|
今日は「認知症の人と家族の会」のアルツハイマーデー記念講演に行ってきました。私の住んでいる所は未だ支部がないので1ヶ月遅れの記念講演でした。
私は県支部設立準備会・呼びかけ人の一人です。そのため朝から準備に出かけました。そして介護体験を話してきました。久しぶりの社会活動です。私自身、神経を集中して何かをすると言う事は未だできません。でも、内側に籠ってしまっている介護家族のために、私の経験した事が少しでも役にたってくれたら。来てくれなくても、そのような方々と接しているケアマネージャに、内側に籠らせないようにしてもらいたいと思い、体験を話してきました。
でも、今日は少し疲れているので、このときの様子はまた後日書きます。今日は私が話した時の原稿をアップしておきます。
***********************************************
タイトル:母の笑顔 ー頑張らない介護に気がつくまでー
現在の状況ですが、私一人でアルツハイマー型認知症の母親を介護しております。現在は入院中ですが、要介護2で、アルツハイマーの中期から後期という診断がなされております。
簡単に母の病歴を紹介しますと、発症は1995年頃と考えられております。ただ比較的緩やかに進行してくれたおかげで、初診は2001年の7月です。その時に要支援からスタートし、現状は要介護2の認定をうけております。ただ昨年から進行が進み、昼夜逆転などを経て、現在は入院しております。
先ほど、比較的進行が緩やかだったと申しましたが、その時の状況がどのようであったかと申しますと。利用していたサービスはディサービスのみで、これは介護保険適応範囲いっぱいまで利用していました。ディサービスが無い日は、駅前まで歩いて行き、帰りはバスに乗って帰る事もできました。その他には、電話でこまめに連絡は入れなければなりませんでしたが、一泊くらいなら家を空けていても大丈夫でした。ただ、買い物は、毎回お金をこちらが準備して行ってもらい、家で火を使うのはお風呂だけにしていました。また集合住宅に住んでいましたので、玄関にはこのように表札とタイヤを置き、わかるようにしておきました。
このように長い間、比較的安定してくれていたのですが、昨年の3月から症状が悪化してきました。私が、少し帰宅が遅れた時に、お風呂の水をあふれ返してしまったのです。先ほど私は集合住宅に住んでいると申しましたが、階下の方には大変なご迷惑をおかけしました。
さらに数ヶ月後には、早朝、部屋を抜け出し、そのまま部屋がわからなくなるという事がおきました。これは、私がまだ目覚める前で全く気がつきませんでした。
このように混乱期が始まった母。当然の事ながらクレームがはいりました。
最初に水をあふれかえした時は、母は小さくまるまり、何度も「ごめんなさい、ごめんなさい」と言っている目の前で「ちょっとぼけているんじゃないか!」と罵倒されました。この時、私は罵倒された事以上の感情を持ち、それを押さえるのが精一杯でした。
悪い時には悪い事が重なります。母が間違って、早朝に入ろうとしたのは、この階下の部屋でした。ある日、私の部屋にやって来て言います。「あんたに今日は一言、言わんとあかん。僕に言わせたらあんた、ほったらかしや。管理していない。ぼけてるの一緒にいればわかるやろ!あんたも非常識や、菓子箱一つ持って来て詫びに来るのが常識や!」と。幸いこの時は、母を玄関に出さないでいたので、このやり取りは聞いていないはずです。
確かにご迷惑はおかけしました。私の対応に全く非がなかったかと言えば、冷静に考えてそうではないでしょう。しかし、このように感情的に言われると、普通ならできるはずの対応も出来なくなってしまいました。
それからですが、私の今までの介護は間違っていたのではないかと悩み、そして母がこのような厳しい目にさらされているのかと思い、守らねばならないと思う様になりました。そして、寝る時は母の隣で寝て、時間があれば一緒に散歩やドライブをするようになりました。しかし、常に心のどこかに、空虚さがこみあげ、それは散歩やドライブと言うより、さまよっていたと言ったほうが良かったでしょう。
さて、このような生活をしていき、私の精神状態がダイレクトに母に響いたのでしょう。母は夜眠れなくなりました。睡眠薬を処方していただきましたが、体質的にあまり合わないようです。せん妄が出て、暴れ、そのまま朝を迎える事が多くなりました。
母の病気の事、最初は頭で理解しても、それが続くと崩れて行くものです。このころの私は、母から見ると、全く別人の鬼気迫った顔をしていたのでしょう。「あんた誰?息子じゃない!」と言うようになりました。このような母を見ていると、私自身、感情が押さえきれなくなり、叩いたり、物をなげたり、つい母に当たってしまうようになりました。そしてとうとう、母の首に手をかけてしまいました。でも、手に力が全く入らないのです。そして母は、こんなに力が出るのかと思うような力で、私の手を振りほどいて、真夜中に部屋の中を逃げ惑い叫ぶのです。「兄ちゃん。助けに来て!この男に殺される。死にたくない!」と。
このような事があり、私自身の危険行為はここでおさまったのですが、私は自分の心の底に棲む鬼を見たようになり自己嫌悪に陥りました。それでも母に付き添いました。5月に白内障の手術のため入院した母のために泊まり込んだり、病院で朝の7時前から夜の9時半すぎまで付き添ったり。
ですが、退院した後、母の苦しみは深まりました。ほんのささいな事で自傷行為をするのです。自分で自分の頬を力を込めて叩くのです。「ばか、ばか、ばか、おかしくなっているの自分でわかるんや!」と、本当に悔しそうな顔をして。
この自傷行為が激しくなり、病院に相談すると入院する事を提案されました。それでも、私は「ああ対応すれば自傷行為をくいとめられるかも」と、最後まで言っていました。ですが、主治医の「あなたも人間なんです。完璧にやれる訳ではありません!」の一言で入院させる事に決めました。私自身がとっくに限界を超えていたのです。
入院した後の母は、すぐに落ち着きと笑顔を取り戻しました。空虚さでなにも出来ない私に、面会の度に”天使のような笑顔”で迎えてくれたのは母の方でした。
さて、最近の母ですが、面会に行くたびに、病院でできたお友達や職員の方に、こう言います。「この人誰やと思う?」「私の息子」と。時には息子が兄貴になったり、彼氏になったりしますが。
最近母が私と同じ年だった時の写真を引っ張り出し、あまりにそっくりな顔をしていたので驚き、私自身は「一卵性親子とか双子」とか言っていますが。
これも入院してから後の写真です。まあ、本当に子どのようなエンジェルスマイルをしています。
私は最近思う様になったのですが、認知症は山歩きをして、山から谷に向けて下りて行くものだと。ひとつ間違うと、それは険しい崖を「痛い痛い、怖い」と叫びながら転げ落ち濁流に飲み込ませてしまいます。ですが、私は思うのです。同じ谷を下りるのなら、一緒に手をつないで、階段なければ作ってあげ、ときには自分の手を踏み石の代わりにして、一歩一歩下りて行って、そしてたおやかな川の瀬で一緒に水遊びをしたいと。
このように私は一線を踏み越える事無く留まりました。そして思うのです。介護とは一人で頑張ってもできるものではない。そして、一人で頑張ろうとしている介護者には、一人で頑張らせてはいけない。一番大切な事は介護される人の心に寄り添い、笑顔を絶やさないようにしてあげる事だと。そのために、一人で介護されている方を社会資本のセーフティネットに拾い上げ、介護家族の逃げ口を作り、利用できる具体的な施策を何通りも準備しなくてはならないと。
これは、私達介護家族だけではできません。ここに来ておられる医療ならびに福祉関係者の方々だけでもできません。その他行政の関係の方々、大学関係の方々、そして地域の皆様。全ての方々が力を合わせて作り上げて行かないといけないものだと思います。そのためにも、ともに考えて行きたいと思います。
皆様、今年、京都であった殺人事件を覚えておられますか?昨年私たちの身近であった心中事件を覚えていますか?
先ほど、私は認知症を山歩きに例えました。それも谷を下りる山歩きに
この谷には、深い悲しみと苦しみが、埋もれています。
それ故に、私はこう思い、語りたいのです。
私には夢があります。この悲しみと苦しみが埋まった谷を”今を生きる”と言う喜びが響きあう谷にしていきたいと。
|