仏教とっておきの話

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 美女がいた かなりの美貌であったが ただ鼻に少し難点があった それで彼女はだいぶ鼻を気にしていた

 彼女の夫も 妻の鼻が気にいらなかった

 面白いものである 普通の容貌であれば 少しぐらいの欠点は気にならないが
美女であればあるほどちょっとした欠点が目立つ だから 美人であることは幸か不幸かわからない

 ある日 夫は町を歩いていた 鼻の美しい女性に出会った そこで夫は その女の鼻を切り落としして家に持ち帰った
そして 妻の鼻を切り落とし その上に美しい鼻をつけようとした

 でも 他人の鼻はくっつくはずがない

 かわいそうに 妻は鼻なしになったのだ いや 考えてみれば 二人の女が鼻なしになってしまった

 愚かなことをしたものだ

 この話は『百喩経』という仏教経典に出てくる この話が何を言わんとしているか もちろん明白である

 人は誰しも欠点を持っている われわれはその欠点を気にし それを直したいと思う
けれども そんなことはできやしない なぜなら 人間というものは 欠点も美点も一つになってその人をつくっているからである 部分的欠点だけを直すことはできない

 たとえば 社交下手な妻がいる 夫は妻にもう少し社交的になってほしいと願うが それはできないことだ
もしも万が一 彼女が社交上手になったとすれば その時きっと彼女は浪費家に変わってしまっているだろう
あるいは 不倫をするかもしれない 社交下手というのは 別の表現をすれば つつましやかであり貞淑なのである

 要するに 鼻という部分的欠点だけを取り替えることはできない 取り替えるとすれば 総取替えしかない
それはつまり 自分の妻と離婚して 他の女性と結婚することである

 そうすると 新しい妻には別の欠点が見つかる そして その欠点が気になる
そんなことをしていると いつまでも不満が残る

 わたしは 相手の欠点を好きになるのが真の愛情だと思っている


 ひろさちや著 仏教とっておきの話 新潮文庫より

 最近は言わなくなったが 少し前は 海外で航空機事故があったようなとき テレビやラジオが
「幸いにも日本人の乗客はいませんでした」と報道する その言葉を聞いたアメリカ人から 
私は叱られたことがあった「おまえたち日本人は 外国人であれば死んでもいいと言うのか?!」

 たしかに 日本人は反省すべきだ インドやアメリカのような多民族国家ではない日本人は ついつい異民族に対する気くばりを忘れてしまう 日本さえよければいい といったエゴイストぶりを発揮するが日本の利益になることは外国の不利益であるのだから ある程度の所で利益を抑えるべきであるはずだが日本人にはその自制ができぬ そんな日本人は これからの国際社会では孤立してしまう心配がある 
日本人はもう少し大人にならなければならない


 中国 東晋時代の仏教僧に慧遠〈えおん 416年8月6日 83歳で示寂)がいる
廬山(ろざん)に住んでいたので「廬山の慧遠」と呼ばれている

 江南地方を支配していた桓玄将軍は かねてより慧遠を尊崇していた
彼は隣国との決戦を前にして廬山に登ってきて 慧遠に戦勝祈願のご祈祷を頼んだ
慧遠はそれを受け 弟子を集めて大々的な祈祷をやった

 祈祷の終わったあと 喜んで帰ろうとする将軍を呼びとめ 慧遠はこう言った
「いまの祈祷は もちろんあなたの戦勝を祈った しかし わたしは同時に相手の将軍の武運長久も祈っておいたから そのことを忘れないように・・・・・」

 桓玄将軍は一瞬 顔色を失った

 しかし そのあと 彼は慧遠の気持ちをよく理解したという

 利害の反するAとBがいて もし神仏がAの利益だけを叶えてくれるとすれば そのような神仏は頼むに値しない

 なぜなら Bがお賽銭をはずむなら すぐにBに寝返るにきまっているからである
桓玄将軍が 神仏をそのような安っぽい存在と考えている その思慮の浅さを 慧遠は指摘したかったのだろう

 エゴイズムの祈りは 仏の慈悲に反する われわれはそのことをしっかりと知っておきたい


 ひろさちや著 仏教とっておきの話 新潮文庫より

仏教 釈迦のやさしさ

 釈迦の死因は食中毒であるという

 お釈迦さまが最後に召し上がった食事が何であったか 漢訳仏典記述とパーリ語の「南伝大蔵経」の記述が違っている

 お釈迦さまはパーヴァーの町の鍛冶工のチュンだの家で 最後の食事をとられた
もちろん それが図らずも最後の食事となったのであって 予定されていたわけではない

 パーヴァーの町は 釈迦の入滅されたクシナガラから40kばかり南にある
お釈迦さまはそのマンゴーの林で休んでおられた そこへマンゴーの林の所有者である鍛冶工のチュンダがやって来て お釈迦さまをご招待したのである

 そして チュンダがお釈迦さまに差し上げて食事が何であったか「南伝大蔵経」では
 ―おいしい豚肉料理―とされ
 漢訳仏典では
 ―栴壇樹に生える茸の料理―とされている
それを召し上がったお釈迦さまは 直後に激しい下痢をされる しかもその便には血がまじっていた
明らかに食中毒である

 だが釈迦はそれでも旅をつづけられた 従者の阿難(アーナンダ)を連れて 
チュンダの家をでてクシナガラに向かわれる 途中 何度も休息をとりながら 北に向かって歩まれた
しきりに水を飲みたがっておられるところを見ると どうやら脱水症状を起こしておれれたようだ

 そして 最後にクシナガラの郊外において 釈迦の力は尽きて そのまま涅槃にはいられた
それが2月15日である 釈迦80歳であった

 わたしが感激するのは 釈迦がそのような激しい苦痛に耐えながら なおもその最後の食事を供養した鍛冶工のチュンダを気遣っておられることだ 釈迦は従者の阿南にこういっておられる
「誰かが鍛冶工のチュンダに後悔の念を起こさせるかもしれない おまえの差し上げた最後の食事によって 仏陀がお亡くなりになったのだ と しかし チュンダの食事には大きな功徳があったのだよ
チュンダの後悔の念は取り除いてやるべきだ」

 お釈迦さまはやさしい人であったのだ


 ひろさちや著 仏教とっておきの話 新潮文庫より

 「人をさばくな 自分がさばかれないためである あなたがたがさばくそのさばきで
自分もさばかれ あなたがたの量(はか)る そのはかりで自分にも量り与えられるであろう」
『新約聖書』のイエス・キリストのことばである(「マタイ伝」第七章)

 ふとしたとき 私はこのイエスのことばを思い出す ふとしたときというのは 無意識のうちに他人を糾弾し裁いているときである 電車の中で二人分の座席にふんぞり返っている人を見たようなとき
インチキ宗教の機関紙に高名なる仏教学者が寄稿しているのを知ったとき
いろんなとき いろんな場所で 他人を裁いている自分を発見してびっくりする
そして「人を裁くな!」のイエスのことばを思い出すのである

 キリスト教において 人間を裁く権利を持つのは神だけだ だから 人間が人間を裁くことは
キリスト教においては神に対する越権行為になる

 もちろん キリスト教国にも裁判所はある けれども 裁判所の役割はこの世の秩序を維持することで人間を断罪するそのためのものではない 真に裁くことのできるのは神であり 神だけである
キリスト教ではそのように考えられている

 では 仏教は・・・・・?仏教においても やはり人を裁いてはならないはずだ しかし その理由は
キリスト教と少し違う

 仏教においては 仏が人を裁かれるのではない そうではなくて 仏はいっさいの衆生を慈悲でもってつつんでおられる 仏はすべての衆生に慈悲をかけておられる いじめっ子も 頭のわるい子もすべて仏の子なのだ
頭のわるい子は 頭のわるいそのままでほとけの子なのだ 頭のわるい子が頭がよくなれば 仏はその子に慈悲をかけられるのではない あるがままの姿で わたしたちすべての衆生がほとけの子なのである

 だから わたしの気にいらないからという理由で 他人を裁き 他人を糾弾するのは ほとけさまに申し訳がないのである ほとけさまが慈悲をかけておられるその人を わたしたちが裁くのはおかしい
ほとけの子だから わたしたちは裁いてはいけないのだ それが仏教の考え方だと わたしは思っている

 ひろさちや著 仏教とっておきの話 新潮文庫より

 法律用語において・みなす・と・推定する・は明確に区別されて使われている
・みなす・という語は たとえば「民法」の条文中に
「胎児は 相続については 既に生まれたものとみなす」(第八八六条)
とあるが この場合はいくら反証しても変更ができない 
いったんみなされてしまえば 絶対に変更できないのが・みなす・といったことばである

 それに対して ・推定する・であれば 取り消すことが可能である 同じく「民法」に
「妻が婚姻中に懐胎した子は 夫の子と推定する」(第七七二条)

 とあるのがその例で いったん夫の子と推定された子どもも 出産後の血液検査等によって反証がなされれば
裁判所はその推定を取り消してくれる

 このように・推定する・と・みなす・といったことばは 法律においては明確に意味が違っているのである

 わたしは「死後の世界」に対する宗教と科学の考え方の差は この「みなす」と「推定する」の差だと思っている

 すなわち 科学は 死後の世界があるか否かを「推定」しようとしている
そしてその「推定」は いつでも反対の証拠が出てくれば取り消されるのだ また 取り消されねばならない
したがって 常に科学の議論は「推定」を取り消さねばならないのか あるいは取り消す必要がないかをめぐって行われている

 それに対して 宗教の世界においては「死後の世界」はあるとみなされるものである
死後の世界は 仏教においては「浄土」あるいは「仏国土」であり キリスト教においては「天国」ないしは
「神の国」である そして 仏教においては 死後の世界としての浄土はあるとみなし 
キリスト教においては天国はあるとみなしている

 したがって それは「推定」ではないから 反論 反証したところで無意味である
宗教と科学は 存在の基盤 問題意識が違っているのだ そのことをしっかりと理解せねばならない

 ひろさちや著 仏教とっておきの話 新潮文庫より

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