FINAL Magazine

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]

最終章 Legend of 森本

【第1章】
【第2章】
 
 


〜レジェンドの追い求めたRB像〜
イメージ 1
 
アリーナに挑戦した2004年から遡ること一年。本人も絶好調だったと自負する2003年シーズンに、
森本さんは、ぴあの取材で理想のランニングバックについて、こう話している。

「別に何も考えてないんですよ。走り終わった後で穴が空いてたんだなって気付くくらい。
 逆に何かを考えて走っているようじゃ全然抜けられないでしょうね。
 
 ぼくはボールを持ったときの当たりが強いと言われるけど、やっぱりカットバックにこだわりを持ってます。
 だって大きな人と当たると痛いじゃないですか(笑)
 それよりはうまくかわせればいいなって学生のころから思いながら練習してきました。
 
 "誰にも触らせないランニングバック"それがぼくの追い求めるイメージなんです。」

森本さんが理想とするRBはバリー・サンダースと山下次郎。
 
共にカットバックを得意とするランナーという点で上記のコメントと一致している。
 
だが、このイメージは学生の頃のそれと比較すると、社会人のキャリアを通してマイナーチェンジを経ている。

繰り返しになるが、突貫ランナーだった高校時代に、自然と体が反応した"あのカットバック"以来、
森本さんはカットバックで相手をかわすタイプだった。
しかし、ある時大学の外国人コーチに「too much dance!!」とその走りを否定された。
 
当時はタックルをかわして何が悪いんだと思っていたそうだ。だが、
その意味するところが最近になって分かってきたという。
 
「基本中の基本だけど、いかにたてに進むことが大事かということに気付いた。」

たしかに華麗なステップでディフェンダーをかわすことも重要なテクニックだ。
 
しかし、最終的には1ヤード、いや数インチを獲得するために死力を尽くしてぶつかりあうのがフットボール。
 
そのぎりぎりの肉弾戦の最中での不要なステップ一つは、チームを敗北に導く行為に等しい。

「うちの(フロンティアーズの)RBは少しだけそういう傾向があるかな。」
 思い出したように森本さんが言った。このタイミングで私は用意していた質問をぶつけた。

「森本さんが培ってきたノウハウやテクニックは後輩に伝えようと思わない?」

「コーチを兼任するようになってから変わったけど、それ以前は基本的には何も教えなかった。
 だって、自分が試合に出れなくなるの怖いやんか。自分はちっちゃい人間やねん。」
 
森本さんはこう答えたが、別の理由もある。RBのスタイルは人それぞれという森本さんの考えからだ。
 
だからこれほど実績のあるベテラン選手でありながら、自分のスタイルを押しつけるようなことはしなかったのだろう。

アメリカには「QBはコーチが育てて、RBは母親が育てる」という格言がある。
 
すなわちQBは指導者や経験次第で成長するが、RBは持って生まれたDNAが左右するところが大きいという意味だ。
 
たしかに、すごいRBは最初からすごい。だが、森本さんはカットのきれない突貫ランナーから始まって、
カットバックを習得、肉体改造を経て、日本を代表するらランナーへと成長した。
 
森本さんは自分自身を不器用な選手と語る。
アリーナで新しいポジションに挑戦した時の奮闘ぶりをみてもそれは頷ける。
だが、なまじ何でも器用にこなせる選手じゃなくRB一筋で貫いてきたおかげで、
ここまでのキャリアを築くことができたのではと思えてならない。
 

〜復活〜
 
話を再び2004年、アリーナ挑戦から帰国した後に戻す。
このシーズン、フロンティアーズはリーグ最終戦時点でプレーオフ進出の芽が断たれていた。
 
目標を失いかけた時、当時主将の高橋選手の呼びかけで、
最終戦で森本さんにリーディングラッシャーをとらせようということになる。
 
その期待に応えて森本さんは200ヤード以上を走り、
2000年から5年連続でXリーグのリーディングラッシャーとなった。
 
だが、この時すでに森本さんの体は悲鳴をあげていた。
 
 
 
米国でぼろぼろになった体に鞭打ち、なんとか2004年シ-ズンを終え、オフはしっかりと休養にあてた。
 
しかし翌2005年シーズン、回復したはずの体は全く言うことを聞かなかった。
 
カットを踏むだけで体に激痛が走り、
日常の動作ですら痛みを伴うようになっていた。2006年になっても症状は変わらない。
 
パールボウルトーナメントの決勝では、きれのある走りで活躍したように見えたが、
本人から言わせると好調時の感覚とはまるで違っていたそうだ。
 
引退することも頭をよぎったそうだが、森本さんは2007年も現役を続行する。
 
その決め手の一つとなったのが、なおみさんの存在だ。彼女に本来の走りを未だ見せることができていない。
 
それが森本さんの心の中でひっかかっていたのだ。

その想いを後押しするかのように、このシーズン、コンディションは上向いていく。
 
新たに通い出した治療院(健勝堂)のおかげで、体の痛みが和らいでいったのだ。
 
そして迎えた秋季リーグの第二節、21−7で初めて宿敵オービックを撃破した。
 
 
この試合で森本さんは93ヤードを走り完全復活。会場からは森本コールも起きた。
 
イメージ 2
 

「秋にシーガルズに勝ったのも初めてやったし、ほんま神様が最後にチャンスをくれたって感じかな。
 かみさんにいいとこ見せたれって。
 昨年の現役最後の試合すら泣かないようにしたんだけど、
 この試合はカウントダウンの時泣いてもうた」。
一時代を築いたランナーがカムバックした瞬間だった。
 

〜フロンティアーズが日本一になる日〜
 
「くいがないと言えば嘘になる。だけど、昔のビデオを見たらやっぱりやめた方がええんかなーと思ってしまう。」

2009年シーズンでの引退を決意していた森本さんは、きっぱりユニフォームを脱いだ。
東京スーパーボウル時代から含めて、3度社会人決勝に進出しながら、ことごとくはね返されてきた。
後輩たちに悲願の日本一を達成して欲しいかと聞くと、森本さんは複雑な表情を見せた。
「もちろんみんなにはがんばってほしいけど、自分が引退してすぐ日本一になられたら、
 ちょっとしゃくかも(笑)。けど、がんばってるみんなを見たら、そんな気持ちにはならないだろうけど。」
ふだんは物腰が柔らかく温厚だが、森本さんはグラウンドでは時に熱くなる。
 
特に練習でQBやRBが危険なタックルを受けたとき、真っ先にディフェンスとけんかするのが森本さんだ。
 
決してやられた仲間を放っておかない。
 
森本さんはフロンティアーズのチームスピリットでもある「One Family」をとても大事にしていて、
実際チームにとても愛着をもっている。
森本さんは昔、ブーと富士山に登り、その時言われた言葉のメモを今でも
財布の中に大切にしまっている。

「There is no  " I "  in team.」
 
 
 
 

チーム力を考えてもフロンティアーズが近い将来日本一を達成する可能性は大いにある。
 
「We did it!!」。その瞬間に、森本さんが14年間かけてその"We"の中に残してきた何かも完結するのだろう。
 
 
森本さん、本当にお疲れ様でした。
 
記:松元 竜太郎/編集:白木 栄次
 


 
最後に、森本さんの今までの軌跡をご覧下さい。
 
 
 

 
編集後記
 
 
健勝堂鍼灸整骨院の福島先生よりコメントをいただきました。↓
 
 
うす。福島です。
 
森本さんが当院に始めていらした事は、今でも覚えています。
 
当時、JAPAN−USABOWLの時だったでしょうか?
 
現アサヒ飲料の星谷選手のご紹介だったと思います。
 
無理やりコンデショニングのトレーニングもやってもらいましたね。
当時は人見知りする選手だなぁと思っていました。
 
僕が森本さんを治療するようになって印象に残っている試合が、2006年のシーガルズ戦でした。
 
当時は「勝てたら引退しますよ(笑)」なんて言ってましたが、
 
思い入れが凄く伝わってきました。
 
引退して、森本さんの走りが見れないのが寂しく感じます。
 
長かったフットボール人生の中でほんの少しですが、
森本さんの歴史に携われた事は僕にとって幸せな事です。
 
長い間お疲れ様でした。
また、食事にでも行きましょう!!
 
PS:提灯捨てないでくださいね!!
 
 
 
大変更新が遅くなりました・・・・
申し訳ございません。
 
第1章はこちらです↓
 
それでは、第2章をお楽しみください。


 
〜プロフェッショナル〜
 
イメージ 3
 
フロンティアーズに入部した森本さんが、最初に周囲を驚かせたのは、
その走りではなく体形だった。
 
アメリカに滞在していたこともあり、70キロ前後だった体重は85キロまで増加していた。
 
コーチには「詐欺や!」と言われ、すっかり輝きを失ったRB森本はモチベーションを失いかけていた。
だが、翌年になるとチーム状況と共に、森本さん自身も一変することとなる。
 
「まずは中澤(現フロンティアーズコーチ)が入ったのが大きかった。
 本当にすごいQBだと思った。あと当時のRBコーチが、新人の洋くん(現フロンティアーズコーチ)を使ったりして、
 後輩に負けるのが悔しくて一気に闘志に火が付いた。」

減量をするために、最初は食べないダイエットをしていたが、これが怪我につながる。

「タンパク質をしっかりとらないとだめだと気付いた」。
それ以来、シーズン中になると食事を完全に制限する森本式ダイエットが始まった。
 
1998年のことだ。元来油物や甘い物が大好きな森本さんは、オフにはそれらを食べたいだけ食べる。
もちろんお腹はぶよぶよだ。
 
しかし、シーズン開幕が近づくと、ノンオイルのツナ缶、とりささみ等のタンパク質
に食事を完全に切り替え、一気に体を仕上げるのだ。下記のビフォアー、アフターの写真を見ると、
とても同一人物の体とは思えないほどだ。
 
                            【Before】                  
イメージ 1
    
                                
              【After】
イメージ 2
 
 
もちろんウェイトコントロールに加えてフィジカルも徹底的に鍛え上げる。
 
元々トレーニングをしているところを人に見られたくない森本さんは、夜にこっそりグラウンドへ行っていたそうだ。
 
「今は夜にトレーニングするやつもけっこういるけど、昔はあまりいなかったから、
森本は夜に寮を抜け出して遊んでるって陰口たたかれてた。全然気にしなかったけど。」
それらの努力で作り上げられた肉体が、彼の走りに磨きをかけて、
冒頭に記した2000〜2004年シーズン5年連続リーディングラッシャーの偉業へとつながったのだろう。

ちなみに、アメリカ人すら驚かせたワールドクラスともいえる森本さんの肉体の部位が存在する。上腕三頭筋だ。
 
 

〜2003冬・・・・・出会い〜
 
フットボールが絶好調だった森本さん。この時期、実はプライベートの方も好調を持続していた。
 
部内の人事異動で新しい席に着いたある朝、ふと右斜め前に目をやると、そこには天使が座っていた。
 
現在は森本さんの妻である、なおみさんその人だった。
イメージ 4
 
 
森本さん曰く、「角度にやられた」。
 
 
角度はアメフトのテクニックにおいても重要な要素だが、
無理やり例えるならば"ファーストヒットで強烈なアングルブロックを食らった"といったところか。
 
その日以来、森本さんは滝川クリステルもびっくりの、右斜め45度の男となる。
 
しばらくしてランチフレンドへと昇格した森本さんは、その後も足を止めることなくエフォートを続け、
次々とファーストダウンを更新していく。
 
しかし、ここで大きな障害が立ちはだかる。
 
詳細は後述するが、アリーナフットボールに挑戦するため、アメリカへと旅立たなければならなかったのだ。
 
日本とアメリカという遠く離れた地に分かれた二人、普通だったらこの恋は実らずに終わるだろう。
 
だが、森本裕之はやはりストイックだった。
国際電話を惜しげもなくかけつづけ、帰国して請求された通話料金は一月10万円を越えていた・・・
 
その甲斐あってか、その後森本さんは、このロングドライブを見事にタッチダウンへと?げることに成功した。

そして、このなおみさんの存在が、森本さんのキャリアの最終章において、大きな意味を持つこととなる。

 
〜アリーナフットボール〜
 
フロンティアーズ関係者ならみんな知っていることだが、森本さんはブレナンと大の仲良しだ。
 
イメージ 5
二人でいると、まるで幼いころからお互いを知っている竹馬の友に見えてくる。
 
もちろん出会ったのはブーが来日した2004年シーズンなのだが、
森本さんは当初から積極的に彼とコミュニケーションをとっていった。
 
彼がそのように行動した背景には、自身がアリーナに挑戦した時の経験がある。
 
すなわち、一人異国の地で心細い時に、やさしくされることがどれだけありがたかったか、ということが身に染みているのだ。
 
 
 
森本さんは2004年シーズンの3月〜7月まで約5カ月間、
ルイジアナ州にあるバトルウィングスというアリーナフットボールのチームに所属していた。
 
アリーナフットボールについて簡単に補足を入れておく。
 
1987年に創設された室内フットボールリーグ。2000年には下部組織のAF2が誕生。
 
バトルウィングスは当時はAF2に属していた。過去には日本代表がサムライウオリアーズとして、
AF2のチームと国際エキシビジョンマッチも行っている。
 
2008年に不況のあおりを受けてリーグが解散するが、今シーズンからAF、AF2が
合併するかたちでアリーナフットボール1というリーグが設立された。
 
ちなみにバトルウィングスは過去2年連続で地区優勝し、現在は強豪チームのようだ。
イメージ 6
 
私は学生時代にアリーナの試合を一度だけ観戦したことがあるが、
アメフトとの最も大きな違いはテンポの速さだと感じた。
 
フットボールという競技は反則や選手交代(魅力でもあるが)等で試合が間延びするという欠点がある。
 
アリーナはオフェンス優位のルールでぽんぽん点が入る上、攻守両面で出場する選手が多く、
とにかく試合が速いテンポで展開していく。
 
これは私の推測だが、オフェンス対ディフェンスがガチンコでぶつかりあうNFLとは違って、
ハイスコアになるアリーナをアメリカ人はバスケット感覚で楽しんでるのではないか。
 
 
話を森本さんに戻すと、当時脂がのった全盛期ともいえる状況で、2003年のドイツW杯に出場。
 
そして、翌年のアリーナ参戦へという流れは当然だったのかもしれない。
付け加えるならば、留年した年にアメリカへ行き楽しい思い出があったことが、その挑戦に拍車を掛けたようだ。
 
実は森本さんに取材した時点では、アリーナ挑戦についてあまり多くを聞くことができなかった。
 
「とにかくしんどかった。けど人には良くしてもらった。」という断片的な言葉だけが残った。
 
その言葉の意味することが鮮明になったのは、
当時の挑戦の詳細を記した「ルイジアナから愛」という富士通社内向けの日記を読んだときだった。
 
私はその日記を一気に読んだのだが、そこにいたのは、痛々しいほどにもがき苦しむ森本さんだった。
 
森本さんの当時の葛藤は、なかなか自分を認めてもらえないジレンマ、ジャンクフードに囲まれ、
体のメンテナンスも満足にできない環境等いろいろある。だが、私が最もインパクトがあったのは、
プロの世界という現実だ。
 
昨日まで寝食をともにしていたチームの仲間が、次の日にはいなくなるということ。
 
森本さんのルームメイトのQBとKは偶然にも同じボーという名前で公私共に心の支えだった。
 
だが、QBボーは出場機会を求めて移籍し、Kボーは試合中にコーチと衝突してカットされることとなる。
 
QBボーが去る時に言った言葉が印象的だった。

Hiro is my favorite football player ……I want him to come with me to texas.

 
シーズン終盤には出場機会も得るが、森本さんは満身創痍となって日本に帰国することとなる。
イメージ 7
 
〜最終章へ続く〜

【Final Magazine特別企画】「He is Legend」森本 裕之の全て・・・第1章



イメージ 1



一人の人間が“伝説的な人=レジェンド”と呼ばれる条件は何だろうか?

私はこう考える。

人々の“記憶に残る”活躍を“長期間”続けることだ。


まずは“長期間”ということ。

一時的な活躍だと人はまず“怪物”や“カリスマ”と呼ばれる。

もしくは“伝説の試合”、“伝説の夏”といったように、
その敬称は人ではなく出来事の方に付くことが多い。


次に“記憶に残る”というところ。


野球に例えるならば、野村は現役時代記録の上では長嶋を上回っている。
だが、伝説という修飾詞が付くのは長嶋の方である。

キャラクターの違いもあるが、長嶋が天覧試合でのホームラン等、
印象的な活躍をしていることがそうさせている。

つまりXリーグにおいて、748yというシーズンラッシング記録や
2000〜2004年シーズンに前人未到の5年連続リーディングラッシャーという実績を誇っていることは、
“レジェンド”であるための十分条件であって、必要条件ではない

そう、彼がフロンティアーズで14シーズン、人々にインパクトと感動を与え続けた
“走り”こそが、RB森本裕之が“レジェンド”たる由縁なのだ。



〜下町の次男坊〜


大阪の下町で育った森本さんは、少年時代を
「とにかく兄弟喧嘩を毎日していて、いつも兄貴に泣かされていた」と振り返る。


小学校に入ると父親の影響で、町の道場で柔道を始める。当時は太っていて、
かなり強かったそうだが、柔道にあまり楽しい思い出はないという。

「ある時、練習をさぼったら、次の練習で先生にばんばん投げられて、余計に柔道が嫌いになった。」

中学受験を控えて、塾に通うために5年生で辞めることになるのだが、
4年間道場に通って得るものもあったという。

「体に染み付いた受け身はアメフトにも役に立っている。倒れる瞬間、
あごを引いて頭への衝撃を和らげたり、いろんな場面で生かされていると思う。
あと正座を長時間することが苦痛じゃないかも。」


関大一中へと進学した森本さんはバスケットボール部に入部する。ポジションはFWだったが、
セットしたオフェンスで出番はなく、走力を生かした完全な速攻要員だったという。

ここで疑問に思ったのが、森本少年はいつやせたのかという点だ。

答えは受験勉強期間だった。


森本さんがシーズン中とオフ期間でウェイトコントロールを行っていたことは後述するが、
それとは関係なく、時にストレス等で激やせするというデリケートな一面を持っているのだ。

その要員の一つに恋愛もある。詳細は差し控えるが、過去には大失恋をして、
拒食症や過食症のような症状になったこともあるというほどの敏感な恋愛体質だった。


バスケと共に中学時代に行っていたスポーツが剣道だ。

こちらも父親の影響なのだが、全く楽しくなかったそうだ。

私の森本さんのイメージの中で、野武士的というか、どこか純和風な香りが漂う男というものがある。

それは嫌々やっていたにせよ、おそらくこれら武道の経験によるものだろうと妙に納得した。


中学時代から足が速かった森本さんだが、この時期成長に伴う股関節亜脱臼症に悩まされていた。
部活動はもちろん、体育の授業を欠席することもしばしばで、
満足に運動ができない自分にいら立っていたそうだ。

ランナー森本の誕生はもう少し先の事になる。




〜ランナーとしての覚醒〜


関大一高へと進学した森本さんは、「アメフトやったらもてるで〜」
という友人の言葉に誘われるがままにフットボールを始めた。
(実際、モテだしたのは、社会人になってからだが・・・)


イメージ 2


初めてのポジションはランニングバック。

そして、米国のアリーナに挑戦した時期を除けば、
森本さんは20年のフットボールキャリアを一貫してRBとしてプレーすることとなった。

一年、二年時はフルバック。当然ボールを持つよりもブロックがメインのポジションだ。

チームは強く、二年時にはクリスマスボウルにも出場したが、
ブロックにそれほど楽しみは見いだせなかったそうだ。小学校の柔道から始まって、
あんまり楽しくないと思いながらも続けてきたスポーツ。

それは高校でフットボールに出会っても変わることはなかった・・・はずだった。

状況が変わったのは高校三年時。エースのTBが怪我で戦線離脱し、森本さんがTBを任された。

FB出身のパワーランナーとして、相手を避けることを一切せずに、
相手に向かって突っ込んでいくというスタイルだった。

高三の大阪大会準決勝、その時は突然訪れた。

未だ突貫ランナーだった森本さんが突如として、カットを切った。自然に体が反応したカットバック。
これが森本さんのランナーとしての原点だという。

その後は当時の1試合の高校ラッシング記録を塗り替えるほどの走りをみせる。

まるで朝顔が夜明けと共に一気に花を咲かせるがごとくの、
ランナーとしての劇的な開花。二年連続全国大会進出はならなかったが、
森本さんがRBに、フットボールへと急速にのめり込んでいった瞬間だった。


イメージ 3



〜憧れの存在〜


とはいえ、関大に進学した当初フットボールを続けようか迷っていたという。

そんな迷いを吹き飛ばしてくれたのが、当時4年生だったRBの山下次郎さんの存在だった。


関大といえば森本さんをはじめ、波武名選手、古谷選手、石野選手と
歴代日本代表のRBを輩出していることで有名だが、
山下選手も90年代を代表する名RBとして名を馳せていた。

そんな憧れの先輩に声をかけられて、すぐに入部すると、
山下選手のプレーを練習中から常に追うようになる。

その存在は圧倒的で、森本さん曰く、
「練習中にタックルされてるイメージがほとんどなかった。
スクエアドリル等、ディフェンスとの1対1では、触れることすら許さなかった」そうだ。

森本さんのRB論は後述するが、この山下選手の強烈なインパクト、
彼に追いつきたいという気持ちは、引退するまで持っていたという。


実際山下選手が引退する際に、森本さんはジャージをもらっている。

また、フロンティアーズファンならずともすっかりおなじみの、20という森本さんの背番号は、
21番だった山下選手と同じ番号は恐れ多くて付けられず、
その背中を追いかけるために敢えて1つ下の20をつけたという経緯がある。


高校とは違って、大学のチーム状況は決して強豪と呼べるものではなかった。

2年時から随時試合に出場するようになると、3年時にエースRBとなる。
しかし、そのシーズンにまさかの2部落ちを経験することとなる。

最終学年で再び一部に返り咲いて大学のキャリアを追えることとなるが、
一部下位校であるが故のコンプレックスを味わわされた面は少なからずあったようだ。

当時強豪だったマイカルと新興勢力の富士通という二つのチームからオファーがあった森本さん。

二つのチームを比較すれば、当時はチーム力、
待遇などからマイカルを選ぶ選手が圧倒的に多かったという。

だが、森本さんは富士通を選択した。理由は父親の鶴の一声だった。

武道(柔道・剣道)など、幼いころから森本さんに影響を与えてきた親父さんは、
実は大阪市内で布団屋さんを営む商売人だった。

そして森本さんが相談すると、商売人としての観点でこう即答したという。

「そりゃ、富士通に決まっとる。これからはグローバルの時代。富士通で世界と勝負するんや。」


海外留学などをして過ごした一年間の充電期間を経て、フロンティアーズ森本が誕生する。



〜第2章へつづく〜 近日掲載予定!

著:松元 竜太郎のファイナルマガジンのご愛読ありがとうございました。

以下、今まで掲載してきた記事になります。
ふと思い立った時に読み返していただけると幸いです。














出来ることなら、全員載せたかったのですが。。。。


ファイマガの取材を通じて感じたことは、
秘められた熱い想いをみんな持っていて、必ず出てくるのは、日本一という言葉。

そして今までの経験や、フットボールの観点など、
普段知ることの出来ないことまで聞くことが出来ました。

こっちまで聞き入ってしまい、取材が2時間以上に及ぶことも多々・・・


掲載後には、「あの人って、実は苦労しているんだね。」だとか、
「すごいなぁ。」と、興味を示してくれる感想をたくさんいただきました。

中には感動したと言ってくれる人も・・・・


もちろん、同じチームメイトでも、
知らないことはたくさんあったはずです。


今があるのは、全て今までの過程があるから。

今年こそ、そのみんなの過程を凝縮し、日本一という最高の結果を残したいと思います。


2009年チーム始動まで残り17日。
しっかり覚悟を固めて望みたいと思います。

最終章

イメージ 1


〜フロンティアーズONE Familyとして・・・〜



私はFRONTIERSに入部して3年だが、
ブーがFamilyという言葉を口にするのを何度となく耳にしている。

特に選手やスタッフはともかくファンに対してのコメントでも
”You are Frontiers family”といっているのはブーくらいではないだろうか。

そのくらい彼はチーム、そして応援してくれるファンにに愛着を持っている。

FRONTIERS入部当初、強烈に印象に残っている出来事があるという。

「入寮したばかりのある夜、
 風呂上がりの甲斐(#2LB)がノックもせずにいきなり裸で部屋に入ってきたんだ。
 
 ”ここが、ブレナンの部屋かー、よろしく!”
 と言って彼は去っていった。はっきりいってカルチャーショックだったね(笑)。
 
 でも、そういう感じでFRONTIERSのみんなは僕にとても良くしてくれた。」

寮での共同生活の影響もあってか、
すぐにチームに馴染んでいきブーはFRONTIERSになくてはならない選手となった。

一番印象に残っている試合について聞くと、2006年のパールボウル制覇を挙げた。

「チームが一つになった最高の瞬間。
 対戦相手がオンワードだったというのも感慨深かった。」

そして、常にモチベーションの源となっていたのがJAPAN Xボウル、
ライスボウルという日本一のタイトルの存在だ。

「昨年大きな怪我をして、今春WRコーチをした後完全にチームを去るつもりだった。
 実際復帰を決めたのはに帰国後だよ。

 そして僕を復帰に導いたのが、日本一のタイトルへの未練なんだ。」

愛するFRONTIERSで日本一のタイトルを手にしたい。
その気持ちがブーを復帰へと突き動かした。

前年にそれが手の届くところまで行きながら決勝は自分がプレーできずに、
惨敗したのだからその思いは人一倍だっただろう。

ブーは”今年で最後”・・・その強い決意を自分の中に秘めてプレーした。

だが結果はご存じの通りだ。もう彼のプレーを日本で見ることはできないのだろうか?


最後に気になる来季について聞いた。

「まだ何も決めていない。だけど、僕ももうすぐ32歳になるし若くはない。
 両親は自分のキャリアについてとても心配しているし、
 いつまでも日本でフットボールをしているわけにもいかない。

 アメリカで家族と相談して決めるけれども難しいかもしれない・・・。

 一つ言いたいのは自分はFRONTIERS Familyとして誇りを持っているし、
 チームのみんなやファンに心の底から感謝している。本当にありがとう。」

これがブーのラストメッセージとなるのか、
来季も日本のフィールドで勇姿を見せてくれるのかはまだ分からない。


だが、例えブーが引退することとなっても、
彼がFRONTIERSに与えた影響は計り知れない。


そんな長年FRONTIERSに対して、
いや日本のフットボール界に貢献してくれたブーのためにも、
JAPAN Xボウル、ライスボウルに勝ち進むのが残るメンバーの使命ではないだろうか。




◆編集後記 〜#20レジェンド森本さんからのコメント〜

ちょくちょく中原近辺でヒーローが出現するらしい。


ある時は、アメリカマン!


またある時は、ウルバリン!


いずれも、チャリンコに乗ったヒーロー!


正体は・・・

自称、”ヘンナガイジン”
口癖は、「ワカンナイ」


とにかくアメリカ人っぽくない。

練習直前に納豆食べたり、蜂の子を食べて美味しいとか言ったり・・・


ほんまそのへんの日本人よりも、謙虚で、礼儀正しく、
常に思いやりの気持ちを持ち、めっぽう情に厚い。


そんな彼には、この言葉がしっくり当てはまるような気がする。
「ラストサムライ」

イメージ 2
(ブレナン、大学最後の試合で、当時コーチだった兄と感謝の抱擁を交わす)

〜完〜

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]


.
えいじ
えいじ
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
検索 検索

過去の記事一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事