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神の誕生

 以前、進化論的な包括適応度の向上と道徳との関係について触れたことがある"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56671690.html"。このエントリーでは道徳という書き方をしてきたが、実際のところそれは宗教とも絡んでいる。そして世の中には、モラルを重視する宗教こそが大規模な社会における協力を担保してきたという説もあるらしい。
 NorenzayanのBig Gods"https://press.princeton.edu/titles/10063.html"という本(2015年出版)がまさにそうしたテーマで書かれたものだそうだ。日本語ではこちら"http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2016/01/16/205622"に内容の要約を翻訳したものが掲載されているので参考になるだろう。全知全能の存在である「大きな神々」への信仰こそ、少人数の集団が大規模な社会へ発展する道を開いた、という説だ。
 狩猟採集社会のように構成メンバーが互いの顔を全部把握しているような社会においては、フリーライダーはすぐに発見され罰せられる。だが社会が大きくなり匿名性が高まると、そうした顔見知りを前提とした4枚カードのような方法でフリーライドを防ぐことは困難だ。そこで代わりの役目を果たすのが大きな神々。彼らは「知り合いの目」の代わりとして人々を見張り、人々に道徳的なふるまいを強いる。大きな神々こそが匿名性の高い巨大な社会からフリーライダーを排除するシステムになっているわけだ。
 要約紹介ページを見ても「見張られている人は善人である」「地獄は天国を上回る」「神を信じる人を信じる」など、神が知り合いの代わりとなってフリーライダーを罰する機能を果たしていることを示す原則が示されている。かくして大きな神のいる集団は内部で緊密な協力関係を構築し、外部との競争で優位に立つ。そして最終的に地球上に存在する大きな社会は軒並み「大きな神々」を崇拝する社会ばかりになる、そのような進化のメカニズムが働くという理屈のようだ。

 英語ではBig God Theoryと呼ばれるこの主張はなかなか興味深いものだが、この見解が必ずしも定説となっているわけではない。社会的な協力関係と宗教とが相互に密接に関係してきたことは特に否定されてはいないようだが、問題になるのは「大きな神を崇拝する集団が大きな社会になる」という因果関係の部分だ。少なくとも歴史的な事例を見る限り、一方にはこの説と辻褄の合う研究結果がある"https://royalsocietypublishing.org/doi/full/10.1098/rspb.2014.2556"が、他方でむしろ因果関係が逆であることを示すような研究もある"https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/25496963"。
 そこで登場してきたのが、Peter TurchinもかかわっているSeshat"http://seshatdatabank.info/"だ。彼らが築き上げたデータバンクには社会の複雑性に関するデータだけでなく、宗教や儀式といったものに関する定量的なデータも多く含まれている。それを使えば、人々にモラルの高い行動を強いる神々の存在と、巨大な社会の成立との間に存在する時系列的な関係が分かる、というわけだ。そしてその結果が、このほどNatureに掲載された"https://rdcu.be/brZ1Q"。
 結論はBig God Theoryを否定するものだった。歴史上の様々な時代や地域において、複雑な社会の方が道徳を強いる神々よりも先行して登場したという。それどころか「大きな神々」は、人口で約100万人に達するほどの大きな社会が出来上がった直後に生まれるケースが大半だったという。因果関係でいうのなら、複雑な社会こそが大きな神々を作り出したということになる。
 分かりやすいのはこちらのツイート"https://twitter.com/PatrickESavage/status/1108430660006342656"で紹介されている2つの図だろう。最初のものはSeshatがデータを集めている世界30の地域で、いつごろ「大きな神々」が登場してきたかを示したものだ。欧米などの植民地になって初めてそうした神々が押し付けられた地域を除き、世界の各地で様々なタイプの「大きな神々」が登場してきたことが分かる。
 もっと重要なのは次のグラフだ。こちらは複数の社会において、道徳を強いる神の登場前後に社会の複雑さがどのように変化したかが示されている。見ればはっきりと分かる通り、社会の複雑さが一気に増したのは、道徳を強いる神が登場した後ではなく前だ。つまり神々の存在が大きく複雑な社会を生み出す前提条件になったのではなく、むしろ大きく複雑な社会の誕生こそが神々を作り出す原動力になったと考えられるのだ。
 一例となるのがアショーカ王"https://en.wikipedia.org/wiki/Ashoka"だという。彼はカリンガ王国を支配し、広大な王国を築き上げた後になって、仏教へ帰依した。複数のエスニシティを含む複雑な政治体が出来上がった後になって、その複雑な社会を安定させるための道具として宗教が引っ張り出された、という格好だろう。先に複雑で大きな社会があり、後から神々がやって来たという点については、Walter Scheidelも同意している"https://twitter.com/WalterScheidel/status/1108552143844376577"。
 むしろSeshatのデータを使って見えてきたのは、社会の複雑さが増す前に多くの社会で宗教的な儀式の導入が行われていた点だろう。これが何を意味するかについて、論文では「社会の複雑さが最初に増加する点については、誰を崇拝するかではなく、どのように崇拝するかこそが究極的により重要」だと記している。神が誰であり、その教えがどんなものであるかよりも、神を崇める儀式において何を行うかの方が実は重要なわけだ。
 実際、儀式の内容は時に宗教戦争すら引き起こすほどの騒ぎになる"https://twitter.com/kouichi_ohnishi/status/931080776719802368"。どうやら社会をスムーズに動かすためには、まず形から入る必要があるらしい。格式ばった儀式に何の意味があるのかと思う現代人は多いだろうが、意味はある。動物であるホモ・サピエンスにとって、皆と一緒に約束事に従って体を動かすことは、一体感を生み出すうえで大切な行為なのかもしれない。

 ちなみにこの論文筆者のうち1人"https://twitter.com/PatrickESavage"は慶応大に務めている人物で、音楽や進化といった様々な分野の研究に取り組んでいるらしい。彼は今回の研究についてこちら"https://natureecoevocommunity.nature.com/users/233752-patrick-savage/posts/44985-cooperation-and-resilience-from-music-to-religion"にエントリーを上げているのだが、そこでは自身のキャリアについても触れている。
 興味深いのが大学時代に一緒に過ごしたアカペラグループとの友情についての言及だ。儀式や踊り、あるいは軍による歩調を合わせた行進など、大勢と一緒に体を動かすことが人間関係の緊密化に役立つことを、どうやらこの研究者は自身の体験から理解しているらしい。彼は日本の伝統的な音楽について学ぶために訪日し、陸前高田市の盆について研究をしていたそうだ。東日本大震災で大きな被害を受けたこの地が復興へ向かう過程で、儀式や音楽が果たした役割をリアルタイムで見てきたのだろう。
 そうした経歴を持つ人物がSeshatの今回の調査に関与したわけで、社会が複雑化する過程で儀式が果たした役割の重要性を窺わせる結果が出たことは、おそらく我が意を得たりといったところだろう。本人自身も「協力を容易にするうえで音楽と踊りが果たした役割に関する持論」を持っているそうで、今回の研究結果はその持論にとってもプラスになるかもしれない。
 もう一つ、教義ではなく形式が重要なのだとしたら、現在世界中で進んでいる無神論の増加傾向が長い目で見て「協力の破壊」につながるとは限らない、と主張することもできそうに思う。神が不在でも共有できる儀式的な体験があればいいのなら、それこそこの筆者が書いているように「芸術教育とコミュニティーの祭」に投資することで、世界がよりよくなる可能性だってある。
 つまり今こそ火の民の大いなるマツリ、「ヤマタイカ」の復活が望まれているのであり(文章はここで途切れている)

子育てコストの理論

 こんな記事"https://wired.jp/2018/12/16/professor-galor-unified-growth-theory/"があった。いかにもWIREDらしくスノッブでうんざりさせられるデザイン&書き方なのだが、特にグラフとか数式は読者を馬鹿にしているようにしか見えない。この手のものに求められるのは見やすさと正確さだろうに、意味不明な落書きを織り交ぜて可読性を下げまくっている。「どうせお前ら数式とかグラフなんて読まないんだろ」と言いたいのだろうか。
 取り上げられているOded Galorの言い分はそれほど筋悪のものでもなさそうに見える。くそ生真面目な経済学に関する議論だし、だから本来ならストレートに読ませるようにすればいいだけ。なのに素っ頓狂な作り方をしているせいで、WIRED編集部による間違った「おしゃれ感」のいたたまれなさが浮き彫りになるコンテンツと化してしまっている。
 デザインに比べれば文章はまだマシだが、残念ながら「信者による教祖の紹介」的な書き方になってしまっているため、読んでいて眉に唾をつけたくなる。この手の「エヴァンジェリストによるジョブス礼賛記」みたいな文章は一時期ネットにあふれまくっていたが、いつまでもそんなものが格好いい文章だと思っていると、いずれどこかでしっぺ返しを喰らうのではなかろうか。余計なお世話だけど。
 Galorの議論については彼のインタビュー"https://www.researchgate.net/publication/4799001"から要点を抜き出したこちらのblog"http://kame3jai.blog.fc2.com/blog-entry-24.html"の方が簡潔にまとまっている。余計な賛美が入っていない分だけ読みやすいと言っていいだろう。人口増加が技術進歩を促し、それが人口よりも1人当たりGDPの成長につながり、技術進歩の加速が人的資本への需要を高め、それが子供に対する教育費の増加を通じて人口転換が起きるという理屈は、個人的にはそれほどおかしなものとは思わない。
 人口のサイズがアイデアに対する供給と需要を増やすというのは、人口が多いほど「試行錯誤」を行う主体の数が増えるという意味だろう。そのようにして技術が進歩していけば、その進歩に対応できる人材の必要性が増し生産過程における人的資本への需要が高まる。そうなるとこんどは子供にどう投資するかという両親の行動が変わってくる。量より質を求めるようになるのだ。出生率が下がる一方で人々の教育水準は高まり、それがさらに技術進歩を促す。同時に経済成長のパイを人口ではなく1人当たりGDPで分け合うようにもなる(Galorインタビュー、p125)。
 Galorはこの議論によって、ほとんど経済成長のなかった「マルサス期」と、産業革命後の大きな成長がなし遂げられた時期とをまとめて説明できるのだと主張しているそうだ。だから彼はこれを「統一成長理論」と呼んでいるそうで、確かにかつての農業社会と現在の産業社会とをつなぐことはできそうに見える。何より足元の先進国で起きている高学歴化("https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56769981.html"の追記など)について、子育て費用の大幅な増加について、スマートに説明できるあたりは魅力的だ。
 一方で、農業社会より前の歴史についてはこの理論でどこまで説明できるのか分からない。狩猟採集社会から農業社会への飛躍は産業革命に匹敵するくらいの出来事だと思うのだが、その際にどのような成長メカニズムが働き、その後でどうして再び長い停滞期が訪れるようになったのか、Galorの意見を聞いてみたい。また将来についても同様で、人口が頭打ちになることで技術革新が止まるのかどうか、止まった場合にその後の経済成長はどうなるのかに興味がある。

 一方、WIREDの記事の後半に紹介されている「国による経済状況の違いの説明」は、あまり筋がいいように思えない。まず重要なのはGalorらが指摘している遺伝子の多様性なるものが、どのようなデータに基づいているかだ。彼らの論文"http://piketty.pse.ens.fr/files/AshrafGalor2013AER.pdf"(なぜかPikettyのサイトに採録されている)を見ると、元ネタはHuman Genome Diversity Cell Line Panel"https://www.researchgate.net/publication/11411766"に由来しているそうだ。
 問題はこの研究が2002年に発表されたものであること。何しろゲノム研究の世界は日進月歩なので、Galorらがデータを使うときにどれだけアップデートされたものを利用したかは大きな問題となる。彼は割と単純にアフリカからの距離との比較で多様性が小さくなっていると指摘しているのだが、こちら"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56753115.html"でも紹介したように現在のゲノム研究では「アフリカを出た人類が順番に今いるところに定住していった」というような単純なモデルは成立しないことが分かっている。
 大半の地域において暮らしているヒトが交雑を繰り返した結果の存在なのだとしたら、Galorらの言うような「ゲノム多様性」が本当に存在すると安易に断言することはできなくなる。Galorを批判した科学者たちが指摘"https://www.scientificamerican.com/article/claim-links-economic-success-genetic-diversity-draws-criticism/"しているように、説得力のある議論をしたければ論文として発表する段階において遺伝学者を入れておくべきだっただろう。
 もう一つ、これまた容易に指摘できる話だが「相関と因果は違う」という問題が残る。実際にはジャレド・ダイアモンドの言うように「大陸の形状」こそが大きな要因なのだが、たまたま文明の発展に適していたユーラシアに中程度の遺伝子多様性を持つヒトが集まっていたために相関が生まれた、という可能性は常に存在するし、それを否定しようとするのは難しい。
 遺伝子多様性と1人当たり所得の相関を調べる際に現在の国境を使ったことについても、個人的には疑問を覚える。もちろんデータを取るうえではそれが手っ取り早いのは確かなんだが、数万年に及ぶ歴史を持つ遺伝子について調べる際に、この100年の間にも変化のあった国境をデータの区切りとして利用するのは適切なのだろうか。むしろ以前紹介した"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56739617.html"ように「過去の奴隷貿易が現在の経済に影響している」説の方が、原因となった時期が近いだけにより説得力を感じる。
 遺伝子がヒトの行動に影響を及ぼすのは間違いないし、それが格差をもたらす要因の1つになっている可能性も十分にあると思う。だからGalorらの議論を間違いだと決めつけるつもりはない。もしかしたら本当に遺伝子の多様性が技術革新や経済成長に何らかの影響を及ぼしているのかもしれない。でもそう主張したいのなら、遺伝子の専門家に突っ込まれないだけのしっかりとした研究をするべきだし、さらに言えば遺伝子の多様性が経済成長につながる経路をより実証的に調べるべきだと思う。つまり技術革新と遺伝子との関係をもっときちんと立証する必要がある。
 個々の人間を見ればアイデアマンがいる一方で新しいことに消極的な人間もいる。だから具体的に誰がイノベーションにつながるアイデアをもたらすかは遺伝子と相関するのは間違いないだろう。だがアイデアと経済成長は直結しているわけではない。アイデアがあってもそれが必要とされない時代であればそのアイデアは広まらない。たとえ必要とされていてもコストが高ければやはり使われない。大砲が広まったのが中国ではなくヨーロッパだったのは、それが必要とされたかどうかの違いだ"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55818825.html"。
 イノベーションは人間による創意工夫であると同時に「必要は発明の母」という面もある。問題はどちらが大きな影響を及ぼすかだが、個人的には一般的傾向として前者より後者の方がインパクトは大きいように思う。本当に少数の人間にしか思いつけないような天才的発明というものは、ヒトの歴史においてはごく一部だろう。大多数は思いつくことより、それを受け入れる土壌があるかどうかの方が重要だったのではなかろうか。
 あるいは、例えば組織運営のノウハウといった「いついかなる時でも役に立つアイデア」が世の中にはあり、それは遺伝子多様性によって生み出されたのかもしれない。問題はそれが経済成長につながるようなイノベーションたり得るのかどうかだが、正直そこまで判断するのは私には無理だ。遺伝子多様性と経済成長との関係については、現時点では判断保留とするしかない。

製鉄

 以下は本当にメモ代わり。
 鉄の歴史についてwikipediaなどを和訳したページ"http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/section4I/kuiper_section4I.htm"。これを読むと中国では紀元前5世紀までに鋳鉄の農具が広範囲に使用されており、つまり相当古くから高炉が存在したことがわかる。一方欧州では中世になってようやく高炉が生まれた(それ以前はより原始的なbloomeryだった)という。
 欧州で最も古い高炉はスウェーデンのラップヒッタンにあるもので、そのプラント活動していた時期は1150〜1350年まで。この技術についてモンゴルを通じて中国から伝来したという説もあるそうだが。本当に12世紀から高炉が存在したのであればモンゴルの影響と考えるには時期が早すぎる(モンゴルが南ロシアに現れる100年ほど前)。8〜9世紀にドイツで発展した大型のstuckofenから発展してきたものという説もあるという。
 いずれにせよ重要なのは火器が伝来する前に既に高炉があったという事実だ。こちら"https://books.google.co.jp/books?id=1QwyAQAAQBAJ"にはラップヒッタンの遺跡から1〜2センチの銑鉄の塊が発見されたとあり(p189)、欧州でも鋳鉄製の火器を製造する能力は当初から存在したと考えられる。
 考えてみればそもそも鋳鉄製の「弾丸」は火器が伝来した直後からその存在に言及されていたし、鋳鉄製の火器も実験的なものであれば15世紀には登場していた"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56392108.html"。鋳鉄製大砲の登場が16世紀の英国だといわれていたのは、あくまで大量生産とか本格的な量産といった条件を満たしたのがその時期だったと考えるべきだろう。
 こちら"https://the-orb.arlima.net/encyclop/culture/scitech/iron_steel.html"には、欧州人が13世紀には鋳鉄を製造できるようになったにもかかわらず、鉄鋳造品の本格生産を始めなかったことが「謎」だと書かれている。それこそ鋳鉄製の砲丸の登場によって、初めて鉄鋳造品というものに対する需要が生まれたそうだ。確かにこれは謎だ。
 欧州とは逆に鋳鉄にこだわった中国の場合は「日本など周辺国が鍛鉄製品製造を担った」ことによる分業の結果ではないかとの指摘がある。こちら"http://arai-hist.jp/magazine/baundary/b22.pdf"によると圧倒的な鉄生産量を誇る中国では「宋代・明代ともに、東南アジア諸国から鍛造鉄器を輸入し、その代わりに鋳造鉄器を輸出」していたそうだ。でも欧州の場合、近くに巨大な鋳鉄国家が存在していたわけでもない。
 おそらく既存の鍛鉄製品市場を一掃するだけの価格面や品質面における魅力が、欧州の鋳造鉄器には存在しなかったと考えるべきだろう。市場がなかったために技術もあまり広まらず、大量生産によるコストダウン効果も得られなかった。ようやく火器が登場した後に鉄製の弾丸という新たな市場が誕生し、それをテコにようやく鋳鉄技術が広まったという流れではなかろうか。
 欧州で当初は鍛鉄のパーツを組み合わせた火器が生まれたのも、硬いがもろい鋳鉄の問題点が妨げになったというよりは、鋳鉄技術の「裾野の狭さ」が原因だと考えた方がいいのだろう。青銅より安い鉄で火器を作りたいのだが、鍛鉄を扱える技術者しかいない状況では鍛鉄を使うしかない。逆に中国のように鋳鉄技術が存在するところでは、最初の鉄製大砲(洪武大砲)は当然のように鋳鉄製となっている。
 面白いのはこの歴史的な経緯という制約条件が、特にハンドゴンの分野においては欧州の有利に働いた点だ。中国では火銃を高価な青銅で作るか、中国語wikipedia"https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%9C%BC%E9%93%B3"が正しいなら鉄(おそらく鋳鉄)で作っていたことになる。コスト面や頑丈さといった部分で欧州の方が有利だった可能性があるのではなかろうか。

 もっと基本的な話。そもそも鋳鉄というか銑鉄とは炭素を4〜5%含んだ鉄。鉄は炭素の濃度によって融点が変わり、その数字が4〜5%の時に最も低い温度で溶融する"http://donwagner.dk/cice/cice.html"。どうやら液体には炭素が溶け込みやすいという性質があるそうで、鉄も高温になって液体になるとどうしてもこのくらいの炭素濃度になってしまうそうだ。
 炭素の割合が2%以上になると硬いが脆い鋳鉄となり「叩くと割れる」"http://www.nssmc.com/company/nssmc/science/pdf/V11.pdf"ようになる。液体なので鋳型に流し込んで鋳造鉄器をつくるのには向いているが、叩いて加工する鍛造品には向かない。鋳鉄製の大砲にも同じ「硬いが脆い」性質があり、暴発のリスクを避けるためには重くしなければならなかったのは以前にも述べた"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56007975.html"通り。
 一方、bloomeryで製造された錬鉄は液体化しない状態で還元しているため炭素がほとんど溶け込まず、炭素の比率も0.08%以下と極めて低い"https://en.wikipedia.org/wiki/Wrought_iron"。このため鋳鉄とは逆に「柔らかく粘りのある」鉄になった。鍛鉄製の銃がより安全性が高かったのはこの性質によるものだろうし、パーツを組み合わせるという弱点に目を瞑るなら大砲においても使える性質だったのではなかろうか。
 実際に最も使い勝手がいいのは炭素濃度で両者の中間にある鋼。かつて欧州では低炭素の錬鉄に炭素を加えることで、逆に中国では高炭素の鋳鉄から炭素を抜くことで鋼づくりに取り組んできたのだが、産業革命後は後者の方法での大量生産技術が確立している(ただしその技術を生み出したのは西洋人)。産業革命以前の鋼は少量しか生産できなかったようで、そうした困難があったからこそ青銅製の大砲が長期にわたって生き延びたのだろう。

 あとは歴史的な生産能力の推移について。こちら"http://arai-hist.jp/magazine/baundary/b2.pdf"には様々な国・地域の時代別の金属生産量推計が掲載されている(p39)。注目すべきはやはり中国で、11世紀の北宋の時代に既に1人あたり400グラムの鉄、100グラムの銅を生産している。欧州がこの水準に達したのは鉄では1600年頃、銅は1500年頃であり、日本だと鉄をこれだけ生産できるようになったのは江戸時代末期の1850年頃だ。
 中国では明代になると生産量の絶対値はさらに増加。その後は鉄の生産が自由化された結果、1870年頃には山西省だけで16万トンの鉄を製造していたという。大躍進政策の際に裏庭製鉄所が乱立したという話はよく知られているが、それができたのもある意味こうした歴史があったればこそかもしれない。
 しかし中国が世界で先行していた時代は17世紀には終わりを告げた、というのがこの文献の主張。1人当たりの鉄生産量を見ると北宋後の中国が緩やかな伸びにとどまっていたのに対し、17世紀以降の欧州ではたった130年のうちに100倍にも生産量が増えた(p43)という。興味深いことにこの時期は産業革命より前の時期であり、大分岐より前に鉄の生産能力という点では既に欧州が中国を追い抜いていたことを意味する。
 もう一つ、銅の生産量についての文献"http://arai-hist.jp/magazine/baundary/b3.pdf"もある。これまた古代においては中国が突出しており、しかし江戸時代にはむしろ日本が世界最大になっていたことなどが指摘されている。こちらにとって関心のある火器が使われた時代、つまり中国の場合は明代以降の生産動向については残念ながら載っていないのだが、鉄を上回るほどの隆盛を誇ったかどうかは怪しい。
 中国の場合、洪武大砲を除くと鉄を材料とした火砲はほとんど西洋との接触後に生まれている("https://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/15435/049000020005.pdf" p48-49)。つまり大半においてコストの高い青銅を材料にしている。銅の生産量が鉄に比べても高水準だったから、という理由は考えにくい。上にも書いた通り、鉄の分野でも中国は高水準の生産能力を持っていたはずなのだ。ではなぜ明政府はもっと鉄製の火砲をつくろうとしなかったのだろうか。
 そもそも火器の需要自体が低かったから、と考えるしかないだろう。永楽帝より後の時代になると明の火砲の出土数は急減する。戦争そのものが減り、武器の生産水準が急低下した。軍事費の絶対値がそれだけ下がったわけで、青銅を鉄に変えてコストを下げる必要性があまり感じられなかったのだと思われる。
 オブラ・ディン号のような東インド会社の船舶について詳しく書かれた本があった。East Indiamen"https://archive.org/details/b29828776"がそれで、内容はかなり詳細。例えば東インド会社の武装商船がどのくらい大砲を積んでいたかという話も紹介されており、1806年時点でオブラ・ディン号と同じ800トンの船には26〜30門の大砲が搭載されていたという(p143)。一方、オブラ・ディン号に搭載されている大砲は左舷側が9門、右舷が7門"https://obradinn.fandom.com/wiki/Obra_Dinn"のトータル16門のみ。史実に比べればかなり軽武装だったことが分かる。
 もっとも史実通りに大砲を積み込んでいたとして、それを完全に運用して戦力をフルに発揮するのは不可能だったのではないかと思う。以前にも書いた"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56893090.html"通り、オブラ・ディン号の乗員は少なすぎたからだ。
 この本には東インド会社の船舶にどのくらいの船員が必要であったかも詳細に書かれている。1791年、750トンから800トンの船舶に対しては「101人の乗員」を乗せなければならないとの命令が出された(p24)。かつそのうちほぼ半分の50人はforemast men、つまり熟練船員でなければならなかったそうだ。
 熟練船員(able seaman)は2年超の経験を持つ船員であり、見張りや日々の業務をきちんとこなせるものとみなされていた"https://en.wikipedia.org/wiki/Able_seaman"。ちなみに1年以上2年以下の経験しかない船員はordinary seaman"https://en.wikipedia.org/wiki/Ordinary_seaman_(rating)"、1年未満の経験しかない船員はLandsman"https://en.wikipedia.org/wiki/Landsman_(rank)"と呼ばれていたそうだ。
 一方、オブラ・ディン号に乗っていた檣楼員(topmen)は10人、甲板員(seamen)は15人で、合計して25人しかいない。ゲームにある用語説明によると前者は等級の高い、後者は低い乗組員となっており、だとしたら後者の中には熟練船員に求められる2年超の経験がない船員もいたかもしれない。いかにオブラ・ディン号が東インド会社の船舶に必要な人員を満たしていなかったかが、改めてわかる。
 実はゲームの作者が正式発売前に出したデモ版の中には、熟練船員とそうでない船員とを区別したバージョンもあったようだ。こちら"https://obradinn.fandom.com/wiki/Crew_Muster_Roll_Book"に載っているVer. 0.0.4の乗組員を見ると、Able SeamanやA.B.と書かれた熟練船員たちがいる一方、O.S.と書かれたOrdinary Seamanや、単なるSeamanなどが存在している。最初はそうした細かい情報までゲームに反映しようとしていたのだろう。ちなみにこのバージョンだと船員は48人おり、最終的なゲームよりは人手が足りている。
 これがVer. 0.1.23になると熟練か否かという区別はなくなり、檣楼員と甲板員にまとめられている。またその人数も26人と最終段階に近い数字まで減っている。もしかしたら人数が多すぎて手に負えなくなり、途中でゲームとして制作可能な人数まで減らさざるを得なくなったのかもしれない。最初のデモ版から完成まで4年も経過していることを踏まえても、その可能性は否定できないだろう。

 閑話休題。ゲーム制作の裏がどうなっていたかは置いておいて、East Indiamenを見ながら史実との比較を続けよう。東インド会社の船舶に載っていた熟練船員50人以外の乗組員は51人いた。それだけでオブラ・ディン号の全乗員に匹敵してしまうのだが、その中身もなかなか興味深い。
 まずcommanderが1人。これは船長(captain)と同じ意味だろう。続いてchief officer(別名first officerつまり一等航海士)を含むmates(航海士)が6人とある。ゲームでは四等航海士までしか出てこないが、実際には六等航海士まで存在していたわけだ。五等や六等航海士はオフィサーが最初の航海の時に経験するポジションのようで(p25)、経験の浅いオフィサーたちが就く仕事だったようだ。
 他にオフィサー相当なのが船医(surgeon)と船医助手(surgeon's mate)、事務長(purser)各1人、士官候補生のリーダーに相当するmidshipman-coxswainが1人と、士官候補生4人だ。こちら"https://obradinn.fandom.com/wiki/Characters"ではゲームに出てくる船医助手を下士官(petty officer)扱いしているが、この本によれば船医助手も立派にオフィサー扱いとなっている。また士官候補生の数はゲームの方が少ない。
 下士官に相当するのは甲板長(boatswain)と掌砲長(gunner)、及び船匠(carpenter)だ。これらの職種はゲームでも登場してくる。一方、ゲームには出てこないがこの本では大量に登場するのが召使(servant)。船長(commander)に2人、一等航海士と二等航海士、船医、そして3人の下士官にそれぞれ1人ずつ(計8人)の召使が割り当てられていたそうだ。
 大量の召使がいる一方、ゲームに比べて圧倒的に少ないのが司厨手だ。ゲームでは航海士以上に1人ずつとship's stewardの計6人がいたのだが、実際の東インド会社船に乗っていたのは船長付き司厨手と船付き司厨手の2人だけ。どうやらゲームでは召使の代わりを司厨手が務めていたのではないかと想像される。
 オフィサーや下士官の助手についても人数が異なっている。甲板長助手は2人(ゲームでは1人)、掌砲長助手も2人(同1人)、船匠助手2人(同1人)というのが実際の数字だ。またゲームでは操舵手(helmsman)が1人しかいないが、実際の船ではquartermaster(英海軍においては操舵手と同義)が6人乗り込んでいたという。交代しながら任務にあたることを考えるなら、むしろこちらの方が自然な数であろう。
 そしてゲームの中には存在しない役職も数多くある。帆の修繕などを担当するsailmaker"https://en.wikipedia.org/wiki/Sailmaker"1人、シーリング、つまり水漏れの修繕作業にあたるcaulker"https://en.wiktionary.org/wiki/caulker"が1人、桶職人であるcooper"https://en.wikipedia.org/wiki/Cooper_(profession)"1人、兵器係であるarmourer"https://en.wikipedia.org/wiki/Armourer"1人といった面々がその例だ。彼らのうちcaulkerとcooperにはそれぞれ助手が1人ずつ付いていた。
 ゲームでは家畜番(butcher)が1人いるだけだったが、実際の船にはさらに家禽番(poulterer)も1人いた。料理人も1人ではなく、船長付き料理人(captain's cook)と船付き料理人(ship's cook)がいたし、加えてパン焼き職人(baker)も1人いた。ゲームがかなり現実を省略していることが分かる。
 船が大きくなれば乗員の数も増え、例えば1200トンから1300トンクラスの船だと130人まで増えたという。また実際の運用に際しては5人の余剰人員を乗せることが認められていたそうで、ただしそのうち少なくとも3人はオフィサーや下士官などではなく通常の船員でなければならなかった。ゲームと現実はあくまで別物だったことが分かる。

 もう一つ、船匠が使った武器について複数の見解が出ていることも指摘しておこう。彼がカニと蟹騎手を倒す際に利用したあの武器は、こちら"https://steamcommunity.com/sharedfiles/filedetails/?id=1543209541"では「blunderbuss」と書かれており、一方こちら"https://obradinn.fandom.com/wiki/Story_Summary"を見ると「hand mortar」であるとしている。
 blunderbuss"https://en.wikipedia.org/wiki/Blunderbuss"とは古い時代のショットガンのことであり、散弾を装填して撃ち出す武器だ。銃口部分がラッパのように広がっているのが特徴で、日本語ではラッパ銃と呼ばれることもある。銃口が広がっているのは装填しやすくする狙いもあったそうで、前装式の時代ならではの形状と言えるかもしれない。
 ゲームにおけるこの武器の使われ方("https://www65.atwiki.jp/obradinn_chara/pages/42.html"の最後の画像参照)を見る限り、これが散弾銃である可能性は高そうに見える。実際にblunderbussが使用されている動画"https://www.youtube.com/watch?v=GCs2RIyeUwc"でも複数の散弾が広がりながら目標に命中している様子が見て取れるし、カニを倒すうえでこういう武器を使うのは自然に思える。
 だが武器の形状("https://www65.atwiki.jp/obradinn_chara/pages/62.html"にあるVI章その5の画像参照)を見ると、実はあまりblunderbussっぽくない。銃身が極めて短く、口径が大きいこの形状は、むしろhand mortar"https://www.reddit.com/r/ArtefactPorn/comments/65uw8m/"に似ている。
 hand mortar"https://en.wikipedia.org/wiki/Hand_mortar"は今でいうならグレネードランチャーに相当する武器であり、実際の使用例("https://www.youtube.com/watch?v=n6N2IJccZy4"の2:52以降)を見てもカニ攻撃に向いているようには見えない。一方でhand mortarは水兵が使用していたとの記録("https://books.google.co.uk/books?id=e2cDAAAAYAAJ" p24)もある。だとすると、この場面ではhand mortarにグレネード(手榴弾)ではなく散弾を詰め込んで撃ち出した、と考えるのがいいのだろう。
 オブラ・ディン号の帰還"https://en.wikipedia.org/wiki/Return_of_the_Obra_Dinn"ネタバレ妄想について、もう1つ触れておきたいことがある。このゲームで登場人物を特定するには様々な方法があるのだが、その中にはゲーム内の状況から論理的に導くのではなく他の知識を活用して行うやり方もある。英語wiki"http://obradinn.wikia.com/wiki/Return_of_the_Obra_Dinn_Wiki"の中には登場人物の訛り、この時代の服装に関する知識などを活用する方法が載っている。
 外見から区別することもできる。分かりやすいのは刺青男だが、こうした点について知識がないとすぐにはピンとこないかもしれない。あるいはターバン男もしかり。ターバンを着用する文化がどのあたりに存在するかを知っていれば、それが大きなヒントになる。ターバンを使わずとも答えにたどり着けるようにはなっているので、知識がなければ解けないわけではないのだが、知識があれば比較的楽に回答できるという仕組みだ。
 だがそれに頼りすぎると罠が待っている。具体的にはシエラレオネ出身の男だ。この国名を知らなければ何のヒントにもならないが、知っていればこの人物がサブサハラアフリカ出身であることが分かるし、当然ながら彼の外見的特徴も想像できる。一方、この人物以外の出身地は大半が欧米で、後はアジア地域がいくらかある程度。これは見ただけで人物特定が可能にも思える。
 しかしそう簡単にはいかない。1-bit画像は粗く、何度も見返すことになる画家の絵ではほとんど区別がつかない。そして実際の場面を見れば確かにシエラレオネ出身者はいかにもサブサハラアフリカ出身らしい黒い肌をしていることが分かるのだが、困ったことに彼以外にも黒っぽい肌で登場する人物が2人いる。外見でわかると舐めてかかっていると、この3人の誰が正解なのかで迷うことになる。

 このうちの1人、船匠"https://www65.atwiki.jp/obradinn_chara/pages/42.html"については黒人というより単に肌が黒いだけと考えた方がいいだろう。というのも彼は米国出身であり、この時期の米国はまだ奴隷制を維持していたためである。もちろん解放奴隷は古くは1619年から存在していた"https://en.wikipedia.org/wiki/Free_Negro"そうなので、米国出身で奴隷でない黒人もいたことは確かだが、オフィサー(軍でいえば士官)クラスになれるかどうかは別問題だ。
 彼が船匠助手であったならアフリカ系の可能性が少しは上がったことだろう。しかし乗り込んだ船でオフィサーの立場になれるほど社会的に米国のアフリカ系の地位が高かった可能性は、この時期はあまりなさそうに思える。なにせまだ公式には奴隷が残っていた時代だ。米国の解放奴隷たちが黒人の自由を求める運動を始めたのが19世紀の前半からであり、ゲームに描かれていた時代はその直前くらいとなる。米国出身の純粋なアフリカ系の人物が船匠になるケースは、あったとしても極めて稀だろう。
 ただし、白人と黒人の混血ならあり得たかもしれない。この時期に自由黒人として統計に記録されている人物の8割は、実は白人と黒人の混血やその子孫だったとの研究もあるそうだ。米国でも一部地域では奴隷でなく年季奉公という形でやって来た黒人がおり、同じ年季奉公の白人との間で生まれた子供は奴隷ではなく自由人となった。船匠が色黒なのは、先祖にアフリカ系がいたためだという理屈はあり得る。海外の掲示板では英雄扱いされることの多いこの人物にそういう背景があるのではないかと考えるのはなかなか面白いものだ。

 実際にシエラレオネ出身だったのは甲板員のディオム"https://www65.atwiki.jp/obradinn_chara/pages/30.html"。こちらは明白にアフリカ系の特徴がみられる人物であるが、その背景を考えるとこれまた単に「サブサハラアフリカ出身」で済ませられそうにない。
 そもそもオブラ・ディン号が消息を絶った1803年の時点でシエラレオネ"https://en.wikipedia.org/wiki/Sierra_Leone"は厳密には英国の植民地にはなっていなかった。この地は自由黒人が住める土地として、主に米国出身でアメリカ独立戦争時に英国やその植民地に逃げてきた解放奴隷たちが植民を行った場所だ。
 最初の植民者がシエラレオネに来たのは1787年、続いて1792年に「シエラレオネ会社」がこの地に植民を行った。ただ彼らは地元の黒人との争いに巻き込まれ、また当時はなお続いていた奴隷貿易によって再び奴隷化される危険にも晒されていたという。しかも英国政府は植民した自由黒人たちが政治的権利を求めると軍(皮肉にもジャマイカの逃亡奴隷で構成されていた)を送って彼らを弾圧し、正式に英国の植民地とした。
 ただし英国は米国と異なり1807年に奴隷貿易を禁止していた"https://en.wikipedia.org/wiki/Slave_Trade_Act_1807"。シエラレオネを正式に植民地化した1808年はこの奴隷貿易禁止より後だったため、英国政府はその後も多くの黒人をシエラレオネに送る措置を取ったという。シエラレオネ出身者が英国の貿易船に乗っているのも、その人物がアフリカ系の特徴を有しているのも、そう考えると辻褄が合っているようにも見える。
 とはいえ問題はある。上にも述べたように解放奴隷がシエラレオネに植民を始めたのは1787年。オブラ・ディン号が消息を絶ったのはその16年後だ。シエラレオネに植民した人々の子供が船に乗って仕事をするだけ成長するには、いささか期間が短すぎる。だとすると甲板員ディオムは解放奴隷たちの子供としてシエラレオネで生まれたとは考えにくい。
 あり得るとしたら、シエラレオネ付近に住んでいた地元民の子供で、植民者が来た後に彼らとの付き合いを通じて英国の貿易船に乗るに至ったという可能性だろうか。それならシエラレオネ「出身」と言っても問題はなさそうだ。

 もう一人、外見が黒いのが甲板員のブース。こちらはイングランド出身なので「単なる色黒」説を取りたくなるのだが、ゲーム内のキャラ造形"https://www65.atwiki.jp/obradinn_chara/pages/53.html"を見る限りそれはちと苦しい。こちらもまたアフリカ系の特徴が色濃く出ている人物であり、遡ればサブサハラアフリカ出身の先祖がいたのではと思いたくなる外見をしている。
 そして実際にそうである可能性はなかったわけではない。当時、英国内で奴隷が取引されることはなかったし、1772年のソマーセット裁判では英国内で逃亡奴隷を捕らえることが違法とされた"https://en.wikipedia.org/wiki/Somerset_v_Stewart"。黒人が自由人として英国内にとどまることができたわけで、そうした人物が子供を作れば「英国出身のアフリカ系」の人物がゲーム内に登場することが可能になる。
 そして実際にそういう人物がいた。奴隷貿易船の中で生まれたある人物"https://en.wikipedia.org/wiki/Ignatius_Sancho"は、英国で教育を受けることができ、自由人として活動しながら18世紀半ばに子供をもうけている。英国にいた黒人は米国よりも圧倒的に少なかったであろうが、一方で彼らが奴隷として英国にいた可能性は低く、そうであれば結婚して英国生まれの子供を育てていたとしても不思議はない。
 ブースはそうした人物の子供として英国で生まれた、と考えても問題はないだろう。イングランド出身の人物がアフリカ系の外見をしている可能性は、この時代にも存在していた。彼らが白人たちと比べて完全に同じ権利を享受していたかどうかは分からないが、黒人だからという理由だけで奴隷扱いはされなかっただろうし、船員の1人として普通に活動していたのだろう。

 むしろオブラ・ディン号に乗り込んでいる者たちの中で最も謎なのは「フォルモサの王族」ではないだろうか。この時期の台湾は鄭氏政権の時代を過ぎて清の支配下にあり、中国語に属するビン南語を話す王が台湾にいたとは思えない。原住民の王族ならビン南語ではなくオーストロネシア語族の台湾諸語"https://en.wikipedia.org/wiki/Formosan_languages"を話しているはずであり、ゲーム内の描写と矛盾する。
 考えられるとしたら原住民が中国からの移民の影響でビン南語を話すようになっていた、というパターンくらいだが、かなり苦しい説明なのは確かだ。「王族」というのは実は身分を詐称している、と考えた方が辻褄が合う。

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