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さて、哲学史上最大の超人ニーチェの登場です。
この苦悩の満ちた世界(恋愛)を直視してショーペンハウアーは
禁欲でなんとかなしようとした。ニーチェはそれを認めつつも考えた。
人間の(生きる生きようとする)意志をは無限の力の意志である。
それを愛する愛したいという意志と置き換えてもいい。
もともと人間自体は非力なものだから現実のなかでそれを抑えつけることは無理だ。
これがショーペンハウアーの矛盾だ。
それならば否定ではなくて肯定して昇華させていまえばどうだろう。
そして、この生命力の本質に狂乱と陶酔といった激情を読みとるのです。
非合理なパワーなものです。
それは理性と表裏一体のものでもある。
このダイナミックな発想の転換がニーチェの凄味です。
ただし、ここから発展していくニヒリズムは現実の事象すべてを否定しかねない。
神さえ死んだ。と表現したニーチェに対する風当たりと誤解はいまも存在する。
しかし、ニーチェのニヒリズムはひと味違う「能動的」なもので、
運不運、勝ち負けなどの事象に一喜一憂し、いじけたり嫉妬したり
悩み苛んだりするのではなくニヒリズムで(消極的)ニヒリズムを克服するという
(能動的)ニヒリズムなのだといいます。
極める、ニヒリズム道ってところですかね。
・・・あまりここで深く追求すると哲学的で(あたりまえですが)
難しくなるので、簡単に解説して愛の考察に移りますが、
要は最初から意味のないことなのだからクヨクヨしないで楽しもうという感じです。
すこし話を逸らしますが、この世の事象であるラッキー、アンラッキーも
時間軸のジャッジから万事「塞翁が馬」でもある。
この世を人生を一幕の舞台として私達はその主人公であり
悲劇であろうと喜劇であろうとそれをどう楽しんで上手く演じるか。
極めるとは一生懸命の上にある楽しむということだともいいます。
また、一喜一憂するがゆえに、その事象にこだわり過ぎて御都合主義的に
暴走し理性を失ってしまうのが人間です。
そこに苦悩や嫉妬や憎悪が生まれて私達を苛んでしまう。
ニーチェは運命愛という言葉で
どんな過酷な人生をも引き受ける覚悟が必要だと説きます。
人生はゲームといわれますが、ニーチェはそれならばこそ楽しもうと言う。
なかなか厳しい覚悟です(汗)。
ここで愛の考察としてピックアップしたいのはそういった覚悟ではなく、
「生命力の本質に狂乱と陶酔といった激情」という一点だ。
恋愛は刺激であるとしました。これこそが狂乱と陶酔の激情ではないか!
愛は生命力の本質でもある。
図式にすれば、
生命力≧愛(恋愛)
ということがいえる。
愛は生命力の源でもある。それは理性と対岸にあり表裏一体のものだ。
熱狂する、できる場こそが人間の幸福な瞬間であり永遠ではないのか。
であれば愛(恋愛)は熱狂以外の何者でもない。
そして私達はそれを求めている。
決して誰に則されたわけではないのに、自然に本能として。
その証として
【狂の思想】
これを最初に説いたのは孔子で「論語」に人間を三分類したうちのひとつに
「狂・狷」がありました。
それを孟子は理想主義で言行不一致、不潔を嫌うと解説しました。
後に陽明学で「狂」は聖人となるために真の道であると信奉され、
幕末の吉田松陰もそれに強く影響を受けた一人です。
理想を高く持ち、何の虚飾も、隠しだてもなく、心のままに率直に行動する。
もし過失があっても改めればよしというものです。
世俗社会の常識に真っ向から挑戦する実践的理想主義といえるでしょう。
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