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がある。この権太坂は東海道の難所といわれ
江戸から当時の都、京へ上る最初の難所
だった。
権太坂が毎年正月に行われる箱根大学
駅伝でテレビで放映されるが、駅伝は
新道の国道1号線を走る。
それはさておき、坂の頂上に1659年4月に祀られた境木地蔵の伝説がある。
むかしむかし、相模湾が荒れ続きで腰越の漁師が嘆いていた。
一人の漁師が、夜明けに浜へ行くと、人間が打ち上げられていた。
時化の最中に漁に出た仲間かと思い近づくと地蔵様だった。
漁師は仲間に知らせ、大八車で、ひとまず自分の家の庭においた。
その夜、夢枕に地蔵が立って、「江戸へ向かってつれて行き、車が動かなくなった地へ
祀れ。草すれば、海を凪させ、大漁となるであろう。」
と告げた。漁師は困り果てたが、たたりを恐れて、仲間とお地蔵様を大八車に載せ江戸へ
と向かった。
権太坂の下に来て、きつい坂だが置き去りには出来ない。覚悟を決め、汗だくで
坂を上った。
頂上で一服して下がろうとしたが車が動かない。地蔵様を降ろして野花を添えて
引き返すことに。お地蔵様がおきに召した、眺めのよい場所だったのである。
さあ〜て、境木村の村人は戸惑った。どうしたらいいんべか、と。
その夜村人の夢枕に地蔵様が現れ、「粗末なものでいいから、雨露をしのぐ堂に
いれてくれ。礼としてこの地を繁盛させる」と言うお告げで、村をあげて完成させた。
その落成の祝いの日。腰越の漁師たちが、大漁を授けてくれたお礼だと
活きた鯛を天秤で担いできたという。
めでたし めでたし おわり
地蔵堂
* 資料と写真 『 菓子匠 栗山 』 のHPより引用
* 境界線 友達のメイさんよりいただきました。
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民話の旅
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東京都世田谷区上馬に伝承される、『常磐姫伝説』のはじまりはじまり〜〜。
奥沢城主大平出羽守の娘「常磐」は戦国時代の武将で世田谷城主、吉良
頼康の側室として迎えられた。寵愛されやがて懐妊した常磐姫でしたが、他の側
室から嫉妬をかい、美男の家臣と
不義密通していると、誹謗、けなされ、それを本気にした頼康によって自害させら
れた。
常磐姫がかわいがっていた白鷺の足に常磐は自害する前に手紙を書き結ん
で、実家に向けて放った。
しかし白鷺は、狩に出た頼康によって射止められ、無実を訴えた遺書が常磐
姫のものである真実を知ることになるのです。
このあたりの地頭が、「駒留八幡」と名づけた神社があり、常磐姫と、死産した
子供を祀っている。
また白鷺の血の跡からは一本の草が生え、鷺に似た可憐な白い花を咲かせる
ようになり、これがサギソウで、世田谷区の花になっている。
駒留八幡神社
世田谷区上馬5−35−3
東急電鉄情報誌より引用
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小さい時に誰でも口ずさんだ童謡 「 金太郎 」
きょうはそのお話です。
1712(正徳2)年の『こもち山姥(やまんば)』(近松門左衛門作)では、父は
坂田蔵人時行、母は八重桐という。
金太郎の幼名は怪童丸、成人して坂田金時とある。
金太郎が担いだまさかりは、雷神の武具であり、象徴とされていた。
金時神社から金時山へ登るところに金太郎が母と暮らしたという「金時の宿り石」
がある。縦16メートル、横14.5メートルもある大石の岩窟である。
金時山(足柄峠)には金太郎を語る地名もありまつる神社もあるが墓はない。
金太郎を足柄峠で見出した源 頼光は、治安元年(1021)73歳で没したが
金時は主君の墓参りを3か月続けた後足柄山へ帰ったという。
おしまい
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鎌倉 建長寺 山門
鎌倉の建長寺は臨済宗のお寺で、江戸時代には徳川氏の保護を受け、仏殿など整備され
ていった。ここには万拙和尚が務めていた三百年もの昔、和尚と狸の伝説が残っている。
≪ 狸の作った山門 ≫
山門の屋根は雨漏りがひどく、柱も傾いてきた。万拙和尚は、「わしの生きているうちに
再建したいが、勧進の旅に出るのに、この老いたる身では。」と嘆いていた。
この姿を見ていた山の狸君は、長いこと世話になっていたお礼に、和尚に変わって
勧進の旅に出た。
狸和尚は埃にまみれ、擦り切れた衣をまとって野ややまをこえ村々の名主や寺を
回っては、お礼に書を書き、絵も画いて残したという。
寄進し狸和尚を送り出したのち、食事をした部屋に入ってみると、そこらじゅうが飯
つぶだらけになっていた。
前もって狸和尚から、『食事している部屋には入らないこと。湯殿を使っている
時はのぞかないこと。』と言われていた。
狸和尚が使った湯殿へ行ってみると、犬が水浴びしたような、しぶきが飛び跳ねていた。
狸和尚はみやぶられ、翌朝寄進先へ向かうかごに乗ろうとしたとき、近くにいた野良犬
に襲われ息絶えたが、懐には集めた金が40両入っていた。
名主はその金を建長寺へ届けたと。
万拙和尚はそのはなしを聞いて嘆き悲しみ、境内に小さな狸君の祠をつくって
供養したとさ。
その祠には夜になるとロウソクがひとりでに灯ったという。
おしまい
* 資料 神奈川のむかしばなし50選
鎌倉市少年少女合唱団 〈狸の山門〉 より
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浦島太郎のものがたりは日本のいくつかの場所で、民衆の言い伝えとして
残されてきましたが、今回は二つの浦島伝説にスポットをあてました。
[伝説 1]
私もカラオケでよく歌う水森かおりの『丹後半島』
ここの伊根町にある字良神社は浦島太郎を祀り、浦島神社と
呼ばれ室町時代の絵巻には、太郎が住んでいた水之江の里から
蓬莱山の国へ、さらに帰ってきてからの出来事が細かく描かれ
重要文化財になっています。
玉手箱もあり櫛笥、化粧品、水晶のような玉も納められ、これを
拝した人は無病息災、長寿が授かると言われています。
[伝説 2]
浦島太郎は乙姫様からもらってきた玉手箱を開いて、その場で
息が絶えたとなっているが、後世の仏教思想により、太郎は
父の眠る横浜市神奈川区浦島が丘を訪ねたとされています。
龍宮の乙姫が太郎に贈ったという観音様が安置された寺は火災に
あい慶運寺にうつされたが、その近くの成仏寺境内には『太郎の
涙石』 『太郎の腰掛石』がある。
「浦島太郎」が文部省唱歌になったのは、1911年(明治44年)
で全国の子供たちに広がった。
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