夢亥小説創庫・「芙美湖葬送」「童女トン」「老病死工場の白い雲」他

82歳・置き土産小説・評伝・・・「あいつが死んだ」「銀河を掃いた少年」「ぶーげらと二十紋の足袋」他

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 夜明けから、急に気温が下がりはじめた。
 明け方には霧が病院全体を覆っていた。乳白色の霧が陰湿な病院の外壁を少しだけロマンテイックに塗り替えている。
 私が立っている最上階の病棟洗面所からは、普段は付属看護学校棟が見えるのに、その朝は、何も見えなかった。
 かすかに建物の存在を感ずるだけである。

 昨夜はあれほどハッキリ見えた駐車場の車も、霧の中で霞んでいる。その中の一台で、娘の琳子夫婦が仮眠を取っているだろう。

 母親の命が、いま、まさに終わろうとしている。
 そのことを、娘夫婦に報せなければならないのに、わたしは、看護師の呼び出しを聞いた瞬間から、脚が床に凍り付いたように、踏み出すことが出来なくなっている。
 遅かれ早かれ、この瞬間が来ることは分かっていた。
 それなりに心の準備はしてきた筈である。
 それが何故今なのか。

 洗面所に来る前に妻は、安らかな寝息を立てていた。久しぶりに落ち着いた呼吸である。
 記憶する限り、個室に移され、面会謝絶の札がつけられてから、最も安定した呼吸に思えた。
 なのに、看護師からマイクで呼び出された。
 その声の感じから、のっぴきならぬ事態が進行していることは間違いなかった。

 来るべきものが来た、と思った。
 にも関わらず私には、緊迫した感情は湧かなかった。
 なにか他人事のような感覚すらある。
 それなのに、脚は床に吸いついたように離れない。

 出来ていたはずの、心の準備とは、いったい何だったのか。

 思えば妻が好きで、何回か行った湖畔の宿も、いつもこんな風に霧に包まれていた。
 そんな、今おきている事態とは、なんの関係もない遠い昔の光景を思い起こしていた。
 あの時も湖畔を渡る風が、霧をどんどん運んできた。
 山の緑も、宿の赤い屋根も、すべて白く包み込んでしまった。

 乳白色の霧が、現世の激しい色合い中和した。たぶん死とは闇ではなく、霧のような世界だろう。ふとそんなことを思った。
 白い霧は生々しい現実的な色合いを全て白く変えてしまう。
 その捕らえ所のない空間の何処かに、異相への扉が開いているに違いない。そこから入ってしまえば、人は永遠に現世には戻ってはこられない。

 死とはその先にある薄明の世界だろう。
 そんな白い別世界への扉が、あの霧の何処かにある。いまその入り口で、妻は私を振り返っている。
 戸惑っているようにも、現世への未練を断ち切ろうとしているかのようにも思える。

 妻が好んだ宿の裏も白く霞んでいた。
 そんな光景が妻には似つかわしい。そしていま、湖を好んで、自分の名前まで、芙美湖(フミコ)と読ませた妻も年老いて、長い病の末から起きあがり、永遠の旅に出ようとしている。
 その旅立ちのために開かれて白い扉が、この白い壁の、何処にあるだろう。それは芙美湖の為に用意された扉だろう。
 湖が好きだった少女が、年老いて思い出深い湖に帰えろうとしている。芙美湖という架空の湖も、彼女の死によって地球上から永遠に消えるだろう。
 
 その朝、芙美湖は、
 あんなに静かな寝息をたたえながら、
 安心して、やっと峠を越した、あとはゆっくり回復するだろうとの、私に期待を見事に裏切って、
 私が洗面所に立ったわずかな隙を見計らって、
 息を引き取った。

 その瞬間を見せたくなかったのだろう。 
 それが、せめてものの女の美学なら、

 それも致し方ない。

閉じる コメント(4)

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お悔やみ申しあげます。
落椿われならば急流へ落つ 鷹羽狩行

2012/12/27(木) 午後 4:24 [ 腑滋郎 ]

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有難うございます。

2013/1/15(火) 午前 11:33 [ dgr*j5*6 ]

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育ての父上の死をいまも ハッキリと覚えています。
ロスへも父の写真と一緒に参りました。
あこがれ続けて、やっと天から授かった父でした。
心が割れる音を聞きました。

愛情は生死を超えて 魂で響きあえるものだと、
信じて生きています。

時空を超えて 繫がっているものだと。
奥方さまは いつも見守ってくださっていると思います。

くれなひの ねがひの糸に 結ばれし。(合掌)

2013/7/19(金) 午前 9:43 [ mokeihiki ]

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有難うございます。

2013/7/20(土) 午後 8:59 [ dgr*j5*6 ]


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