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降圧剤を止めたとき、それで体調が悪くなり、死ぬならそれもいい、と思った。
死にたいとは思わなかったが、さりとて生きたいという欲求もなかった。その時の状況で、どうなっても構わないという、なかば諦観に似た感情があった。
ただせっかく作った墓だけは見て死にたいと思った。
ひょっとしたら墓の完成を待たずに死ぬのではないか。墓誌に、芙美湖と一緒に高齢の母まで朱で彫りこんである。縁起でもない、と娘に嫌な顔をされたが、結果的にそうなってしまうかも知れない。
墓が完成し、納骨を済ませてからは、娘に誘われても墓参は避けていた。気が滅入るからである。しかし春になって、簡単な花見を、墓の近くにある休憩所でやろうと婿に誘われた。
墓所の脇に、墓参客のための休憩所がある。丸いテーブルが幾つかしつられてある。そのテーブルには固定の木の椅子が取り付けある。
弁当を開くにはもってこいの場所だし、市営霊園だから、派手に賑あう花見客もいない。引きこもりがちになっている私を連れ出そうという婿殿の思いである。
断り切れないで結局行くことにした。
私は、台湾から引き揚げたた直後に父と妹を失っている。
その骨を、家族と一緒に葬りたいとかねがね思って来た。
亡くなったお爺ちゃんのためにも、早く墓を作って、死んだら、此処にみんなで眠ろうねと芙美湖はいつも語っていた。
芙美湖の体調がいい時は、何回か霊園に連れてきたことがある。まだ空き区画のままである。バブル崩壊後の不況で、なかなか墓を作る金を捻出できない。
そんな時、墓地の広さが六平方メートと広いことから、内密に権利を譲って欲しいという話が墓園業者を通じてあった。
その代わりに、三平方メートルの墓を、墓石工事込みて無料提供する、という話だった。
芙美湖がまだ外出できる頃だったので、車いすを積んでその霊園を見に出かけた。同じ市営ながら山の斜面を削った霊園である。
場所を見た途端、芙美湖の顔が曇った。
小さな声で、こんな寂しいところ嫌だわ、といった。
それ以来、芙美湖はあんな寂しい墓は嫌だと言い続けた。桜に囲まれた今の墓地に比べれば、確かに辺鄙な山奥にあったし、山の急斜面を削って作った墓は、見るからに暗く重い雰囲気だった。
墓とは、もともとそんなものだと云ったが、妻が頑としてあんな寂しいところには眠りたくないと云った。
戦後のどさくさ紛れに、死に、そのまま放置した形の父や妹のためにも、やはり芙美湖の云うように、明るい今の場所に作るべきだと思い直した。
そしてその墓が、芙美湖が死んでやっと出来上がった。芙美湖が掛けていた共済金に、子供や親戚の協力を得て、どうにか墓を作る資金を工面できた。
そしてその墓が出来たのは一年忌の前である。
私の体調は相変わらずだったが、無事に納骨を済まして、最初の春が来た。桜に囲まれた墓地が好きだったから、桜の花びらが舞う今の墓地を、きっと気に入っているだろう。
私は最初、外柵は白御影、新柱のみ「すりん」の黒御影で、重厚な雰囲気の墓を建てたいと話したが、芙美湖は
「どうせなら、桜御影がいいわ。雰囲気が温かいから」と注文をつけた。そのことを娘が思い出して、無理しても石は桜にすべきだと言い張った。
石の単価から計算して、予算をオーバーするが、結局は文子の思いと琳子の主張に引きずられるように桜御影に直前になって変更した。 しかも、草むしりをしないで済むように、外柵から一切を桜御影に変えた。
美湖が好んだように、墓地の桜に似合う総桜御影の温かい感じの墓に仕上がった。
墓の名称も、家名や家紋の下に小さく、「桜の墓所」と刻んだ。
墓と云うよりも、芙美湖が桜や鳥に囲まれて華やぐ花宴の墓所としたかったからだ。その桜の墓所に琳子と婿を伴ってやってきた。
墓地脇の墓参者のための休憩所には既に大きくなった桜が三本植えてある。その桜が満開である。その花びらが何枚も風に飛ばされて墓地に散っている。
その何枚かが、芙美湖の名前を彫りこんだ墓誌に張り付いている。 とつぜん娘が声を上げた。
「錯覚かしら。ママの声がしたみたい」
そして意味のないことを何か叫んだ。連れていた犬がけたたましく吠えた。動物らしい鋭敏な感覚で、なにか異常な気配を感じたのか、それとも風の悪戯か分からない。
ひょっとしたら娘が感じたように、芙美湖がそこに佇んでいたのかもしれない。
つづく
■引き続き書いております。
しかし、ブログには載せません。
縦書きと横書き、ブログ体裁と書籍体裁の書式が違うからです。
このままでは、中途半端なものになることを案じ、一旦全部書き上げることにしました。
書き上げてから、改めて掲載を考えます。
その間暫くお待ち下さい。
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