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今日は8月7日立秋です
まだ暑さは続きそうです体調に気をつけて下さいネ
昨日8月6日は広島原爆72年目を迎えました
先月、国連で核兵器禁止条約が制定されて初の原爆の日でした
核なき世界を決意新たに平和記念公園では式典がおこなわれ
各地域でも慰霊祭が行われていました
(画像は野呂山中腹から安芸灘大橋を
) 今日は新聞から 原爆に子を奪われて・母の悲しみ の記事を端追って
伝えるのは、四男梶尾文昭さん(78歳)
あの日、両親に会えたのはもう夕闇が迫る頃だった。けが人がひしめく
東練兵場の片隅で、母ミヨノさんは血だるまになってうづくまっていた。
拳を握り、体を震わせ、うめき声を上げながら。
傍らに、すぐ上の姉文子さんが横たわっていた息はなかった
『いいかげん、もう泣くなや』と言った
すると母はこう打ち明けた。
『文子は、私が殺したようなもんじゃ』
(夏の氷池・野呂山
) あの夏、姉は広島県大朝町に縁故疎開していた
原爆が落ちる一週間前ほど前のこと。母が着替えを持って訪ねると
姉は『連れて帰ってお願い』と強くせがんだ。
『広島に帰ったら空襲で死ぬかもしれんで』とその手をほどこうとしても
『私はお母さんと一緒がええんじゃ』と離さない。
姉は一歩も引かず、とうとう母は根負けした
母と娘は約束したのだ
『死ぬときは一緒に死のうね』と。
連れて帰らなければー
あの子は生きていただろう
『後悔』というとげは、生々しい痛みを放ちながら母を苦しめ続けた
晩年まで、8月6日に涙を流した
『すまないことをした。可哀そうなことをした』
繰り返し、繰り返しつぶやきながら。
『姉は一生懸命、ええ子になろうと努めてたんじゃあ』
文昭さんは思いをはせる
我がままを言って疎開先から
連れて帰ってもらった
聞き分けを良くして
弟ともけんかしないようにしなくては・・・・
などとけなげに考えたのだろう。
同時にそれが
生死の分かれ目になった。
疎開先から連れて帰らなければ・・・・母は晩年まで涙を流した。
(母 梶矢ミヨノさん=1994年 94歳で死去 文子さん当時9歳)
) 平和に感謝です
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