播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。

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購入の経緯

山歩きの際、山頂などの見晴らしの良い場所で食事をするのが私にとっての楽しみなのですが、展望の良い場所が食事に適した環境とは限りません。

特に困るのは、平らな空間が少ない場合です

自分が座ったり荷物を置く場所は平らで無くても良いのですが、ご飯を置く場所は平らでないと困ります。
傾いた場所にインスタントラーメンやカレーライスを置くと、食器が倒れたり液体が流れてこぼれてしまいますし、何よりそんな状況では落ち着いて食事が出来ません。

食事をしながら、時々食器を置いて景色に見入ったり、ちょっと気になるものがあって双眼鏡をバックパックから取り出すときには、安心して食器を置ける平らな場所が必要なのです。

以前から小型のテーブルは所有していましたが、使う度に組立と分解を行う必要があるもので、軽くてコンパクトなのは良かったのですが、面倒臭くて使わなくなってしまいました。

そんな時に見つけたのが、今回紹介する商品です。

イメージ 1
▲フィールドホッパー ST-630(パッケージ)

製品名: フィールドホッパー ST-630
メーカー: 新富士バーナー株式会社(SOTOブランド)(愛知県)
天板サイズ: 297mm × 210mm(展開時)
高さ: 78mm(展開時)
重量: 約395g(本体のみ)
耐荷重: 3kg
材質: 天板 アルミニウム、スタンド ステンレス
国内定価: ¥5,000(税別)
購入価格: ¥4,480(2015年5月時点)
購入元: Amazon
※当記事内のフィールドホッパー ST-630にはモンベルのステッカーがありますが、これは私が個人的に貼ったものです。

概要

展開すると、ほぼA4用紙と同じサイズの天板をもつ折りたたみテーブルで、収納時は、A4を縦に二つ折りにしたサイズになります。

使い方

メーカーさんがYoutubeに動画を登録しているので、それを見て頂くのが一目瞭然。

▲メーカー公式の製品紹介動画

動画にある通り使い方は簡単で、収納袋から取り出したフィールドホッパーをパカッと開くだけで脚が出てテーブルになります。

イメージ 2
▲専用の収納袋に入れた状態

イメージ 3
▲収納袋から取り出したフィールドホッパー(折りたたまれた状態)

イメージ 4
▲展開したフィールドホッパー

イメージ 5
▲フィールドホッパーの裏面

片付けるときは、まず天板を二つ折りにします。
すると、下の画像のように脚が手前にはみ出した状態になるので、その脚を左右に広げてから天板の間へ押し込んで下さい。

イメージ 6
▲展開した状態から折りたたんだフィールドホッパー

イメージ 7
▲はみ出している脚を左右に広げ、短編側から飛び出た脚を中へ押し込めば折りたたみ完了

使い勝手

とにかく展開も折りたたみも素早いので、他社製のテーブルのような面倒くささが一切なく、気軽に使えます。

ただし、広げた天板はロックされていないため、短辺側を持ってテーブルを持ち上げると、への字型に折れ曲がってしまうのが難点。
長辺側を持って持ち上げれば、上に物が載っていても大丈夫です。

長辺側の縁が出っ張っていて、載せているものが滑り/転がり落ちるのを防ぐ構造になっている点も優れています。

イメージ 8
▲天板の長辺側の縁が出っ張っているのが分かる

山の上では、一見すると平らに見える場所はたくさんあります。
しかし、実際に食器を置くと石や小枝、葉っぱ等が邪魔になり、食器が安定して置けません。まずは散らばった小石などをどかす必要があるわけです。

そんな環境でもフィールドホッパーを使えば、ゴミを取り除かなくてもあっという間にA4サイズの平らな空間が用意できます。

イメージ 9
▲小石などがあっても、地面が平らであれば問題なし

完全に地面が平らでなくても、フィールドホッパーの脚の形状で対応できる範囲であれば、多少の凹凸をものともせず平らな空間を作れます。

ヘリノックスのグラウンドチェアと組み合わせると、山の上で贅沢なひとときを楽しめますよ。

重要:取扱説明書には「使用上の注意」として、「凹凸や段差のある所、砂地などの軟弱な地面の上では使用しないでください。傾斜のない平坦な場所で使用してください。」と書かれています。

最後に

価格は高かったのですが、持ち運びに便利なサイズで展開は一瞬、折りたたみは2秒で出来るという優れた特徴があるため、気に入って山歩きの際は毎回持っていっています。

普通のハイカーさんには関係無いと思いますが、地面の凹凸が多い場所で小型のドローンを離発着させる際に、離発着場としても使えますよ。


今まで当ブログで紹介した山道具の一覧を公開しています。興味のある方はどうぞ。
山道具一覧←クリック

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注意
今回の山行で歩いたルートは大半が明確な道ですが、前半の一部で道が不明確なところがあります。
下山に利用したコースは、足場の悪い区間が長く続きます。
歩行距離は比較的長めで、累積標高差も大きい(アップダウンが多い)です。詳細は、文末のグラフを御覧下さい。
体力に自信がなかったり、ルートファインディングが苦手な方は挑戦しないで下さい。
本日は、古代山城と中世山城の跡が同居している、兵庫県たつの市の「亀山(きのやま)」へ出かけてきました。

亀山を含む山塊は新龍アルプス(合併前の地名で新宮町と龍野市に跨がっているため)と呼ばれており、ここにあった中世の「城山城(きのやまじょう)」は、その北端にある(340.2m三角点ピーク「三等三角点(点名:祗園山)」を出城(祇園嶽城)とし、亀山の主峰の南までのかなり広大な城域を持っていたとされています。

城山城
【城史】城山城は赤松則祐が築いたとされている。『教王護国寺文書』巻一の「矢野荘年貢算用帳」によると、文和元年(1352)の頃に城山城築城人夫のことがあり、貞治元年(1362)にも矢野荘から城山城へ材木運搬のことが記されている。貞治2年になると兵糧米や塩が運びこまれているから、ようやく城ができて軍兵が駐留していたことがわかるが、なお倉作人夫や材木が矢野荘から運搬されている。すなわち、城山城は全盛時代の赤松氏の権力をもってしてもなお10年以上の歳月を要したのである。東麓の新宮町馬立に守護屋形があったとされているが、越部にもあったらしく、「於越部、守護屋作、白土持夫十人、二日役粮米」という貞治2年の史料がある。また、新宮町宮内の城が鬼門にあたるため、ここに城禅寺を建てたとされているが、同じく貞治2年の史料に「予守護方、城山本堂修造料人夫三人」とある。両寺の間に何らかの関係があるのでなかろうか。
 嘉吉の変(1441)で書写坂本城を捨ててこの城山城に籠った赤松満祐はすでに敗戦を覚悟していたといわれている。攻撃は山名軍を主力としてこれに細川軍や一族赤松満政らが加勢した。城山城主であった赤松義雅は子千代丸を連れて赤松満政の陣に下り、千代丸の助命を託して自殺した。千代丸は後に赤松家を再興した正則である。嘉吉元年(1441)9月10日城山城は落城、満祐以下一族69人が自刃した。
 落城後100年近くも廃城となっていたが、天文7年(1538)尼子晴久が播磨へ侵入した。晴久は城山城を再興し、天文9年播磨から撤兵するまで3年間ここを本拠とした。このことは天文7年の『鵤荘引付』に英耒大法師が9月27日城山へ罷出て尼子殿に見参したと書かれていることによってもわかる。尼子軍の撤退後再び廃城となった。

出典:都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻 pp.233-234 
   兵庫県教育委員会・和歌山県教育委員会編 2003年4月30日発行 ISBN4-88721-446-4

古代の城山城は、私は亀の池を中心とした盆地状のエリアだと思っていましたが、「<新宮町文化財調査報告10>城山城」によると、亀山の三角点ピーク周辺の西側斜面を古代の石塁が取り巻くように作られていることから、古代の城も中世の城も、ほぼ同じような場所を城域として使っていた可能性があるそうです。

今回は、北端の三角点ピーク(城山城の出城)に市野保(いちのほ)集落奥から搦め手道と呼ばれているルートで登り、そこから尾根を南へ進んで、亀山の南から兵糧道で東へ下るというルートをたどることにしました。

イメージ 46
▲対応する地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「龍野」。(マウスポインタを合わせたとき右下に表示される虫眼鏡のアイコンをクリックすると拡大表示されます)

09:00
姫路市街の自宅を車で出発。

国道29号線を北西へ進み、姫路市とたつの市の境界のある峠を下ったところにある「追分(おいわけ)」交差点を左折。

ここからは県道724号線です。
この道を西進し、揖保川を渡って国道179号線も越えてさらに西へ進むと、「船渡(ふなと)」交差点で国道179号線を越えて間もなく道は右へ大きく曲がり、北へ進むようになります。

馬立(うまたて)橋で栗栖(くりす)川を渡って300mほど北進すると、右側にブリジストンやスズキの看板が上がっているお店に出会います。
このお店のある交差点を左折。
この角(道の左)には「城山城 大手」と書かれた道標もあるので、間違えることはないでしょう。

すぐに丁字路に突き当たるので、そこは左折。
後は道なりに右へ大きく曲がり、「城山城跡馬立(大手道)登山口」と掲げられたゲートをくぐって西へ進み、川を渡ると墓地があります。
この墓地に車を止めました。

イメージ 1
▲登山口のゲート

以下のURLをクリックすると、今回私が車を止めた墓地の位置がGoogleマップで表示されます。


なお、ここから亀山へ登る道(大手道コース)もありますが、今回は使いません。

09:33
墓地に到着(地図中「P」)。

イメージ 2
▲墓地に車を置いた

09:39
準備を整えて出発。
北の市野保(いちのほ)集落を目指しましょう。

まずは東へ進んで川を渡り、ゲートをくぐってから最初の交差点を左折。
田んぼの中のアスファルト舗装の道を北へ進み、丁字路に突き当たったら左折しますが、道は右へ大きく曲がって北へ進むことになります。

イメージ 4
▲田んぼの中の舗装道路を北へ進んだ(奥に見えているのは市野保の集落)

09:50
田んぼの中にあずまやと案内看板が立っているのを見つけました。
「お玉の清水」と呼ばれる湧き水のようです(地図中「お玉の清水」)。

イメージ 3
▲田んぼの中にある「お玉の清水」

お玉の清水で写真だけ撮ったら舗装道路に戻ってさらにどんどん北へ進み、道が右へ直角に曲がったら、最初に出会う三叉路を左へ入ります。
ここからは集落内を北へ進み、火の見櫓のある丁字路に突き当たったら左折。

道が二股に分岐するY字路に出会ったら右へ。ここには道標が立っているので、道を間違えることはありません。
後は道なりに西へ進めば、墓地を通り抜けて祇園嶽城への道へ入れます。

イメージ 5
▲Y字路に立つ道標

10:05
市野保集落の西にある墓地に着きました(地図中「墓地」)。
駐車場から市野保西端の墓地までおよそ1.8kmありますが、ウォームアップにちょうど良いでしょう。

ここには古墳群があるらしく、案内地図には古墳の位置が数多く示されていましたが、すぐ北の尾根上に前方後円墳もあるようです。

今回は古墳を見ることは目的ではありませんし、時間が惜しいので(古墳に興味はありますが)古墳群は素通り。

イメージ 6
▲墓地の様子

暑くなってきたので、ここでソフトシェルを脱いでTシャツとフリースだけになりました。

ここからは、地形図の実線道を信じて唐猫谷(からねこだに)へ向かいます。

唐猫谷の名前については、「<新宮町文化財調査報告10>城山城」のp31で、搦手(からめて)がなまったものではないかという可能性が指摘されています。
また、同じページには、この搦め手道を地元の村人が追討軍に教えたから、城山城が落城したという伝説があるとも書かれています。

イメージ 7
▲墓地から先の実線道の様子

西北西へ向かうGPS軌跡轍が南へかくっと折れ曲がる地点は、轍のある道が左へカーブし、轍のない廃道が直進する分岐になっています。

ここは轍のある道に沿って左へ曲がるのが正解なのですが、右を見ると立派な円墳がありました。
墓地で見損ねた古墳を見られて満足。

イメージ 8
▲道が向きを変える地点にある古墳

実線道は小さな採石場のような場所の横を通ったかと思えば、薄暗い植林地帯の中を通ったり、葉を落とした明るい自然林の中を通ったり、コンクリートの橋で小川を超えたり、周囲の様子がころころ変わって、歩いていても飽きませんし、斜度が極めて緩いため疲れることもありません。

10:28
地形図に記載されていない分岐に出会いました(地図中「分岐」)。
Y字路になっていて、どちらの道も同じくらいの幅で道標はありません。

ここは左が正解。

イメージ 9
▲地形図に記載のない分岐(左へ進む)

先ほどのY字路から道の斜度が増してきます。

10:34
「城山城 門の礎石」と書かれた標柱に出会いました(地図中「門の礎石」)。
しかし、どれが門の礎石なのかが分かりません。

イメージ 43
▲「門の礎石」の標柱(矢印の位置)が立つ場所にある石

10:36
なだらかな登り坂を進んでいくと、東屋に出会いました(地図中「出城・亀の池分岐」)。

ここは地形図通りに道が二股に分かれていて、直進すると亀の池(きのいけ)、東屋の左側から沢を渡って谷を登ると、出城の堀切へ通じる道へ入れるようになっています。

亀の池方面への道の方がはっきりしていますが、せっかく城跡散策に来ているので、搦め手道と言われているルート(道標で「祗園嶽 出城」方面とされている方向)へ進むことにしました。

イメージ 10
▲東屋のある分岐

出城への道は、非常に分かりにくいです。
東屋の裏で沢を渡るのですが、下の写真のような状態なので、渡った後どうすれば良いか分からないと思います。

イメージ 11
▲東屋の裏の沢の様子

イメージ 12
▲沢の先でこのような道を探す

南東へ伸びる谷間を流れる沢の左岸(上流から下流を見た時の左右なので、この場合は南西側)に道が付いており、赤テープが木に巻かれているので、道を見失いそうになったら赤テープを探して下さい。

ここに赤テープを付けた方は上級者のようで、マーキングの数が多すぎず、少なすぎず、不安になる頃にテープに出会うという絶妙な間隔でマーキングが設置されています。

イメージ 13
▲沢沿いの道は分かりにくい

標高200m付近で地図内のGPS軌跡が破線道から離れていますが、これは破線が誤り。
破線の方向に道はありません。

ここは2本の谷が合流する地点で、前だけ見て歩いていると右の谷、つまり破線道へ入り込みそうになるので要注意です。
沢を渡って左の谷へ進んで下さい(対岸のトラロープが目印)。

破線道から離れて谷間を登って行くと、視線の先に白いものが現れました。公設の道標です。
道標の位置から進路は北へ変わります。

イメージ 14
▲谷間に設置された道標(この場所で進路を変える)

道標の先はどこでも歩けるような広い谷間ですが、祗園嶽の南東にある鞍部(堀切跡)の方向を意識しながら谷を適当に歩いていると、トラロープが張られた道に自然に入ります。

11:00
出城南東の鞍部(堀切跡)に出ました(地図中「城山城出城堀切跡」)。

イメージ 15
▲堀切跡を見上げる

この鞍部の北にある340.2m三角点ピークは祗園嶽(ぎおんだけ)と呼ばれており、山頂の西には、城山城の出城と言われている郭群(くるわぐん。郭は山を削って作られた平坦な土地のこと)が残っています。

この祗園嶽の山頂から西に延びる尾根上に存在する郭群は、新宮町教育委員会が1988年3月31日に発行した「<新宮町文化財調査報告10>城山城」によると、「A群」として以下のように説明されています。

 まずA群は、主郭から1.3km離れた城山最北端の峰(標高340.4m)から西側に伸びる尾根上に営まれた郭群である。大小10ヶ所の郭とそれらを結ぶ通路からなっている。
(中略)
この郭群は、北からのルートである唐猫谷を見下ろす尾根上に位置するが、尾根の高みを避けて尾根の南斜面に設けられており、北側の登山道から見えにくい場所に工夫されている。

(出典:「<新宮町文化財調査報告10>城山城」新宮町教育委員会 1988 p45)

鞍部から北西へ登り返す尾根筋には、郭跡など城の防御施設と思われる形跡は全くありません。
ただの急斜面。

汗だくになったので、フリースも脱いでTシャツ1枚で歩きました。
この後は、基本的に休憩時以外はTシャツ1枚。冬でも、歩いていれば暑い。

祗園嶽山頂の手前には道標が立っており、左を指して「城山城・出城 80m」、直進方向を指して「祗園嶽 50m」と書かれています。

まずは三角点ピークを目指し、その先の展望岩場(地図中「祗園嶽展望岩場」)で一息ついてから、出城の郭群を見ることにしました。

イメージ 16
▲出城の郭群と祗園嶽山頂方面への分岐に立つ道標

11:08
三角点ピーク(三等三角点(点名:祗園山))に到着。

その先に進むと展望の良い岩場があり、そこからは、東にかつての出雲街道、南に亀山(457.8m三角点ピーク)を見ることが出来ます。

以前、ここで全天球パノラマを撮影したことがあるので、かつてこの出城で見張りの兵が見ていたであろう景色を以下のリンクから御覧下さい。
祗園嶽の山頂で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2013年2月3日)

https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/giondake20130203/virtualtour.html
一息ついたら出城方面への分岐に戻り、出城の郭群(A群)を見に行きましょう。

郭群への道はあまり歩く人がいないのか不明確になっていますが、分岐からわずかな距離なので、適当に歩いても問題ありません。

イメージ 17
▲尾根の南側に一段下がった所に郭群がある(写真の左奥にも郭がある)

郭群を見た後は、11:00に通過した堀切跡に戻って南の亀山(城山城の主要部)を目指します。

堀切跡から南へ延びる道は、西へ向きを変えるまで尾根の西側斜面に付けられています。
これは、東側の街道から城兵や物資の動きを見られないように、往時から使われていた道でしょうか。

道が西寄りに向きを変える辺りからは、道は尾根の中心を通るようになります。

イメージ 18
▲尾根の西側斜面に付けられた道の様子

道が尾根の中心に戻る辺りだけシダが多いですが、それ以外は自然林の中の小径です。

11:37
馬立(うまたて)からの道(大手道)が左から合流する地点を通過(地図中「馬立分岐」)。

馬立分岐のすぐ先には、「南無阿弥陀仏」と刻まれていると言われる供養碑がありますが、文字は全く見当たりませんでした。

イメージ 19
▲供養碑

さらにその供養碑のすぐ先には、「蛙岩」と標柱が立つ岩があるのですが、標柱の位置が中途半端なので、どれが蛙岩か分からない状態になっています。

イメージ 20
▲蛙岩(?)

イメージ 21
▲それともこちらが蛙岩(?)

蛙岩のすぐ先にはトイレがあり、トイレの向こうには亀の池方面への道が右へ分岐する場所があります。

11:40
亀の池方面への道が右へ分岐する地点に到着(地図中「亀の池・亀山分岐」)。

今日はドローンで亀の池の全景を写そうと思っていたので、亀の池方面(近畿自然歩道の公設道標では「奥宮神社」方面)へ入りました。

すると、すぐに左側に亀岩と呼ばれる巨岩が現れます。
先ほどの蛙岩と違い、明確にそれが亀岩だと分かります。

イメージ 22
▲亀岩

亀岩の先では、堀切跡に出会いました。
看板があるわけではありませんが、山城好きの方ならすぐに分かると思います。

11:44
亀の池(きのいけ)の堰堤に到着(地図中「堰堤」)。

ドローンを組み立てていると、男性のトレイルランナーさんが堰堤に来られました。

私は彼が走り去るのを待とうとしましたが、彼はドローンに気づいて立ち止まり、ドローンが飛ぶ様子を見てみたいという様子だったので、横で見てもらいながらドローンを離陸させて写真撮影。

堰堤の天端から撮影した亀の池の写真はよく見ますが、堰堤の堤体と亀の池の両方が写った、亀の池が小規模なダム湖であることが分かる写真は珍しいと思います。

イメージ 23
▲ドローンで撮影した亀の池と堰堤(堰堤上にいるのは私とトレイルランナー)

EPSONのスマートグラス「BT-300」をかけてもらい、ドローンからのカメラ映像を見てもらうと、いたく感動した様子。
トレイルランナーは興奮した様子でお礼を言い、走り去っていきました。

11:56
ドローンを片付け、亀山に向けて堰堤を出発。「亀の池・亀山分岐」へ引き返します。

「亀の池・亀山分岐」から南へ進む道は、地形図の等高線では分からないような複雑な地形の中を通っていました。

イメージ 24
▲なだらかな谷間から砂の浮いた斜面(右上)へ進む

12:07
砂の急斜面を登り切ると、地図が設置されている小さな削平地に出ます(地図中「展望所跡」)。
ここは昔あずまやがあった場所で、東屋の残骸とおぼしきものが西側の斜面に散乱しています。

イメージ 25
▲展望所跡の様子

展望所跡から南は、祗園嶽から亀の池方面へ向かうときに通ったのと同じような雑木林の中の道です。
斜度はそれほどでもなく、歩きやすい。

457.8m三角点ピークの北側斜面では、堀切の跡と思われるようなくぼみ(横に溝がある)を複数見ることが出来ます。

12:22
457.8m三角点(四等三角点(点名:亀山))ピークに到着。
広い郭跡ですが、周囲に木々が生い茂り展望はありません。

イメージ 44
▲三角点ピークの様子(古代城山城の門の礎石「築石」への道標もある)

亀山の主峰周辺の郭群について、「<新宮町文化財調査報告10>城山城」では、三角点ピーク周辺がB群、その南のピーク(地形図で「亀山」と書かれている左側)がC群、その南東のピークがE群、B群とE群の間がD群、E群の南で北西から南東に延びる細い尾根上の郭群がF群と名付けられています。

この三角点ピーク周辺はB群。

 B群は、中心部の3つの主峰のうち最も北に位置する標高458.0mの尾根山頂に立地する郭群である。
(中略)
山頂には比較的大きな平坦地があり、さらに尾根北側には2段ほど削平地が見られ、その先には空堀と堀切りが2重に巡らされている。中でも内側の空堀は、尾根を挟むようにU字状に巡り、特に尾根西側の部分は、その先端部が土塁に直行するようになっている。

(出典:「<新宮町文化財調査報告10>城山城」新宮町教育委員会 1988 p46)

このピークの北西には古代城山城の門があったそうで、その礎石が残っているとのこと。
道標では築石まで5分と書かれています。大した距離ではないので、見に行くことにしました。

築石への道は歩く人が少ないようで、雑木林の中を赤いマーキングテープを追って進むことになります。

12:25
三角点ピークから3分で築石のある場所に来ました(地図中「門の築石・石塁」)。

イメージ 26
▲門の築石(奥にもう一つある)

上の写真は、尾根の斜面に2つ転がっている礎石を、坂の下から見上げる形で撮影しています。

この下側の築石の西の斜面を少し下ると、3つめの礎石が転がっているのに出会うのですが、その横には石塁もあります。

イメージ 27
▲3つめの礎石と石塁

礎石の大きさが実感でき、いつの時代のものかは分かりませんが石塁も見られたので満足し、三角点ピークへ戻りました。

次は三角点ピークの南にあるピーク(C群の郭群)を見に行きます。

12:34
が、ピークの手前で「石塁C」と書かれた道標に出会いました(地図中「石塁(c)・主郭分岐」)。

石塁は、「<新宮町文化財調査報告10>城山城」によると(a)〜(d)の4箇所が発見されており、石塁(a)はD群とF群の郭の境目付近、石塁(b)はC群の南西斜面、石塁(c)はB群とC群の間の谷間、石塁(d)はB群北斜面にあり、いずれも谷を遮るような形状で、標高がほぼ同じになっています。

つまり、石塁は山の西側半分を鉢巻き状に囲むように設けられているのです。
先ほど見た古代山城の門の礎石とされているものは、石塁(c)と石塁(d)の間の尾根上にあります。

道標にある「石塁C」はこれらの中で最大のもので、以下のように説明されています。

 (c)の石塁は4つの石塁の中で、最も遺存状況の良いものである。地図を見ても分かるように、2条の谷筋が当地で合流して1条の谷筋になるため、谷幅はやや広くなっている。石塁はこの幅広い谷筋を横断し、さらに北側の山腹に伸びている。石塁全長は現状で41m、高さはおよそ3mを測り、そのうち谷筋は20mを測るので、21mは北側の山腹に伸びている部分となる。しかし、山腹部分では、石塁の高さは1.5m〜2mとやや低く、それも端にいくにつれて次第に低くなって最後は消滅してしまう。一方、谷筋の南側では、西方に伸びる尾根上には塁状遺構は認められない。ただ、この尾根を西側へおよそ20m降りた所に、当城では最大規模の堀切りが残っている。

(出典:「<新宮町文化財調査報告10>城山城」新宮町教育委員会 1988 pp.42)

イメージ 28
▲石塁Cの方向を示す道標(写真中央)

石塁Cへの道は、最初はピークを巻くような等高線と平行な道でしたが、やがて西へグングン下り始めます。

やはりこの道も雑木林の中の赤テープをたどるルート。

12:38
石塁Cに到着(地図中「石塁(c)」)。

土砂の圧力で膨らんできてはいますが、古代の人々が作った構造物がこれだけ良い状態で残っているというのに驚かされます。

それにしても、この石塁の正体は何なんでしょうね。

イメージ 29
▲石塁(C)

「<新宮町文化財調査報告10>城山城」のp43では、郭群の西にある石塁に対応する遺構が東側では一切見つかっていないと書かれていますが、その後の調査で東側にも遺構が見つかったようです。

尾根の東側では傾斜変換点に沿って土壇状遺構が連なっている。外周はおよそ1.5〜2kmと思われ、既発見の古代山城と比較して規模はやや小さいほうである。

(出典:「姥塚古墳 城山周辺の古墳群と古代遺跡」新宮町教育委員会 2002 p29)

古代の人たちのすごさを実感したら「石塁(c)・主郭分岐」へ戻って郭群(C群)へ、と思いましたが、道はピークの東側を巻いていおり、C群の最高部の郭跡は通りません。

 C群は標高452.2mの中央部の主峰山頂とその南側に伸びる尾根上に展開する郭群である。山頂の郭以外は比較的小規模な郭である。

(出典:「<新宮町文化財調査報告10>城山城」新宮町教育委員会 1988 pp.46-47)

C群のあるピークを東から南に回り込むと、南側の斜面に郭跡が複数作られているのがよく分かります。

12:50
C群のピークとE群のピークの間の谷間に広がるD群の郭群に来ましたが、植林されて薄暗く、赤松一族がここで自刃したという史実の影響もあって、かなり不気味な雰囲気。

イメージ 30
▲赤松一族の供養碑

 D群は、C群とE群のある主峰に挟まれた山の鞍部に立地する郭群で、現在最も多くの郭群が発見されている。
(中略)
また、城郭の中心的な位置にあり、地形の許す限り郭は相接して並んでいるので、兵舎や倉庫群であろうと推察される。

(出典:「<新宮町文化財調査報告10>城山城」新宮町教育委員会 1988 p47)

地図内で「屋敷跡・供養碑」と書かれた青丸で囲まれている範囲には、屋敷跡とされる広い郭(井戸跡もある)や供養碑があります。

D群では、下の画像の道標を探してみて下さい。

これに従ってE群のあるピークに向かうと、腰郭のような細い平坦な場所を抜けた先で、礎石が並ぶ郭を見られます。

イメージ 31
▲礎石建造物址の位置を示す道標

 E群は、3つの主峰のうち最南端の標高446.2mの峰に設けられた郭群で、山頂を取り巻く二重の腰郭とその間に配された郭群で構成されている。

(出典:「<新宮町文化財調査報告10>城山城」新宮町教育委員会 1988 p47)

12:56
礎石建造物址のある郭跡に来ました(地図中「礎石建造物址」)。

イメージ 32
▲礎石建造物址

この郭の先にも往時の通路と思われる道が残っているので、ぐるっと回り込んで東端の郭跡も見学しました。

というのも、もし展望が良ければそこで昼食を食べようと思ったからです。
残念ながら、木々が生い茂っていて展望が得られなかったので、昼食休憩は先送り。

先ほどの「礎石建造物址」を示す道標まで戻り、道標の別の面に書かれた「下野田へ」の矢印に従って「兵糧道(ひょうろうみち)」と呼ばれるルートで下山を開始することにしました。

まだF群の郭を見ていませんが、F群は実際に見に行かなくても、兵糧道を下りながら見上げることが出来るのです。(お腹が空いて早くご飯を食べたかったので、F群を見に行くのが面倒になったというのは秘密です。)

 F群は、南から尾根伝いに攻めてくる敵兵と、下野田から「兵糧道」を登ってくる敵兵の両方に対する防御施設である。

(出典:「<新宮町文化財調査報告10>城山城」新宮町教育委員会 1988 p48)

イメージ 33
▲兵糧道の様子(F群の直下)写真には写っていませんが、右を見上げるとF群の郭が見えます。

木々を通して見上げるF群の郭は、いざ戦闘となった場合は兵糧道にいる自分が格好の的になることがよく分かる恐ろしい配置になっています。

射程の短い弓矢であっても、打ち下ろしであれば飛距離と威力を稼げますし、城兵からは、兵糧道を上がってくる敵兵が丸見えです。それなのに、兵糧道からはF群の郭の縁しか見えません。

まだお昼ご飯を食べていませんが、もう少しの辛抱です。
兵糧道には、見張り岩と呼ばれる、いかにも展望の良さそうなスポットがあるらしいことを事前に調べていたので、そこに着くまで我慢。

イメージ 34
▲見張り岩までの兵糧道の様子

忘れっぽい私のことなので、見張り岩の正確な位置が書かれた地図を持ってくるのを見事に忘れていました。

13:16
「見張り岩はどこだー」と独り言を言いながら沢沿いの道を下っていると、突然視界が開けました。
見張り岩に到着したのです(地図中「見張り岩」)。

イメージ 35
▲見張り岩

狭い岩場ですが、他に誰もいないので荷物を広げても大丈夫そうですし、これだけ景色が楽しめれば充分です。

本日のメニューは、日清のカレーメシ。
断熱性のあるカップに入っているので、寒い冬の山の中でも、暖かい状態で長時間楽しめます。

イメージ 36
▲本日の昼食

アルミやチタンのクッカーで作った食べ物は、冬場はすぐに冷めてしまうので苦手。
冬は、カップ麺のような断熱性能の高い容器に入った食事が最適です。

13:43
下山再開。

いったん南へ進みますが、すぐに北へ向きを変え、東西に延びる谷筋に突き当たります。

13:47
谷筋には表面が金属板で覆われた丸太橋がかかっていて、それで沢を越えました(地図中「金属橋(1)」)。

この場所は、北側斜面に石積みが残っています。
視線をかなり上げないと見えませんが、城跡好きの方は見落とさないようにして下さい。(城跡に関係のある石積みなのかどうかも分かりませんが。)

ここからは谷筋に沿って東へ下るのですが、路面がガレガレでとにかく歩きづらい。
落ち葉と浮き石の最強コンビに足を取られます。

足下に注意しながら歩いていたら、こんな遺構に出会えました。

イメージ 37
▲階段状に積まれた石

14:02
また金属板で覆われた橋に出会いました(地図中「金属橋(2)」)。

イメージ 38
▲表面に金属板が張られた丸太橋

イメージ 45
▲兵糧道の様子(振り返って撮影)

14:06
3つめの金属橋を通過(地図中「金属橋(3)」)。

標高150mを切ったあたりからは、道が沢から離れて多少歩きやすくなってきます。

14:13
右手に砂防ダムを見ながらどんどん下ります(地図中「砂防ダム」)。

14:15
石積みや削平地を右手に見ながら下っていくと、防獣ゲートに出会いました。
大きな扉を開閉しなくても済むように、人が通れる扉が付けられているのが珍しい。

ようやく下山完了です。

イメージ 39
▲兵糧道の登山口となる防獣ゲート(人が通るための扉があるので、開閉が楽)

14:18
防獣ゲートを出ると、左側に石垣が見えました。
よくみると、神社の跡のようです。

防獣ゲートの手前で石積みや削平地を見ましたが、この神社跡に関連するものなのかな。

イメージ 40
▲神社跡

後は駐車場に戻るだけ。

兵糧道の登山口からコンクリートの橋を渡って南へ進むと、橋(下野田橋)があります。
下野田橋で栗栖川を渡り、1車線幅の車道を川沿いにおよそ800m北進すれば、馬立橋。

イメージ 41
▲馬立橋へ続く道の様子

馬立橋から駐車場までの残りの距離は、およそ700mです。

14:41
駐車場に到着。

本日はF群を除く城山城の全体を見て回ったことになりますが、規模は次のようなものです。

 現在確認されている郭群は以上の通りであるが、城山城の主たる郭群は南北550m、東西250mの範囲に分布していることになり、さらに北の出城や南側の番小屋的なものも含めると、その城域は実に南北2km以上に及ぶ広大なものとなる。

(出典:「<新宮町文化財調査報告10>城山城」新宮町教育委員会 1988 p49)

イメージ 47
▲本日歩いた山塊を、東側の屏風岩上部から撮影した写真(撮影日:2016年12月17日)(マウスポインタを合わせたとき右下に表示される虫眼鏡のアイコンをクリックすると拡大表示されます。)

イメージ 42
▲本日のルートの断面図(マウスポインタを合わせたとき右下に表示される虫眼鏡のアイコンをクリックすると拡大表示されます。)


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本日は、2014年1月5日に一度登り、展望の良さや山城跡らしさを満喫できるという理由で好きになった鶴居(つるい)城山に再度登ってきました。

山頂(主郭跡)で展望を楽しみながらのんびり昼食を食べることと、ドローンを飛ばして空中パノラマ写真を撮るのが目的です。

鶴居城については、稲荷山城として「都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻」に記載があります。

【城史】『播磨鑑』には「城主は永良則縄、広瀬遠江守師範の子也」とあるに対し『日本城郭全集』には「城主は永良近江守雅親で広瀬孫四郎親茂の子、宍粟郡長水城主の末で、永禄3年(1560)10月13日卒した」とある。『神埼郡史』にはこの両方の記載を合せて「城主は赤松氏幕下永良則縄、広瀬遠江守師範の子遠江守雅親で甘地村谷城を兼有していた。広瀬氏はまた宍粟郡長水城主であったが移封されてこの地に来た。本城は又一名鶴居城とも呼び、永禄3年10月雅親卒して後絶えた」とある。 

 出典:都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻 P223 
   兵庫県教育委員会・和歌山県教育委員会編 2003年4月30日発行 ISBN4-88721-446-4

イメージ 1
▲対応する地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「寺前」。(マウスポインタを合わせたとき右下に表示される虫眼鏡のアイコンをクリックすると拡大表示されます)

09:55
姫路市街の自宅を車で出発。

国道312号線を北上し「屋形南」交差点を左折して市川を渡り、播但線の線路を越えて200mほど西へ進んだところにある三叉路を右折します。

700mほど道なりに北へ進んだところにある交差点を左折し、250mほど西進して丁字路に突き当たったらまた左折。
130mほど南に進むと道は直進と右折に分かれますが、ここを右折。
そして200mほど西へ進むと、登山口の看板がある墓地の駐車場にたどり着きます。

下のURLをクリックすると、鶴居城山登山口の駐車場の位置がGoogleマップで表示されます。
地図画面では道路が途切れているように見えても、実際は続いていたりするので、航空写真に切り換えて見ることをお勧めします。


道がややこしいので、事前にGoogleマップで充分に予習しておくことをお勧めします。
国道312号線を離れてから集落内を通る道は、大半が一車線幅しかありません。

下のURLをクリックすると、今回私が車でたどったルートが表示されます。


10:50
駐車場に到着(地図中「P」)。

この駐車場は、本来は墓地にお参りをする人のためのものですが、ハイキングコースマップも立っていて、ハイカーが車を置いても問題なさそうです。

イメージ 2
▲駐車場のある墓地の入口(鶴居城山の頂上が右上に写っている)

イメージ 3
▲駐車場入口に立つハイキングコースマップ

10:58
準備を整えて出発。
墓地を左に見ながら、廃墟のような建物(地形図にも記載あり)の間を抜けて西へ進みます。

イメージ 4
▲廃墟のような建物の間を西へ進む

11:01
間もなく防獣ゲートに出会いますが、そのゲートが登山道の入口。

ゲートの扉は格子になっていますが、右側の中央付近だけ格子が広くなっていて、そこから反対側に手を入れて掛けがねをはずし、それから扉の右側を押すと開くようになっています。

扉からはヒモが伸びていて、その先におもりが付いているため、手を離すと勝手に閉じるようになっているのが面白い。

イメージ 5
▲登山道入口の防獣ゲート

ゲートの先で登山道は左(南より)に向きを変え、すぐに尾根に乗ります。

道標によると、登山道は登山口から鶴居城の主郭(しゅかく。本丸のこと。)跡までがちょうど1000m。
登山道には100mおきに距離を記した道標が立っているので、「いつになったら山頂に着くんだ」等と考えながら歩く必要はありません。

イメージ 6
▲登山口から100m、山頂まで900m地点の道標と道の様子

麓に近い尾根は幅が広く、登山道と平行して溝状の道の跡(?)もあります。
その溝状の部分には、私が気づいた限りでは2箇所(標高170m付近)に石積みがありました。鶴居城の城戸跡等、城に関する遺構ならロマンがありますが、ほとんど崩れていないし、後世に作られた小規模な砂防ダム代わりの構造物か何かでしょう。

イメージ 7
▲尾根に残る石積み(下山時に撮影)

登山道の右側に、ロープ代わりに鎖が張られているのに出会ったら、間もなく登山口から200m(頂上まで800m)地点です。

登山口から300m(頂上まで700m)地点までは比較的なだらかな道ですが、その先でいったん斜度がきつくなり、登山口から400m地点付近から再びなだらかな道に戻ります。

イメージ 8
▲トラロープが張られたやや急な斜面の様子

11:19
四等三角点標石(点名:鶴居)に出会いました(地図中「四等三角点(点名:鶴居)」。
ここは登山口からの距離が500mで、頂上までの残距離も500m、つまりちょうど中間地点です。

ベンチがあるので、小休止に最適。

イメージ 9
▲四等三角点(点名:鶴居)周辺の様子

イメージ 10
▲四等三角点から東向きの展望

三角点の先で、また道は斜度を増します。

登山口から600m(頂上まで400m)地点を過ぎた辺りでは、左側にそうびろ山、七種槍、七種山の3つの山を一望出来る場所がありました。

私は三角点脇のベンチで休憩せず、七種の山々を見ながら立ったまま小休止。

イメージ 11
▲登山道から見た七種山塊(左はそうびろ山、中央は七種槍、右端は七種山)

登山口から700m(頂上まで300m)地点で尾根の斜度が強烈になるため、道は一旦右へ向きを変え、その後左向きになります。つまり、ジグザグにその急斜面を越えることになります。

地図内のGPS軌跡では、標高350m付近で軌跡がカギ型に折れ曲がっていますが、それがこの急斜面です。

登山口から800m(頂上まで200m)地点からは、尾根の西側に付けられた登山道から右を見上げると、削平地が並んでいる様子が見えてきます。

これらの削平地(郭跡)に直登するらしき道もありましたが、素直に登山道を歩いて上ることにしました。

イメージ 12
▲登山口から800m(頂上まで200m)地点の様子(右上に削平地が見える)

標高380〜390m付近で、登山道は再び尾根の中央を通るようになります。

11:32
登山道が尾根の中央に戻ってすぐ、道が右へ分岐する場所に出会いました(地図中「新道分岐」)。
右に分かれる新道は「北コース」と呼ばれるルートで、東に伸びる尾根を通って東へ下山するルートです。
頂上へ行くには、この分岐を直進します。

新道の入口に丸太が置かれているのが気になりました。通行止めという意思表示なのかな。
あるいは、頂上を目指す人が誤って入り込まないように注意を促すためのものかな。

イメージ 13
▲新道分岐の様子

この新道分岐ですが、土塁と石積みが残る郭跡があります。

イメージ 14
▲新道分岐にある郭跡(左上に石積み、右下は土塁跡)

新道分岐から先はまた道が尾根の西側にずれます。

左側に鹿除けネットを見ながら登ると、すぐに道は尾根の中央付近に戻りますが、その付近からは階段状に並ぶ小規模な郭群の中を右に左に歩くことになります。
普通のハイカーにとっては「変な道」かも知れませんが、山城好きな方には良い道かも。

イメージ 15
▲登山口から900m(頂上まで100m)地点の様子(奥の断崖は郭の切岸)

11:40
鶴居城山の頂上に到着(地図中「鶴居城山」)。

頂上はかつて鶴居城の主郭(本丸)があった場所で、広い平坦地になっています。

イメージ 16
▲鶴居城山の頂上の様子

前回(2014年1月)来たときにはなかった旗竿が立っていました。

イメージ 17
▲山頂に立つ旗竿(株式会社サンポール製。途中で分割出来る構造になっている。)
鶴居城山山頂で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2014年1月5日)

https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/tsurui20140105/virtualtour.html
まだ昼食には少し早いので、バッテリー1本分ほどドローンを飛ばし、鶴居城山をドローンからの視点でじっくり楽しみました。

イメージ 18
▲七種山塊を背景に、鶴居城山山頂をドローンで撮影した画像(矢印の位置に私が立っています)

そうこうしているうちにお腹が空いてきたので、昼食の準備に取りかかりましょう。

本日のメニューは、モンベルのガーリックリゾッタと、それを炒飯に見立ててスープ代わりに飲もうと思って用意したマルちゃんのワンタン。

イメージ 19
▲本日の昼食

山頂には椅子付きのテーブルがあるので、そこで食事をしましたが、これは快適。
しかも、私以外に誰もいないので、この贅沢な空間は独り占め。

イメージ 20
▲山頂のテーブル

食事という本日の1つめの目的は果たしたので、2つめの目的である空中パノラマ写真の撮影に挑戦。
私が使っているドローン「Mavic Pro」は、最近のファームウェアアップデートによりパノラマ撮影に対応したのです。

2本目のバッテリーに交換した後にドローンを発進させたら、山頂の木よりも少し高い位置にドローンをホバリングさせ、パノラマ撮影を開始。

といっても、ボタンを押すだけです。
後はドローンが勝手に機体とカメラの向きを変えて写真を次々と撮影していきます。
何の操作もしなくても、一人でくるくる回りながら写真を撮る姿がかわいい。

出来上がったパノラマはこちら。(カメラを真上に向けることが出来ないため、上は見られないようになっています)
鶴居城跡(主郭上空)で撮影した空撮パノラマ(撮影日:2017年12月30日)

https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/tsuruijo_aerial20171230/virtualtour.html
13:00
2つの目的を果たし、充分に贅沢な時間を過ごせたので、下山開始。

往路をそのまま引き返して下山しました。

13:32
駐車場に到着。

14:30
自宅に到着。


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概要

先日、ドローン(Mavic Pro)を操縦するときに使用するスマートグラス(Epson BT-300)を紹介しましたが、あれを使うときには一つだけ問題があります。

それは、BT-300のコントローラーを保持する方法。

私の場合、当初はBT-300のコントローラーにあるストラップホールを利用し、ネックストラップで首からぶら下げていました。

しかし、首からぶら下げるには結構重いですし、いざ操作しようと思ったら裏表がひっくり返っていたり、(原則として目視でドローンを操縦しないといけないので)ドローンの飛行中、ドローンを見やすい位置に自分が移動する際に揺れて胸元にガンガン当たったりしてストレスたっぷりです。

「他のMavicユーザーはどうやってBT-300のコントローラーを安全に保持しているんだろう?」と思って検索すると、海外のユーザーは何やら専用のマウントでコントローラーをMavicの送信機に固定している様子。

非常に使いやすそうだったため、どこで手に入るのか探し回った結果、趣味で作った品物を愛好家が出品しているオンラインショッピングサイト「Etsy」で見つけました。

イメージ 1
▲Epson Moverio BT-300 DJI Mavic mount

製品名: Epson Moverio BT-300 DJI Mavic mount by Luc Mahieux
メーカー: VEGATRONFPV(アメリカ)
生産国: アメリカ
重量: 90g
購入価格: ¥2,762
購入元: Etsy(etsy.com)

概要

大ヒットしたドローンMavic Proの送信機に取り付ける専用マウントで、Epsonのスマートグラス「BT-300」のコントローラー部分を送信機に取り付けられます。

イメージ 2
▲BT-300のコントローラー部分をセットした様子

3Dプリンタで出力されたことがよくわかる外観で、所々にバリもありますが、使用には全く問題ありません。

Epson Moverio BT-300 DJI Mavic mountという名前は長いので、以下単にマウントと呼びます。

イメージ 3
▲マウント裏面の様子

使い方

Mavic Proの送信機のアームを広げ、このマウントを挟み込みます。

イメージ 4
▲Mavic Proの送信機にマウントを取り付けた様子

その後、BT-300のコントローラーをマウントにはめ込みます。
(先にコントローラーをマウントにはめ込んでからMavicの送信機に取り付けても、どちらでも問題ありません)

マウントの寸法は絶妙で、無理に押し込まなくてもするっとはまり、コントローラーが傷つく心配がありません。
かといって緩すぎず、脱落する心配もなさそう。

イメージ 5
▲Mavic Proの送信機にマウントとコントローラーをセットした様子(実際の利用時は、コントローラーとスマートグラスを接続するケーブルと、Mavic Proの送信機とコントローラーの通信用USBケーブルが挿さります)

Mavic Proを持っている方なら、この手のマウントを取り付けるときに気になる点があると思います。
それは、左側のアームにあるスマホ接続用のケーブルの扱い。

イメージ 6
▲Mavic Proの送信機左側のアームには、送信機とスマホを接続するための端子がある(矢印で示した部分)

イメージ 7
▲左アームの内側に飛び出している端子(矢印で示した部分)

アームの内側にスマホと接続するための端子が出っ張っているため、スマホ以外のものを挟むときは本来ケーブルを取り外す必要があるのですが、このマウントはその点もよく考えられています。

下の画像を見て下さい。
プラグを納めるための穴が開けられているのです。

いちいちスマホ接続用のケーブルを取り外さなくても良いのは、非常にありがたい。

イメージ 8
▲マウントに開けられている穴(矢印で示した部分)

ドローンを操縦するときは、下の写真のようになります。
これなら、Mavicの送信機の操作に何の支障もありませんし、ピントを合わせる位置を選ぶ際などBT-300のコントローラーの操作も楽々。

イメージ 9
▲Mavic Proを操縦するときの状態(実際の利用時は、本体とスマートグラスを接続するケーブルと、Mavic Proの送信機とコントローラーの通信用USBケーブルが挿さります)

ちなみに、このマウントを使う場合に最適なUSBケーブルは、長さ20cmのもの。
下の画像の通り、長すぎず短すぎず、絶妙な長さです。

ここに写っているケーブルはELECOMのU2C-DAMB02BKという製品で、ケーブルは直径2.5mmでパッケージによると「極細」、USB-Aコネクタは向きを気にせず挿せる「両面」タイプ。

イメージ 10
▲送信機とBT-300のコントローラーを20cmのUSBケーブルで接続した様子(表面)

イメージ 11
▲送信機とBT-300のコントローラーを20cmのUSBケーブルで接続した様子(裏面)

最後に

こんなに便利な商品なのに、私が探した限りでは日本国内でこれを販売しているところは見つかりませんでした。

実は、このマウントと似たようなマウントの3DデータがWebで公開されています(興味のある方は、大量の3Dデータが公開されているThingiverse内で検索してみて下さい)。

当初は、3Dデータを送ると3Dプリンタで出力してくれるサービスを使おうと思いましたが、どこも高い!
かといって自分で3Dプリンタを買うのはもっとバカバカしいので、Etsyでアメリカの出品者から買ったわけです。

Mavic ProとBT-300の組み合わせを使っている方で、海外通販が苦にならない方は、試してみてはいかがでしょう。

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はじめに(書庫内の全記事共通)

私が住む姫路市には、世界に誇る文化遺産、姫路城が聳えています。

その姫路城の美しい姿を眺めるのにふさわしい場所で、「誰でも自由に行ける」「お城を取り巻く方向にある」という条件を満たす場所を1994年に姫路市が公募し、1995年1月号の「広報ひめじ」で「世界遺産姫路城十景」が発表されました。

ブログに載せるネタが少ない時期の「埋め草(うめくさ:とりあえず余白を埋めるためのネタ)」として、この世界遺産姫路城十景を全10回のシリーズ(不定期)で紹介していくことにします。

前述の「広報ひめじ」では、世界遺産姫路城十景(以下「姫路城十景」)には番号が振られていないのですが、それぞれの場所に立つ看板では、姫路城十景が番号とともに記載されているので、その番号順に紹介することにしましょう。

姫路城十景
 (1)大手前通り(JR姫路駅前)
 (2)三の丸広場
 (3)城見台公園
 (4)美術館(前庭)
 (5)シロトピア記念公園(ふるさとの森)
 (6)男山配水池公園(山頂)
 (7)景福寺公園
 (8)名古山霊苑高台
 (9)手柄山(緑の相談所広場)
 (10)増位山(白国増位山線のポケットパーク)

(出典:姫路城十景の各地点に設置されている看板)

姫路城十景「景福寺公園」の概要

景福寺は、「けいふくじ」と読みます。

この場所は、何十年も前の話ですが、ホテル・ロンドンというラブホテルが建っていた場所です。
そのホテルの廃業後、誰もいないはずの建物で何故か火災が起こり、その後永らく廃墟が残っていました。

燃えたのは廃業後のはずですが、火事で焼け死んだ人の霊が出るという根も葉もない噂が私達小学生の間に広まっていたのを覚えています。

そういった不気味なイメージが定着していたため、一部の廃墟マニアやホームレスを除いて誰も近づこうとしなかった場所でしたが、今ではホテル・ロンドンは跡形もなく、公園になっています。

景福寺公園
景福寺公園は、平成6年3月31日に都市公園として一部供用を開始し歴史的にも由緒ある景福寺山にあります。景福寺山は播磨風土記の十四の丘の一つである「船丘」がこの山であると推定されています。その後西岸寺山・孝顕寺山・嵐山・郡鷺山などと呼ばれてきましたが、山下の寺が景福寺となってから今のように呼ぶようになりました。
(出典:景福寺公園にある姫路城十景のプレート。ただし、現場のプレートは破損していて文章が読めないため、Webで検索して見つけた文章を載せています。)

イメージ 1
▲景福寺公園の展望広場にある姫路城十景のプレート(下のリンクのGoogleマップで表示されるポインターの位置にあります)(撮影日:2016/08/12)

この公園のある景福寺山は、山全体が墓地と言ってもいいほどで、新しい物から古い物(何百年も前のもの)まで、様々なお墓があります。

すっかり荒れ果ててはいますが、山頂には1741〜1748まで姫路城主を務めた松平明矩(あきのり)のお墓もあります。

2011年に撮影したパノラマがあるので、掲載しておきます。
五輪塔が後ろにあるのですが、撮影した場所が悪かったので写っていません。

このときは墓所へのルートが分からず、藪をこいでたどり着きました。
景福寺山の山頂にある松平明矩の墓所で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2011/05/01)

https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/grave_of_matsudaira_akinori/virtualtour.html

姫路城十景「景福寺公園」の位置

姫路城の大天守から見ると直線距離で西へ約700mほど、標高50mほどの小さな山(景福寺山)の中腹、東側の公園からお城を眺めることが出来ます。

お城を眺められる展望広場へは、2通りの行き方があります。

(1)公園の入口から簡易舗装の急な坂道(車が通れるほどの幅はあるが、車止めがあって車両は入れない)を西へ登り切り、そこからUターン気味に折り返してお花見広場を突っ切る

(2)坂道の途中から丸太階段の道を上って直接展望広場へ行く

イメージ 2
▲景福寺公園の入口(撮影日:2016/04/02)中央の建物の向こうで右に曲がると、公園への道に入る。

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▲展望広場へ続く簡易舗装の道(撮影日:2016/08/12)

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▲展望広場(撮影日:2016/08/12)

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▲展望広場への最短ルートである丸太階段(撮影日:2016/08/12)

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▲丸太階段を使わない場合に通り抜けることになるお花見広場(撮影日:2016/04/02)

駅からはかなり距離があり、後述のループバスの「清水橋・文学館前」バス停から600m以上、最寄りの「好古園前」バス停からでも公園の入口まで400m以上歩く必要があります。

以下のURLをクリックすると、Googleマップで景福寺公園の展望広場(姫路城十景のプレートがある)の位置が表示されます。


ループバスのバス停からは離れていますが、普通の路線バスのバス停(市之橋文学館前)は、公園のすぐ下にあります。

姫路城十景「景福寺公園」から見た姫路城

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▲景福寺公園の展望広場から姫路城を見る(撮影日:2016/04/02)

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▲景福寺公園から見た姫路城(撮影日:2016/04/02)

幕末に起こった戊辰戦争の際は、幕府側についていた姫路藩に開城を要求するため、岡山藩がこの景福寺山から姫路城に向けて大砲を放ったと言われています。

姫路城十景「景福寺公園」周辺の見所

山頂にある松平明矩のお墓も、好きな人にとっては見所にはなると思うのですが、(今はどうなっているか分かりませんが)当時は道がはっきりしておらず、私は適当に藪の中をウロウロして探しましたので、よほど山歩きが好きな人でないとお勧めできません。

さらに言うと、フェンスがあって公園から景福寺山に直接入るのは難しい状態です。

レンタサイクルで来られた方であれば、景福寺山の南麓にある景福寺を見に行かれてはいかがでしょうか。

以下のURLをクリックすると、Googleマップで景福寺の位置が表示されます。


イメージ 9
▲景福寺の入口(撮影日:2016/08/12)

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▲景福寺山門(撮影日:2016/08/12)

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▲景福寺本堂(撮影日:2016/08/12)

景福寺
 摂津多田庄六瀬(現猪名川町杉生)に総持寺五世通幻寂霊を開山として応安2年(1369)創建。山号瑞松(ずいしょう)山、曹洞宗。
 天正年間、十一世大桂宗易が播磨阿閇庄古向(現播磨町の福勝寺)に移転、さらに慶長5年(1600)池田輝政家臣荒尾隆重の懇請により姫路城下坂田町に景福寺を建立、池田市の転封により岡山・鳥取にも景福寺が建立され六瀬・姫路とともに世に四景福という。元禄9年(1696)曹洞宗中本山。
 寛延2年(1749)結城松平朝矩が前橋転封とともに当地にあった孝顕寺も前橋に移転。かわって酒井忠恭が前橋から姫路に入封。宝暦4年(1754)坂田町にあった曹洞宗景福寺を当地に移転して国許の菩提寺とした。姫路藩酒井家五代忠学正室喜代姫をはじめとする墓石等がある。(酒井家歴代藩主の墓石は前橋龍海院)
 また山門金剛力士像一対は鎌倉期の寄木造・彫眼、庫裏の阿弥陀如来立像及び両脇侍菩薩立像は鎌倉期の銅造・彫眼、座禅堂の聖観音立像は鎌倉中期の檜の割矧造・玉眼、本堂内に貞享2年(1685)模造朝鮮鐘、本堂北に藩主墓参控所などがある。現本堂は姫路城大手門などの設計を行い近代和風建築者として著名な藤原義一氏が昭和37年に設計したもの。
 慶応4年(1868)戊辰戦争により備前藩は当寺に陣をおき景福寺山上より城に大小砲を放ち姫路城は開城となった。明治11年(1878)境内に姫路中学校(現県立姫路西高等学校)が開校、第一次世界大戦時には建物の一部が陸軍省の俘虜収容所に借上となったこともある。背後の景福寺山には結城松平明矩墓所や幕末姫路城開城にあたった亀山雲平墓石をはじめとする墓石群があり、景福寺山史跡保存会が調査・整備を行った。
 平成28年3月
  姫路市教育委員会
  姫路市文化財保護協会
(出典:現地の案内板)

第一次大戦中、景福寺に収容されていた俘虜(捕虜)の数は、「陸軍省受領 欧受第1965号 大正3年12月10日 十経管甲第85号」と題された文書によると、以下の通りです。

景福寺

 収容人員: 下士官以下 150名
 使用畳数: 300
 借家料月額: 90円
(出典:陸軍省受領 欧受第1965号 大正3年12月10日 十経管甲第85号)


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▲姫路藩主酒井家墓所(幼稚園の敷地内にあり、立入禁止のため幼稚園のゲート外側から撮影。奥が東。手前端の五輪塔と手前端の円頂方形型墓碑は写っていません。)(撮影日:2016/08/12)

姫路藩主酒井家墓所
五輪塔型三基は東から
 姫路藩酒井家五代忠学(ただのり)正室の喜代姫(将軍家斉二十五女、文政元年(1818)7月8日生、明治元年(1868)12月24日没)
 六代忠宝(ただとみ)正室の喜曾姫(喜代姫女、天保5年(1834)3月2日生、明治3年(1870)4月9日没)
 八代忠績(ただしげ)の正室婉姫(信州飯山藩主本多助賢(すけとし)女、文政9年(1826)生、慶応3年(1867)7月8日没)
円頂方形型六基は東から
 初代忠恭(ただずみ)十男の駉之助(まきのすけ)(宝暦6年(1756)12月2日生、同11年5月6日没)、
 忠恭六女の与曾(寛延3年(1750)11月15日生、同年12月5日没)、
 五代忠学二女で忠宝の養女の鎚(天保元年(1830)7月9日生、同3年11月8日没)
 忠学三女で忠宝の養女の紓(天保2年(1831)8月15日生、同年11月27日没)、
 八代忠績長女の鋋(文久2年(1862)9月27日生、同3年6月27日没)
 忠恭九女(宝暦4年(1754)5月23日生、同月25日没)
  平成23年3月 姫路市教育委員会
(出典:現地の案内板)

上の酒井家墓所のある幼稚園には、タコの山と呼ばれるちょっと変わったタイプの滑り台があります。
私はここの園児だったので、このタコの山を見ると懐かしくなります。色が塗り直されている点以外は、当時と全く変わっていません。

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▲タコの山(撮影日:2016/08/12)

景福寺の近くには、城下町で稀に見られるノコギリの刃状に家が建ち並ぶ地割りが見られます。
Googleマップでもその形が描かれているほど。

このような特殊な地割りになっている理由は諸説ありますが、正確には分かっていないようです。

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▲ノコギリの刃のように両端がギザギザになっている道(撮影日:2016/08/12)

以下のURLをクリックすると、Googleマップでノコギリの刃状に家が並ぶ場所が表示されます。


レンタサイクルを使っていたり、歩くのが苦にならないという方は、景福寺から南南西に直線距離で約400mの位置にある船場本徳寺に行かれても良いでしょう。

地元住民に「御坊さん」と呼ばれて親しまれているお寺です。

以下のURLをクリックすると、Googleマップで船場本徳寺の表門の位置が表示されます。


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▲船場本徳寺の本堂(撮影日:2016/08/28)

 船場本徳寺(地内町)真宗大谷派姫路船場別院本徳寺。本徳寺は、明応年間(1492〜1501)に本願寺中興の祖である蓮如上人が英賀に道場を開いたことを開基とする。その後、播磨の浄土真宗布教の拠点となり、永正9年(1512)に本願寺留守職(門首)実如(蓮如の孫)の子実円が入寺し本格的な伽藍を建立した。天正10年(1582)、羽柴秀吉の命で亀山(現在の亀山本徳寺の地)に移築された。その後、本願寺の東西分派、本願寺派(西本願寺)への転派などの変遷を経て、元和3年(1617)、播磨における大谷派(東本願寺)の再興のため、姫路城手本多忠政より百間四方の土地(船場)と旧池田家菩提寺国清寺の建物を与えられ、翌年ここ地内町に船場本徳寺が建立された。
 寛文3年(1663)に東本願寺より「船場御坊」の称号を付与され、享保3年(1718)に現存する本堂が落成したと伝わる。
 境内には明治18年(1885)に明治天皇が山陽道巡幸中に休憩された「行在所」や第一次世界大戦時にドイツ人捕虜が故郷を偲んで造ったと伝わる城の彫刻がある。
(出典:現地の看板)

ここに収容されていたドイツ兵は、以下の文書によると160名だったようです。

本徳寺
 収容人員: 准士官以下 160名
 使用畳数: 356
 借家料月額: 100円
 (出典:陸軍省受領 欧受第1965号 大正3年12月10日 十経管甲第85号)

行在所や城の彫刻は、本堂の北西にあります。
本堂に向かって右側に渡り廊下があるのですが、その下をくぐって西へ進んだ所にあります。

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▲船場本徳寺本堂の北西に残る明治天皇行在所(撮影日:2016/08/28)内部非公開

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▲船場本徳寺本堂の西に残る、ドイツ人捕虜による城の彫刻(撮影日:2016/08/28)

船場本徳寺は夕方4時頃には門が閉まってしまうので、見に行かれる場合は時間に注意してください。

参考情報

JR姫路駅の中央改札を出て右前にある観光案内所では、レンタサイクルを借りることが出来ます。

また、姫路駅周辺には「姫ちゃり」というレンタサイク制度もあります。

姫路駅周辺から少し離れた場所を見に行ったり、お城や好古園、美術館、博物館などを気軽に見て回りたいという方には、レンタサイクルがお勧めです。

雨が降っていたり、複数人で観光する場合は、姫路駅〜姫路城〜美術館・博物館〜文学館〜好古園〜姫路駅という、姫路城の周囲を反時計回りに周回する「城周辺観光ループバス」も便利。
姫路駅前のループバス乗り場は、姫路駅北口を出て歩行者用信号を渡ってすぐの交番脇にあります。

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▲ループバスの走行ルート(赤線)とバス停(青丸) 地図内の丸数字は、姫路城十景の位置を表しています。(番号は、冒頭のリストに対応)拡大表示できます。

安価(1日乗車券がおとな一人¥300)で姫路城周辺の観光地を回ることが出来ます。

平日は1時間あたり2便しかありませんが、土日祝祭日は10時台〜14時台の間だけ1時間あたり4便が運行されています(注:記事執筆時点の情報です)。

姫路城十景「景福寺公園」の評価(5点満点。私、しみけんの個人的見解です)

交通アクセス: 3(公共交通機関での利便性)
お城の見え方: 4(お城の美しさや大きさ)
お勧め度: 2
コメント: 荒れた公園なので、あまりお勧めできません。夏場は蚊や雑草が多いので、行かれるなら涼しい時期に挑戦してみて下さい。数は少ないですが桜の木が植わっているので、春がお勧めです。

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