日本の再生と国際化を考える

英才教育、日本語の国際語化、数値の3桁読み、度量衡改革、漢字仕様電脳、やる事は多い。

小説「天網」‥中国の通訳腐敗

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    19小説 「天 網」
四章 天網が掻い潜れるか

    一

 事件解決には、呉敏娜の足取りを追うことが最も重要。潜伏先は、朝日日語の元学生で、徐家汇界隈の友達の所だから、その元学生の身元を洗え。森下は、呉敏娜らに日本語を教えている時、呉敏娜から朝日の情報をあり余るほど手に入れていた。特に、日本人の香山哲朗夫妻のことは、手に取るように分かっていた。夫人は、副校長で通訳までしている。学生も、何人かは直接会っていた。反対に、森下の情報もすべて朝日に知られているだろうから、いろんな事を教えてくれるに違いない。
 森下は、朝日日語に電話してみた。事件から一週間たった頃のことだ。哲朗は、知らないの一点張り。事務長は嘘ばかり。本部に電話した。ここも嘘ばかり。どうなっているのだ。お伺いするという立場上、「お前、嘘をつくな」とは言えない。やんわり矛盾を突く。そうすると、次は、プライバシーに関することは教えられないの一点張りで、やっと聞き出せたのは、蘇州受験組が一二人だった事だった。
 会って話をすれば、情が移るだろう。二週間後、森下は、本部に乗り込んだ。応対したのは、李事務長と魏校長。魏は、流暢な日本語を話す五十がらみ、上背があり恰幅がいい。だが、形は見るからに陰険。この学校は、魏のワンマン経営で、他の者には何の権限もなく、何も喋れないのだ。なるほど。魏の話は、突き詰めるとこうだった。
「学生の名前を教えると、その学生からプライバシー侵害の訴訟を起こされるからできない。そもそも、朝日には学生が七千人いるから、その学生の調査には膨大な時間がかかって実質的にできない」と。で、これで騙された者が何人いたのだ。
 そもそも、「呉敏娜の友達は誰それ、その電話番号は○○」。これが名誉毀損の対象になるのか。ないとは言えない。現に日本では、そういうとき、依頼者には教えず、その相手方に依頼者の番号を教える。中国でも同じか。トンでもない。はっきり言って、中国では、身分証番号ですら、物を買う時申告しなければならず、プライバシーはないに等しい。電話番号が教えられないことはあり得ない。校長が何らかの理由で言いたくないだけだ。「訳あり」かも知れない。
「学生が七千人いる」。確かに、そうかも知れない。聞いているのは、その中の蘇州受験組の一二人、上海受験組を入れても高々五〇人に過ぎない。その調査には、一分もかからない。現にそうだった。校長は、その事を知らないとでも言うのか。最後にこう言った。自分は弁護士をしていて、訴訟手続には精通(せいつう)しているし、人権侵害事件は実に厄介(やっかい)な代物だ、と。
 なるほど、トンでもないことを言うものだ。なるほど、それで分かった。共産党幹部、有名実業家、医者、弁護士、これらは上流階級をなしていて、彼らは「結束」している。現に、呉敏娜は校長に相手にされなかったのに、周桂芳は懇意だと言っていた。一三〇〇キロ離れた衡陽と上海、何で関係があるのか。三女の婚約者だって衡陽と上海、四女の結婚相手は衡陽と杭州。「結束」を考えてこそ、魏の「言いたくない」理由が分かる。日本人なら、お金を持ってきてくれるぞ。いや、しかし、眼前の日本人には棘(とげ)がある。相手にしない方が安全だ。そもそも、金を盗まれて丸裸にされた者に用はない。

 日本のテレビ局に当たってみよう。森下は考えた。テレビ局は、政治問題、人権問題には敏感で、特に外国での事件は、何をおいても飛んでいく。森下の問題は、即外交問題にも発展する日本人の銀行預金窃盗問題だ。トップ記事になってもいい。
 森下は、事件から一ヶ月ほど経った衡陽行きの三日ほど前、あるテレビ会社の上海支局に電話した。上海には日本のテレビ会社が勢揃いしていると思っていたら、実は、関西テレビが代表を務めているだけで実質一社だった。つまり、ここからの発信が、日本の民放のすべてだ。なら、都合がよい。だが、駄目なときは、全部駄目になる。
 特ダネか。支局長・中島順也がやってきた。警察のわざととしか思えない交通事故への事件転送、日本叩きがあり、やる気のない上海領事館、朝日日語の校長の話、分けても銀行の不手際、さらには、日本人の投資の安全確保の必要性、できれば、権力関係の裏の「結束」の暴露、森下は熱を込めて訴えた。やや押された中島は、「大いに取材価値あり」を強調したが、「厄介問題」を背負い込みそうで、手が出せそうにないことも仄めかした。
 一週間後に返事が来た。「今、北朝鮮の核問題で忙しいから取材はできない」「いずれまた、その機会がくるから、その時は、無錫、衡陽の取材を入れて、中国投資特集でも組みたい」と。
 中国への日本からの投資は近年ますます盛んになってきた。二〇〇〇年以降、日本の大会社が中国シフト(拠点移動)を強めてきて、この流れが奔流になりかけてきた。その結果か、平成不況の克服は、中国シフトによって、いざなぎ景気を上回ってきたとも言われている。この流れに水を差すことがあってはならない。本当か。その裏では、中小企業、個人企業が、やや減ったとは言え、空前の倒産で喘ぐ。さらに、小商店は、年間三〇万軒の勢いで消滅し、駅前がシャッター通りと化し、駅前ですら廃墟が進んでいる。経済が回復しているのに、消費が伸びないのは、「大本営」発表が嘘であることの証左だ。
 少し才覚のある者は、我も我もと中国へなびく。一攫千金を目指すのではない。苦し紛れのわら足掻きだ。それを待ち受けているのが、中国の投資制度の不備と群がる黒い奴ら。この場合、官憲や国民は、強く反日教育を受けていて、日本人の金を盗ることに何の抵抗もない。そればかりか、盗れば盗るほど「南京大虐殺(一九三七)のお礼だ」となる。
 森下は、通訳予定の胡楊典から、いろんな事件を聞いた。胡は、渡りの通訳で、とにかく日本人関係がとても広い。ちなみに、たまたま森下の所に来たのも偶然の一つだった。
 ある建設会社の社長の話。彼は、通訳兼経理としてある中国人を雇った。というより愛人にした。よくあることだ。森下の場合だって、呉敏娜の色仕掛けは似たようなもの。愛人は、事あるごとに余分に経費を落とした。社長は、薄々感じていたが、本当に気が付いてみると、会社は倒産寸前。後の祭りだったという。新たな通訳として男を雇った。それが胡楊典なのだ。
 これは、繊維会社の社長。愛人契約をし、愛人名義で豪華マンションを買った。一三〇万元。愛人は、いつの間にか自分の「夫」に転売し、「夫」はさらに転売。ここで社長が気付いた。訴訟中だというが、転売は「有効」で、ほとんどどうにもならないという。奇妙なのは、社長は、それからでも愛人と同棲中なのだ。愛人を人質にとれば、いくらかでも転売益が取戻せると思っていたという。
 第三は、本当に結婚した例。これも繊維会社だ。妻は、日本人は優柔不断で本当にだらしない男だと思った。だけど、日本人は、日本から金を持ってくる。すべて嘘。借金をしまくって、その時、たまたまその中国人に、つぎ込んでいるだけだった。いつまで、続くのかこの愛。離婚して逃げるべきか。そこで、素行調査に雇ったのが胡楊典だった。
 そんな事が本当にあるのか、ずうっと疑問に思っていたという。銀行預金だって、ごく簡単に「抜かれる」。森下の被害の後、話だけでなく、実際に森下と共に実体調査をしてみて、犯行の容易さを知ったという。
 第四は、共産党がらみの結婚詐欺。ある日本人が共産党幹部の娘と一年ほど付き合ってきて、いよいよ結婚。日本人が準備金として二〇万元を渡すと、その金を持ってドロン。親に賠償請求すると、「知らん」の一点張り。公安も相手にしてくれない。周桂芳の事件と似ている。違うのは、この日本人は、自分の金であるとの証明ができないことだ。犯罪とは、事実関係で、法律関係ではない。証明書はなくても成立する。明らかな日本人蔑視だ。胡楊典の取引相手先だった。
 第五は、同済病院。これは、盗みとは関係ない。胡は、ある時、日本人の診療も可という病院に勤め、通訳になった。性病の日本人、エイズ検査の日本人、そういう者が続々押し掛けた。最も多いのが、バーのマダムとの愛情関係、経理係との愛情関係。聞くに堪えない愛情問題のなれの果てばかり。その後ろ姿を見るにつけても、日本人の被害の大きさを感じたという。そういう哀れな日本人の、その請求書には、逆にゼロを一個足したという。何と、日本人は、尻拭い費用も「いいお客さん」だった。
 そう言えば、森下も思い出した。江川日語では、パトロン(水商売の旦那)のいる学生が十指では足りなかった。それを考えると、裾野の大きさを今更ながら思い知ったのだった。

 日本のテレビ局、何で「北朝鮮の核」という姑息な理由で逃げるのだ。言論人という使命はどこに行った。弾圧を恐れない言論人は、政府に抵抗して死んでいった。何故、あれができないのだ。北朝鮮の事だけは書き放題だが、中国の事はなぜ書いていけないのだ。日本政府、日本財界の「検閲」があるからか。
 いや、分かる。日本「総」テレビ代表の中島支局長。知っているだろう。最近、中国が稼いだ外貨の一〇%は、裏金となって幹部に環流したという。実数で言うと、一千億円を下らない。ニューヨークのマンハッタン、豪華マンションは、幹部の別荘になっている。利益を供与したのは日本財界。さすがに、この巨悪に向かっては、先兵「関西テレビ」では、とてもとても太刀打ちできない。だが、救うべきは、財界なのか、大衆なのか。

  18小説 「天 網」

 午前八時、約束の時間。森下はホテルのフロント(玄関広間)に出た。周飛が待っていた。雨が本降りだ。何と幸運だった。外に出ると、一台の自家用車。中には周飛の父親。聞くと、地方政府の役人だとのこと。こう言った。「今夜、一緒に食事をしましょう」。何でだろう。留学の便宜の事だろうか。ただ、「あなたも同じ穴の狢ですか」「私にどんなコネ(縁故)を付けたいのですか」、これは絶対に言ってはならない。だが、平均給料が五百元に満たない片田舎で、七、八万元もする自家用車を持ち、しかも、子供を日本へ留学させるほどの資力、そんな人物がそうそうある筈はないのだ。夜には、偶然が待っているが、要注意。
 車は、華南大学前で止まり、二人は降りた。まずは、事務室から。事務長が仰天する事を言った。李湘元の次男は、阿片中毒(吸毒)だというのだ。だけど、学長に同情してか、断定しなかったと言った。なるほど、だから、周桂芳が夫・李湘南から逃げてきたのだ。いくら、言葉を濁したつもりかも知れないが、そんなことが隠し通せるものでもないし、周桂芳の訳あり事情を合理的に解釈すれば、吸毒は当然過ぎるほど当然。ただ、それが何か、分からなかっただけだ。特に、「先方と話し合って、結婚は一年先に延ばしたとか、二年先に延ばした」と言ったことは、復縁するに当たって、李湘南の中毒が十分治りきっていなかったことの証左に他ならない。
 次に周飛は、それを確認しに行くと言った。近くに麻薬更正病院がある。タクシーの中で電話が鳴った。この地区の公安で戸籍係長をしている伯母(おば)さんからだ。約束では、李湘元、李湘南父子の戸籍調査をする予定だったが、それが無理になったとの事だった。同時に、病院調査も無理になった。森下の運もここまでだった。
 あっ危ない。明るくなって、ビラに気づいた周易明が、戸籍調査を止めさせたに違いない。森下にも周飛に、その事は知る由もない。
 何事もなく、その夜、森下の歓迎会が開かれた。森下には、偶然幸運なおまけが付いた。飛には姉・秋がおり、秋は友好都市契約のある日本の滋賀県に研修留学をしていて、飛の日本語表現をすべて補ってくれたのだ。総合判断では、飛の留学と秋の懐かしさのようだが、さらに親が顔を出すと、どうしても同じ穴の狢を考えざるを得ない。

 夜八時。昼間、森下はこの危ない状況でビラまきをし、夕方には、歓迎会をしてもらって帰ってきたところだった。コンコン。森下の部屋をノックする者があった。あっ、危ない。開けるな。だが、森下は、不用意にドアを開けてしまった。
 入ってきたのは、昨日の警察官とその助手、周易明、長女の暁梅、それに三女の桜芳、の五人だった。「逮捕だ、もうだめだ」。とは言え、最善を尽くさなければならない。慌てるな。とにかく事をゆっくり進めることだ。相手は、銀行預金窃盗犯なのだから、必ずどこかに勝機がある。「何かご用ですか」。
 暁梅が、森下が明け方に貼ったビラを鷲掴みにしている。そして、警察官の「中華人民共和国にいる外国人は、共和国の法律に基づいて行動しなければならない。お前のビラ貼りは違法だ。分かっているだろうな」の声。次に、暁梅がビラを広げた。「法律に基づいて行動」は、一見当然のように見えて、これほど日本人を愚弄する二枚舌理論はない。この「順法」理論は、中国で事業をしている日本人は、二回や三回は聞く言葉だ。日本人の違法行為には、中国公安はもちろん「法律に基づいて処罰する」と言う。逆に、日本人が中国人を追求しようとすると、「お前たちは、法律に基づいて行動せよ」「さもないと処罰するぞ」とさんざん不安を掻き立てる。いずれにしても、日本人は浮かばれない。森下は、以前の江川日語の騒動で、学生を助けようとした時、これを何回も経験している。
 何か妙案はないか。「俺は、中国語が分からん。通訳として周桂芳を連れてこい」。森下は、こう言った。警察官は、また同じことを言う。しかし、これにまともに「はい、はい」と答えては行けない。たださえ、不利な状況下にある日本人が、さらに不利になる。「法律なんか、分からん」「言葉が分からん」で通さないと行けない。苛ついたのか、「お前は、俺を知っているだろう。俺は、昨日の警察官だ」。これにも、「知らん」。三女の桜芳が、「お前、今日の昼間、あの時、中国語が分ったじゃないか」と苛立ちの喚き。押し問答が続く。
 ああ、アホらし、ちょっと一服、それとも勝ち誇った余裕か。周易明がたばこに火を付けた。「馬鹿やろう。ここは、俺の部屋だ。お前、出て行け」。易明が、ちらっと警察官を見る。目配せが返る。易明が火を消す。双方が「俺は、お前の言うことが分からん」を言い合い、膠着状態が続く。時に「周桂芳を出せ」。長引けば長引くほど、こちらが有利。
 警察官がうんざり。部屋を見回し、「とにかく、ビラは違法だから、もらっていく」。残りの三〇枚ほどのビラを掴んだ。それにつられて、暁梅が別の書類を取ろうとした。そもそも、大金を盗った周の方が悪い。「桂芳は泥棒だぞ」「調子に乗るな」森下が阻止した。警察官は、成り行き任せの傍観。
 森下には、分かった。警察官はこのまま「矛を収めようとしている」。桂芳が悪いのだ。間もなく出ていった。五分後、周飛が友達四人を連れてやってきた。残念。

    六

 森下のショックは大きかった。奪われたビラは、コピーすれば取り戻せる。腹の立つことは、警察官は、森下がいくら頼んでも言ったことはやってくれないのに、周易明には、何処に泊まっているかも分からない森下のホテルを捜しだし、しかも、夜八時を過ぎてから大泥棒に加担している事だ。大きな悪には目をつぶり、それを糺そうとする小さな違法には牙を向けるのか。許せない。と言っても、ホテルの住所が分かっている以上、さらなるビラ撒きは危険きわまりない。森下は、恐怖に身が縮こまる。汽車の出発は、翌日の夜九時。上海着は、その次の夜。敵の回し者に怯え、翌日の昼間は何もしないで、ただ縮こまっているのか。おい、お前、男なら元気を出せ。森下は、渋々でも、「ビラで戦うぞ」を選択せざるを得ない。
 翌朝八時。まず腹ごしらえ。食堂に入って腰掛ける。親父が話しかけてきた。「周桂芳という奴はひどい奴だな。わしの一五年分の稼ぎだよ」。「ええっ、何」。顔を上げると、ああっ、そうか、前日に森下が貼ったビラを剥がしていった男ではないか。やはり、自分たち大衆の上前を撥ねるだけでは足らず、外国人からも大金を盗ることが許せないのだ。銃弾の前に飛び出せるのは、自分しかない。飛び出すからには、敵陣深く切込まねばならない。森下の決意だった。

 森下は、衡陽の目抜き通り仙姫巷から周易明の店子近くの道路を歩いていた。「こんな女を知りませんか。大泥棒ですよ」「ひゃー、なんてすごい奴だ。自分の給料の二〇年分だ」。確かにそうだ。いや、三〇年分、生涯賃金の者だっている。この辺りの売り子の給料は、いい所で五百元、悪い所なら三百元なのだ。この広い衡陽、周桂芳が何人の刺客を送っているか分からないが、そんな奴らに見つかってたまるか。前日の臆病神のついた懦夫は、勝ち誇った勇者に変わり、道路沿の商店街の売り子にビラを配っていた。
 ガーン、一瞬にして目の前が真っ暗になり、気が付くと、森下は道路に仰向けに倒れていた。五秒前、自分に近づいてくる二つの影、一見、その場に馴染まないものを感じたが、刺客だとは思わなかった。すれ違いざまに、刺客が森下の眼球目がけて拳骨で殴ってきたのだ。森下は、店員と話し込んでいて、全くの不意打ち状態。一、二歩後ずさった感じだけで、そこから先の記憶がない。森下は小柄、刺客は大柄、全体重をかけてのパンチが、天空からまともに決まった。森下は、その一発で道路に沈んだのだった。
 ああっ、やられる。殺されるかも知れない。二、三秒後の意識朦朧の中での認識。だが、刺客は、ビラを奪うと足早に立ち去った。人通りの絶えない、舗道上の、一瞬の出来事だった。
 森下は一分ほどで立ち上がったが、周りが全然見えない。眼鏡が一メートルほど先に転がり、レンズは枠から外れてその先に転がっていた。眼鏡を掛けても、物を見ている感じがない。殴られた方の目は、霞んでほとんど見えないのだ。売り子に聞くと、目から血が流れていた。汽車の発車までは、まだ一二時間ある。これから、どうするか。とは言え、駅は危ない。森下は、恐怖が先にたち、駅近くで暗くなるのを待った。
 上海に帰ってから病院に行った。目がパンダのように黒ずんでいたが、眼球に大した傷はなかった。殴られた所がちょうど眼窩骨の真上で、しかも、拳の中心がプラスチックレンズの真ん中だったからだ。目の傷は二週間、視力回復は一ヶ月。

 周桂芳、お前の家族は、暴力団を兼業しているのか。森下は、手紙を書いた。
「五月一五日、私は、お前に会いに行った。家族は、私のホテルに怒鳴り込んでも、お前は出てこない。よほど、恥ずかしいのだろう。私は、六〇年間に、恩をこんな仇で返されたことはない。お前は、それほど非情の人間だ。
 最後は、私は眼部を殴打され、二週間の傷を受けた。診断書を付ける、読んでくれ。殴打したのは、身長、容貌から判断して、お前の「夫」だ。お前の家族は、たぶんこうして盗品の取返しを防いでいるのだろう。衡陽の暴力団は、中国でも有名になった。「中国の経済発展の落とし穴(何清漣)」を読んでみよ。なお、何清漣は、お前と同郷・湖南省の共産党教授だ。彼女は、思いあまって共産党の暴露記事を書いたため、今は、アメリカに亡命中だ。爪の垢でももらえ。
 話は変わる。お前の先夫であり復縁予定の夫は、麻薬患者だというじゃないか。それを、お前は、だから「逃げてきた」と表現してきた。私は、「浮気」だけじゃない「訳あり」を感じてきたが、こんなにひどい事とは思わなかった。その意味では、お前も被害者だ。だからといって、一家一丸となって暴力団を営んでいいとはならない。
 謝罪する気持ちがあるのだったら、お前の悲運の過去に免じて、今なら受入れてやる。表へ出てきてくれ。電話をくれ。なお、付け加えておくが、私は、今、日本国外務省を通じて、逮捕手続を完了しつつある。逮捕は、時間の問題だ。よく考えてくれ。 二〇〇五、五、三〇 森下弘」

    17小説 「天 網」

    五

 呉敏娜方に目処が付けば、次は、周桂芳方。四月二九日に機会が訪れた。衡陽は、上海から一三〇〇キロ、列車で二四時間かかり、往復四日を予定しなければならない。史莹に頼んだ。彼女はちょうどその時転職中で、彼女なら、交通費だけで済む。
 出発の上海西駅。バスの渋滞、おまけに雨。西駅だったからよかった。発車、五秒前。上海駅なら、発車三分前に改札打切りにあうところだった。翌日の昼過ぎには、衡陽に着く。
 衡陽着。さて、これからどこに行くか。史は、市役所の外事がいいと言った。外事長は、夏建平。森下は、名前を控えた。これがよかった。後に、役立つ。夏は、「お気の毒、だが、ここは窓口違い。公安へ」と、にべもない。
 この時、いやに馴れ馴れしく話しかけて来る女がいた。「そう、それなら、私が案内して上げましょう」。少し気持ちが悪いが、助けてもらおう。「まず、ホテルに行きます。そして、次は公安へ」。道々、こんな事を言う。「衡陽という所は、危ない所ですよ」「私はね、五〇万元盗まれました」「犯人は捕まえましたが、半分しか戻ってきませんでした」「そしてね、私の知人は、百万元も盗られましたよ」。
 彼女は、商社みたいな会社の社長。元市政府(市役所)の職員だと言った。やり手のように見える。後で気がつく。女手一つで五〇万元も百万元も金が動かせる訳がない。となると、周桂芳の携帯電話会社と同じダミー会社だ。だから、物資の流通で市政府に出入りしているのだ。なるほど、衡陽は、物騒な街なのだ。

 史が「怖いね、もう帰りましょうか」。「来たばかりじゃないの。まだ、何もやってないよ」、森下は、史をなだめて、周桂芳の戸籍の住所に向かった。ちょっと奥まった所に見つかった。これが、共産党幹部の住宅だろうか。ノックしてみると、別人が出てきた。「ああ、その人なら、私の大家ですよ」。なるほど、ここは周易明が若い頃住んでいた所だ。納得。「何なら、住所とか電話番号を教えて上げましょう」「住所は、仙姫巷。電話番号は、○○○だよ」。
 仙姫巷に行ってみると繁華街。周の家がどこか見当も付かない。中国には、表札という物が全くない。だから、捜すことも、聞くこともできない。全くの闇だ。また、史が先を嫌がった。「これより先は、絶対に危ないよ」「先の商社の人も言っていたでしょう。やくざがいっぱいいるよ」。森下は、「だけど、これで終わったのだったら、まだ何もやっていないよ」「だったら、電話だけでもしようよ」。史が納得。女の声。桂芳ではないが、一安心。声の主、「あなた方、その先に岳塀公園というのがあるから、その門の前で待っていて」。
 声を掛けてくる者があった。二人の女。「あっ、この女は、桂芳の妹の桜芳だ」。森下は、直ぐ分かった。桜芳も、見覚えがあったと見える。目で分かる。目の前の喫茶店に案内された。もう一人の女とは、桂芳の姉の暁梅だった。なるほど、共産党員だけあって上品な感じだ。
「あなたの手紙、驚きましたよ。だけど、桂芳は、そんなことをする人ではありませんよ」
「私もそう思いましたが、銀行にはっきりとした証拠が残っていましたよ」
 姉が必至に否定しようとするが、証拠を見せられ、また呉敏娜の親との賠償交渉が進んでいると聞いて、「私は、よく知らないが」と半ば事実を認めざるを得ない。
「それで、桂芳はどこに住んでいますか」
「近くです。ですが、今は言えません」
「なら、この口座に金を振込んでください」
 ここまでは比較的穏やかに来ていたが、「金を払えに」話がこじれた。「これは証拠じゃないよ」「姉は、幹部ですよ」「そんなこと、あり得ないですよ」。森下の感想は、周一家は、事件を穏やかに解決したいが、できるだけ金を払いたくない、と思っている。交渉の余地がありそうだ。
 違う。認識違いが次第に明らかになる。彼らは、名誉に傷が付くことを恐れているだけで、盗んだ金を返そうと思っている訳ではない。腐った幹部は、必ず汚い手を使ってくる。周一家がどこまで「腐って」いるかの判定困難であるが、桂芳の話の、四人姉妹の高級品指向と親の甲斐性つまり共産党幹部の給料を見比べれば、相当黒いことは自明だ。これが思考の原点だ。とすると、参考になるのが、アメリカ人のやり方。「和」の背後には、必ず平行した「戦」がある。というより、「戦」の前提として「和」があるに過ぎない。だから、裁判と示談が同時に進む。森下にとって「戦」とは事実の公表、「和」とは直談判。事実の公表はビラ。ビラが「戦」であるのは、周桂芳の罪状ビラには「腐った幹部の市中引回し」効果があることから自明だ。敵が「和」に応じなければ、「戦」うしかない。
 議論しても無駄。森下は、史に促されて帰途についた。

 森下が、二度目に衡陽に乗込んだは、二週間後の五月一三日。かなり危険な仕事をする。ビラを貼り、ビラを撒く。もちろん、こんな事は、一人でしなければならない。ビラ貼りは、夜やる。そのため、糊の他に、黒服と懐中電灯がいる。ビラは昼間だから、安全といえば安全だが、相手にも気が付かれやすい。ひょっとしたら、警察にパクら(逮捕さ)れるかも知れない。
 森下は、やはり、翌日の昼過ぎ衡陽に着いた。前回と同じように、敵陣近くにホテルを構えて、切込みの準備。

 敵の住所は、雁峰区。まず、雁峰区派出所だ。ここで、身分証から敵の住所を教えてもらった。石鼓青山派出所が管轄だった。ここへ行くと、さらに下部の広場派出所が担当だと分かった。広場派出所では、戸籍を調べて、その住所へ案内してもらうことになった。呉敏娜の場合と同じだ。
 中国では、「あいつが犯人だ」と言うと、まず、警察官が間に入って事件解決を試みる。そうでないと、探偵の許されていない一般人にとっては、犯人と交渉する術がなくってしまう。公安は、「民事には介入しない」じゃなく、「自ら事件解決をかって出る」制度になっている。即決性があり便利であるが、大した証拠もなく権利関係を判断するのだから恐ろしい制度でもある。ここに賄賂が絡む。その先がどうなるかは論ずるまでもない。なお、だから、せめて被害調査だけでも、犯人捜査と同じくらい入念にしなければならないのだ。納得、森下の被害調書。
 担当者は、「今から行くから、そこで待っていろ」と隣の部屋に入っていったきり出てこない。五分たっても出てこない。森下は、担当者が置いていったコピーが気になる。こんな秘密文書、放置していてもいいのか。盗み読み、してみようか。見るだけなら、証拠が残るわけではない。ええっい、読んだが勝ち。何と、恐ろしい。周桂芳には、離婚歴があると書いてあるのだ。日本語一級の試験が終わったら、「ボーイフレンド」と結婚する。あれは、何だ。嘘か。無我夢中。森下は、震えながらその一行を写していた。
 二〇〇三年七月一八日には、新住所ができていた。その新住所が、周桂芳の戸籍上の正式の住所なのだ。その時期は、森下たちが、江川日語卒業時、周の「ボーイフレンド」に、四川の九寨溝まで旅行案内してもらったあの時期とぴったり重なる。そうすると、別れて逃げてきた旦那以外に、もう一人「男」がいることになる。それは、いったい誰なのだ。見る人が見ると、奥の奥が見えてくる。
 まとめると、周桂芳とはこんな人物だった。
 一九七六年五月一九日生まれ。犯行当時は、二九歳直前。離婚後の新住所は、湖南省衡陽市雁峰区の洪家金屏豪園一単元八〇三戸。ここまで来れば、袋の鼠。もう逃がしはしないぞ。これから、警察官を連れて乗り込むのだ。

 二〇分後、森下は、警察官二人を従えていた。敵陣は、歩いて五分の所だった。コンコン、コンコン。何度ドアを叩いても応答がない。向かいのおばさんが出てきて、「そこは、私たちの娘の部屋です」。手招き。親の家に入る。マンションの外見は汚いが、中は広くて奇麗だ。大きな応接セットがあり、大きな犬まで飼っている。相当、裕福なのだ。森下の向かいに周易明、その隣に妻、両脇に警察官が座った。警察官が何か喋り、易明が何か答えた。ものの一、二分。
「さあ、帰ります」
「私は、まだ、何も喋っていない」
 森下は、とっさに次の言葉が出てこない。アア、ウウといっている間に二人の警察官は立ち上がった。「馬鹿やろう、周桂芳は泥棒じゃないか」、捨てぜりふ。その時、長女の暁梅と三女の桜芳が入ってきた。なるほど、あの時の桂芳のボーイフレンドとは、暁梅の旦那だったのだ。必要な時には、姉妹で融通しあう。なるほど、それが「結束」なのだ。

 森下は、食事をしてホテルに戻った。もう夕方だった。もう、ビラは貼るしかにが、それは、深夜から明け方にかけてのこと。ぶらっと、服務員室に遊びに行ってみた。こういう場合、暇な服務員は、外国人だと物珍しさにいつまででも相手をしてくれる。「お前、日本人か」「何しに来たんだ」から始まる。「お前の給料は、いくらだ」。この質問は、非常に多い。次に、森下のお返しに、「給料は、とても安いよ。四百元ないよ」「ところで、私の弟は、日本語を習っているよ」。「ええっ、何だって、日本語だって」。「そうよ。なら、弟をここに呼んでもいいか」。周桂芳が勉強しようと思ったのだから、この弟が勉強しても不思議ではない。「弟」とは、「義弟」のことだった。中国では、よくこのように言う。
 三〇分もすると、義弟がやってきた。名は、周飛。始めて二ヶ月経ったところで、秋には、日本に留学するという。こんな片田舎で、日本語を勉強する者があるのか。不思議な気持ち。森下は、日本の留学先が大阪で、自宅に近いことから、留学に便宜を図ってやることを約束した。嘘ではないが、本気にされても困る。
 一通りの挨拶が終わる。森下は、「周の旦那は副市長の息子だが、その者の名前が知りたい」と言いながら、手帳を出してめくった。と、その時だ。周飛が「夏建平」の名を見つけて「これは、私の先生だ」と言い出したのだ。さらに、「その先生だったら、副市長のことはよく知っているよ。聞いてみようか」と。何と、都合がいい、渡りに船。森下は、ホームページで調査してきた衡陽市の副市長名の一覧を見せた。一二、三人の名前があった。「この中で、その副市長は、息子の年齢から考えて、六〇歳を少し超えたところだよ」。「大丈夫」と言うが早いか、周飛は、外事所長・夏に電話して副市長の年齢を聞き始めた。森下は、呆気にとられた。該当者が二名上がった。中でも「李湘元」が六四歳で最も近かった。何と幸運な。森下は、喜びを殺して礼を言った。さらに続く。
「いや、どういたしまして。この人は、華南大学の学長だから、明日会いに行ってもいいでよ」
「本当ですか。それならお願いします」
 全く嘘のような話。森下は、何回も否定したが、瓢箪から駒が出そうになってきた。
 その夜は、興奮で眠れない。森下は、睡眠薬を飲んで寝た。目が覚めると、午前四時。少し遅い。だが、ビラまきだ。明るさからいうと、この大きな中国の標準時は一つで、衡陽には南中時差が一時間あり実質午前三時だ。
 ホテルの外に出ると、先ほどまで雨が降っていたと見えて、道路はべちゃべちゃ。真っ暗だと思っていた道路は、ナトリウム灯で煌々としている。「黒子スタイル」は無意味だった。雨の影響でか、人っ子一人いない。森下は、周易明のマンションを取巻くように、写真付きの罪状ビラを貼っていった。五時になると、一斉に街灯が消えた。かえって暗くなった。この方がビラ貼りにはいい条件だ。それまでに三〇枚ほど貼ったので、後まだ七〇枚残っていた。六時になった。少し雨が降ってきた。それに、いくらか明るくなってきた。止めるには、ちょうどいい頃合い。
 ちょっと気になることがあった。終わり近くに貼ったビラを、剥がして読む者がいたことだ。

    16小説 「天 網」

    四

 森下は、事件から一週間後、まず呉敏娜の親に会うべきだ、と考えた。元学生は、用心棒を連れていかないと危ないぞと言ったが、元々中国流の事件解決は無理。その日が、意外に早くきた。一〇日後の四月一二日。目指す無錫は、上海から一三〇キロの彼方、蘇州の少し先。東京からなら、静岡県の沼津だ。
 上海から列車に乗って無錫まで行く。一時間半から二時間。呉敏娜宅は、無錫の港下。もう、長江に近い所だ。港下までは、バスで一時間と聞いている。これに地下鉄と待ち時間を加えると、約五時間になる。実際にも呉敏娜が帰省(きせい)した時は五時間ほどだった。
 森下は、港下行きのバスに乗ったところまではよかったが、具体的にどのバス停で降りるのか分からない。車掌に聞いてみる。分からない。それならと、携帯を出して相手方に電話してもらう。だが、要領を得ない。とその時、森下の隣の乗客が、かなり下手な英語で、「たぶん終点だが、自分の会社に英語の通訳がいるから、彼女に聞いてみたらどうか」、と話しかけてきた。それなら、「お願いします」。そして、相手は「何で、また、そんな所に行くのか」と。
 これを見せるべきか、どうか。もし、このバスの中に敵の回し者がいれば、殴られるかも知れない。いなければ、別の情報が得られるかも知れない。ええっい、出してしまえ。森下は、鞄から「お尋ね者・呉敏娜」の手配写真と罪状書面を出した。「何、この女、一五万元の窃盗だって」「俺の十年分の給料だ」「悪いことは、やっぱり悪い」。周りのどよめき。そして、「俺にも見せろ」「俺にも見せろ」。車内に四、五枚のビラが行き交い、回覧された。ほとんどの客が港下行き。道中、酷い酷いの合唱が続いた。

 港下到着。森下は、英語の通訳に会う。警察(派出所)までは一〇分ほどだという。道々、犯罪状況を話す。通訳が状況説明。派出所員が呉敏娜の身分証番号をパソコンに打込む。「呉敏娜なんてな者は、この街には居ないよ」。「いや、住所は、馮巷の一八ですよ」。「なら、もう少し調べてやるよ」。そして、「あった、あった。呉敏娜は、一九九八年、南京の電気学校に住所を移しているよ」「それから、無錫の別の地域の工場に就職しているよ」「それからは、そのままになっているよ」。たちどころに、身元情報が出てくる。
 呉敏娜は隠していたが、高校を四年やっていた。なるほど、電気のことは何も知らないと言っていたが、一年落第していたのだ。そして、地元に戻ってきて就職したが、先が見えず、日本語を目指すことになったのだ。なるほど、呉敏娜は、日本語学校の授業料は、兄に出してもらったと言っていたが、そういう事だったのだ。見る人が見れば、戸籍情報からすごい事が分かる。
 恐ろしいことを聞いた。中国の身分証番号には、その中に、生年月日がすき込まれているという。例えば、呉敏娜の例で言うと、「×××八一一〇二五×××」の、先頭が地域番号、末尾が受付番号で、中間が生年月日になるのだ。つまり、呉敏娜は、一九八一年一〇月二五日生れ、二〇〇五年の犯行当時なら、二三才六ヶ月、これが一瞬にして分かる。身分証は、人を丸裸にする。年齢だって、住所だって、恥ずかしい所だって何だって、あらゆる事を一目で分からせる。
 もう一人の所員が来るのを待って、呉敏娜宅へ。森下、通訳、所員二人の四人。住所は、派出所の真ん前、ものの二分だった。「ご免ください、派出所の者です」。来るものが来た! 父親呉迅の慌てよう。声が震えている。母親も同じ。警察官を連れていけば、効果抜群だ。先に、証拠書類を送ってある。
 警察官は、反日教育されていないのか。勿論、されている。だけど、目の前の人は、ただの百姓。それに対して、「はるばる上海から」「公安の事件控えを持ち」「通訳を従え」「英語を喋る立派な日本人」。肩を持つのは、日本人か、田舎娘か。判断するまでもない。娘が上海で何かしでかしたことは間違いないのだ。
 警察官の人定質問に続き、「では、呉敏娜が家に戻ったら出頭するように言ってくれ」。森下はルンルン、戦勝気分。
 なら、話を煮詰めなければならない。一週間後、再び森下は、今度は史莹を通訳として連れて行った。母親は、少しは生気を取り戻していたが、お茶を出す、茶菓子を出す。そして、こう言った。「私の家には、二〇万元の金がある」「呉敏娜が帰ってきたら、その金で弁償したい」「頼むから、手配写真をこの辺りで配らないでくれ」と。事を穏便に進めたいことは明らか。

 「呉敏娜は、帰ってこないか」。森下は、何回か電話した。最初は、「まだ呉敏娜は帰ってこない、待ってくれ」。次は、「あまり何回も電話すると、人権侵害で公安に訴えるぞ」。日本で、犯人の側から、警察に訴えることがあるのか。ひたすら「逃げ隠れ」じゃないのか。
 後日談になるが、三ヶ月もすると、「馬鹿やろう、何回電話するのだ」、半年すると、「今度来たら、ただでは済まないぞ、覚悟せよ」となる。一年後、森下が春節に警察官を連れていくと、拳を振上げてきた。公安と話がついたのだ。この時をもって、森下の直接行動は終了する。

    15小説 「天 網」

    三

 証拠を突きつければ、親は何かするだろう。森下は、呉と周の両親に事件解決を迫る文を送った。勿論、犯人各人にも送った。なお、両親への文は、胡楊典に翻訳を頼んだ。次の文は、その要旨だ。

「呉迅様 私は、上海で飲む消臭剤の製造販売を手がけようとしている森下弘でございます。社員として、あなたの娘・呉敏娜と、あなたもご存じの周桂芳の二人を雇い入れました。ご存じの筈です。残念ながら、私が会社設立のために準備していた金員一五万元を、呉敏娜と周桂芳の二人組に盗まれました。信じたくない事でしょうが、これは動かしようのない真実です。物証があります。呉敏娜が、盗んだ会社印を自らの身分証明書に押印した銀行手続の書類があるのです。控えを送ります。娘に確認させてください。
 私は、事件を穏便に解決したいと思っています。娘と話し合ってください。できるだけ早くできるなら一週間以内に、私に返還するようにしてください。金員の送り先は、中国銀行上海浦東支店、口座番号は○○○番です。ご協力宜しくお願いします。二〇〇五年四月二〇日 森下弘」
 呉敏娜にはこう書いた。
「呉敏娜、お前は、私が好きだったね。だけど、周桂芳に唆されて、あんな大それた事をしてしまった。良心の呵責に堪えきれなかった筈だ。色仕掛けを命ぜられたあの毎晩のこと、先生を騙すつもりだったが、逆に自らが高揚してしまった。挙げ句の果ては、「先生、消臭剤事業は成功しない」「先生、年金をください」と泣かざるを得なかった。今、後悔しているだろう。その一方で、お前は、その金が欲しい。だが、先生はあの金がなかったら、事業が再開できない。だから、呉敏娜、お金を返しておくれ。既に、公安に被害届を出してあるが、穏便に事が収まるように努力してやる。 森下弘」

 周易明と桂芳には、こう書いた。
「周易明様 共産党幹部は名誉を重んじるものです。緑の三角帽子を被せられての市中引回し、あれは最も堪えられない事です。文革の時、多くの幹部がそれに堪えられずに死を選びました。あなたは共産党幹部、娘・桂芳は共産党青年団長。ご一家揃って名誉ある家系。思いも寄らない、桂芳の銀行預金窃盗事件。あなたがその汚名に堪えられる筈はありません。
 私は、今、上海公安局に事件解決を図るように申入れると共に、日本国政府から日本領事館を通すという外交ルートにより事件解決の準備しています。賢明なあなた方父子のこと、事件拡大は望まない筈です。早期に事件解決を図ってください。宜しくお願いします。 森下弘」
「周桂芳、驚いた。お前は、いつから泥棒になった。しかも、やり口が汚い。江川日語では盗癖のあった呉敏娜。堕胎経験のあるお前は、寂しさを紛らわせるためか処女である呉敏娜をレズ(女同性愛)遊びに誘い込んだ。そして、それらの一連の事実をバラすぞと脅した。その結果が、呉敏娜を使った私への色仕掛けだった。私は、呉敏娜の態度がおかしいと思ったが、まさか、お前が上海大学講師の四女巧紅の宿舎をアジト(隠れ家)にして、呉を操っているとは思いも寄らなかった。お前、家名に汚点を付けることが恥ずかしくないのか。親は幹部、お前も青年団長。一日も早く、私に頭を下げることを期待している。 森下弘」

「先生、こんな文ではだめです」。口々に元学生が言った。「こういう場合の、中国のやり方を教えて上げましょう」。以下は、胡楊典が喋った要旨だ。
「中国では、こういう窃盗事件があると、被害者は、公安に届けるのは勿論、弁護士を通じて交渉に入る」「相手が言うことを聞かないときは、やくざだって連れていくんです」「先生は、いつか、日本語学校で学生が騒いだことがあり、その時は、理事長がやくざを一五人も校内に入れたと言っていました。あれと同じ事をするのです。これが中国流です」「額が多ければ、直ぐにでも裁判に訴えます」「また、その裁判のやり方がものすごい」「犯人は、自分じゃない、子供だと言っても、そんなことは構わない」「ウウも、スウもない。一族から、財産を巻上げて行くんです」「だから、やる方も、やられる方も、命がけなんです」。
 何と野蛮な。森下には信じられない。もしこれが本当ならば、森下のやっていることは、「熨斗を付けて、相手にどうぞ」、と言ったに等しい。
 だからといって、森下には、中国流は及びもつかない。なぜなら、中国人の弁護士を雇うには、そのための通訳を雇わなければならない。この二人は、「中国と自分」のために働くのであって、間違っても「日本人」のために働くものではない。もしそんなことをすれば、「国賊」になり、それこそ緑の三角帽子を被せられる。さらに付言すれば、弁護士は上流階級で、公安当局者や政府役人とは、中秋節交礼会を通じてすべてが仲間だ。弁護士と通訳に金をつぎ込むことは、二次災害を大きくするだけだ。賄賂(手数料)だって、全く見返りのない、ただのお布施だ。ちなみに、弁護士よりももっと強い筈の日本国代表の領事、その領事ですら、中国公安には太刀打ちできないのだ。あの社長・珠村から聞いた、領事・中村の日本人保護に対する返事、あれは、犬の遠吠えほどの事もできないと言ったに等しい。

 やはり、森下にとっては、どんなに無駄な事と言われても、直接相手の「心」に訴えていくことしか手段がない。後日談であるが、森下は、呉敏娜宅には四〇回、周桂芳宅には二〇回も「お願い」の手紙を送っている。
 だが、注意。「お願い」は、度が過ぎると「脅迫」になる。日本でも同じだ。これは、評価の問題だ。「すべては、中国と幹部のため」。いつの間にやら、被害者が加害者になる。「人権侵害で訴えるぞ」。これは、中国では頻出する。あらゆる権力者が、自分が不利になりそうだと必ず使う。だから、被害者は、一定限度を超えると、「お上へのたれ込み・すがりつき」以外に腹を癒す方法はない。行(い)ってみるがいい。上海の対人民苦情処理室、連日黒山の人集りだ。だが、相手が日本人と見るや、権力と無関係の百姓・呉迅でさえ「人権侵害だ」の手を使ったのだ。しっかりと国家教育されている。

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