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今回をもってYahooブログでの更新を終える。

今後はFC2ブログで更新するのでよろしく。

 承前。これまでの話を踏まえるなら、現実にフランス軍が攻めてからの英連合軍及びプロイセン軍の動きは、いずれも臨機応変の対処を迫られた結果と考えられる。英連合軍は言わば幸運の結果としてキャトル=ブラの十字路を確保した。プロイセン軍は事前計画に合わせてソンブルフへ退却したが、グレーベン覚書にあるように4個軍団全てをそこに集めることはできなかった。さらにその後の行動になると、事前の想定などほとんどなかったと思われる。モン=サン=ジャンが防衛に使えるとウェリントンが考えていたのは確かだが、そこが実際の決戦場になると確信したのはプロイセン軍のリニーからの退却を知った17日以降だろう。
 当然ながら両者の行動の背景に陰謀は存在しない。間違った判断はあったと思うが、それはどんな軍事行動にもつきものだし、対戦相手のナポレオンだって間違いを犯している。はっきり言えるのは、リニーで戦うプロイセン軍をキャトル=ブラに集結した英連合軍が支援するという約束が、戦役開始前には存在していなかったことだ。16日の実際の戦いが始まる直前にならなければ、彼らのどちらもそんなことは想定できなかっただろう。

 ただし想定できなかったのは時間や場所の詳細であり、一般論としての「相互協力」は最初から約束されていた。そしてその相互協力が16日の時点で上手く働かなかったことは、否定できない事実である。働かなかった原因は陰謀ではなく、単に英連合軍が十分に集結できていなかったため。16日の失敗について問い質すなら、むしろ問題はここにある。なぜ英連合軍の集結はプロイセン軍に比べて遅れたのか。
 おそらくその理由はウェリントンの自信過剰にある。彼も、プロイセン軍首脳も、6月11日の週の初頭時点でフランス軍が攻めてくるとは思っていなかった。ベルギーに展開している連合軍は十分に強く、フランス軍に勝ち目は少ない。そう分かった状態でナポレオンがなおも攻めてくることは考えにくいというわけだ。
 だが15日になってもなお「フランス軍は攻めてこない、むしろ攻めてくれば連合軍にとって幸運だ」と自信満々の態度を示していたのはウェリントンの方だけである。プロイセン軍は14日夜の時点で既に第2〜第4軍団に対しては集結命令を出し、第1軍団も個別に一部の旅団が警戒態勢を敷いていた。ブリュッヒャーもグナイゼナウも、フランス軍が実際に攻めてくる可能性が十分にあると踏んでそれへの対応策を打ち出していたのだ。でもウェリントンはそうしなかった。
 情報の差はあるだろう。ブリュッヒャーのところにはフランス軍脱走兵が訪れ、フランス軍の動向を伝えていた。一方、ウェリントンの下にはツィーテンからの情報、ハーディングの報告などが届いていたものの、脱走兵が直接司令部に送り込まれることはなかった。だからフランス軍の攻撃に対する懸念の深刻度が違っていた可能性は十分にある。
 だが一方でプロイセン軍が兵力の集結を進めているという情報自体は、少なくとも15日朝にウェリントンのところに届いていた。彼はツィーテンに対し、ニヴェルに兵を集めたいという方針も示していた。もし彼がナポレオンに対して強い警戒心を抱き、臆病なまでにその動向に関心を払っていたのなら、プロイセン軍の動向が慌ただしくなった時点で第2及び予備軍団にも警戒命令を出し、結果として史実より早く英連合軍の集結を可能ならしめたのではないか。
 でもそうはならなかった。彼は実際にフランス軍が国境を越えたという連絡を受け取るまで、のんびり配下師団の番号差し替えを検討していたのだ。これを過剰な自信と言わずして何といおう。自軍の配置やプロイセン軍の展開、フランス側から伝わる情報など、様々な情報を総合した結果の自信だったのだろうが、残念ながらその自信には彼が思っているほど論拠がなかったことになる。
 なぜウェリントンがそこまで自信を持っていたのかというと、それは英軍が前年からベルギーに展開して準備を整えていたのが一因だろう。彼らは必要な場所について視察を行い、早い段階から一部地域を氾濫させて敵の進路を制限し、支援を期待してプロイセン軍を近くに呼び寄せた。当初は頼れる部隊数が少ないという問題もあったが、フランス侵攻計画の発動が迫るころにはこの問題も解消が進み、ブリュッヒャーを騎兵の閲兵に招待するところまで兵力を整えた。
 ウェリントン自身が4月末にまとめた「秘密覚書」は、こうした準備を踏まえてまとめられた作戦案だ。基本的に英連合軍の対応策しか書かれていないのだが、逆に英連合軍の対応策としてはこれで十分に対処できるとウェリントンが思い描いていた内容が書かれていると推測できる。まさに万全の準備である。だが万全過ぎた。そこに落とし穴があった。
 逆に戦役開始からほんの2ヶ月ちょっと前にシャルルロワに来たばかりのプロイセン軍にとって、想定される戦場は土地勘のない目新しい場所だった。彼らは短期間で急いで準備しなければならず、当然その準備内容に対してもウェリントンほどの自信を抱くことはできなかっただろう。ソンブルフ付近の集結についても、まずはシャルルロワに展開したツィーテンが案をまとめ、その後でこの地域での戦闘計画がグレーベン覚書の形で姿を見せている。この計画がかなり泥縄であることを示す一例だろう。
 プロイセン軍が報告連絡相談で色々と欠けている部分が多かったのも、準備期間の短さが一因だと思う。14日夜以降の彼らの対応は、特に味方同士の連絡という点では不手際が目立っていたが、急遽フランス軍の攻撃に対応しなければならないために首脳部がてんやわんやに陥ったことが原因ではないだろうか。大モルトケ時代のプロイセン軍は機械のような正確さで知られるようになったが、少なくともワーテルローの時の彼らはまだそこまで組織が出来上がっていなかった可能性がある。
 加えて、実際にナポレオンと戦った経験の有無も、両者の自信の差につながった可能性がある。何度も苦渋を飲まされてきたプロイセン軍は、フランス軍が攻めてくるという情報に先入観を持たずに向き合った。だがナポレオン自身と戦ったことはなく、彼の部下しか相手にしてこなかったウェリントンは、フランス軍が攻めてこられないほど自分たちは強いという思い込みに囚われてしまった。様々な条件がフランス軍の攻撃情報に対する両軍の対応の差につながり、それが最終的な反応速度の差を生み出したのだと思われる。

 それでも全体として連合軍はうまくやった。その大きな理由は最初から最後まで「相互協力」という最も重要な原則を外さなかったからだ。残念ながら後の時代の両国関係者の間からはこの相互協力という概念が失われ、ワーテルローの歴史書ではむしろ相互非難が目立つようになってしまったが、少なくとも1815年6月時点のウェリントン、ブリュッヒャー、グナイゼナウらは、成功するためには協力が必要という共通認識からずれることはなかった。
 彼らがその線を維持できたのは、何度か紹介してきたように彼らに大義があったからだろう。その大義とはブルボン王家の復活ではない。ブリュッヒャーは別にそんなものに関心はなかった。ウェリントンとプロイセン軍とをこれ以上ないほど密接に結びつけた大義、それはもちろん「コルシカの食人鬼」に対する恐怖だ。
 ナポレオンという心底恐ろしい敵がいたからこそ、その排除という大義のために連合国は小異を捨てて大同につくことができたのである。相互にどれだけ不満や行き違いがあるとしても、ナポレオンを跳梁跋扈させるよりははるかにマシ。だからグナイゼナウは不安を抱きながらもシャルルロワまで戦線を進め、ウェリントンはオランダ国王やプロイセン軍、他の連合国との政治調整に心を砕き、ブリュッヒャーは敗走した軍をすぐに再編しラ=ベル=アリアンスへと行軍したのだ。ナポレオンがいたからこそ「相互協力」が成り立ったのである。
 逆にナポレオンがいなくなった後、プロイセンと英国の「協力」は姿を消した。少なくともワーテルロー戦役を描く歴史書の中では、相互協力の重要性は後退し、相手の陰謀や無能ぶりを強調する記述が登場し、増えていった。大義が消滅したのが理由だろう。協力は強力だが、それが成立するのは協力を強いるほど強大な敵がいるときであり、敵が消えれば協力も消えるというわけだ。
 寄生獣の登場人物のセリフではないが、まさに「君らは自らの天敵をもっと大事にしなければならんのだよ」。天敵が消えた後の欧州では、協力が薄れ、細かい差異を問題にした対立が増えていった。ワーテルローに関する数多の歴史書の中には、協力の大切さを忘れた歴史家たちの残念な姿が映し出されているともいえる。
 承前。ベルギーでの戦闘において英連合軍とプロイセン軍は、相互に連携しながら一方が防勢を、他方が攻勢を取ることで一致していた。ベルギーの防御は連合軍がフランスに侵攻するための条件であり、また侵攻を実施するには他の部隊の準備が整うのを待つ必要があった。ウェリントンは「ネーデルランドにいる軍と、ライン左岸地域の軍は(中略)防勢を取る必要がある。彼らは他の軍が共通の目的のため合流を達成するまで待っていた」(p8)と記している。
 もちろん連合軍はフランス軍を攻撃するチャンスがある時まで防御に徹するべきだとは考えていなかった。ただし1815年戦役においてはフランス軍はそうした隙を見せず、国境の要塞群を上手く使いながら攻撃の直前まで自分たちの行動をうまく秘匿していた。加えてこの軍を率いているのは他ならぬナポレオンであった。彼を前にうかうかと飛び出すことの拙さは連合軍もよく知っていたはずだ。結果、主導権は敵側に残り、連合軍は敵の動きを見定めてから対処することを余儀なくされた。
 連合軍が待機状態を強いられていたことは、ウェリントンが4月10日や5月11日に記した文章にも書かれている(p9)。この状況では「作戦を組み立てることは不可能ではないにせよ難しい」というのがウェリントンの考えであり、そしてその際に重要なのが味方相互の協力だったとde Witは書いている。
 オラニエ公とクライストが舞台の中心にいた時期には、この協力は膠着状態にあった。ウェリントンとグナイゼナウの登場によってプロイセン軍がシャルルロワまで進み、適切な協力関係が構築されることになった。この時期、フランス軍の攻撃はあるとしたら英連合軍へと差し向けられると考えられており、戦争になればブリュッセル前面で戦う彼らのところにシャルルロワやナミュールからプロイセン軍が支援に駆け付けるという事態が想定されていたとみられる。
 4月末、フランス軍による攻撃の可能性が高まった時点でウェリントンは改めてアンギャン、ブレーヌ=ル=コント、ハルの地域で敵を迎え撃つ方針を示し(秘密覚書)、一方プロイセン軍はフルリュスからジャンブルー付近、あるいはさらに東方に集まる策を打ち出した。一方5月8日にウェリントンは「自分たちがよく連携し強くあれば、敵は悪さができない」(p10)と述べ、自分たちが強く協力していればベルギーへの侵攻に対処できるという自信を示している。
 一方、その後もムーズ河畔への占領集中を続けたプロイセン軍は、フランス軍が英連合軍の戦区ではなくシャルルロワ経由で自分たちを攻撃してくる可能性も検討し始めた。ポアン=デュ=ジュールでの戦闘について記したグレーベン覚書がその一例だろう。ただプロイセン軍の集結予定地点が大きく変わったわけではない。そしてその状況は6月中旬になってもほとんど同じだった(p11)。
 実際の連携に欠かせないのは、軍の集結や移動にかかる時間の計算だ。de Witによればウェリントン軍の宿営地は東西80キロ、南北70キロにまたがっていた。1日の行軍(12時間)で彼らはアトとソワニー間のどこかに集結することが可能であり、そして2日行軍(24時間)あれば西はスヘルデ河、東はニヴェルかキャトル=ブラへたどり着けただろうとしている。プロイセン軍については24時間以内に軍がフルーリュス、ナミュール、シネー、アニュのいずれかに集まることができたという(p12)。
 以上を踏まえて押さえておくべきなのは、ここまでの両軍の準備において、キャトル=ブラが全く議論の俎上に上がっていない点だ。フランス軍の攻撃が始まった後になってこの小さな村は急に注目を集めることとなったが、それは単なる後知恵にすぎない。両軍が打ち出していた策は、敵の動きを見極めたうえで部隊を集結させ、孤立して戦うのではなく互いに連携するという大雑把なものであり、集結が必要になりそうな地域に関する割と漠然とした方針だ。それ以上の作戦については、実際の時間と場所に関する状況に応じて決めるしかなかった。
 さらにスヘルデ左岸やムーズ右岸に敵が来た場合の協力方針となると、もはやほとんど存在しなかったとde Witは書いている(p12)。相互の距離が遠すぎて別のコンセプトが必要になり、おそらく攻め込まれなかった方の軍によるフランス侵攻という形での協力が最も現実的だったのだろう。

 以上でde Witがまとめたワーテルロー戦役前の連合軍の状況説明は終わりだ。彼が何より強く主張しているのは、実際のワーテルロー戦役の経過を前提にこの時期に起きていたことを評価するのがいかに間違っているかという指摘だ。多くの本でワーテルロー戦役前の説明は「あまりにもしばしば後知恵に侵されており(中略)出来事を額面通りに見ることが事実上不可能になっている」("https://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/preambles/blucher_wellington.15.pdf" p13)。
 その分かりやすい例としてde Witがしつこく紹介しているのが、連合軍によるフランス侵攻作戦だ。ウェリントンもブリュッヒャーもこの問題を常に頭の中に置いており、それは彼らの行動に大きな影響を及ぼしていた。時間が経過すればするほど、彼らはそちらの方に関心を移している。にもかかわらず、ワーテルロー本の大半において、連合軍によるフランス侵攻計画の推移はほぼ無視されている。だからde Witは事態を「ありのままに捉え、同時に後知恵が入り込んでいる部分については解体し、正しい文脈にそれを置くことを試みた」(p13)のだそうだ。
 中でも6月16日に実際に起きたことを過去に投影するケースは極めて多い。連合軍は当初からソンブルフとキャトル=ブラに兵を集める予定だった。そしてリニーでブリュッヒャーがナポレオンの攻撃を受け止めている間に、ウェリントンが敵の側面か背後を攻撃して勝利をつかむという計画が存在した。ウェリントンは来援すると約束したし、プロイセン軍はその約束を前提に戦っていた。そういう主張が多くみられることは確かである。
 この後知恵というレンズを通じて見た光景を事実と見なしてしまうと、ではなぜウェリントンは来援しなかったのかが問題になる。そこで生まれるのが一種の陰謀論。ウェリントンは最初からプロイセン軍を見捨てるつもりだった、とまでは言わないにせよ、その約束は嘘だったという指摘は、特にプロイセン寄りの歴史家から何度も提示されている。ウェリントンはいかにも英国人らしく二枚舌を使う人物であり、プロイセン軍はそれに翻弄された結果、本当なら勝てる戦いに敗れたという主張だ。
 一方、英国側の歴史家の多くはプロイセン側の無能に問題をなすりつけている。双方が協力して敵を叩く計画だったのに、プロイセン軍が功をはやってナポレオンと正面衝突した結果、英連合軍が救援に駆け付けるより前に勝手に負けてしまったという理屈だ。プロイセン側からウェリントンに向けての情報伝達に齟齬が多かったことも、責任が相手にあることを示す論拠として使われている。最終的に勝った側の論争としては、随分みっともない内容だと思える。
 実際はどうだったのか。そもそもウェリントンとプロイセン軍の約束は極めて大雑把なものであり、詳細は実際にフランス軍が攻めてきてから決めるしかなく、しかも地域的にも限定的な範囲を対象にしたものだった。ウェリントンはキャトル=ブラに兵を集めると事前に約束したことはない。そもそもフランス軍がどこから攻めてくるか分からない時に、そんな個別の集結地点を自分たちの都合だけで決めるわけにはいかない。
 主導権がフランス側にあり、どこから攻めるのも彼らの自由であるという状況下で、シャルルロワからの侵攻一本に絞り込んで防衛計画を立てるなど愚の骨頂である。実際、連合軍が事前に行なったのは、フランス軍の侵攻ルートを大雑把に3つ想定し、それぞれに合わせて大まかな方針を定めるというところまでだった。英連合軍はアンギャンからブレーヌ=ル=コントとその周辺、プロイセン軍はソンブルフからジャンブルー、さらにその東方といったところにまずは集まり、後はフランス軍の動きを見て方針を決める。それ以上の詳細を事前に詰めておくのは、未来を予知できない限り不可能だ。
 互いに支援するという約束はあったが、それもあくまで「一般論」での約束だった。そもそもナポレオンの帰還から以降、少なくともティールモン会議の頃まで、フランス軍の攻撃対象になる可能性が高かったのはプロイセン軍ではなく英連合軍側であり、従って両者の話し合いにおいてもほぼ常にウェリントン側が支援を要請→プロイセン側が支援を約束→ウェリントンがその対応に満足の意を表明、とうい流れが繰り返されている。実際にフランス軍が攻めてくる以前において、両者の間で行われた話し合いの内容は、せいぜいその程度のものだったのだ。

 以下次回。
 承前。時系列での記述以外に、ワーテルロー戦役が始まる前の連合軍の防御配置がどう推移したかについて、de Witは別に文章をまとめている"https://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/preambles/blucher_wellington.15.pdf"。まず4月20日にウィレム1世が息子に宛てた手紙が紹介されているが、それによると彼がオランダ軍を最初にムーズ河畔で編成したのは、フランドルの軍事については全て英国に任せることにしたためだという(p1)。
 アントワープをはじめとした海沿いの要塞はそれ自体が強力なのでそちらには兵を割かず、敗北時にはムーズ河沿いに兵を守備隊を集めながら兵をナイメーヘンまで下げるというのがオランダ王の考えだった。だがウェリントンに強く要求されたこともあり、オラニエ公はムーズ河畔にいたオランダ軍をブリュッセル南方へと移している。ウェリントンはあくまで、使える兵をすぐ集められる状態にし、一部が分断されることのないように配置するのを重視したようだ。
 そのウェリントンの防御コンセプトについてde Witは3つの要素があるとしている。まずは英国、オランダ、ドイツとの連絡線確保。政治的にはできたばかりのオランダ王国と、ヘントに避難しているルイ18世を守る意味もある。2つ目は最後の局面で最大の兵力を集められるように部隊を配置することだ。彼は「あらゆる方角への移動に備え、どの方角に攻撃が行われるかを見定め、そして攻撃に抵抗するため、あるいは集め得る最大の戦力で敵を攻撃するため、軍を可能な限り早く集める」(p2)ことを重視していた。
 3つ目の要素は、プロイセン軍と連携あるいは共同して行なう大会戦という目的のために防御配置を崩すことに対する抵抗だ。これはまずオラニエ公とクライストの間で、後にウェリントンとグナイゼナウの間で議論された「ティールモン会戦」案に対する反対をもたらした。もちろんウェリントンはプロイセン軍との協力を否定しているわけではないが、ブリュッセル防衛を優先するうえでは防御配置を固める方がいいと考えたのだろう。
 ウェリントンがベルギー防衛のための調査を始めたのは1814年の夏だった。彼が注目したのは西フランドルの要塞や、オーデナールデとハレルベーケ間の高地だ。後者についてはカーマイケル=スミスが1814年12月に提出した覚書でも触れられている。また工兵大佐チャップマンに対する命令ではスヘルデ河とデンドル河の防衛についても調べるよう指示しており、どうやらウェリントンはフランス軍がスヘルデ西岸を攻撃し、それから東に転じてブリュッセルを目指すと想定していたようだ(p2)。ただし1815年4月になるとウェリントンはスヘルデ西岸の防衛は諦めている。
 1814年9月にはウェリントンは今度は南部の国境線に関心を向ける。彼はモンスとナミュール間が「国境線の中で最も脆弱」と判断していた。その3ヶ月後、カーマイケル=スミスがトゥルネーからモンス間で最も望ましい防衛拠点として提示したのはハルだった。彼はこの地について「野戦築城によって極めて強固にできる陣地であり(中略)正面からの突破はできないだろう」(p3)と述べている。3月下旬にはコルボーンが「ハルですぐに堡塁を建設する」と述べており、百日天下の当初から英連合軍がこの地を重視していたこともわかる。
 カーマイケル=スミスはもう1つ、フランス軍がシャルルロワ方面から来た時には、まだ調査はしていないもののモン=サン=ジャンが戦闘の候補地になるとも見ていた。「ニヴェルとジュナップは極めて開けている(中略)。だがブレーヌ=ラ=ルー付近は注意深く偵察することが望ましい(中略)この地を守る最良の方法は(中略)野戦築城によって強化することだ」(p3)と、彼は記している。それ以外に彼はナミュール周辺に塹壕を構えた宿営地を作ることも主張している。
 1815年4月時点のウェリントンはスヘルデ河とサンブル河間から攻撃された場合、最終的にはハルに下がる考えを抱いていた。一方1814年12月のカーマイケル=スミスは、トゥルネーとモンス間から攻撃された場合はハルで、モンスからシャルルロワ間から攻撃された場合はモン=サン=ジャンで迎え撃つことを想定していたらしい(p3-4)。これを受けて4月にウェリントンはカーマイケル=スミスに対しモン=サン=ジャン地域の調査を命じている。
 一方、海への連絡線としてはオステンドへの道が重視されていた。ただし3月下旬にはアントワープが英軍の兵站拠点とされており、いざという場合の退路はブリュッセルの北方に向いていたと思われる。4月中旬にアントワープへの途上に舟橋が架けられたことにはすでに言及している。またカーマイケル=スミスも1814年12月にアントワープへの退路をカバーするための堡塁の重要性を指摘している。ウェリントンも1816年にウィレム1世に宛てた手紙で、ブリュッセル前方で持ちこたえられなければアントワープかマーストリヒトへ退却していた、と記している(p4-5)。
 ウェリントンがプロイセン軍にシャルルロワまで進出することを求めたのは、単にベルギー南方国境全てを守るには戦力が少なかったためである。彼の部隊はまず最前線に騎兵の哨戒線があり、その後方に第1及び第2軍団が展開していた。騎兵部隊は戦線の右後方に当たるニノヴェに、ウェリントン直率の予備軍団はブリュッセル周辺に配置されていた。
 レイエ河の西側にはイープル、ニューポール、オステンド、ヘントといった要塞群があり、氾濫も含めて防衛拠点となっていた。軍主力が展開する地域ではモンスとトゥルネーにも守備隊があり、そして後方アントワープにも守備隊は配置されていた。英連合軍の東側の境界線はブリュッセルからフラーヌ付近までと、そこからローマ街道沿いに連なっていた。彼らが展開している地域に向き合うフランス側の拠点はリール、ヴァランシエンヌ、モブージュだ。
 ナポレオンによるベルギー侵攻には大きく3つの選択肢があったことは既に書いている。1つはスヘルデ左岸の海沿いのルート、2つ目はスヘルデ河とサンブル河間、3つ目がムーズ右岸からラインを目指すルートだ。ウェリントンは特にリールからクルトレー経由でヘントへ至る道、リールからトゥルネー経由のヘントへの道、トゥルネーからアトを経由してブリュッセルへ至る道、ヴァランシエンヌからモンスを経てブリュッセルへ至る道などを警戒していたようだ(p6)。

 一方、後にプロイセン軍に委ねられることになるムーズ地域について、英連合軍はほとんど何の対応もしてない。1814年や1815年の前半において、英軍工兵部隊はこれらの地域について優先して調査する必要性を感じていなかったようだ。ようやく1815年の5月になってプロイセン軍がソンブルフ周辺などを調査した程度である(p7)。
 3月以降、プロイセンの下ライン軍がムーズ沿いに展開を始め、一方で国内からラインへと部隊が送られてきた。当初、オラニエ公の英=ハノーファー軍とクライストのプロイセン軍との間には大きな隙間が空いていたが、ウェリントンとグナイゼナウの到着後にプロイセン軍がシャルルロワまで進み、英連合軍と接触した。一方プロイセン第3軍団は引き続きモーゼルとのリンクを形成しており、この状況は5月中旬まで続いた。
 第3軍団がムーズに接近し、さらに後方から第4軍団が進出してきた段階で、モーゼル方面の防衛はクライスト軍団に任されるようになった。プロイセン軍主力は第3軍団がムーズ右岸、他の軍団が左岸の連絡線をカバーするように配置された。左岸の退路として想定されていたのはリエージュまでの道と、北東のマーストリヒトへの道だ。
 ムーズ右岸からフランス軍が攻撃してきた場合の対処としてグナイゼナウが5月13日に記したのは、フランス軍をアルデンヌに進ませておいて、自分たちはウェリントンと一緒にフランスに攻め込むという対応策だ。もしウェリントンが一緒に行動しないのであれば、その時はムーズを渡ってくる敵を待って戦うか、彼らをライン方面へ進ませた後にムーズを渡河してその背後に出、不利な戦いを強いるつもりだった(p7-8)。
 1ヶ月後にミュフリンクがグナイゼナウに宛てた手紙では、ウェリントンと一緒にムーズ河を越えて敵に向かうか、あるいは直接フランスの要塞に進んで敵の背後に出るという案が示されている。グナイゼナウのアイデアと割と似ており、de Witは「両連合軍司令官が合意しない可能性はおそらくなかっただろう」(p8)と指摘している。

 以下次回。
 承前。以上で日単位の状況説明を終える。見ての通り大量の情報が飛び交っていたのだが、ウェリントンは基本的にフランスの攻撃がないと考えていた。自分たちが強すぎるというのが理由。一方、フランス軍の切迫した動向はウェリントンの下にも届いていたはずで、レーデはモンスに対する攻撃の可能性に言及しているし、ツィーテンは14日に、必要ならニヴェルに兵を集めるという報告をミュフリンク経由で受け取っている(p21)。
 ミュフリンク自身も14日に「フランス軍全てが[ツィーテンの]前哨線の前に集まっており、おそらく彼らの攻撃は彼に対して振り向けられる」との報告があったと回想録に書いている。さらにPflugk-Harttungによれば、デルンベルクが14日午後9時半にウェリントンとブリュッヒャーに宛てて「フランス軍によれば明日早朝に攻撃が行われる」との情報を伝えたという。ブリュッヒャーの司令部にそれが到着したのは15日の朝一番だったそうだ。ただしde Witはこの話について、具体的な史料の裏付けに乏しいと疑問を呈している(p21-22)。
 一方、プロイセン軍もウェリントン同様に事態を楽観視していたというのがde Witの主張。14日朝にツィーテンは、集結のための準備態勢を敷いているが、この時点では実際に集結が行われているわけではない。具体的な集結場所については既に5月2日に最初の指示が出ているため、改めて命令する必要もなかった。
 フォン=ライヒェは14日のうちに第1軍団の各旅団が既に集結していたかどうかについて検討しており、ツィーテンがそうした命令を出していないことを認めている(p24-25)。一方、16日にプロイセン軍司令部に送られたティンダルは、フランス軍の脱走兵が16日に攻撃があるとシャルルロワの憲兵に伝え、ツィーテンがそれを知って「武器を取った」(p25)と記している。シュタインメッツは14日に書いた手紙の中で「敵に攻撃の機会を与えたくない」と記しておりこれが集結しなかったことを示す可能性もある。
 一方第2旅団のピルヒは14日夜にかなり切迫した集結準備命令を出しており、ライヒェも彼らは14日のうちに集結したとみている。第3旅団のヤーゴウも14日午後に集結に向けた命令を出しているのだが、こちらは逆に切迫しすぎている内容から実際に出されたのは攻撃が始まった段階、つまり15日早朝だったのではないかとde Witは推測している。ただし第29連隊のヴェルマンは14日午後に実際に兵力の集結が行われ、15日の午前3時にいったん朝食のため兵たちが宿営地に戻されたと主張しており、どちらの見方が正しいかは判断しがたい。
 第4旅団の指揮官は14日のうちに集結が命じられたと主張しているが、一方で集結地に向かったのは15日に砲声が聞こえてからとも書いており(p26)、また第19連隊は14日のうちに集結命令を受けたとは主張していない。ハーディングの14日午後10時の報告にもそうした話は書かれておらず、ツィーテンが間違いなく進めたのは14日夕方に行なわれた荷物の後送だけだった。
 de Witはツィーテンが集結のための準備こそしたものの、14日に集結自体を実行するには至らなかったとの印象を持っている。公式な報告などが論拠で、ただし第2旅団については実際に集結をした可能性を認めている。第2軍団についてはさらに状況が明確でなく、結局のところ14日時点で集結をはっきりと命じられたのは戦場から最も遠い第3、第4軍団だった(p26)。
 グナイゼナウとブリュッヒャーが14日の真夜中近くになってさらに命令を出すことを決めた理由が何なのかははっきりしない。ただこれらの命令がプロイセン軍をムーズ左岸に集めるものだったことから、モブージュやボーモン近辺のフランス軍によるプロイセン軍への攻撃切迫が理由ではないかとde Witは推測している。第2軍団がマジーとオノ間に、第3軍団がナミュールのムーズ左岸に集められたことから、確かにその可能性は高そうだ。
 一方、ブリュッヒャーが15日午前9時にツィーテンに宛てた手紙に「まさにこの夜の間に、第2、第3、第4軍団に集結を命じた」(p27)とあることから、de Witは第1軍団に対して命令は出されなかったと想像している。またこの時期にプロイセン軍司令部からミュフリンクやウェリントンに宛てて連絡がなされた証拠も見当たらない。

 と、以上がde Witの考えだ。彼の指摘は比較的妥当なものが多いと思うが、このフランス軍攻撃直前の動向についての解釈にはいささか疑問を感じる。特にプロイセン軍の行動に対する評価は、考えすぎを通り越して牽強付会に見えてくるところもある。
 フランス軍が攻撃を仕掛けてくる少し前までウェリントンとプロイセン軍司令部のいずれも事態を楽観視していたのは確かだろう。だが直前になると、両司令部の対応はかなり異なっていた。ハーディングの報告より前の時点で第3、第4軍団に対しては既に集結命令が出されており、14日の真夜中までには第2軍団に対してもマジーとオノへの集結が命じられている。第1軍団については各旅団ごとに対応が異なっているが、少なくとも第2旅団が集結していた可能性はde Witも認めており、第3及び第4旅団については集結の準備までは行われていたと見られる。要するにプロイセン軍は少なくとも警戒態勢は敷いており、そして大半は既にフランス軍の攻撃に対する準備を始めていたのだ。
 一方、英連合軍で警戒態勢を敷いていたのはオラニエ公の第1軍団だけだ。確かに彼らはおよそ1週間前からいつでも集結できるよう対応を取っていた。だが第2軍団(少なくともその大半)と予備軍団については、集結準備命令すら出ていた様子はない。そしてブリュッヒャーの司令部と異なり、ウェリントンの司令部は14日夜になっても彼らに対して集結命令は出していない。
 モブージュに集まっているフランス軍の近くにいるのは英連合軍第1軍団であり、プロイセン軍第1軍団である。それぞれがいざという時に備えて警戒態勢を敷いていることは不思議ではない。またフランス軍の動きが切迫してくるまで、彼らから離れた位置にいた部隊、つまり英連合軍第2軍団と予備軍団、及びプロイセン軍第2、第3、第4軍団があまり警戒していない状態にあったのもおかしくはない。でもフランス軍の攻撃が近づいてきた時の対応は、英連合軍とプロイセン軍との間で明白に違っていた。
 プロイセン軍の方がより詳細な情報を得ていた面はあるだろう。フランス軍逃亡兵から話を聞いていた彼らが14日の段階で反応していたのは、それだけ彼らがナポレオンの動きについて詳しく知っていたためと考えられる。だが一方でウェリントンの下に情報が行っていなかったわけではない。ハーディングの報告より以前、14日の時点でツィーテンがミュフリンク経由でフランス軍の準備状況についてウェリントンに知らせていたのは間違いない。
 このツィーテンの14日の報告の内容は今となっては分からないが、おそらく各旅団に命令があり次第集結するよう伝えたこと、及びボーモンとモブージュの北側にかなりのフランス軍部隊が集結していることが知らされたのだろうとde Witは推測している(p21)。またファン=レーデの報告に従うなら、彼らが連合軍を攻撃する可能性も既に推測されていたとみられる。プロイセン軍ほどではないにせよ、ウェリントンが警戒を強めてもおかしくない情報は存在していたのではなかろうか。
 少なくともハーディングの報告が届いた15日朝の時点で、ウェリントンがブリュッヒャーと歩調を合わせ、第2及び予備軍団に集結を命じることは可能だった。実際にウェリントンが配下の軍に集結命令を出したのはフランス軍の攻撃がはっきりした後、おそらく15日の午後6時から7時の間("https://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june15/brhfdkw.pdf" p1-2)だ。
 しかもその命令が実際に各部隊に到着するにはさらに時間がかかった。第2師団長のクリントンが命令を受け取ったのは16日の午前6〜7時頃であり、師団がアトに集まったのは午前9〜10時頃、ブレーヌ=ル=コントに到着したのは午後9時過ぎだったという("https://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june16/IIekorps.pdf" p1-2)。また第4師団のコルヴィルが行軍命令を受け取ったのは16日午前6時だったという(p2-3)。
 ブリュッセルにいた予備軍団にはもっと早く命令が到着しており、ピクトンの第5師団には15日午後9〜10時に集結命令が到着し、彼らが行軍を始めたのは16日午前4時だった("https://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june16/reserve.pdf" p1)。またブラウンシュヴァイク部隊には午後11時頃に集結命令が下り、午前7時には実際に出発したという(p2)。もし12時間早くに命令が下っていれば、彼らはキャトル=ブラの戦いにもっと早いタイミングで参加できていた可能性がある。
 de Witはプロイセン側の問題点(例えば第1旅団の集結や、プロイセン司令部からウェリントンへの連絡が不十分であること)について色々と指摘しているが、フランス軍の動きに対するウェリントン自身の反応が鈍すぎることに対してはあまり責めていない。だがウェリントンの対応の遅れが16日の戦闘に影響を及ぼしたのは間違いないし、その結果としてウェリントンはもう一度18日に運試しをしなければならなくなった。de Witはプロイセン側の問題と同じくらい、英連合軍側の問題についても言及すべきだったのではなかろうか。

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