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14小説 「天 網」
二
多額の軍資金を盗られたのでは、事業再開は難しい。自分でも努力して犯人を追わなければならない。まず、呉敏娜の潜伏先の徐家汇に行ってみよう。
徐家汇とは、上海の副都心。日本で言えば新宿。高層ビルが林立していた。呉が出ていったときの状況からして、潜伏先は、空港から高速を飛ばして行けば、直接車で来られる所だ。日本人が住んでいる所となると、高級住宅街に違いない。
森下が「ここだ」と思って入った所は徐家苑というマンションだった。管理人は日本語ができた。なるほど、ここが一番可能性が高い。運良く六棟ある巨大マンションの全部に当ることができた。が、そのような日本繊維会社はなかった。ちなみに、この公寓にも、経費節減のため、かなり多くの脱法会社が入っていた。マンション内で聞くと、近くに五月天公寓があり、そこにも日本人が多いとのこと。早速、五月天に行ってみた。ここにもなかった。
総合結論。家賃が一万元、二万元もする豪華マンションを、たださえ苦しい日本の繊維会社が、管理人費を払いながら空家にしておくことはあり得ない。そうなのだ。そうすると、その会社は、倉庫兼の事務所のある公寓のはずだ。
これも偶然だが、五月天で、森下は中国大使・阿南に懇意なある会社の社長・珠村義朗に会った。上海共同商務管理公司、つまり上海の繊維関係投資に関する総元締め会社の社長だ。「そのような状況の窃盗犯なら、私の名前で、日本領事に頼めば、事は簡単に解決しますよ」。なら、早速「お願いします」。二日後にメールがきた。「今は、日本叩(たた)きが激しいから、日本側からの行動は難しい」と。領事の本音だ。本当にこの頃、小泉首相の対中政策が失敗し、この二週間後のメーデーの頃、上海領事館が中国の暴徒に襲撃されるという事件が発生する。
別のある時、森下は、胡楊典を連れて、竹園社区という巨大マンション地区に足を踏み入れてみた。「あそこなら」という情報を掴んだからだが、これも偶然だ。胡は、社区の事務所までは行ったが、そこから先は、「恐ろしい」の一点張り。なぜ、マンション内を聞き歩きしては行けないのか。理由を聞いて驚いた。
中国では、一般人の探偵が禁止されているというのだ。探偵ができるのは、弁護士と警察官だけ。そうすると、一般人は、訴えるだけで、後は、お上が草の根を分けてでも事件を解決してくれる訳か。社会主義国の警察は、しつこいと言うから、さすが社会主義万々歳か。それなら有り難い。だが、反対も言える。社会主義を非難し、共産党幹部を追求する事件は、事件とされないのじゃないか。現に、森下の被害調査がその件に近い。
「胡さん、一般人の探偵禁止は、学校で習ったのですか」
「違います。だけど、小学生、中学生の頃から、こんな事は中国人の常識ですよ」
何もかも、「すべては、中国の利益、共産党幹部の利益」のため。つまり、一週間で事件を解決するというのは、国民に対する愛国教育つまり世論操作、つまり洗脳教育(マインド・コントロール)の結果なのだ。実際にそうなのか、どうなのかは分からない。反日教育は、まさにその延長線上にある。
作戦変更。相手が隠れているマンションを捜すことは土台無理。そもそも、強く反日感情を植え付けられた管理人に、銀行預金の窃盗犯を聞くこと自体が無理だ。呉は、籠城している。だから、必ず青果物市場に行く。料理が好きで、昆山では喜んで作ってくれた。なら、呉は、必ず行く。「自分は尋ね人をしている」と市場の親父に言えば、呉が近くに潜伏していれば確実に教えてくれる筈だ。お尋ねの理由は、「元、師弟関係」でも、何でもいい。現に、新聞広告を出しなさいと言ったイギリス人がいた。
この作戦は当たった。いろいろ情報をくれた。しかし今度は、一般市民の多い市場近くには、日本人が居そうな所が少なかった。どうしても古びたアパート、中の真っ暗なアパート、奥まったアパート、そんなのばかり。日本でも古アパートは、どこか薄汚さを感じるが、中国はその煉瓦版、かなりひどい。森下は、徐家汇から中山公園、静安寺の三角地帯の界隈、つまり上海の旧市街は、隈無く歩き切った。結局、一五日ほどで諦めざるを得なかった。
上級庁つまり上海公安局浦東分局から連絡があった。「本日、午後、事情調査をする」と。やっと来たか。事件から二週間も過ぎている。
森下の心配は、銀行のビデオ証拠が撮影日から一ヶ月で消去されること。預金引出しは、別の支店からしているかも知れないから、確実に二人の映像が映っているのは三月二九日のものしかない。これが証拠保全できるのは、後一週間しかない。とにかく、その点を担当者に聞いてもらわないと話にならない。
急きょ、森下は、胡を呼び出して、浦東分局に向かった。
「これから、正式の事件調書を作ります。午前中に言いましが、その金があなたのだという証拠を持ってきてくれましたね」。
「はい、これです」
こうして、調書作りが始まった。「あなたの国籍はどこですか」「生年月日はいつですか」「はい、それではパスポートを見せてください」「会社代表者は、誰ですか」「普通は、代表者が会社設立資金を出しますが、あなたが実質的代表者であるという証拠はどこにありますか」「はい、会社設立契約書ですね。それでは、その金があなたのものであるという証拠はありますか」「そう、銀行の換金証明書ですね。いいでしょう」。
泥棒に遭ったというのに、何でこんな事を聞く必要があるのか。調べるのは、周や呉の犯罪事実ではないのか。なのに、根ほり葉ほり森下への執拗な攻めが続く。特に、契約書の真正さと換金証明書の真正さについては、原本があるかどうかなど微に入り細にわたった。通常、盗難に備えて、自分の持ち物に証明書を付けることはできない。なら、その証明書がない時は、捜査打切りとでも言うのか。森下は、いい加減だと思ったあの資金契約書、円元交換後の領収書の、その重要性が分かり始めた。なるほど、犯人を庇うときは、この手を使うのだ。
尋問は続く。「では、次は犯人に移ります。あなたとは、どういう関係ですか」「そう、元の学生ね。彼らの住所はどこですか」「そう、同じ会社の中ですね」「一緒に生活していたのですか」。森下の「そうです」。ここまで来たとき、主任が副任に向かって、なにやら小声で呟いた。が、森下にはよく分からなかった。胡がこう通訳した。「ちぇ、奴は、女と寝やがって。そんなら、金もなくなるわな」。とても口には出せない卑わいな罵りだったという。胡は、続けてこう言った。「馬鹿な奴らだ、僕が先生にその事を通訳したとも知らずに、よくも、あんな事を言うもんだ」と。ここまで来ると、はっきりした。
所要時間は、一時間半だった。途中で、副捜査官が三〇分ほど中座していた。帰ってきて、胡と副任が何か話し合ったが、森下にはよく分からなかった。
「では、最後に、通訳の名前と住所を調書の最後に書いてください」
「私は、調書に自分の名前を書いて欲しくないのですが、どうしても必要ですか」
胡がなかなか納得しない。森下が催促し、ようやく、ためらいながら署名した。何で、こんな当たり前の事を渋るのか。名前だけなら、尋問に先立って名乗ってあるし、あまり重要ではない。森下は、事態の進行が飲み込めない。
実は、副任の中座は、胡楊典の戸籍調査だった。森下の尋問に先立って胡は、自分の身分を名乗ったが、上海大学卒が嘘だった。そこで、副任が胡をたしなめていたのだった。胡は、この事について何も言わなかった。少し補足する。学歴詐称は、学歴なしで通訳になった者がよくすることだ。そして、またその後で、通訳は「嘘を付いちゃった」、と舌を出す。本件と何の関係もない口頭の学歴詐称は軽い嘘で、それ自身は全く些細なことだ。ちなみに、日本では、通訳に「あなたの学歴は何ですか」と質問することは、地が裂けてもあり得ない。中国ではそれを言わせるのだから、返事に嘘が多いのも当然だ。だが実は、この時、恐ろしいことが起きていた。
胡が、一年後に述懐した。
「ねえ、先生。あの時、僕は通訳能力を見せかけるために、学歴を詐称したのですが、あの時、副任が僕を脅してきたのです」と。「なあ、胡よ。通訳というものは、相手の言葉をそのまま伝えるものじゃない。中国の利益を考えるものだよ」「あの日本人、日本人の恥さらしだよ。だから、お前が適当に言えば、俺がその通りに書いてやるよ。これからは、そうしてくれ。分かったな」「もし、お前が日本人の片棒を担ぐのなら、それもいい。なあ、お前、戸籍調査でお前の学歴詐称が直ちに分かっただろう」「分かるだろう。お前の親の人物調査だって何だって一瞬でできるんだ」と。真かと思うが、事実なんだ。
だから、胡楊典が青くなったのだった。公安局を出た後、「共産党は嫌いだ」「共産党は怖い」と言った理由が一年後に分かった。付言すると、胡の親は「文革」で酷い目にあっていたから、胡は、共産党にいい印象を抱いていない。
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