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紙巻たばこの歴史

 今月号のナポレオン漫画はアクル攻囲最終局面。前倒しでネタをふんだんに使い切ってしまっただけにどうするつもりかと思っていたら、予想外のビクトル無双だった。とりあえずフッド提督、ラアルプ将軍に次ぐ3人目の大物食いってことで良かったんだっけ? フェリポーは前2者よりは階級が下の筈だけど(シドニー・スミスによればフェリポーは大佐、The life and correspondence of Admiral Sir William Sidney Smith, Vol. I."http://books.google.com/books?hl=ja&id=_EDSAAAAMAAJ" p266, 274, 277, 282)。
 
 で、今回も史実との比較を。漫画では襲撃を1回にまとめてしまっているが、実際には3月の1回目強襲以降に何度も襲撃が行われたことは戦報に指摘されている通りだ。ただ、回数の数え方や具体的な日付は参加者ごとに異なる主張をしているようで、例えばMiotのMémoires pour servir à l'histoire des expéditions en Égypte et en Syrie"http://books.google.com/books?id=lgkCAAAAYAAJ"ではフランス側の襲撃(assaut)を3月28日、4月1日、24日、5月1日、7−8日の夜、8日、10日に2回の計8回と数えている(p210-211)。
 これに対しDoguereauは4月1日や5月1日に襲撃があったとは書いていない(Guns in the Desert"http://books.google.com/books?id=2XAeMj3Z7mkC" p83-84, 87-88)。一方でMiotが何も記していない4月28日について「夕方になって塔に足場を確保する試みが行われた。(中略)2回取り組みがなされたが、多くの損害を出した後で企ては放棄された」(p86-87)とも書いている。
 Lavalletteなどはクレベール師団による最後の襲撃が行われる前までに12回の強襲が行われたと記しているほど(Mémoires et souvenirs du comte de Lavallette, Tome Premier."http://books.google.com/books?id=UAZbAAAAQAAJ" p316)。そしてボナパルトの総裁政府への報告(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième."http://books.google.com/books?id=iFQUAAAAQAAJ" p421-422)には、具体的な攻撃の日付が載っていない。つまり、どれが正解なのかは不明である。
 漫画ではクレベールとランヌがまとめて襲撃に参加しているが、実際には両者が一緒に襲撃を行った例はない。前にも書いたがランヌは5月8日の襲撃で負傷している(Relation des campagnes du Général Bonaparte en Egypte et en Syrie"http://www.archive.org/details/relationdescampa00bertuoft" p105)。一方、クレベール師団はタボール山の戦い後もガラリア湖近辺に展開しており、彼らがボナパルトの命令に応じてアクル攻囲に戻ってきたのは9日(Guns in the Desert, p89)だ。この時点でランヌは既に重傷で動けなかった。
 襲撃の際にフランス兵の死体が多数転がっている場面は、5月9日付で書かれたスミスの手紙でも指摘されているので史実だろう。フランス軍はアクルからの射撃を防ぐために砂袋と「彼らの死体を一緒に積み上げ」(The life and correspondence of Admiral Sir William Sidney Smith, Vol. I. p286)て防壁代わりにしていたようだ。極めてシュールなシーンである。
 クレベールが「火が消えるまで無理です」と言われている場面は、実際にクレベール師団が襲撃を行った5月10日に起きたことだ。Lavalletteによれば当日行われた2つの襲撃の間に「敵は広い堀をあらゆる引火性のもので埋め尽くし、繰り返し起きた危険な爆発で近づいた者全てを殺した」(Mémoires et souvenirs du comte de Lavallette, Tome Premier. p319)そうだ。
 ランヌが負傷した5月8日、クレベールが参加した10日の襲撃以外のシーンも、漫画では織り込んでいる。例えば地雷を爆破させる場面は4月24日の襲撃などで使われた手段であり(Guns in the Desert, p86やRelation des campagnes du Général Bonaparte en Egypte et en Syrie, p98など)、火薬樽の爆発で兵士が死ぬ場面もLa Jonquièreの本に載っているペリュッスの手紙でやはり4月24日の出来事となっている(Paul Strathern "Napoleon in Egypt" p358-359)。また、ジャザールとシドニー・スミスが到着したオスマン船を見る場面があるが、これは5月9日ごろの話だ(Guns in the Desert, p89)。
 
 一方、史実とは明らかに違う場面もいくつかある。ジャザールが逃げ出そうとしたという話はナポレオンのセント=ヘレナでの回想録には登場するが、シドニー・スミスの手紙には見られないことは既に指摘済み。むしろスミスの記述を見る限り、彼は最前線近辺をうろついていたと見た方がいいだろう。漫画の場面は腹話術ネタを使うためのフィクションだと考えていいだろう。
 ランヌの負傷とそれを助け出した部下の話も紹介済みだが、部下の大尉がランヌを助け出す時には肩を貸したのではなく足首を掴んで引きずったと言われている(The Emperor's Friend"http://books.google.com/books?hl=ja&id=k0NDkb1RNOIC" p55)。もちろん、ランヌが梯子を使って棒高跳びじみた動きを見せているのも史実ではないだろう。なお、頭部に怪我している部分は史料と一致している(Mémoires pour servir à l'histoire des expéditions en Égypte et en Syrie p198)。
 フェリポーの戦死シーンももちろんマジック。実際にはスミスによれば「働きづめで太陽に晒されていた彼は発熱し、そのために今朝方死去しました」(The life and correspondence of Admiral Sir William Sidney Smith, Vol. I. p282)ということになっている。
 しかし今回最大のマジックは「紙巻たばこ」かもしれない。漫画ではアクル攻囲戦の最中に紙巻たばこがうまれたかのような表現がなされていたが、こちら"http://www.t-webcity.com/~thistory/thistory/t_history.html"の「第8回」を読むと分かるように、アクル攻囲の前年に死去したカサノヴァが1767年にスペインで「ブラジルたばこを小さな紙に巻いたシガリート(sigarito)を平然と吸っている」男を見たことに触れている(Mémoires de J. Casanova, Tome Dixième."http://books.google.com/books?id=kgoUAAAAQAAJ" p491)。もともとスペイン領の米植民地ではパペリトと呼ばれる紙巻が昔から吸われており、17世紀にはスペインにも伝わっていたようだ。JTのサイトにも「パペリート」について触れた記事がある"http://www.jti.co.jp/sstyle/trivia/study/history/world/03_1.html"。
 要するにフェリポーが作って見せた紙巻たばこは、別に起源でも何でもないわけだ。そもそも本当にフェリポーが紙巻を手で巻いていたのかどうかもよく分からない。一見もっともらしい薀蓄に見えてしまうが、それを信じてしまうと作者の術中に陥ると考えていいだろう。
 
 あと、戦報についてもいくつか。最初に出てくるクレベールのナポレオン評はRamsay Weston Phippsの"The Armies of the First French Republic, Volume V"(p404)などに出てくる。J, Christopher Heroldの"Bonaparte in Egypt"(p186)によると、François Charles-RouxのBonaparte, gouverneur d'Egypte"http://www.amazon.fr/dp/B0018GFL3Q/"に載っているクレベールの個人的メモからの引用が元ネタになっているようだ。
 若い工兵の死体を抱えたファヴィエがボナパルトを罵った場面はRené-Edouard de Villiers du TerrageのJournal et souvenirs sur l'expédition d'Égypte"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k1062115"に書かれている(p184-185)。それに対してボナパルトが「まるでファヴィエの狂乱状態の言葉が彼以外の誰かに対して投げかけられたかのように、僅かばかりの感情も示すことなく立ち去った」(Histoire scientifique et militaire de l'expédition française en Égypte"http://books.google.com/books?id=FRQPAAAAYAAJ" p345)のも戦報に記されている通りだ。
 ボナパルトを批判したのはファヴィエだけではない。ベルノイエによればミュラですら「あなたは兵たちの屠殺者になっている」と面と向かって言ったそうだ(Nathan Schur "Napoleon in the Holy Land" p149)。シリア遠征の被害についてボナパルトは5月10日付の総裁政府への報告で「戦死者500人、負傷者はその倍」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième. p422)と言っているが、La Jonquièreがあげた数は「戦死1200人、病死1000人、負傷者2300人」(Napoleon in Egypt, p370)だ。
 クレベールがボナパルトを「月に1万人を必要とする種類の将軍」と評したのも、シリア遠征における深刻な人的損失が背景にあるのだろう。ちなみに同じことはグーヴィオン=サン=シールも言っている。「敵の火力によって彼[ナポレオン]の兵が味わった損失もまた必要以上に多くなった。彼の軍の2ヶ月の損失は、他の軍の6ヶ月分に相当した。(中略)同様の手法は、3ヶ月ごとに軍を一新できる[ほどの国力がある]国家にのみ相応しいものだ」("http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/gouvion17.html"参照)。

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