よく【風が吹けば桶屋が儲かる】【友達の友達は他人】といいますが、、、
先日、ある方の講演を聞き、日本の自動車業界の進歩に、
特定の日本人とカロッツェリアの運命的な深い繋がりが影響していること
をはじめて知りました。
ゼロ戦のエンジン【栄】や【誉】の主任設計者である中川良一氏
(中島飛行機)は、戦後、富士精密工業という会社を経て、
統合合併→プリンスの取締役設計部長となります。
1955年に欧米を視察旅行した中川氏は、イタリアのカロッツェリア
でつくられるスポーツカーの美しさに感銘を受け、
部下の井上猛氏をイタリアに派遣、、井上氏は、、
【スカイラインスポーツ(写真の青い車:当時日本では初のスペシャリティーカーとなった)】
のデザインをミケロッティーに委託、、
木型製作および板金を職人サルジョットに頼みます。
その後、井上氏、ミケロッティー、サルジョットは
家族ぐるみの付き合いになり、その関係で、
当時ランチアの重役の娘であったバッサーノ嬢とも親しくなり、
'60年、第42回トリノショーでのスカイライン・スポーツのお披露目時に、
和服を纏ったバッサーノ嬢をコンパニオンとして立たせました。
(日本車では初のワールド・プレミアとなりました。)
それを見初めた宮川秀之氏(のちのイタル・スタイリング起業)
は、バッサーノ嬢と結婚。
一方、、職人サルジョットはスカイライン・スポーツの量産指導を
するべくそのまま来日します。
その後'60年8月から1年間、井上氏は、、、、
(おそらくサルジョットを介して)'58年に【ジュリエッタSS】を輩出した
フランコ・スカリオーネのもとで学び、スカリオーネDNAを基に
【プリンス1900スプリント(写真:赤い車)】をおこします。
(ちなみに、'59年にスカリオーネはベルトーネの主任デザイナーを辞め、
その後任はジウジアーロに変わっている)
一方サルジョットはその後'63年スカイライン・スポーツの指導を終え、
イタリアに帰国してすぐスカリオーネとのコンビで、
第45回トリノショー用にランボルギーニ350GTVを製作。
ちなみにこの時期、牧清和氏(宮川秀之氏の義弟)は
カロッツェリア・サルジョットで修行。
その後、サルジョットは'65年4月に再び来日、
'66年【プリンスR380】のBODY製作指導の後、
【いすゞ自動車試作課】にて技術指導。
(ちなみにその後、プリンスでの技術指導のDNAが、'67年以降、
日産/プリンス合併後の【プリンス・ロイヤル(写真)】製作技術の礎となる)
そしてちょっと前の'64年にギアといすゞが5年契約の関係を結んでいて、、
'65年12月、ジウジアーロはベルトーネを辞めてギアに入社したのを期に、
117スポーツ(後の117クーペ)がジウジアーロ案で決行。
'67年4月、ジウジアーロと宮川秀之氏、イタル・スタイリング設立。
(117の車体設計はイタルで検討し、サルジョットがパネル製作指導)
その後、職人サルジョットは日本に住み、日本人と結婚し、
高田工業において、ベレット等の技術指導、スズキ、三菱等で
技術指導ののち、'96年に81歳でイタリアに帰国、'99年に逝去されます。
ちなみに、、ベレG関係のコーチビルダーをつとめ、後にレースカー製作の
【ベルコ】と改名する【鈴木板金】の鈴木義雄氏という有名な方がいらっしゃ
いますが、この史料から推測すると、、
この方も少なからずサルジョットと係わりがあったと考えるのが
自然だと思うのですが、 鈴木板金と高田工業、サルジョットの関係を示した
文献がないので真相はわかりません・・・・。
このように、、、
■スカイライン・スポーツ
■プリンスR380
■プリンス・ロイヤル
■117クーペ
どれを見ても凄まじいビックネーム達。これら、、
その後の自動車業界の発展に欠かすことのできない車達の陰には
【プリンス】という偉大な会社の影響および、
あるイタリア職人の指導なくしては産まれ得なかった
であろうことをあらためて感じました・・・・・。
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