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『レモンジュース』
第5章『灰色のコート』
目が覚めると夕方だった。十九時から部屋を押さえてもらっているから、それまでにキャッチしなくてはいけない。仕事着に着替えて急いだ。
(時間がない)
電車の座席で揺られていると胃液が込みあげてきて手で口を押えた。向かえの座席に座るキャリアウーマンがそれを見て嫌な顔をしていた。あたしは視線を落としうつむいた。彼女は上品で高そうな本革の靴を履いていた。おもわず、自分の靴を見る。ビニール製の安っぽいハイヒール。足を組んで、それを隠した。
気がつくと新宿に到着していて、急いでドアへ向かう。灰色のコートの波が押し寄せてきて、あたしを降ろすまいとする。人の波。息が詰まって苦しい。
(あたしが見えないの?)
乱暴に突き進む。
(みんな邪魔)
電車の外に出たとたんよろけて、プラットフォームに倒れ込んだ。顔をあげると、大勢の人があたしを見下ろしていた。みんな、心の中であたしを笑っているようだった。おしっこのおじさんと同じ灰色のコートの人ばかりだった。
(違うくせに、全然違うくせに)
東口の喫茶店へ向かった。あたしの目的はいつの間にかキャッチではなくなっていて、ただひたすら、おじさんに会いたかった。自分に必要なものがなんなのかわからなくなってくる。街の中は灰色のコートであふれている。誰も彼もがおじさんのフリをしている。
(本当は全然違うくせに)
東口の細いビルの地下に降りて喫茶店のドアを開ける。あたしはまっすぐに歩いて、ここのお店の支配人のような男性の前に立った。緊張して声が裏返ってしまった。
「あのう、池田さんっていう人、来てませんか?」
支配人は明るい声で丁寧に答える。
「待ち合わせですか?そのような言付けは伺っていませんが」
「待ち合わせじゃないんです。以前、ここのお店で会ったんです」
「さあ、わかりかねます。お客様のお名前もいちいち伺いませんし・・・」
「とってもいいおじさんなんです。ここに大きなホクロがあるおじさんなんです」
「それなら、よく来る人だ。今日も来たよ」
(まだ近くにいる)
ビルを出て表通りの明るい輝きに向かって歩いた。そうやって新宿の街を歩いていれば、そのうちおじさんに会えるような気がした。
歌舞伎町はおもちゃ箱をひっくり返したような街。原色のネオンは、すえたような臭いと騒音とがぐちゃぐちゃ混ざり合う。毒々しい都会の雨。街はけたたましくあざ笑う。
(頭が痛い、里美の置き土産かしら)
ああ、もう頭が痛い。
飲食店の集まった雑居ビルの陰にうずくまる。
非常階段の脇に置いてあった消火器をあたしは手に持つ。
(頭が痛い、変になりそう)
飲食店へ向けて消火器を力任せに投げつけた。
ガラスの割れる心地よい音。
悲鳴。
(やめてよ、めまいがする)
通行人や近くのお店の男たち数人に囲まれた。
あたしは笑った。新宿の空に負けないくらいの大声で笑った。
◆
パトカーに初めて乗った。所持品検査を受けている最中、若い警官があたしを後ろ手に押さえていた。「どうしてあんなことしたんだ」とか「親は何をしているんだ」とか「仕事は何をしているのか、それとも学生か」とか「クスリでもやっているのか」とか訊かれたけど、あたしは一言も答えなかった。質問してくる別の警官はわたしのことを、いやらしい目で見ていた。わたしにはわかる。
(警官だってしょせん、ただの男)
交番に着いて取調室でもずっと黙りこくっていた。薬物検査を受けて薬物を使用していないことが証明されると、「とにかく引き取ってくれる人間を呼びなさい」と叱責され、しかたなくマネージャーに電話をかけると三十分ほどしてマネージャーが来た。あたしたちは並んでパイプ椅子に座らされて、ビルの窓ガラスを割った費用を弁償する事などの説明を受けた。そのあいだ警官はボールペンを器用にクルクルと回していて、それをあたしは見ていた。
「で、あなたは彼氏とか、そういう関係?」
「兄です」
「苗字が違うだろお」
マネージャーはしどろもどろにっなったけど、あたしは「兄です」という嘘が気に入って頭の中で繰り返していた。
◆
マネージャーはタクシーであたしを連れて事務所へ帰った。さんざん怒られた後、「指名なしの客がいる」と言って仕事をさせられた。指名なしの客は怖い。ただ好みにうるさくないだけのいい人もいるけど、女の子にひどいことをしたいだけの人間も混ざっている。この前の浣腸の老人みたいに。
ぷよぷよと太っていて、手足が白くて短い、カブトムシの幼虫みたいな男だった。「君、いい形のバストしてるね」そう言ってあたしの服を脱がした後、乳房に顔をうずめて長い時間かけて舐めたり噛んだりする。すごく長かった。そのうち「しゃぶれ」と言うので、男の小さいペニスをあたしは口に入れた。口に入れて二分くらいしたら、しだいにペニスは萎んでしまった。「もういい、おっぱい舐めさせろ」そう言って、またあたしの胸を舐めまわす。ものすごい量のよだれがあたしの胸に垂れている。よだれは口臭もあって嫌な臭いがした。まるで卵の腐ったにおいみたい。
(臭い)
あたしの胸を舐めたら、すぐに小さいペニスがまた固くなってきて「よし、入れるぞ」と言った。
(ゴム、つけて)
男はそのまま入れようとした。
「ゴムつけて」
「妊娠しないから大丈夫」
ぷよぷよのだらしない身体があたしの上に覆いかぶさってきた。想像以上に重たい。内臓が持ち上げられたような感覚が走り、胃の中身を吐いてしまいそう。あたしはおもわず、手足をばたつかせた。
(重たい)
男の体重で弓なりになった背中がポキ、と変な音を立てた。
(あたし、死ぬのかな)
不思議と怖くなかった。
◆
目を開けるとマネージャーが見下ろしていた。あたしは何故か事務所のソファの上にいた。
「おまえ、今日はどうかしてる」
さっきまで裸だったはずなのに、下着だけはいつのまにか着ていた。
(マネージャーが着せた?)
「ガラスの代金、十六万円だってさ、警察から電話があったぞ」
(また借金が増えたんだ)
「それから、さっき、おまえを訪ねてきた男がいたぞ、」
(勇ちゃん・・・)
「いま接客中だから指名なら、一時間後になるって言ったら、何か荷物を置いて帰っちゃったよ」
マネージャーの指差す方向に紙袋が置いてあった。
「眉毛の上に大きなホクロのある、いつものおじさん」
(おしっこのおじさん)
「今日はもういいから、帰って休め」
あたしは下着の恰好のまま紙袋を手に取った。中を見ると長方形の薄い箱があってラッピングがしてあった。
(誕生日プレゼントだ)
あたしは服を着てハイヒールを履きながら下駄箱の上の鏡で自分の顔を見つめた。
「おつかれさまです」いつものように小声で言って静かにドアを閉める。階段を下りながら窓の向こうのビル街を見た。腕時計に目をやった。あと数分で誕生日は終わりだ。
(お誕生日おめでとう、さようなら)
紙袋の中を覗くと小さなリボンが目に入り、包装紙には『幸子さんへ』と丁寧な字体で書いてあった。ネオンの明かりを頼りにリボンをほどくと、白くて薄い紙の下から薄黄色のカーディガンが現れた。
(おじさん?)
気配を感じて、あたりを見回したけれど灰色のコートの姿はなかった。誰の姿もなかった。
でも、来週には会える。約束したからきっと会える。
新宿のビル街に視線を戻して都庁のてっぺんにある赤いライトをしばらく見つめていた。
(それにしてもこのカーディガン、おじさんの好きなあたしのおしっこと同じ色じゃないの)
急におかしくなって、箱を抱えたまま涙を流した。
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