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原爆投下から69回目の夏を
43年ぶりの雨・・・8時15分黙祷です
2014年7月30日(水)の新聞の記事です
写真も載っていました
『原爆は。はぐいい(惜しい)が母の口癖だった』。トメ子さんの遺影を前に語る光枝さん』
光失った戦後語らなければ
全盲で育児 記憶重ね
母とともに動き始めた胎内被爆者
母の一周忌を前に、広島市安佐区の胎内被爆者
寺田美津枝さん(68)は原爆胎内被爆者連絡会(仮称)への参加を決めた。
『原爆のせいで、母は本当に苦労してきた。その体験を私は語る事ができる』。
昨年8月17日に94歳で亡くなった母
福地トメ子さんは69年前、原爆の爆風で飛び散ったガラス片が両目に刺さり、
一切の光を失った。
後に生まれた子の顔を見ることはなかった。
1945年8月6日
母は、爆心地から東約2K、今のJR広島駅で原爆に遭った。当時26歳。
妊娠5ヶ月のおなかの中に、3人目の子となる次女の美津枝さんがいた。
全盲となった母の不遇を嘆き、終戦後、祖母は『一緒に死のう』と語ったという。
『臨月だった母は泣きながら拒んだそうよ』。翌年1月、美津枝さんは生まれた。
花嫁姿 手で確認
暗闇の中で子育て。指先で美津枝さんの小さな口を探し当て乳首をくわえさせた。
かまどの火で前髪を焦がしながら、離乳食を作った。
48年に三女、50年に次男を出産。夫の勝美さん=89年に78歳で死去=に支えられ、
文字通り手探りで5人の子どもを育てた。
だが、美津枝さんは『何の不自由もなく育ててもらった』と思い返す。
小学校の参観日には娘の声を聞きに必ず訪れた。
運動会でも近所の人の実況中継を頼りに声援を送ってくれた。
娘として、心残りが一つだけある。69年11月。結婚式の日の朝、
鮮やかな色打ち掛けで自宅を出る美津枝さんの前に、母がすり寄った。
角隠しにそっと触れ、晴れ姿を手で確かめた。
何も言わなかったが、胸中は痛いほど分かった。
『私の花嫁姿を見てもらいたかったねえ』
昨夏の母の葬儀後、美津枝さんは火葬場で、遺骨と一緒にガラス片が焼け残っていないか探してみた。
母の目から光を奪った、憎らしい『原爆の痕跡』だったから
『けど、高温で溶けて亡くなっていました』。それでいいと思った。
お母さん良かったね、ようやく目が見えるね、私の顔も天国から見えとるかねー。
心の中で呼び掛けると、涙があふれたという。
式典に初参列へ
母の名が記された原爆死没名簿が原爆慰霊碑に納められる8月6日。
美津枝さんは初めて平和記念式典に参列しようかと考えている。
被爆の記憶がなく、これまで大病も患わなかった。
式典はどこか遠い出来事に感じられ、仕事を理由に足を運ばなかった。
それでも母に代わって、最も若い被爆者として、被爆証言者にも関心を持ち始めた。
母と娘はあの日から、一心胴体に戦後を生き抜いて来た。
きのこ雲の下の記憶も聞いている。
『母が生きた証を残すためにも私が語り継がんと』。
69回目の夏、自分がが被爆者であるとの自覚が強まっている
以上新聞から
友達からもらった日めくりカレンダー(6日)に
新しい一日の始まりに感謝
今日を迎えられたのは多くの人のおかげです
感謝の心で有意義な一日にしましょう。
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