく抗議した。そうすると、中国は、機密漏洩罪は不起訴にしたが、腹の虫が収まらない。次は、収賄罪で懲役三年の判決を言い渡したのだ。趙岩は、官権の圧力に屈して刑に服そうとしたが、アメリカは、事件そのものがでっち上げだと控訴させた。中国のやり方に拷問はないようであるが、「一つしかない選択肢」の理論を使って攻める。もう、逃れられない。「一つの選択肢」とは、「お前は、これこれの罪を犯した。それを認めるまで、そこに座って考えよ」と「自白」を迫る選択肢だ。延々続く。小罪なら百%、大罪でも、大抵耐えかねてしまう。これで、我々門外漢には真実かどうか全く分からない「機密漏洩」「収賄」事件が犯罪として「認定」されていく。この攻め具は、広く行われている。森下も、以前の江川日語で、理事長が幾度となく使ったのを記憶している。
「領事さん、行き過ぎですか」。答えられない。

 ああ言えば、こう言う。領事中村は、森下を「説得」できない。領事が、日本領事館の使命は「日本国民の生命・財産を保護すること」、との正論に対抗できないのは当たり前のことだ。事件から一ヶ月半後、中国側に「事件解決」をお願いした。仕事が増えるが仕方がない。中国公安の一通りの「捜査」が終わった頃の話だ。
 二週間ほどして、中国公安から返事が来た。続いて、出入国管理局からも返事が来た。異例の事だという。だから、中国側は、必ず事件を解決するだろう、と。「異例」とは、それまで「なかった」とことだが、なら、事件解決を要望したことはあるのか。
 裏を言おう。「何だ、事故係に刑事事件を回したりなんかして」「ビデオ証拠の証拠保全は一ヶ月しかないぞ」「電話の通信記録は三ヶ月しかないぞ」「担当者は、会議だ会議だと、居留守ばかりじゃないか」。通常、このような主張は「内政干渉」になるから、証拠に残る文書ではやらない。だが、口頭ではしたのだ。その「成果」が異例の二通の文書となって現れたのだった。なるほど、領事にも、口頭なら「内政干渉」を敢えてすることがあるのだ。だが、これが「努力」か。
 森下の所に連絡が入ったのは、夜の八時過ぎだった。荻野事務官からの報告だった。曰く、我々は、日本政府との連絡に、夜八時は当たり前、十二時だっていくらでもある、と。という舞台裏を少しだけ教えてもらった。
 とにかく、領事館というところは、文書連絡に忙しい。何故か。会議、会議、会議。そのための政府間連絡。表敬、友好。交渉、契約。外国との交渉は、腹のさぐり合い。そのために残す文書、残しては行けない文書。共通しているのは、彼らは一貫して表舞台には出てこない「黒子」だということ。とにかく、日本政府の意向を忖度して行動する。これが良くない事につながる。長年のうちに、自己判断力を失うのだ。それに、すべて満たされた境遇、それがその場の繕いと無責任思想を倍加させる。だから、他人に判断を仰いでもらう文書作りがやたらと増えるのだ。
 だが、情けない。もっと愛国心が持てないのか。だが、残念、それを持っては行けないのだ。出過ぎた杭になる。外国の外交官には成果達成の「任務」があるが、日本の外交官には「禁任務」があるだけなのだ。外交官だった天木直人は、「さらば外務省(二〇〇三)」で振り返る。売国官僚ばかりだ、と。外務官僚は、日本国の国益、日本国民の生命と財産を守るためにもっと働け。お前たちの鏡は、六千人のユダヤ人の命を救った杉原千畝だ。
 相手から返事が来れば、大成果。二つ来れば異例のこと。まだ、何も成果なんか出ていない。いや、「領事の名」が入った文書が往復するだけで十分。それ以上は、「禁止」なんだ。
 一回、二回、三回、森下が強く領事館の任務を主張すると、領事は、中国公安に手紙を出しくれる。だが、どれもこれも事務文書。「事件発生後○ヶ月経ったが、未だに事件が解決しない云々」。これで、相手が反応するか。中国公安は、よく知っている。日本外交官は「禁任務」だから、返事は、「ただいま捜査中、今暫く待たれたい」これで十分なのだ。担当警察官には、「お茶を濁せ」。森下が、通訳を通じて担当者に連絡してみると、「外交文書作り」だけで、何一つ捜査はやっていなかったのだ。

    20小説 「天 網」

    二

 呉敏娜、周桂芳、このまま逃げ切らせはしないぞ。芯まで腐った周易明、阿片漬けの李湘南、俺は危うく失明するところだったんだ。中国公安も同罪だ。刑事犯罪を、事故処理としてもみ消そうとして。お前たちに弾丸や暴力では勝てないが、紙吹雪では負けないぞ。
 森下は、呉敏娜と周桂芳の弾劾ビラを、中国公安、日本領事館、無錫および衡陽の地方政府、彼らの卒業学校、関連する共産党、就職可能企業先へ送った。送り先は一五〇カ所。回数は計八回。以下はその概要だ。

「私は、二年半前、上海の日本語学校で、教師と学生という関係で呉敏娜と周桂芳を知りました。翌年は、七ヶ月間、週二〇時間、他の二人と共に、無償で日本語を教えました。そして、今年、呉と周は、日本語一級試験に合格し、私が会社を設立すると言うと、進んで私の会社に来たのです。私は、彼女たちを信用していましたところ、私の信用を利用して、二人は共謀して今次の銀行預金窃盗という犯行に及びました。私は、言葉を失いました」
「ところで、呉敏娜とはどういう人物でしょうか。彼女は、南京の電気学校を卒業しましたが、電気が怖くて適当な仕事がなく、兄の援助で日本語を始めたのです。彼女は、兄と繊維関係の共同事業を計画し、日本語が役に立つととても喜んでいました。ですが、彼女は、とても日本語が下手で、私がどれだけ彼女の発音指導をしたか分かりません。呉敏娜は、「先生、先生」と私に寄り添ってきました。他人の援助もあり、今次、めでたく日本語一級に合格したのです。
 私は、呉敏娜と周桂芳に会社を潰され、二人は絶対に許せません。現在、呉敏娜は、上海の徐家汇からその北方付近に潜伏していると思われます。公安が協力してくれれば、三日もあれば逮捕できるでしょう。ですが、何もしてくれません。これでは、日本人の物は盗り得です。
 今、私は、上海の日本領事館を通じて、事件解決を懇請しています。ですが、中国公安はのらりくらりで、解決は進展しません。良識のある皆さん、日本と中国の経済発展のためには、このような国家のダニを叩き潰さなければなりません。関係者の皆さん、私を助けてください」
「証拠があれば、どんな犯人でも、盗んだ物は返す。常識です。呉敏娜の家族もそれに従おうとしました。しかし、外国人が被害者の時は、犯罪捜査が甘い。そうなると、日本人が帰国するまで逃げ回れれば、盗んだ物が自分の物になる。呉敏娜の家族は、今は貝のように黙り込んでいます。悪銭で事業を大きくする。そんな事がうまく行く訳がありません」
「皆さん、通訳とはどういう仕事でしょうか。主人と相手の間に立って働くもので、紛れもなく公人です。ですが、その一方で、主人を騙せば、莫大な金を盗むことができます。ですが、これを許したら経済の根幹が成立ちません。今や、中国経済は、日本と切っても切れません。日本と友好関係を維持し、投資を促進してこそ発展するのです。呉敏娜は、その投資資金を盗んだのです。だから、呉敏娜の犯罪は、通訳としては最悪の犯罪です。厳しい社会的制裁が必要です。また、盗んだ金を待ち詫び、呉敏娜の逃走を助ける兄は、事後共犯です。さらに、これを糾弾できない中国政府は、国家として失格です。犯人よりさらに重大です。
 無錫の皆さん、私たち日本人は、信頼できる中国人を求めています。私は、その中国人として、長年の誼だと呉敏娜を選びました。だが、呉敏娜は、裏切りました。これは単に日本人を裏切るだけでなく、無錫の皆さんも裏切っています。このような裏切り者には、断罪あるのみです」

「さて、周桂芳とは、どんな人物でしょうか。彼女の家系は共産党幹部の家系で、彼女は当然のように共産党青年団にはいり、最後は団長になりました。この間の生活は誉められるものではなく、結婚もしないのに副市長の息子と同棲し、堕胎を繰返していくのです。後に結婚しましたが、夫が麻薬患者になり、その時は、上海に逃げてきて日本語を学習し、その後また、元の夫と復縁するのです。この間の生活は、労働収入がないのに、衣服や化粧品は高級品ばかり。黒い金の仕送りで、身の丈に合わない浪費ぐせが着くのです。一ヶ月五千元の消費は間違いありません。だからでしょうか、通訳の社会的使命を忘れて、盗みに走るのです」
「周桂芳は、たぶんこう思っています。どんなに証拠があって犯罪が明らかでも、上海の公安は衡陽までは追いかけられない。仮に逮捕されそうになっても、公安と共産党を飼い慣らせば、本拠地である衡陽では絶対に捕まりっこない。よく知っているのです。被害者がそのことを知れば、諦めるだろう、です。
 衡陽の皆さん。一五万元は、大金でしょう。湖南省は、平均賃金が五百元にも満たない貧しい地方です。おそらく二〇年分三〇年分、いや、生涯賃金にもなる人が多いはずです。飲まず食わずで、ですよ。そんな大金を盗んだのですよ。それでも、捕まらない。それなら、働くより一時滞在の外国人(観光客)から金を盗る方が良い事になるでしょう。そんなことが許される訳がありません。
 話は、少し変わります。私は、あの有名な安徽省の黄山に行った時、似た経験をしました。表向きは観光地でも、裏は犯罪の巣窟です。私は二度と黄山には行きません。黄山出身者にそう言ったところ、悲しい顔をしました。そして、故郷がそんな風に思われているので、自分たちは、出稼ぎに来なければならない、と嘆くのです。故郷がいい町であって欲しい。皆んな、そう願っています。そのためには、勇気ある党員が悪と全力で戦って欲しいです。そして、衡陽を明るく、豊かな町にしてください。そのために、皆さんが奮闘することを期待しています」
「私が、第一回目の弾劾文書を公的機関に送りつけると、三女の桜芳から上海の私の所へ怒鳴り込みの電話がありました。かなりのショックがあったからでしょう。桂芳は賢いからそんな悪いことはしない。お前はアホだから、窃盗をでっち上げる、と言いました。そうではないでしょう。姉は賢いから、働かないで他人の金を盗む。私は愚直だから、その金を取り返そうとする、でしょう。
 なぜ、周桂芳がこの手紙に過敏になるのでしょうか。銀行預金窃盗の周とまだ阿片の抜けきっていない夫は、緑の三角帽子を被せられ、親戚一族、人民政府、共産党内を引回されて恥ずかしいのです。それもその筈です。わずか一年前は、周桂芳は日本人三人を故郷の衡陽に連れてきて観光させ、コネ(縁故)ができたと鼻が高かったのです。今は、穴があったら入りたいでしょう」
「周桂芳は、預金窃盗後、まっすぐ故郷へ戻りました。その後、私が周易明に盗んだ金の返還に迫ると、暴力団と身内を集めて、私に襲いかかるのです。私は、目を殴られ、危ないところでした。一瞬、気を失いました。幸い目の怪我は二週間、視力回復には一ヶ月でした。
 通訳が投資者を騙せば、簡単に会社資金が盗み出せる、こんな事を政府が許したらどうなるでしょうか。外国人は、怖くて投資どころではありません。ですが、衡陽では、これが許されるのです。黒い金が環流するからです。周一族は、その代表でしょう。四人の娘たちを見れば明らかです。身につける物は、ブランド(一流)品ばかりです。李一族も、同様でしょう。校長が賄賂の山、は常識です。
 町の発展は、阿片の密売や外国人からの金品強奪によってではありません。あくまで、産業投資によってです。今、日本からの投資は、中国全体ではどんどん進んでいるというのに、衡陽へは遅々(ちち)として進みません。地方政府の政策は、まるで投資者を追い出すも同然だからです。今や、衡陽の幹部の腐敗は全国で有名になっています。そのことを、何清漣は嘆いています。湖南省が生んだ学者ですよ。この事を、肝に銘じておいてください」

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