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黒の未亡人
戦闘美少女?

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◎ 英語版ウィキペディアより抜粋(一部再編集)
パルチザン3個旅団及び野戦中央病院は、2,000名以上にも及ぶ負傷者を抱えていた。このときパルチザンは、食糧と医薬品の不足に苦しんでおり、多くの者がチフスで命を失っていた。

ヒトラーから指示を受けていた作戦総責任者のアレクサンダー・レーア空軍上級大将は、パルチザン兵士の皆殺し命令を下しており、その命令には傷病者や非武装の看護人も含まれていた。

パルチザンは、ドイツ軍の大部隊と対峙せざるえない状況ではあったが、スチェスカ川を渡河して、ドイツ軍の戦線(第118及び第104猟兵師団、第369師団により構成された戦線)を北西へと突破し、ボスニア東部へと転戦することに成功した。

最終的にパルチザンは7,543名を包囲殲滅作戦期間において失い、これは当初戦力の3分の1以上にあたる。

ドイツ側の地上作戦司令官ルドルフ・リタス将軍は、最終報告書のなかで、これまで「共産主義の反逆者」と呼称していた敵を、「よく組織され、信じられないほど高い士気を有し、洗練された指揮を受けている」と記述した。


イメージ 1
スチェスカの戦いにおけるパルチザンの隊列
(画像は英語版ウィキぺディアより)



◎ 英語版ウィキペディアより抜粋(一部再編集)

包囲網突破の成功は、地方住民でも抵抗運動の戦力となりえる…と、これまで囁かれていたパルチザンの評判を確固たるものにした。


これは結果として、実行支配地域におけるパルチザンの新兵募集活動と、部隊に対する人員補充を容易なものとした。

なお、ボスニア東部に転戦したパルチザンは反撃を開始し、続く20日間で、同地域における数ヵ所の枢軸国軍駐屯地(ヴラセニッツァ、スレブレニツァ、オロヴォ、ズヴォルニク)を壊滅させた。

この「スチェスカの戦い」は、パルチザンによるユーゴスラビア支配…という意味ではターニングポイントであり、戦後の「パルチザン神話」(自己犠牲の賞賛、大いなる苦しみ、鉄の団結)を形成する要素のひとつでもある。



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