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19小説 「天 網」
四章 天網が掻い潜れるか
一
事件解決には、呉敏娜の足取りを追うことが最も重要。潜伏先は、朝日日語の元学生で、徐家汇界隈の友達の所だから、その元学生の身元を洗え。森下は、呉敏娜らに日本語を教えている時、呉敏娜から朝日の情報をあり余るほど手に入れていた。特に、日本人の香山哲朗夫妻のことは、手に取るように分かっていた。夫人は、副校長で通訳までしている。学生も、何人かは直接会っていた。反対に、森下の情報もすべて朝日に知られているだろうから、いろんな事を教えてくれるに違いない。
森下は、朝日日語に電話してみた。事件から一週間たった頃のことだ。哲朗は、知らないの一点張り。事務長は嘘ばかり。本部に電話した。ここも嘘ばかり。どうなっているのだ。お伺いするという立場上、「お前、嘘をつくな」とは言えない。やんわり矛盾を突く。そうすると、次は、プライバシーに関することは教えられないの一点張りで、やっと聞き出せたのは、蘇州受験組が一二人だった事だった。
会って話をすれば、情が移るだろう。二週間後、森下は、本部に乗り込んだ。応対したのは、李事務長と魏校長。魏は、流暢な日本語を話す五十がらみ、上背があり恰幅がいい。だが、形は見るからに陰険。この学校は、魏のワンマン経営で、他の者には何の権限もなく、何も喋れないのだ。なるほど。魏の話は、突き詰めるとこうだった。
「学生の名前を教えると、その学生からプライバシー侵害の訴訟を起こされるからできない。そもそも、朝日には学生が七千人いるから、その学生の調査には膨大な時間がかかって実質的にできない」と。で、これで騙された者が何人いたのだ。
そもそも、「呉敏娜の友達は誰それ、その電話番号は○○」。これが名誉毀損の対象になるのか。ないとは言えない。現に日本では、そういうとき、依頼者には教えず、その相手方に依頼者の番号を教える。中国でも同じか。トンでもない。はっきり言って、中国では、身分証番号ですら、物を買う時申告しなければならず、プライバシーはないに等しい。電話番号が教えられないことはあり得ない。校長が何らかの理由で言いたくないだけだ。「訳あり」かも知れない。
「学生が七千人いる」。確かに、そうかも知れない。聞いているのは、その中の蘇州受験組の一二人、上海受験組を入れても高々五〇人に過ぎない。その調査には、一分もかからない。現にそうだった。校長は、その事を知らないとでも言うのか。最後にこう言った。自分は弁護士をしていて、訴訟手続には精通(せいつう)しているし、人権侵害事件は実に厄介(やっかい)な代物だ、と。
なるほど、トンでもないことを言うものだ。なるほど、それで分かった。共産党幹部、有名実業家、医者、弁護士、これらは上流階級をなしていて、彼らは「結束」している。現に、呉敏娜は校長に相手にされなかったのに、周桂芳は懇意だと言っていた。一三〇〇キロ離れた衡陽と上海、何で関係があるのか。三女の婚約者だって衡陽と上海、四女の結婚相手は衡陽と杭州。「結束」を考えてこそ、魏の「言いたくない」理由が分かる。日本人なら、お金を持ってきてくれるぞ。いや、しかし、眼前の日本人には棘(とげ)がある。相手にしない方が安全だ。そもそも、金を盗まれて丸裸にされた者に用はない。
日本のテレビ局に当たってみよう。森下は考えた。テレビ局は、政治問題、人権問題には敏感で、特に外国での事件は、何をおいても飛んでいく。森下の問題は、即外交問題にも発展する日本人の銀行預金窃盗問題だ。トップ記事になってもいい。
森下は、事件から一ヶ月ほど経った衡陽行きの三日ほど前、あるテレビ会社の上海支局に電話した。上海には日本のテレビ会社が勢揃いしていると思っていたら、実は、関西テレビが代表を務めているだけで実質一社だった。つまり、ここからの発信が、日本の民放のすべてだ。なら、都合がよい。だが、駄目なときは、全部駄目になる。
特ダネか。支局長・中島順也がやってきた。警察のわざととしか思えない交通事故への事件転送、日本叩きがあり、やる気のない上海領事館、朝日日語の校長の話、分けても銀行の不手際、さらには、日本人の投資の安全確保の必要性、できれば、権力関係の裏の「結束」の暴露、森下は熱を込めて訴えた。やや押された中島は、「大いに取材価値あり」を強調したが、「厄介問題」を背負い込みそうで、手が出せそうにないことも仄めかした。
一週間後に返事が来た。「今、北朝鮮の核問題で忙しいから取材はできない」「いずれまた、その機会がくるから、その時は、無錫、衡陽の取材を入れて、中国投資特集でも組みたい」と。
中国への日本からの投資は近年ますます盛んになってきた。二〇〇〇年以降、日本の大会社が中国シフト(拠点移動)を強めてきて、この流れが奔流になりかけてきた。その結果か、平成不況の克服は、中国シフトによって、いざなぎ景気を上回ってきたとも言われている。この流れに水を差すことがあってはならない。本当か。その裏では、中小企業、個人企業が、やや減ったとは言え、空前の倒産で喘ぐ。さらに、小商店は、年間三〇万軒の勢いで消滅し、駅前がシャッター通りと化し、駅前ですら廃墟が進んでいる。経済が回復しているのに、消費が伸びないのは、「大本営」発表が嘘であることの証左だ。
少し才覚のある者は、我も我もと中国へなびく。一攫千金を目指すのではない。苦し紛れのわら足掻きだ。それを待ち受けているのが、中国の投資制度の不備と群がる黒い奴ら。この場合、官憲や国民は、強く反日教育を受けていて、日本人の金を盗ることに何の抵抗もない。そればかりか、盗れば盗るほど「南京大虐殺(一九三七)のお礼だ」となる。
森下は、通訳予定の胡楊典から、いろんな事件を聞いた。胡は、渡りの通訳で、とにかく日本人関係がとても広い。ちなみに、たまたま森下の所に来たのも偶然の一つだった。
ある建設会社の社長の話。彼は、通訳兼経理としてある中国人を雇った。というより愛人にした。よくあることだ。森下の場合だって、呉敏娜の色仕掛けは似たようなもの。愛人は、事あるごとに余分に経費を落とした。社長は、薄々感じていたが、本当に気が付いてみると、会社は倒産寸前。後の祭りだったという。新たな通訳として男を雇った。それが胡楊典なのだ。
これは、繊維会社の社長。愛人契約をし、愛人名義で豪華マンションを買った。一三〇万元。愛人は、いつの間にか自分の「夫」に転売し、「夫」はさらに転売。ここで社長が気付いた。訴訟中だというが、転売は「有効」で、ほとんどどうにもならないという。奇妙なのは、社長は、それからでも愛人と同棲中なのだ。愛人を人質にとれば、いくらかでも転売益が取戻せると思っていたという。
第三は、本当に結婚した例。これも繊維会社だ。妻は、日本人は優柔不断で本当にだらしない男だと思った。だけど、日本人は、日本から金を持ってくる。すべて嘘。借金をしまくって、その時、たまたまその中国人に、つぎ込んでいるだけだった。いつまで、続くのかこの愛。離婚して逃げるべきか。そこで、素行調査に雇ったのが胡楊典だった。
そんな事が本当にあるのか、ずうっと疑問に思っていたという。銀行預金だって、ごく簡単に「抜かれる」。森下の被害の後、話だけでなく、実際に森下と共に実体調査をしてみて、犯行の容易さを知ったという。
第四は、共産党がらみの結婚詐欺。ある日本人が共産党幹部の娘と一年ほど付き合ってきて、いよいよ結婚。日本人が準備金として二〇万元を渡すと、その金を持ってドロン。親に賠償請求すると、「知らん」の一点張り。公安も相手にしてくれない。周桂芳の事件と似ている。違うのは、この日本人は、自分の金であるとの証明ができないことだ。犯罪とは、事実関係で、法律関係ではない。証明書はなくても成立する。明らかな日本人蔑視だ。胡楊典の取引相手先だった。
第五は、同済病院。これは、盗みとは関係ない。胡は、ある時、日本人の診療も可という病院に勤め、通訳になった。性病の日本人、エイズ検査の日本人、そういう者が続々押し掛けた。最も多いのが、バーのマダムとの愛情関係、経理係との愛情関係。聞くに堪えない愛情問題のなれの果てばかり。その後ろ姿を見るにつけても、日本人の被害の大きさを感じたという。そういう哀れな日本人の、その請求書には、逆にゼロを一個足したという。何と、日本人は、尻拭い費用も「いいお客さん」だった。
そう言えば、森下も思い出した。江川日語では、パトロン(水商売の旦那)のいる学生が十指では足りなかった。それを考えると、裾野の大きさを今更ながら思い知ったのだった。
日本のテレビ局、何で「北朝鮮の核」という姑息な理由で逃げるのだ。言論人という使命はどこに行った。弾圧を恐れない言論人は、政府に抵抗して死んでいった。何故、あれができないのだ。北朝鮮の事だけは書き放題だが、中国の事はなぜ書いていけないのだ。日本政府、日本財界の「検閲」があるからか。
いや、分かる。日本「総」テレビ代表の中島支局長。知っているだろう。最近、中国が稼いだ外貨の一〇%は、裏金となって幹部に環流したという。実数で言うと、一千億円を下らない。ニューヨークのマンハッタン、豪華マンションは、幹部の別荘になっている。利益を供与したのは日本財界。さすがに、この巨悪に向かっては、先兵「関西テレビ」では、とてもとても太刀打ちできない。だが、救うべきは、財界なのか、大衆なのか。
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