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4月1日 母が息を引き取ってから、ちょうど一週間。母の荷物を引き取りに、母が生活をしていた施設へと行きました。母の荷物は段ボールに整理されており、使ってもらえる物を残して後は車に乗せるだけです。これはさらりと終わらせて、後は施設長創職員の方としばらくの間、話をしていました。 その話の中で、「職員達も、ここでお葬式を出す事ができて、良かった。嬉しい」と行ってくれている事を聞きました。葬儀までの3日間の中で、確かに私も何人の職員の方から、「ここでお葬式を出してあげたいと思っていた」と言ってもらっていました。 私自身も母がここ(母が生活していた施設)で息を引き取り、そして皆さんに見送ってもらう3日間を、ここで過ごしました。その3日間で、ずっと昨日の続きの今日。今日の続きの明日を感じていました。決して母の死が、昨日の生と断絶したものではなかったのです。昨日の生と一続きの今日の死であり、皆さんに代わり代わり来てもらって、母の生活の続きの葬儀でした。その間に、母がここで生活して生きていた時の空気や音を感じていました。 ここは介護施設です。ここを利用している方々は、そんなに遅くはない時期に100%お亡くなりになります。お亡くなりになる前に、ここで職員の方々が、最後の落ち着いた生活をお手伝いをして時間を共にする所なのです。ですが実際に利用者の方々がお亡くなりになるのは病院であり、そのまま式場へと行かれます。またここでターミナルを終えた方も、式場へと向かわれます。突然それまで関わって来られた方々と、お別れをしなければならないのです。そこで職員の方々も喪失感を感じていると言う事でした。ですが母の場合は、ここでお葬式をあげる事で、職員の方々と十分に最後のお別れの時間が取れ、しっかりと母がここで生きた事が心の中で根を張ってくれた様でした。そして、この経験が、次の利用者の方を迎える時に糧になってくれる事でしょう。 母の死をまとめていて、私の中で幾つかの言葉が浮かんできました。それらは、次の様な言葉です。 昨日の続きの今日。今日の続きの明日 母は桜になりにいった 心の中で根を張る 自分でこの言葉を並べてみると、連綿とした日常の続きの中で、桜の木が根を張り、花を咲かせる。そして花が散った後にも、その根が土のなかで根を張り幹が育っていくイメージなのです。きっと母は、私の心の中で生きているのでしょう。これからの私が生きて行く中で、もっと心の中深くに根をはっていくのでしょう。 ぎんひぃろぉをとめつやちゃんと兄ちゃんの物語は、一旦終わりました。ですが、これからは、桜になった母と私の物語を綴って行きたいと思います。
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心の整理
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3月27日(2) 母とともに母のお家を後にした私は、すぐに火葬場へと向かう訳ではありませんでした。親戚には直接行ってもらいましたが、私と母は寄り道をして、母が26年勤めた生命保険会社のビルの周りを一周する事になっていたのです。ビルの前に車をとめて、6階建てのビルを見上げます。このビルは、母の職場言うだけでなく、保育園に上がる前の、そしてあがってからも、私が育ったと言っても良い場所なのです。母の認知症が始まり母が私のお金を使っていた事が発覚して、まだ勤めていた母を無理矢理辞めさせたのも、この会社です。それでも母は、この会社に誇りを持っていました。保険の高度障害を下ろす際に、言葉でのコミュニケーションが難しくなっていた母は、それでも、この会社の名前を聞くと、はっきりと会社の名前を言ったものでした。
そんな事を思い出しながら、今度こそ火葬場へと車を向かわせる事になりました。それまで曇っていた空が母を迎える様にだんだんと晴れてきて、青い道を作ってくれます。その青い道を見ていると、先ほど母のお家の玄関の最前列で、母を送り出してくれたAさんの顔が目に浮かびました。このAさんは、母が腎炎で高熱を出して尿路結石が見つかった時、その後の皮下出血で意識がなくなりかけた時の看護師の方です。母が一番危機的な状況、かつ私が母をどうしたいのかに考えが及ばなかった時の担当でした。母を思いやってくれる故に、私とぶつかった事もありました。ですがこの時のAさんとのやり取りがなかったなら、それ以降のケアカンファで、いざと言う時に母をどうするかと言う話を私はしなかったでしょう。その話をずっとしていたので24日に母が嘔吐した時点で、現在の担当看護師のNさんは救急車を呼ぶのではなくて、私と嘱託医のT先生を呼んでくれたのです。そしてそこで私たちの方針が決まり、母は、私の覚悟が母の望んだ事と同じだと言う様に穏やかに息を引き取ったのです。あの時がなければ、この日はありませんでした。青い道が続く空の下、Aさんの優しさに裏打ちされた厳しさに目頭が熱くなったのです。 火葬場に到着し、最後のお別れの時がやってきました。母の顔を覗き込み、そして私が最後に母に、心の底から絞りあげるようにして言ったのは、「お母さん、ありがとう。本当にありがとう」でした。母の介護中に、私よりも必死に認知症のお母様の介護に立ち向かった人たちがいました。そして少なからぬ人たちが、罪を背負ったり、自ら命を絶ちました。その人たちに申し訳ないと思いながら、私は母の介護を施設介護に切り替えました。そして在宅では出来ない事、本当に母の心に寄り添う事を気にかけてきました。そして母は、私に人の生き方を教えてくれました。それは命の灯りが消える瞬間も、そしてその後も、その穏やかな表情で。私は、そんな母に育てられた事を、そしてその事の意味を、この最後のお別れの時にも感じて感謝の念で一杯になったのです。 そして母の遺体が焼きあがり、母の骨を拾う事になりました。私の目の前に現れた母の骨は、母の逝った時に顔と同じ様に、現に未練を残すものではありませんでした。ただし、下あごを残して。下あごだけは、歯とともに奇麗に残っていました。私は下を向いて、思わず笑いをかみ殺していました。母は糖尿病で、食事制限をしていたのです。他の事は満足して逝ったようですが、美味しいものだけはもっと食べたかった様です。その下あごの骨も骨壺へと納めました。母の火葬を無事に終わらせた私は、お寺へと行き、そこでお寺へと納骨と初七日のお経をあげてもらいました。その間も親戚と共に、敷物の上に猫のフンが転がっていたとか、きっと母がそこらで、「何を笑っているの?私も混ぜて」と言っているとか大笑いでした。人と話がする事が好きで、辛い事があってもいつもニコニコと笑っていた母には、これが一番の供養なのでしょう。お寺でのお経も終わった後、お寺さんからも、母の葬儀は良い葬儀だったと言ってもらいました。介護施設の仏間で、お寺さんにとってはやりにくかったはずです。ですが、母を偲びこれまで関係して下さった方々に見送られての、心がこもった式を感じてもらえたのでしょう。 無事に葬儀を終えた私は、母が6年半生活をしていた母のお家に戻り、関係してくださった皆さんにお礼をしました。もちろん真っ先に行ったのは、Aさんの所でした。あの時のAさんとのやり取りがなければ、今日のこの日はありませんでした。介護とは、いつになるかはわかりませんが、必ず最後は来ます。その時をどう迎えるか、それも考えておかなければなりません。その事に気づかせてくれたのが、Aさんなので。こうやて皆さんにお礼を言い、無事に母の葬儀の日を終える事ができたのでした。そして46年に渡る、母と私の旅は終わったのでした。 |
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皆様のコメントに目を通しています。 お返事をかえしていると、それに熱中して、いましなくてならない事を放置しそうです。 なので、やるべき事をやってから皆様にはお返事をしたいと思っています。 3月27日(1) 母の葬儀の当日、深い眠りから覚めた私は、母とまだ眠っているYおばさんを仏間に残して、母が生活していたフロアーへと足を運びました。だいたい5時半から7時少し過ぎまででしょうか。夜勤の職員さんが、早く目覚めた入所さんに「おはよう」と言う声。朝番の方が出勤してくる足音。配膳車がやって来る音。そしてだんだんと増えてくる「おはよう」のかけ声。目を閉じて聞いていると、だんだん暗闇が明けて周りが明るくなってくる活気を感じる事ができます。そして母は、一日の始まりの活気を感じながら、もう一度眠りだし、そして朝の活気に包まれて静かに息を引き取ったのでしょう。母が最後に耳にした音は、明るく活気のあるものだったのでした。
母が最後に聞いていた音を聞き終わり仏間に戻ってくると、Yおばさんと、先日「いきなりパパになってもいいよ」と言う今回最大の名言を残したBさんが談笑しています。勤務の前に母の様子を見に来て、全てを放ったらかしにしている私の代わりに、Yおばさんと話をし、母を見ていてくれたのです。全く持って自分のいい加減さが恥ずかしくなります。 そうこうしていると、入所されているIさんの娘さんのTさんから花が届きました。先日たまたま自宅に戻った時にメールが届いていたので、母の事を伝えた方です。このTさんからの花を祭壇に飾り、いよいよ葬儀が始まりました。 葬儀には、親戚と母の施設を代表して副施設長、そして入所者のご家族のWさん、母の保険の外交員時代の同僚のHさんに参列してもらいました。Hさんは、私をまだ小学生になる前に母の職場を保育園代わりにしていた頃から知っています。そして母にも、ここへ二回あいに来てくれています。このHさんから「よく頑張ったね」と声をかけてもらうと、思わず今までの事を思い出し、「そんな事ない・・・仕事も無理矢理やめさせて」と、かつて母に対して、私の無知無理解・現実逃避で投げかけた罵詈雑言の数々が頭によぎり、声がうわずり涙が流れ出しました。そして担当職員のOW君からの、お別れの言葉を読んでもらい、母の棺に花を添えて出棺となりました。花を入れる時に、時間を見つけてやって来てくれた職員の方にも最後のお別れをしてもらいました。介護職員のGさんは、何度も母の名前を呼んで涙を流してくれて、母は本当に幸せな生活をここで送っていた事を、改めて実感したのでした。 いよいよ出棺となり、玄関のところで私から見送って下さる方がへお礼を述べる事になりました。時間を見つけて見送りに出て下さった職員の方々。その最前列に看護師のAさんがおられます。数年前、母が腎炎で高熱を発し尿路結石が発見された時、皮下出血で意識が低下した時、ここでの生活の中で母が一番危機的な状態を迎えた時に担当して頂いた看護師の方です。Aさんをはじめとした皆さんの前で、お礼を述べる事にしました。昨晩から考えていた事。「母がここで生活する様になって6年半。毎年桜の季節を楽しみにしていました。ですが今年は、その桜が咲くのを目前にして・・・」と話し出したとたん、無意識のうちに力が入ったのか、手に握っていた数珠が弾き飛んでしまいました。これで何を話そうとしたのかをすっかり忘れ、後は無我夢中でした。ですがこれで、何か無理をしていた自分が弾けました。きっと数珠が、「無理に自分を抑えなくても良いよ」と言って私の代わりに弾けてくれた様に思えます。確かにその時何を話したのかは忘れてしまいましたが、これ以降、とても心が軽くなった様な気がします。軽くなった心で母の位牌と遺影を腕に抱き、見送ってくれる皆さんの顔を見る事ができたのです。間違いなく、この数珠は、私の代わりに弾けてくれたのです。そして私は、母の遺体と共に母が6年半過ごした「母のお家」を後にしたのでした。・・・続く |
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返信はしていませんが、皆さんの事を思いながら 3月26日(2) 母の葬儀を「さくら葬」とする事を決めた私は、この時点で気分はハイになってしまいました。仏間に横になっている母の横で、最後のツーショットを撮り、まるで舞台に上がる俳優のような気分です。ですが、一人で取仕切っている身は、そうそうそんな気分でいる訳にはいきません。籍は抜けましたが、母の義理の姉にあたるYおばさんを迎えに行かなければなりません。そこで、またしても母を皆さんにお願いして外に出る事になりました。
迎えに出かけると言って廊下に出ると、清掃のために業者から派遣されている方がお二人、仏間の方へとやって来られます。そのお二人を母のところにお連れして、さあ、迎えに行くぞと玄関に再度向かいます。すると前方に、ご家族に面会に来られた帰る途中のWさんの背中が見えます。ここに入所されているWさんのご家族は、確か母と良く似た時に入所されたと記憶しています。それ以来、顔を合わせると話をさせてもらっていました。ほんの一週間ほど前にも話をしたばかりでした。そこで私は、重力にもつれる足を振り上げ、Wさんに追いつき声をかけます。そして帰り際のWさんにも、母の顔を見てもらう事ができました。 母の義理の姉のYおばさんを連れてくると、ぼちぼちと親戚も集まって来ています。そして葬儀社の方が棺を持って来て、いやいよ納棺をする時間になりました。Yおばさんに枕の方を持ってもらい、そして私が足を持ち棺へと母を納めます。そしてその胸元に、母が在宅時代に、集合住宅に住んでいて部屋がわからなくなった時の目印に付けておいた、二人の名前が書いてある表札。そして沢山あるドキンちゃんのぬいぐるみから、この数年間、母に拘縮防止のために握らせていたドキンちゃんのぬいぐるみを入れました。桜になりに行く母に、沢山のものを持たせても荷物になるだけです。これまで私と歩いて来た、そしてこれから私を見守ってくれるために、私との繋がりを表すもの二つで十分です。特にドキンちゃんは、私の小学生時代の姿として母の目には映っていました。それが沢山あると、どれが私かわからなくなります。こうして準備を整えて、通夜の時間まで母の思い出話に花を咲かせて時間を過ごしました。 いよいよ母の通夜が始まりました。母の訃報を知って駆けつけてくれた、友人A、S夫妻、K君、S君、そして職員の皆さん。本当に多くの方が母を惜しんでくれました。お一人お一人のお名前をあげてお礼をしたいところです。ですが実際には、私の頭は「次はどうすのだろうか」とその事ばかりで真っ白な状態で、ただただ母の位牌を見ていたのです。母の位牌には、もちろん戒名が書いてあります。この戒名は、お寺が考えてくれたものを、私のたってのお願いで考え直してもらったものです。母の名前は「つや子」と書きます。ですが昔に母から聞いた話では、「澤子」と書いて「つやこ」と読ませる予定だったそうです。それを役場に登録する際に、「これで『つやこ』とは読めない」と言われ、勝手に『つや子』にされた」と言う事でした。それで私がお願いして、この「澤」と言う文字を一時使ってもらい、戒名を「釋尼清澤」としてもらったのです。この戒名を眺めていると、改めて8年程前の事を思い出しまた。その頃の私は、ボロボロになっていました。と言うのも、母の混乱期が始まっていたからです。周りに迷惑をかけ、そして近所の方に顔面で「ぼけている」「管理できないなら、病院か施設へ入れろ」と言われました。そして母を守らなくてはいけないと思いながらも、「死ねと言うのか!死にたかったけど死に切れなかった。生きるのが楽しかった」と言う母の首を、発作的に締めようとした事があったのです。その後に自分の限界を感じて、認知症の専門病院へ入院させました。その時の閉鎖病棟の扉が閉められ、体の奥から溢れ出た悲しい気持ちは、今でも忘れる事はできません。でも母は、その病院の中で明るさを取り戻してくれました。そして、ある認知症の人と家族を支える会議で、「これから認知症ももっと進み、体も衰えて行くだろう。でも怖いと言いながら崖を転げ落ちるのではなく、山歩きをしていて気がついたら澤に出て楽しく水遊びをしているよに母を見て行きたい」と言っていたのです。この母の戒名を見ていると、まるで私がその時に「こうであって欲しい」と願った様に、母は桜になると決め、そしてキラキラと輝く清流の澤で水遊びをしているようです。 無事に通夜を終えた夜、Yおばさんも一緒に母と夜を過ごしてくれる事になりました。そして私は、その夜は母の棺の横に座布団を並べ、昨日とは違い深い眠りについたのでした。 |
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3月26日(1) 8年ぶりに母の横で眠った朝は寝不足気味で、早朝から廊下を行ったり来たりしていました。途中で入所者のIさんと顔を合わせ、Iさんは私が朝早くからいるのに驚かれました。そして母の事を尋ねられたので、昨日息を引き取ったと伝えると、泣き顔をされました。このIさんとは何度も話をさせていただき、Iさんに会いに来たお嬢さんのTさんとはメールで何度かやり取りをしています。Iさんにも、私と母の姿は印象的に映っていたのでしょう。
朝食をとり母の顔を眺めていると、「ただいまぁ〜、おみやげ〜」と明るい声で入って来た看護師のNさんの手には、花を咲かせた一振りの桜の枝が握られています。看護師のNさんは、昨日25日に母の元気な顔を見た二人のうちお一人です。このNさん、25日はどうしても外せない用事で休みを取っておられました。ですが早朝にやって来て、介護士のNさんと共に母の元気な顔を最後に見てくれたのです。その時の母は、昨日まで取れなかった脈も取れて、いつもの母(元気な)の顔をしていたと言ってくれます。その母の顔を見た後で、用事のために京都に向かわれ、京都で母が息を引き取ったと連絡を受けたそうです。そして昨年、インフルエンザで長く面会制限がかかっていたのが解除された後、私がお願いして、15分だけ母と外も出て桜の花を見ていた事を思い出して、京都でわざわざ桜の枝を買って来てくれたのです。そして桜の枝を花瓶にさし、母の枕元に飾ってくれました。また母の顔を見て、これが「いききる(生ききって、息が切れる)ことなんですね」と話をしたのです。 母の通夜の準備のために、葬儀社の方が来るまでまだ時間があります。本来なら母との時間をゆっくりと過ごす時なのですが、わがままな放蕩息子はシャワーを浴びると言って、母の事を職員の方に頼んで、また自宅に戻る事にしました。自宅に戻ってみると、早朝にお話をしたIさんの娘さんからメールが届いていました。もちろん母の事は全く知りません。すぐに母が息を引き取った事を伝えます。その後、母と一緒に桜の花が満開の季節に二人で撮った写真を見つけ、それも式場に飾る事にしました。 私が新たに飾る写真を抱えて母の施設に戻ってくると、施設長と看護師のNさんと同時に顔を合わせます。施設長は、無断早朝出勤の常習者のNさんに「また早く来たな(め!)でも、今回は良くやってくれた」と、部下の体を思いやりながら言葉をかけます。そしてNさんは、いつもの朗らかな笑い顔で「こちら側(休暇の日に来た)から、ありがとうございます」と言い、私の横にきて「こちらからも(母を、ここで見送ってもらう側)ありがとうございます」と言ってくれます。何とも言えない暖かな空気が流れました。 そして母のいる仏間へと戻ると、母がここに来た当時の担当相談員だったSさんと副施設長が、母が写っている写真を見ながら、母に付き添ってくれていました。母を一人にする事が好きな不肖の息子に代わり、母を見守ってくれていたのです。そこでしばし思い出話に耽り、母は人を結びつける力があると話をしました。と言うのも、現在の相談員のMさんの親戚は、私の昔の会社に出入りをして、私の新社会人時代の姿を知っています。25日に夜勤明けで母の姿を見に来てくれたO君は、元々母の在宅時代に通っていたディサービス(こことは全く違う法人のディ)に勤めていて、ここで再会しました。また私の小学校から高校までの同級生のTさんも、昨年からここに勤め出して再会したのです。本当に多くの人との出会いが、ここではありました。これも母が、ここに馴染み多くの楽しい思い出を作ってくれたからでしょう。母は女に学問は要らないと言われた時代に生まれました。本当は高等女学校へ行って、教師になりたかったと言っていました。この母がお世話になり多くの人と出会った施設は、介護施設というよりも学校の雰囲気を持っています。施設長が二代続けて元校長先生と言う事もあり、経験のない人でも良い職員へと育て上げています。そんな雰囲気を母は感じ取っていたのでしょう。 そうしているうちに葬儀社の方がやって来て、母の遺影を見せてくれます。いくつかの写真のうちで、親戚からも一番母らしいと言われた写真を元にしています。偶然ですが、母に着せたピンクのスエットを着て写っています。そして背景には桜の模様をあしらってくれました。昨日、私が母は桜になりに行ったのだと言ったのを耳にして、このような遺影を作成してくれたのです。こうして桜の花を背景にあしらった遺影、花をつけた桜の枝、満開の桜の下で私と撮った写真がそろい、母の葬儀は「さくら葬」にすると決まったのです。・・・・続く |






