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パイクと火器 その2

 承前。パイク+火器の歴史について。
 
 15世紀の軍事改革家であり、でも実践では失敗続きでスイス兵の引き立て役になってしまったブルゴーニュの豪胆公シャルル"http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_the_Bold"も、一応パイクと火器を組み合わせた軍隊を作っている。また飛び道具部隊がパイク兵に守られながら射撃する戦術も考えていたようで「もし騎兵に脅かされたなら、それを受け止めるため中空の方陣を組んだパイク兵の背後に集まり、中央から矢を打ち出している間に彼ら[パイク兵]は膝をつく」("http://books.google.co.jp/books?id=kvNAAAAAcAAJ" p369-370)といった戦術が教えられていたという。
 だが彼の軍の編成を見ると、そもそもパイク自体が主力とは言えないレベルにとどまっていた。1471年に編成した部隊はカルヴァリン(大型の手銃)"http://en.wikipedia.org/wiki/Culverin"兵とパイク兵の数が同じで、一方で騎馬弓兵はその3倍、弩兵も同じ数だけいた。飛び道具のうち火器は5分の1しか占めなかったし、パイク兵の数は重装騎兵(man-at-arms)、乗馬従卒、乗馬剣兵らの合計よりずっと少なかった計算だ("http://books.google.co.jp/books?id=UAL0SfuyUGQC" p172)。またカルヴァリン兵は定数よりずっと少なかったようで、実践における重要度はさらに低かったと見られる(p173)。
 
 結局、15世紀末にイタリア戦争が始まった時、パイクと火器という組み合わせは存在していたものの重要性には乏しかった。フランスの傭兵だったスイス兵は「火器をパイクの補助的なもの」と考えていたし、アーケバス兵は全体の10分の1にとどまっていたという。ドイツのランツクネヒトになるとさらに比率は低く、400人の中隊に占めるアーケバス兵は25人に過ぎなかった(Art of War in Italy"https://archive.org/details/artofwarinitaly100taylrich" p41)。それに対抗し、火器の重要性を大幅に高めた功労者と見られているのが、スペインのゴンサロ・フェルナンデス・デ=コルドバ"http://es.wikipedia.org/wiki/Gonzalo_Fern%C3%A1ndez_de_C%C3%B3rdoba"である。
 彼は1494年時点で既に歩兵の6分の1をアーケバスで武装させ、パイク兵のみならず野戦築城も生かしてその火力をフルに活用してみせた。彼が編成した部隊はコロネリャスと呼ばれ、パイク兵、白兵戦用の短槍兵、弩弓兵及び「アルカブセやエスピンガルダなどと呼ばれた携帯マスケット銃」("http://books.google.co.jp/books?id=mzwpq6bLHhMC" p353)で武装した1万人以上の兵で構成されていた。これが後のテルシオにつながっている。チェリニョーラで勝利した「偉大なる隊長」こそPike and Shotの基礎を築いた人物と言っていいかもしれない。
 スペイン軍の成功は戦争の様相を大きく変えたようだ。イタリア戦争の期間を通じてアーケバス兵の比率はどんどん高まり、また野戦築城の背後に隠れるだけでなく攻撃にも積極的に使われるようになった。1512年のブレシア襲撃ではアーケバス兵が下馬した500人の重装騎兵の後に続き、合図で騎兵がしゃがみこんだときにその頭越しに銃撃を行いながら前進したという(Art of War in Italy, p50)。この時期になると火器の性能も上がっており、アッダ河のヴァウリで行われた渡河作戦ではスペイン軍の火器がガスコーニュ兵の弩を射程距離で上回った(p51)。
 「3段撃ち」に類したものも既にこのイタリア戦争で登場している。1515年のマリニャーノの戦いではフランス軍がアーケバスと弩を組み合わせてローテーションしながらの絶え間ない射撃を行っている(p46)。1522年のビコッカの戦いでは、窪地状の道路に守られ、背後に密集したパイク兵を置いたアーケバス兵が、「それぞれの列が順番に射撃し、膝をついた姿勢で再装填することで背後の列が射撃できる空間を残した」(p52)。コルドバの後継者と言うべきペスカラ侯らの創意工夫により、火器の効果的な使い方が次々と生み出された。
 
 「彼[コルドバ]はアーケバスを攻撃時の補助的な嫌がらせの武器から、防御時の決定的なものへと変化させた」。Michael HowardはWar in European History"http://books.google.co.jp/books?id=5gP-vli5EmoC"の中でコルドバの功績をそう説明している。最初にスイス軍が火器を使った時から1世紀以上の時間をかけ、火器とパイクの組み合わせが決定的なものになっていった。その流れはラーガー+火器のような分かりやすいものではなく、様々な試行錯誤の結果であった。
 この間に、火器が弩や弓矢といった伝統的な飛び道具の地位を奪っていく流れも生じた。火器が好まれた理由としてクライヴ・ポンティングは「ひとつには、火縄銃は手に入りやすい鉄を使っていて、弩の半分ほどの価格で大量生産できたことだ。もうひとつは、射手は訓練に長い時間がかかり、長弓の場合はなおさらだったことである。火薬兵器は(中略)まったく訓練されていない新兵でも、比較的短期間で習得することができた」(世界を変えた火薬の歴史、p164)と説明している。こちらの漫画"http://f.hatena.ne.jp/gryphon/20130122092215"で指摘されているような理由だ。
 このように西欧では16世紀前半に基礎が築かれたパイクと火器の組み合わせだが、日本では早くも1570年代にその両者が「戦場を支配するようになった」(Firearms"http://books.google.co.jp/books?id=esnWJkYRCJ4C" p182)とChaseは見ている。火器を持つ兵は白兵戦用の武器を持たなかったために守られねばならず、「西欧と日本ではパイク兵が敵兵が接近しすぎるのを妨げ、東欧、中東、インド及び北中国では銃兵と砲兵は代わりにワゴンの背後に隠れた」(p205)。かくしてOuter ZoneとInner Zoneにおける火器の使い方はそれぞれ独自の特徴を持つようになった。
 だがこうしたPikeとWagonの時代はおそらく1700年頃には終わりの始まりを迎えた。はるかに扱いやすい燧石式マスケット銃は機動力が必要とされるInner Zoneや乾燥地帯でも使いやすい武器となり、銃剣の登場は1人の兵がパイク兵と銃兵の役割を兼ねることで火力の増大に寄与した。世界は次第に統合され、地域ごとに異なる武器や戦術ではなく、どこでも通用する武器と戦術がナポレオン戦争の頃までには確立する。産業革命はさらに地球を一体化し、ChaseによるOikoumeneの色分けは意味を持たなくなってくる。そうした歴史の果てに、現在のように世界のどこへ言ってもAK47を見かける時代が到来したのである。
 
 あとついでにパイク関連の動画を。こちら"http://www.youtube.com/watch?v=dMEnBHef96c"はロクロワの戦いを描いたもののようだ。当時、マスケットと呼ばれていたのは大型の手銃であり、射撃時には銃身を棒で支えて撃っていたことが分かる映像になっている。こちら"http://www.youtube.com/watch?v=ydJM6JZ2X9Y"はゲーム映像。そしてこちら"http://www.youtube.com/watch?v=wdWSw0sakGE"ではチェリニョーラの戦いについて説明している、多分。

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