祖国は危機にあり 関連blog

フランス革命戦争について記したサイトの関連blog

全体表示

[ リスト ]

ティエール

 Adolphe ThiersのHistoire du consulat et de l'empireの英訳本"http://books.google.com/books?q=editions:0ztO3e0GB2DMlycTBj&id=hYIfAAAAMAAJ"の中に、ワーテルローについて記した巻が入っていた。そこでいくつか調べ物をしてみた。

 まずはネイの騎兵突撃について。History of the consulate and the empire of France under Napoleon, Vol.XXのp129-131にある脚注で、Thiersはこの突撃に関する彼の見解を長々と説明している。彼の結論は、突撃はネイが独断で行い、ナポレオンはそれが始まったのを見た後で仕方なく増援の騎兵を送り込んだ(それ以外に手がなかった)というものだ。ではその理由は何だろうか。
 彼はまず、この時点でナポレオンがプロイセン軍の動きに関心を集めていたことを指摘する。ビューローの動きを食い止めるまで予備の歩兵である親衛隊を動かそうとしなかった彼が、なぜ歩兵の支援のない重騎兵の突撃を認めたのか。歩兵が使えないことを知らなかったネイが先走って突撃したというのなら辻褄が合うが、ナポレオンが命令したというのはおかしい、というのが理由の一つ。
 ネイの最も熱心な擁護者であるエイメが、回想録の中で「ナポレオンが命令した」と断言していないのも、Thiersの判断の背景にある。確かにエイメは親衛騎兵がついてきたのはナポレオンの命令である、などとは一言も書いていない。もちろん、単にナポレオンの命令かどうかを知らなかったからそう書いただけかもしれないが、少なくともエイメの記録がナポレオン騎兵突撃命令説の裏付けにならないことは確かだろう。
 またThiersは、ナポレオンが会戦に関する公報を記した現場に居合わせた「ある信頼できる人物」から、ナポレオンが「ネイが関与した最大の失敗を責めることもできるが、そうするつもりはない」と話していたことを聞いているという。この信頼できる人物なるものが何者であるかは不明だし、ナポレオンの言う「ネイが関与した最大の失敗」が騎兵突撃かどうかも分からないが、Thiersはこれも自らの判断の理由に挙げている。
 パリに戻ったネイは敗戦について自らが批判されていることに対抗するべく貴族院で発言を行った。だが、その中で彼は騎兵突撃がナポレオンの命令によるものだと主張していない。彼がフーシェに出した弁明の手紙でも、ワーテルローでの騎兵突撃については何も触れられていない("http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/source/waterloo_ney.html"参照)。これもまたThiersの疑いにつながっている。
 最後にThiersはグールゴーが紹介しているスールトの台詞「ネイはイエナと同様に全てを危機に晒そうとしている」について、「軍の中ではよく知られていることで、複数の目撃者が繰り返し私に向かってその描写をしている」と述べている。これまたその複数の目撃者なるものが誰なのか不明ではあるが、Thiersはグールゴーが記したナポレオンの証言には裏付けがあると考えていたようだ。
 Thiersによれば、ナポレオンはまず戦線維持のためミローの部隊をネイの指揮下に入れたが、その後どうするかは新たな命令を待てと指示した。ミローは最前線に移動する際にルフェーブル=ドヌーエットに出会い「我々を支援しろ」と声をかけた。フランス騎兵が集まるのを見たウェリントンは予備の部隊をかき集める一方、前線にいた部隊には少し後方へ下がるよう命じた。結果、モン=サン=ジャンの尾根には英軍砲兵のみが残された。この敵部隊の後方への移動と最前線に孤立した砲兵を見たネイは、大砲を奪ってやろうと考えて騎兵突撃を始めた(History of the consulate and the empire of France under Napoleon, Vol.XX p123-125)。以上がThiersの描く騎兵突撃の場面である。

 彼の指摘はどれほど妥当なのだろうか。まずプロイセン軍に気を取られていたとの説は論拠としては微妙だ。一般にネイの騎兵突撃が始まったのは午後4時、それに対してプロイセン軍との交戦が始まったのは午後4時半だとされている。突撃が始まった時点ではナポレオンはプロイセン軍にそれほど集中していた訳ではないのだ。
 エイメの回想録やパリに戻ったネイの発言で、ナポレオンが突撃を命じたという具体的な言及がない点についてはその通りだろう。しかし、言及がないからといってそうした事実がなかったということは証明できない(悪魔の証明)。他の証拠がある場合にはこの点も補強材料として活用することができそうだが、これだけでは弱い。
 結局、Thiersの発言で使えそうな論拠は「ある信頼できる人物」や「複数の目撃者」による発言の部分になる。これが誰なのかが分かれば、かなり強力な証拠になり得るだろう。残念ながらThiersはその名前を全く記していない。Thiersによるでっち上げでないかどうかを調べる手立てがないのだ。Thiersが信頼性の高い歴史家なら名前がなくてもThiersを信じるという人が出てくる可能性はあるが、さて果たしてそれだけの信頼を彼は得ているだろうか。

 もう一つ、調べてみたのが「7つの方陣」に関する話だ。ワーテルローの戦いについて紹介した文章の中に時々出てくるのが、ネイの騎兵突撃の際に英軍は13個の方陣を組み、そのうち7つが蹂躙されたという話だ("http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EF%A1%BC%A5%C6%A5%EB%A5%ED%A1%BC%A4%CE%C0%EF%A4%A4"参照)。一体この話はどこから出てきたのか。
 英軍側の証言を見る限り、この突撃で崩された方陣は一つもない。従ってこのような話が出てくるとしたらフランス側の記録と考えるべきだろう。そのうち最も有名なのがユゴーの「レ・ミゼラブル」である。ワーテルローの戦いについて記した中に"sept carres sur treize"という文章があるのだ。では、ユゴーはどこからこの文章を引用したのか。
 もしかしたらThiersではないかと思って調べたのだが、残念ながらそうではなかった。Thiersは確かにフランス騎兵が方陣を崩したと記しているのだが、その数については「いくつかの方陣」plusieurs carresとしか記していない。この言い回しは会戦後に書かれた公報"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/source/waterloo_nap.html"の段階で既に登場しているので、Thiersは単にそれを写しただけだろう。
 ちなみにネット上でsept carresなどで検索をかけても、出てくるのはレ・ミゼラブルばかり。一体ユゴーはどこからこの話を引っ張ってきたのか、それとも小説家の想像力を思い切り膨らませてでっち上げた数字なのか、謎は深まるばかりだ。

 もう一つ、私が調べたいと思っているのが、ウェリントンが言ったと言われる「夜かブリュッヒャーか」という台詞の出所。これまた具体的な裏付けがあるのか、単なるでっち上げなのかが分からないままである。

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事