お久しぶりです。

だいぶ間が空きましたが、今回はハリガネロック(大阪NSC11期生)について書きたいと思います。

彼らを最初に見たときは衝撃を受けました。
私はケーブルテレビでGAORAの「WA CHA CHA LIVE」(収録版の「WA CHA CHA LIVE」)を見ていた時、松口VS小林の解散後の松口さん(現ユウキロックさん)と、あっぱれ団の解散後の大上さんが新たにコンビを組んでいたのを見たのです。もちろん、単なる一般人である私は中のことを知っているわけではないので、
「どうしてこの2人がコンビを組んでいるのだろう」
と思ったのです。特に、前のコンビではコントをやっていた松口さんが漫才をやっていることにも驚きました。のちに、ご自身の本「芸人迷子」の中で、
「漫才をやりたくて吉本に入った」
と書いてらっしゃったので、漫才への思い入れが強い方だというのがわかりましたが、当時はそんなことなど、知るわけもないのです。
ほとんど期待しないで見ていた結成したてのハリガネロックの漫才。
見てみたら、とても面白かったのです。漫才は怒涛の速さ、勢い、そして押しが強いと感じたのです。最初から最後まで爆笑しました。(軽い言い方になってしまいますが…)
そして、失礼ながら大上さんも面白かったのです。今は当たり前のように実力を知っていますが、当時はあっぱれ団を面白いと思ったことがない(情報が少ない時代とはいえ、1回しか見ていない、しかもキャリアも浅い頃なのに、失礼ですが…)ので、この時初めて、面白いと感じたのです。
このハリガネロックを見た時、うまくいけば売れるのではないか、と思ったのです。それほどインパクトが強く、面白かったのです。

私は松口VS小林のころから2人のことが好きでした。今でもケンドーコバヤシさんのことが好きですね。この人はとにかくブレないし、いい意味で昔とスタンスが変わっていないと思います。
松口さんについては、
「このままコンビを続けていたら、松口さんは苦しいだろうな。ほとんど、小林さんが持って行ってしまうだろうな」
と思っていました。なので、解散は仕方ないと思っていました。このままでは松口さんの個性は世にあまり出ない感じになってしまうのではないか、と思ったのです。
ただ、のちに千原ジュニアさんは、
「コバと解散したのが失敗だった」
というようなことを言っていたと聞きました。中の人であり、プロであるジュニアさんが言うので、そちらのほうが正しい評価なのだと思うのですが、私は解散は仕方ないことのように感じていました。

のちのハリガネロックはM-1の第一回大会で2位になりました。
オンエアバトルでも活躍します。
彼らは全国に出ても面白かったのです。
私は以前、このブログの中で、
「なぜ、迷走しなくてもいいのに、迷走したのか」
それが気になっていた、と書きました。その後、ユウキロックさんが「芸人迷子」という本を書いたので、そこに書いてあった通りなのでしょう。
ただ、私は素人なので、よくわかりません。ただ、思うのは、GyaOの「よしログ」で、ゆにばーすの川瀬さんが、
「ダウンタウンのお2人やナインティナインの岡村さんが「芸人が売れる方法は”運”」だと言っていた」
という話をされていたのですが、そういうことなのではないか、と思うのです。若手である川瀬さんは「どうしたらいいんや」とぼやいていましたが、ゆにばーすというコンビは割と好きなのですが、彼らが今後どうなるのかは、当たり前なのですが、わからないのです。
どんなに実力があっても、結局は”運”、ということなのでしょうか。
もう、そういうことにしておこうと思います。
ハリガネロックの迷走、解散は残念でしたが、こればかりはどうしようもありません。
二人は”芸人”からは離れましたが、ユウキロックさんはお笑い学校の講師や作家などの活動をされています。
大上さんは地元に帰り、地元のアイドルを売り出すためのイベントの企画や、そのアイドルのイベントの司会をやっているそうです。

余談ですが、私はbaseよしもと時代をあまり、見ていなかったことを今更ながら後悔しています。エネルギーがなかったのは事実ですが、「見ときゃよかったな」と思うことがあります。今更、しょうがないのですが…。

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2007年から2008年に書いた「私情、千原兄弟がトップの頃の2丁目劇場の思い出」はPart.11まででしたが、ここからは現在(2017年)、思っていることや以前書かなかったことなどを書いていこうと思います。
何せ、古い記憶です。間違っている部分などありましたら、ご指摘ください。また、意見などありましたら、コメント欄に書いてください。

今回は女性のピン芸人で孤軍奮闘していた、杉岡みどりさん(大阪NSC9期生)のことを書きたいと思います。

今でこそ、女性芸人、女性ピン芸人が多くなりましたが、当時は少なかったですね。
2丁目劇場では女性漫才コンビ二組(一組は海原やすよともこ(大阪NSC11期生あたりと同期)で中田ボタン師匠のお弟子さん。また、海原お浜小浜の小浜師匠のお孫さんでもあります。)と、ピンでは杉岡みどりさんくらいしか残っていなかったように思います。

彼女は見た目良く、でも、それに頼らない独特のコントをする芸人さんでした。
私が個人的に好きだったネタは「かっこいい女」というコントでした。
当時、某宗教団体が話題となっており、その教祖が見せる行動をパロディにした部分もはさみつつ、一人で世界を救う、まさに「かっこいい女」という感じのコントをやっておられました。

ですが、なかなか、彼女のような芸人が認められ、活動を広げていく感じにはならなかったように思います。
その後、調べてみると芸人を続けつつ、放送作家もやっているようです。

当時、2丁目劇場は若い女性ファンが多く、彼女たちが目当てにしている芸人は男性のコンビ芸人が多かったと思います。
また、あまり、このことは書いていませんでしたが、2丁目劇場では芸人のライブの後にバンドが出てきて演奏するという形式で「WA CHA CHA LIVE」という題名のライブをメインにやっていました。
しかし、お笑いを見ている客にバンドを目当てに来ている人は少なく、また、近隣の騒音問題でバンドの人たちはやりにくかったのではないか、と思います。(まあ、うるさいのは困る、という気持ちはわかります。)
私はGAORAで見る機会しかなく、バンドの演奏も放送されていて、演奏を聴いていましたが、個人的にはクロックアティック(バンド名、間違っていたらすみません。)が好きでした。
あと、Four Tripsというバンドも出ていました。
2丁目劇場でバンド出ていて、のちに売れたのはポルノグラフィティ(当時は英語表記)くらいですね。(ポルノグラフィティは見ていません。のちに2丁目劇場のファンクラブの会報類を見て知りました。)

千原兄弟がトップの頃の2丁目劇場は本当に男性のコンビ芸人ばかりでした。
ピンやトリオがいたほうがコントラストがついていいのにな、と思ったのですが、あまり、上位に残れなかったのかもしれません。
千原が東京に行った後に、のちにロッチというコンビで活躍している中岡さん(大阪NSC16期生)が「3児」というトリオを組んでやっと上位近くに出てきたくらいですかね。

長くなりました。
失礼いたします。

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私情、千原兄弟がトップの頃の心斎橋筋2丁目劇場の思い出 Part.11(2008年7月2日)

今回は当時の関西と東京のお笑いの状況のことを、頼りないことこのうえないのですが、私の記憶をたどりながら、書きたいと思います。

吉本の若手の実験劇場(後期のころは、「実験」とは名ばかりの保守的な感じだった、少なくとも私はそう思っていました)、大阪・心斎橋筋2丁目劇場で千原兄弟がトップだったころ、関東では「ボキャブラブーム」だったと思います。
私個人としては、私の「心のお笑いの師匠(勝手に言っていますが)」、浅草キッドがボキャブラに否定的で、出演もしていなかったので、若手芸人を見るためには見ていましたが、さして、好意的に受け入れてはいませんでした。(確か、当時「バカルディ」、現在の「さまぁ〜ず」も出ていなかったと思います)
当時はどんな若手芸人がいるかをチェックするために見ていました。
のちに、松尾スズキさんの編集の「hon-nin vol.01」の中での松尾スズキさんと爆笑問題の太田さんとの対談の中で、
「ボキャブラは”お笑い界の中の事務所の枠”を壊した番組」
と話していました。
「お笑い界の中の事務所の枠」を壊した番組であることは初めて知りました。
当時の私はそんなことは知らずに見ていました。
この番組は意外にも「お笑い界の歴史を動かした番組」だったんですね。
単なる「ダジャレの番組」だと思っていた私は、浅はかでした。
ネプチューンの原田さんも、
「あの番組(ボキャブラ)のネタを作るのはたいへんだったんだぞ!!」
といっているところを見ましたし。
また、浅草キッドはプロの選択として、「自分のキャラクター」を考えて、出なかったのだと思いますし。
「ボキャブラ」もそれなりにいい影響を与えた番組だったんだなあ、と、今は思います。

逆に、当時の2丁目劇場は徹底的な「秘密主義」という感じでした。
私はケーブルテレビと2丁目劇場のファンクラブで情報を得ていましたので、2丁目劇場の芸人のことを知ることが出来ましたが、当時はネットも盛んな時代ではないので、地上波の全国テレビに出ない限り、全国的に知られることがない時代でした。
また、私の住んでいる広島では、関西のテレビ局制作のテレビ番組の放送が急激に減っていたときで、関西の芸能界のことを知ることはほとんど出来ませんでした。
2丁目劇場は、関西(もしかしたら、四国は見れたのかな、この辺のことはわからないのですが)だけの文化でした。
なので、私の周りでは当時の2丁目劇場の芸人を知っている人はいませんでした。

私は当時、そんな2丁目劇場に閉塞感を感じていました。
当時の劇場の保守的な姿勢、そのために生じる、上位陣のはけの悪さ、面白いのに下にいる芸人たちが多くいて、上がれない状態になり、解散していくということが起きていました。
その状況をチャイルドマシーン(大阪NSC15期生)が東京に行くことによって、一時期は打破したのです。
それに乗って、東京に行った芸人もいました。
ですが、行った先の東京吉本では当時、劇場閉鎖が相次ぐという、悪循環に陥ってしまう、良くない状況でした。

やっと、上位にいた、千原兄弟とジャリズムが東京へ行くことになりました。
私は「1年遅いなあ」と思っていました。
でも、もうひとつの思いとして、
「今はいつ出ても、難しいだろうなあ」
とも思っていました。
私は当時の知りうる限りの資料(雑誌や手紙のやり取りなど)で関東のお笑いの状況も見ていました。
私はもともと、関西が好き、関東が好き、ということはなく、どちらのお笑いも好きで、どちらも見ていました。
なので、私なりにですが、関東のお笑いの状況のことも知っていました。

ネタで勝負するタイプの芸人である千原やジャリには向かない時代でした。
関東はネタ番組がほとんどなく、千原やジャリが行っても、活躍は無理だろうと思っていました。
千原やジャリだけでなく、人力舎のアンジャッシュも苦戦していた時代ですから。
私は千原が好きなので、「(千原に)お笑い界に風穴を開けてほしい」などと思っていました(若かったので、当時の発想です)。
ただ、冷静に考えると「無理だろうなあ」と思っていました。
以前にも書きましたが、千原はダウンタウンとキャラがかぶる部分がありました。
同じキャラクターは2つといらない、となって、後発のほうが淘汰される、という形ですね。
それと、ジャリズムも関西の人が思うほど、関東の人に受けるとは思っていませんでした。
私がジャリズムの苦手にしている、ということは前にも書きましたが、この意見の場合は冷静にそう感じていました。

私は2丁目劇場の芸人たちに対して、割と熱狂的になっていました。
当時は日本全国を通して、一番面白い芸人が集まっているのは2丁目劇場だと思っていました。
そう熱狂する反面、私は冷静に分析をしていました。
私の分析ですので、根拠も何もなく、ただ単に、そう思っていただけですが、私は2丁目劇場に出ている芸人さんたち(ちなみにこの「2丁目劇場に出ている芸人」という定義は大阪NSCでいうと12期くらい以前の芸人さんたちに対してです)は東京で売れる芸人は一組も出ないのではないか、とも思っていました。
まあ、でも、そこまで大げさではなくても、よくても、3〜4組くらいかな、と思っていました。
売れる、という基準は東京での定着具合ですね。
東京がえらい、というわけではなく、テレビ業界上、東京中心なためです。
13期以降は2丁目劇場では恵まれた位置にはいなかったので、違う展開のほうになるのではないか、と思ったので、分析していません。
当時、強いて言えば、東京で売れるのは、2丁拳銃ではないか、と思っていました。
理由は彼らの容姿と芸風でした。
また、これは私の意見ではありませんが、「そうなるかもね」と思ったことでは2丁目劇場出身で一番売れるの大穴は中川家ではないか、といわれていました。
理由はとにかく、芸人として、芸や人間関係のやりくりに関しても、器用そうだ、という意見からです。

これは別に分析を当てようとは思っていないので、当たり、はずれの話ではありませんが、当時の分析と現在の結果を比べてみると、厳しく分析した以上に、現実は厳しかったですね。
2丁拳銃は思ったほど売れず、中川家はM-1で優勝して、波に乗れるかと思ったら、礼二さんの”とある出来事”でイメージが悪くなり、頭打ちになってしまったりで、思ったようには売れていないようです。
クレバーだったのは大阪での活動を選ばず、はなから東京での活動を選んだココリコですね。早く東京へ行って、早くから売れていました。今も活躍しています。
ただ、中川家はのちに巻き返し、今は東京でも活躍しています。

状況や運によりけりなので、なんともいえませんが、当時は大阪の2丁目劇場の関西圏以外に対しての閉鎖的売り出し方では、東京での活躍を目指しているタイプの芸人や、いずれは東京で活躍して欲しいと会社側が思っているであろう思惑から見ても、時代や傾向に逆行していたのではないか、と思います。
さんまさんやダウンタウンが売れた方法である「関西で売れてから東京へ」というやり方がちょうど、合わなくなった時代がおとずれていたのかもしれません。
だから、当時は、いずれ東京で売れたいと思っているタイプの芸人は最初から東京に行ったほうがよかった、ということになりますね。
ただ、当時はその東京も大阪よりは条件がいいにしても、成功する可能性は低かったので、いずれも茨の道だったと思います。

余談ですが、千原は当時の言動を見ると、そこまで東京進出に執着はしていなかったように思いました。
大阪で活動して、大阪から全国に発信して、全国的に広がることが理想だ、ということを言っていたように記憶します。
東京が良い悪いではなく、テレビ的に売れることが全国で売れることと考えた場合はどうしても東京へ行ったほうがいい、というのも会社の思惑として、また、本人の実感としてあったと思うので、東京へ行ったのだと思います。
ただ、本人たちは今は、「早めに東京に出ればよかった」という感じのことを言っていた、という話を聞きます。
周りの思惑や態度、東京進出前と後の状況の違いとかいろいろあったためだと思います。
私は、あまり、がめつくない印象が千原にはあり、その感じが千原の魅力ではあったのですが、そうも言ってられない現状もあると思います。

長くなってしまいましたが、当時は東京はあまりいい状況ではなかったです。
ネタ番組を見るには関西の番組か、衛星やケーブルテレビで番組ぐらいしかなかった時代ですね。

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私情、千原兄弟がトップの頃の心斎橋筋2丁目劇場の思い出 Part.10(2007年11月5日)

前回の最後のほうにも書きましたが、今回は大阪NSC12期から13期生と同期くらいのNSC出身ではない芸人さんたちのことを書きたいと思います。

大阪NSC12期生は、おそらく、吉本史上、一番、上の人たちに翻弄された期生だと思います。
この時期の芸人さんは、私の住んでいる広島ではほとんど見る機会はなかったのですが、うめだ花月シアターというところに出ていた「フルーツ大統領」というユニットが、たしか全組、12期生のユニットで、2丁目劇場を主戦場にはしていませんでした(フルーツ大統領にいたのはCOWCOW、ビリジアン、スキヤキ、シンドバット。フルーツ大統領解散前に脱退したのはおはよう。とブラザース。)
他の一部の12期生が2丁目劇場に出ていました。
12期生はいろんな上の人たちが、チャンスや機会と与えていた印象がありますが、13期生はその機会も多く与えられず、2丁目劇場の恩恵も受けず、長い下積みを余儀なくされる芸人が多かったです。
12期生は売れるのが遅い芸人が多いように思います。
逆に、機会を与えられていなかった13期生脳が東京で先に売れている人たちが多いです。
苦労もしているし、いい感じで見れる芸人さんが多くいます。
これはタイミングと時代の流れのことなので、なんともいえません。
まあ、吉本はこういうことが多いですけど。
ただ、吉本の上層部の思惑に振り回されたのかな、とは思いました。

今回はこの人たちと似た時期に入った、NSC出身ではない芸人さんたちの話をしたいと思います。
この時期に入った芸人さんたちは、大阪NSC12期、13期の出身者たちとは違い、割と早くから大阪で安定して、マイペースに活動している人たちが多いです。
$10(現テンダラー)やサバンナ、シャンプーハットがそうです。のちにサバンナは東京でも活躍します。
2丁目劇場のオーディションに合格して劇場に出ていました。
順番としては12期と同期ぐらいにテンダラー、半年後にサバンナ、13期と同期ぐらいにシャンプーハットです。
多少の紆余曲折はあったと思います。
シャンプーハットはNEWSというユニット(もちろん、ジャニーズのそれとは関係ありませんし、読み方も違ったような気がします。私はよくわからないのですが)のときに、東京へ行ったことがあったみたいですし。
ただ、大阪に戻ってからはマイペースに活動しているようです。
ちなみにテンダラーの白川さんは大阪NSC8期生ですが、いったんやめ、改めて入ったため、前の芸歴は数えていないようです。

それと、今回、一番書きたかったのは、うめだ花月シアターのオーディション合格組のことです。
のちに、2丁目劇場へすぐ移籍する、「マイネームイズ」とうめだ花月シアターの都合で2丁目劇場に来ることとなった「悟空」のことです。

マイネームイズは、2丁目劇場を見ていて、みんな年上の芸人さんたちばかりだったので、初めて、2丁目劇場出演芸人で見た、私と同い年の芸人だったので、よく覚えていました。
ただ、売れるには難しそうかなあ、と思っていたら、解散していました。
それと、悟空。
悟空も私と同い年です。
悟空はあまり見る機会がなかったのですが、WA CHA CHA LIVEの下のほうの芸人が出るオーディションライブ「SABIKI」の注目株として、名前を知りました。
悟空はうめだ花月シアターに出ていて、その後、2丁目劇場に「SABIKI」のほうに出ることとなったみたいです。
この時期くらいにコッキーという、大阪NSC12期生で「フルーツ大統領」にはいなかったけど、2丁目劇場ではなく、うめだ花月シアターに出ていた芸人が、何の都合かはわかりませんが、2丁目劇場に移籍していたことがありましたが、悟空もその流れかで、そうなったようです。
調べてみると悟空は「爆笑BOOING」という、今でいう、オンエアバトルの関西版のような番組で(オンバトよりBOOINGのほうが先に始まった番組です。誤解のないよう)、チャンピオンになっているようです。
ただ、のちに解散したようです。

マイネームイズの解散理由は片方の人がプロレスラーになるといったためだそうです。
その後、もう片方のほうはいったん引退し、その後は福岡吉本で復帰、その後、悟空の片方の人と、「赤いタンバリン」というコンビで、美空ひばりさんの息子さんがやっている会社、ひばりプロダクションから再デビューします。
その後、ひばりプロダクションは「お笑いのマネージメントが難しい」という理由で、お笑いから撤退したという話を聞いたことがあります。
それが理由かはどうかはわかりませんが、解散しました。
そして、マイネームイズだったほうの人が、SMA(ソニーミュージックアーティスツ)のNEET PROJECTで「カンカン」というピン芸人として、再出発しています。(その間には「浜風キット」というコンビを組み、これから、その名前でピンとして活動した、という流れもあるようです)
オンエアバトルにもオンエアされたことがあります。

悟空のもう片方の方は引退しました。
吉本をやめたあと、浅井企画にいたようですが(「ライト坪井」で)その後、マセキに行ったみたいです。

マイネームイズと悟空の事を調べるきっかけは「赤いタンバリン」がこの2組の片方ずつのコンビだと知ったからです。
調べてみると、いろんなことがあったようです。
苦労しすぎています。
マイネームイズは知っていましたが、悟空のほうもNSC出身ではなかったようです。
大阪NSC出身だと、資料もあって、調べやすいのですが、NSC出身ではないと、本当に資料がないです。
ただ、マイネームイズや悟空は恩恵がなかったように思いました。
ちなみにマイネームイズは大阪NSC12期くらいと同期のようで、悟空も似た時期に入ったようです。

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私情、千原兄弟がトップの頃の心斎橋筋2丁目劇場の思い出 Part.9(2007年11月1日)

今回は、惜しくもやめてしまった人の話をします。

最初は自分の名前をコンビ名にしているコンビで、お2人とも引退した人なので、名前は書きませんが、漫才を精力的にやっていた、大阪NSC11期生の男性コンビがいました。
そのうちの片方の人は一時期、吉本新喜劇にいたこともありました。
ただ、新喜劇の団員ではないほうの方のほうが病弱キャラだったため、団員のほうだった方が新喜劇のほうで病弱キャラをやっているのを見たときには違和感を感じましたね。
解散の原因はわかりませんが、2丁目劇場の支配人が代わり、漫才禁止令が出たため、漫才を主力にしていたコンビなのでダメージがあった、という話も聞きました。
シンプルでいて、いい感じの漫才をやれる力のあるコンビだっただけに解散は残念でした。

女性コンビで女性であることを武器にしない、大阪NSC11期生のコンビがいました。
こちらも名前をコンビ名にしていたのでコンビ名は書きません。
一人は引退しているので、その方の名前は書きませんが、もう一人の方は芸人は辞めているけど、業界にはかかわっているので(構成作家をされています)、その方の名前は書きたいと思います。
野々村さんという人で、今は作家をやっていて、1年後輩の大阪NSCの12期生の2丁拳銃の修士さんの奥さんでもあります。
ネタは野々村さんが書いていて、ツッコミをしている方はいわゆる「捨てツッコミ」という、そっけないツッコミをされる方でした。
見た目にも特徴があり、ツッコミの方は特徴のある顔をしている方で、野々村さんはスラッとした長身の女性でした。
女性を武器にしないというか、女性であることを意識させない、しなくていい、という感じのスピード感のある漫才をしていました。
ただ、ABC(大阪朝日放送)の賞レースのとき、審査委員が女性コンビであるがために、少し行き過ぎた、厳しい意見を言っていて、個人的に違和感を感じたことがありました。
賞は獲れないにしても、他の男性コンビより厳しい意見を言っていました。女性であることを利用しない感じの漫才をやる女性コンビである彼女たちの特徴を無視した感じの意見を言っていて、的外れ感を感じたことがありました。
彼女たちも支配人が代わり、漫才ができなくなり、それが解散の原因になったといわれています。
彼女たちも漫才を主力にしていました。
彼女たちの解散も残念でした。
なかなかいないタイプの女性芸人だっただけに、解散は本当に残念でした。

2丁目劇場の混迷期で、新支配人もそのために招かれ、形を変えなくてはいけなかったので、こうなったとは思いますが、力のある人がやめてしまったのは残念でしたね。

こうやって、てこ入れをしても、上位組の混雑は解消されず、底辺も含めて、消えていったコンビはたくさんいます。

2丁目劇場閉鎖までの、2丁目劇場のレギュラーなのは大阪NSCでいうと12期生までで、13期生からは「baseよしもと」のほうの主力となっていく感じなので、ここが分岐点になると思います。
13期生は恩恵を受けにくい時期から芸人をはじめて、そこから這い上がってきた人が他事務所に行った人を含めて、多いですね。

次回はNSC出身ではない、12〜13期くらいと同期の人たちを中心とした芸人さんのことを書こうと思います。

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