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小説「芙美湖葬送」

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 妻を看取ってから間もなく11年になる。
 
 最初に斃れたのはこんな熱い七月である。もともと橋元氏病を患っていたし、甲状腺ホルモンが極端に足らなくなったり過剰になったりしていたから体調にも波があった。
 その年は猛烈な暑さもあって、異常なまでに汗をかいていた。
 「みてよこの汗」
 
 不安を感じたのか妻は私を振り返った。
 その瞬間ぐらりと体が泳いだ。
 

(22) 桜の墓所

 降圧剤を止めたとき、それで体調が悪くなり、死ぬならそれもいい、と思った。
 死にたいとは思わなかったが、さりとて生きたいという欲求もなかった。その時の状況で、どうなっても構わないという、なかば諦観に似た感情があった。

 ただせっかく作った墓だけは見て死にたいと思った。
 ひょっとしたら墓の完成を待たずに死ぬのではないか。墓誌に、芙美湖と一緒に高齢の母まで朱で彫りこんである。縁起でもない、と娘に嫌な顔をされたが、結果的にそうなってしまうかも知れない。
 
 墓が完成し、納骨を済ませてからは、娘に誘われても墓参は避けていた。気が滅入るからである。しかし春になって、簡単な花見を、墓の近くにある休憩所でやろうと婿に誘われた。
 墓所の脇に、墓参客のための休憩所がある。丸いテーブルが幾つかしつられてある。そのテーブルには固定の木の椅子が取り付けある。
 弁当を開くにはもってこいの場所だし、市営霊園だから、派手に賑あう花見客もいない。引きこもりがちになっている私を連れ出そうという婿殿の思いである。
 断り切れないで結局行くことにした。

 私は、台湾から引き揚げたた直後に父と妹を失っている。
 その骨を、家族と一緒に葬りたいとかねがね思って来た。
 亡くなったお爺ちゃんのためにも、早く墓を作って、死んだら、此処にみんなで眠ろうねと芙美湖はいつも語っていた。

 芙美湖の体調がいい時は、何回か霊園に連れてきたことがある。まだ空き区画のままである。バブル崩壊後の不況で、なかなか墓を作る金を捻出できない。
 そんな時、墓地の広さが六平方メートと広いことから、内密に権利を譲って欲しいという話が墓園業者を通じてあった。
 その代わりに、三平方メートルの墓を、墓石工事込みて無料提供する、という話だった。
 芙美湖がまだ外出できる頃だったので、車いすを積んでその霊園を見に出かけた。同じ市営ながら山の斜面を削った霊園である。
 場所を見た途端、芙美湖の顔が曇った。
 小さな声で、こんな寂しいところ嫌だわ、といった。

 それ以来、芙美湖はあんな寂しい墓は嫌だと言い続けた。桜に囲まれた今の墓地に比べれば、確かに辺鄙な山奥にあったし、山の急斜面を削って作った墓は、見るからに暗く重い雰囲気だった。
 墓とは、もともとそんなものだと云ったが、妻が頑としてあんな寂しいところには眠りたくないと云った。
 戦後のどさくさ紛れに、死に、そのまま放置した形の父や妹のためにも、やはり芙美湖の云うように、明るい今の場所に作るべきだと思い直した。
 そしてその墓が、芙美湖が死んでやっと出来上がった。芙美湖が掛けていた共済金に、子供や親戚の協力を得て、どうにか墓を作る資金を工面できた。
 そしてその墓が出来たのは一年忌の前である。

 私の体調は相変わらずだったが、無事に納骨を済まして、最初の春が来た。桜に囲まれた墓地が好きだったから、桜の花びらが舞う今の墓地を、きっと気に入っているだろう。
 私は最初、外柵は白御影、新柱のみ「すりん」の黒御影で、重厚な雰囲気の墓を建てたいと話したが、芙美湖は
「どうせなら、桜御影がいいわ。雰囲気が温かいから」と注文をつけた。そのことを娘が思い出して、無理しても石は桜にすべきだと言い張った。
 石の単価から計算して、予算をオーバーするが、結局は文子の思いと琳子の主張に引きずられるように桜御影に直前になって変更した。 しかも、草むしりをしないで済むように、外柵から一切を桜御影に変えた。
 美湖が好んだように、墓地の桜に似合う総桜御影の温かい感じの墓に仕上がった。
 墓の名称も、家名や家紋の下に小さく、「桜の墓所」と刻んだ。

 墓と云うよりも、芙美湖が桜や鳥に囲まれて華やぐ花宴の墓所としたかったからだ。その桜の墓所に琳子と婿を伴ってやってきた。
 墓地脇の墓参者のための休憩所には既に大きくなった桜が三本植えてある。その桜が満開である。その花びらが何枚も風に飛ばされて墓地に散っている。

 その何枚かが、芙美湖の名前を彫りこんだ墓誌に張り付いている。 とつぜん娘が声を上げた。
「錯覚かしら。ママの声がしたみたい」
 そして意味のないことを何か叫んだ。連れていた犬がけたたましく吠えた。動物らしい鋭敏な感覚で、なにか異常な気配を感じたのか、それとも風の悪戯か分からない。
 ひょっとしたら娘が感じたように、芙美湖がそこに佇んでいたのかもしれない。


                       つづく




 ■引き続き書いております。
 しかし、ブログには載せません。
 縦書きと横書き、ブログ体裁と書籍体裁の書式が違うからです。
 このままでは、中途半端なものになることを案じ、一旦全部書き上げることにしました。
 書き上げてから、改めて掲載を考えます。

 その間暫くお待ち下さい。

(21) 二年目の秋

 芙美湖が死んで四十九日がすぎ、一周忌もすぎ、瞬く間に二度目の秋が来た。通りには銀杏が、黄色い落ち葉になって積もっていた。
 何気なく踏んでみた。絨毯のように足が沈んだ。

 落葉を 妻去りて今 踏んでみる  

 日記代わりに付けていた、手帳の一句である。
 
 実は、この間に無理をして墓を建てた。
 死んだ親父と、妹の遺骨を、関西の本家筋の墓に預けっぱなしになっていた。
 その遺骨を移すために、何年も前から市営霊園に墓地は確保してある。本来なら、二年以内に建てなければならない取り決めになっていたが、不況を理由に建立を延期していた。

 その墓地に、墓を建てたいと思った。
 墓地を建てることは、芙美湖にとっても、嫁としての念願である。 皮肉にも、その墓地に芙美湖自身が一緒にはいることになる。

 資金は、芙美湖に支払われた共済金の残りである。一部は葬式で遣ってしまった。だから墓の建立費用には足りない。
 借金もあるから、本当は、先ずは借金から精算すべきだが、この際墓を建てなければ、機会は永遠に失われてしまう。
 思い切って、
 今やるしかない、と踏み切った。
 資金の不足分は、子供や親戚にも協力を仰いだ。
 そして芙美湖が望んだように、総桜御影の墓が出来上がった。
 立派な墓である。近くの桜並木がよく似合う。

 しかし、墓が出来上がる二ヶ月くらい前に、今度は私が、血圧の暴騰から倒れた。ひょっとしたら、墓が出来上がるまで、今度は自分が死んでしまうのではないか、と考えた。
 収縮時の血圧が二百三十、拡張時の血圧が百二十もあった。
 その原因は分かっていた。
 芙美湖が死んで、それまで飲んでいた薬を私は止めたからだ。
 つまり、薬が切れた時点で、病院に行くのも止めていた。それに、心労も重なった。疲れ切っていたのである。

 行かなくなった理由は、そこが芙美湖の死んだ病院だったからである。総合病院で、夫婦して同じ医師に掛かっていた。
 どうせ病院に行ったところで、採血に検査、そして薬の処方。その間五分くらいである。その五分の為に、二時間は待たされる。
 主治医に会うのは致し方ないにしても、看護師には会いたくない。 良くしてくれた看護師はいいが、意地悪な主任や師長には会いたくない。不快である。
 だから病院には行くのを止めた。薬も止めてしまった。

 結局私は、一年近く病院に行かなかったし、その間、降圧剤を全く飲んでいなかった。
 だから、その影響が出ることは分かっていた。心の何処かで倒れるなら倒れる出致し方ない、と腹を括っていた。老人らしい緩慢な自死志向である。
 
 その日、頭痛が酷く、横になっていた。
 血圧計はもの凄い数字を示しいた。
 妹から電話があり、夫婦の愚痴でますます血圧が騰がった。だから電話を、体調が悪いからと切って、取り付けてある「安心電話」に、血圧の暴騰を伝えた。
 安全センターは驚いて、緊急時の連絡先である次女の琳子に連絡を入れた。
 一方救急車を手配して、総合病院に運ぶ手配をして呉れた。

 琳子が来たとき、長年飼っていた摩耶も一緒に倒れた。たまたまの偶然か、それとも動物固有の感応だったのか。
 つまり私の不調を察知して、自分が動転したのだろう。
 お互い高齢者として気持ちを通わせて生きてきたから。
 通じ合う何かがあったのだろう。
 だから、飼い主と一緒に、猫も、動物病院に搬送された。
 私は救急車で総合病院へ、老猫は、原因不明の脊髄損傷で動物病院へ、次女が車で運んだ。

 幸い私は、病院での処置で徐々に血圧も下がった。
 が猫は一応は治療されたが、容態は改善しなかった。
 猫同士の喧嘩で、囓られた後に黴菌が入り、背随で炎症を起こしたに違いない、と動物病院長は云った。

 おそらく治らないだろう。
 何らかの切っ掛けで、脊椎が体重を支えきれなくなったら、二本足で立っている動物ではないから、もう治らないだろう。

 そんな話だった。



  

 芙美湖が死んでから、あっという間に一ヶ月が経った。
 その間に、通夜や告別式があった。
 火葬場では、灰になって戻って来た母親を見て、次女の琳子が卒倒した。
 婿が危うく背後から支えた。

 なにもかもが、嵐のように過ぎた。
 なにがどう過ぎたのか思いさせない。食事もしたのか、しなかったのか、寝たのか寝なかったのか、何も思い出せない日々だった。
 気がついてみたら一ヶ月経っていた。

 何気なく、ズボンのポケットに手を入れると紙切れが触った。レシートである。
 毎日病院の売店で、弁当や牛乳、テレビカード、雑誌などを買った、そのレシートである。中に見慣れない他店の一枚があった。

 しかもその店のレシートは一枚きりである。
 よくみると、病院の近くにある二十四時間スーパーのものだ。

 一瞬思い出したくもない病室の光景が甦った。
 まさしくこのレシートは、芙美湖の遺体を包むために、二十四時間営業のスーパーで買い求めた新しいパジャマのレシートだ。

 その時、遺体が置かれた病室には、もうそれまでの騒がしさはなかった。一人の人間が死んだからからといって、こんなにも室内が寒々とするものか。
 足早に看護師が近づいて来て、事務的に、八時までに部屋を開けて下さい、といった。

 ほとけ様は霊安室に移します。
 霊安室は時間を気にしなくて結構です。
 ただ、何時に、ご遺体を引き取るか、葬儀屋さんに連絡してください。

 遺族の感情など一顧だにしない、淡々とした口調だった。
 病院に相応しい、と思った。
 云うまでもなく死は残酷な現実である。その現実にいま家族は付き合わされている。しかし病院関係者には、見慣れた光景なのだろう。
 病院には、死などふんだんにある。ただそれを、目立たなくしているけだ。

 だから遺体を霊安室に移動するときも、看護師が通路の四隅に立って、他の患者からの視線を遮った。その間に、他の看護師がわざとらしく、不定期な検温を始めたりする。早起きの患者には、検温や血圧測定をいつもより早めに行う。病室や検査室で、顔を合わせたかもしれない一人の患者が、死んだことを悟られない為である。

 そして、素早く目配せをして、
 遺体を乗せたストレチャーを、
 エレベーターに運ぶだろう。

 病院の白い壁は、白い制服同様都合がいい。
 白色には、際だった感情がない。白色のシーツは、無菌無色であるばかりではなく、無感情でもある。
 その下にどんなものが隠されているか分からない。

 そんな光景は、家族にとって思い出したくもない光景である。
 看護師達にとっても、一刻も早く片つけて、死の臭いを消さねばならない。次の患者が入室を待っている。
 当然他の院患目線から、死は隠さねばならない。

 病院に必要な光景とは、無事快癒の見通しが立って、晴れ晴れした顔で退院してゆく患者と家族であればいい。
 手術を失敗して口惜しがる患者や、
 死にゆく患者などは、あってはならないのである。

 もちろん霊安室は何処でも裏か地下にある。
 遺体搬送車も、静かに裏門から出ることになっている。

 そうか。やっぱり芙美湖は死んでしまったのか。
 しかしそれにしても呆気ない死だった。
 生と死の、鬩ぎ合いのようなものもなかった。
 
 しばらくして、看護師が、患者さんの体を清めますので外に出てくださいといった。
 そして、
「ご遺体に着せるものありますか。なかったら、売店の前の自動販売機にパジャマが売ってます。買ってきてください」といった。

 ええ?この人何を云っているんだろうと私は看護師を見た。
 そんな物あるわけないじゃないか。芙美湖はたった今、死んだばかりだ。心臓のあたりは、まだ暖かい。今にも起き上がってきそう気がする。

 死んだ芙美湖の周りでは、動転した次女の凛子が「ネブライザーはずしちゃダメ。酸素マスクをはずしちゃだめ。ますます息できななくなるでしょ。ネブライザーやらなきゃ死んじゃうよ」と涙で看護師に訴えている。もう死んでいるのに。

 その傍らで、遺体に着せるものを用意しろ?
 一体どういう意味だ。遺体を包むパジャマの話なんか聞きたくない。たぶん家族の誰もが芙美湖が死ぬなんて思っていなかった。確かに、これまで何回も入退院を繰り返してきた。しかしその都度乗り切ってきた。今回の入院にしても、いつものように何回目かの退院をする筈だった。それとも芙美湖が死ぬことが最初から分かっていたのか。

 長女がその場をとりなして次女と私を外へ連れだした。
 看護師にいわれたように、売店の前の自動販売機前に立った。
 入院患者にはパジャマは支給されるから、何のためにこんな粗末なガーゼパジャマが必要なのだろう。

 長女が、近くの二十四時間営業のスーパーの衣料品コーナーに、いろんなパジャマが売っていたのを思い出し買ってきた。
 その花柄のパジャマで芙美湖の遺体を包んだ。

 そのレシートがこれである。
 一ヶ月間、私のポケットで眠っていた。
 

(19) 40年

 その鷹見とは死ぬまで付き合った。

 鷹見は、芙美湖とも何回もあっている。一緒になってからでも、泊まり掛けで遊びに来た。長い付き合いだった。
 六十歳を過ぎてから、鷹見は、渋谷駅の階段で転び、骨折で半年以上入院した。その頃から体が弱り始めた。
 一旦は退院できたが、再々体調を崩した。
 そして芙美湖が死ぬ前の年に死んだ。
 芙美湖の看病で忙しかったから、私は全くそのことに気づかなかった。

 芙美湖と西湖と、私と鷹見は、何となく気があって、ホール内で話し合うことが多かった。そのうちに、四人で動物園に出かけたりした。
 鷹見は芙美湖に関心を持ち、西湖は私に関心を持っていた。
 そんな西湖の関心を、鷹見から聞かされた。
 しかし私には、当時夢中な、年上のダンサーがいた。芙美湖達との交流は、清楚なグループ交際の範囲で、よく弁当などを差し入れてくれる有り難い友達の範囲内だった。
 
 結局は、年上のダンサーにはあっさり振られた。
 落ち込んでいるときに4人との交流は深まった。
 しかも何故か、芙美湖との交流が頻繁になった。
 何となくそんな風になった。

 年上のダンサーに振られたことが最大の原因だろう。
 鷹見が小編成のバンドに誘われて、職場を変わったことも原因になる。
 西湖が、お姉さんに叱られて、芙美湖と一緒に出る機会が少なくなったことも原因だろう。
 何となく二人だけで会う機会が多くなった。
 そんなことが1年くらい続いて一緒になった。

 何故結婚することになったのか。
 強いて云えば、何処かで、二人とも生活を一新したいと思っていたからである。
 芙美湖は、同じ姉弟でありながら、なんとなく家では差別されて気詰まりな暮らしをしていた。その家を、早く出たかった。
 私はといえば、なんとか卒業できたことから、この際、どこか普通の会社に仕事を変えたい!そして生活も一新したい!
 と思っていた。

 その、二人の思いと利便が一致した。
 そんな切っ掛けを、二人は待っていたような気がする。
 だから、改まって結婚式を挙げることもなく、もちろんそれだけの貯えもなかったから、とりあえず双方の両親にだけは話して、両親の了解を取って、内輪だけの式を挙げて、内輪だけの披露をして、新生活を始めることになった。
 
 バンドに誘われた鷹見も、ピアニストとして、幾つかのバンドを渡り歩き、何年か後には、クラブでピアノの弾き語りを始めた。
 その頃は、もうジャス歌手になることは諦めていた。

 その代わり金には困らなかった。
 さらに何年か経って鷹見に会った。相変わらず白魚のような細い指をしていたが、同時に、日光にあたらないせいか、ぶよぶよしとた男に変わっていた。
 一緒になったはずの奥さんとは別れて、また一人住まいに戻っていた。同時並行で、何人のかの女と付き合っているようだった。
 もう家庭を持つのはこりごりだよ。
 一人の方が余程気楽でいいよ、と鷹見は笑った。

 景気のいい時代は、一晩に何軒かのクラブやキャバレーを掛け持ちした。腕にはロレックスやオーデマ・ピゲが光っていた。
 ずいぶん豪勢なモノ着けているじゃないか、とからかったら、同じ音楽仲間から安く買ったといった。
 何百万円もする高級時計である。
 ちらっと、女から貰ったとも聞いたことがある。
 どっちが本当かは分からないが、金銭的にも、生活そのものも恵まれたいたことは確かだ。

 そんな鷹見の仕事も、やがてカラオケに食われて減った。
 オーデマ・ピゲも、カラオケ全盛や、クラブ、キャバレーの衰退と並行して彼の手から消えた。

 その後も鷹見とは何回かあった。
 金は稼げなくなったが健康的だと笑っていた。
 そんな強がりの割には、呆気なく倒れた。
 そして、四十年以上続いた鷹見との付き合いは終わった。

 そのことを知ったのは、
 芙美湖が死んだ翌年である。

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