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古代より海上交通の要所であった瀬戸内海は、時により船の行く手を阻む
難所でもありました。
力強く激しい潮流と渦潮から「龍宮」と呼ばれ柳井の瀬戸の鳴門は「龍宮
の西門」とされてきました。
いにしえの人々が龍に例えた潮流は、一日に二度渦を巻いて現れます。
〈 般若姫伝説 〉
今から1400年のむかし、豊後の国の満野長者夫婦に都にまで美しさ
が知れわたるほどの娘がおりました。名は「般若姫」。
やがて橘豊日皇子(のちの用明天皇)と結ばれることになり姫は120隻
の船団を従え都へ。。。
しかし柳井の瀬戸(写真)に差し掛かった時嵐に見舞われます。
それは満野長者に住処であった池をつぶされた金の龍神の怒りの嵐
で多くのお供の命を奪いました。
さらに龍神は、般若姫の命をささげることでしか、この怒りを鎮める
ことはできないと言います。
姫は二度とこの場所で、このようなむごいことが起こらないようにと
自らの命を差し出しました。
それ以来瀬戸の守り神として大畠瀬戸を往来する船の安全を見守り
続けています。
おしまい
* 写真 「大畠の瀬戸」 山口県柳井市商工観光課より
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民話の旅
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10月にドライブで立ち寄った広島県安芸の
宮島。その手前山陽道から南へ下がった
ところに清盛伝説で有名な音戸の瀬戸が
あります。
真紅のアーチ式大橋 『音戸(おんど)大橋』 と本土側の丘に建てられた
『吉川英治文学碑』
約800年前に平清盛公が瀬戸内海の航路短縮のため切り開いたといわれる小さな海峡。
竣工まで10か月を要し、難工事だった完成目前。
7月16日の引き潮を見計らって作業が行われていたが、役人や人足を叱咤激励し
血のにじむような努力が続けられたが既に夕日は傾き、あしもともくらくなりはじめた。
今ひとときの陽があればと、いらだち始めた清盛公。ついに立ち上がり、今や沈まんとする
真っ赤な太陽に向かい、右手に金扇をかざして『返せ、戻せ!!』と叫んだ。
不思議も不思議、日輪はまいもどった。
こうしてついに、音戸の瀬戸の開削工事は見事に成就した。
この海峡を見下ろす高台には『音戸の瀬戸公園』があり4月上旬には2300本の桜、
4月下旬からは8300本の紅白のつつじが咲き乱れている。
* 写真 広島県観光プラザHPより
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今日もブログへようこそ。♪♪
今回の民話の旅は、小学生のころ読んだ伝記の中から、家から電車に乗っても
それほど遠くない小田原市栢山に足を運び、『二宮金次郎の原点』を訪ねました。
二宮金次郎生誕の地、 小田原市栢山(かやま)-----。
14歳で母を、16歳で父を相次いで亡くし、伯父のもとに引き取られた
金次郎は、日夜懸命に働き、深夜勉学に励んだ。
ある夜、金次郎が寝る間を惜しんで読書をしていると、行灯の油がもったい
ないと伯父に叱られる。伯父に迷惑をかけないため、灯りの原料である
油菜の栽培を思い立った金次郎は、友達から一握りの菜種を借り、作物
が育たないような川べりの荒れ地を耕して種を播いた。
翌年の春、140倍(7〜8升)もの収穫になった。
この経験から金次郎は、「小さな努力の積み重ねがやがて大きな成果を
出す。」という法則を悟るのです。
のちの彼<二宮尊徳>の根本理念である『積小為大』=(小を積んで
大と為す)の原点がこの場所にある。
* 二宮尊徳 (幼名: 金次郎)
1787〜1856 江戸時代後期の農政家・思想家。全国各地の校庭にある
有名な「学校のアイドル」像で知られた金次郎は、一方成人後、有能な
「ビジネスコンサルタント」として600か所もの藩領や農村を再建復興させた。
小田原市栢山にある善栄寺には
「金次郎少年勉学の像」があり、金次郎が
菜種を播いた16歳のころの姿。
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