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さあ気を取り直してハイデガーの登場です。
「存在と時間」
これにてハイデガーの解説はおしまい。あとは勝手に話を進めます。
存在とは時間なのだ。
愛が存在するとすれば、それは時間だ。
形、物質ではないものの存在を明らかにすることは難しいものです。
しかし、私達人間は物ではない。意志があります。
それを封印すれば、人間は生きる屍と化してしまう。
そこに本能を持ち出して犬猫と同等に拡大解釈してしまう人もありますが、
彼らには善悪の意識はない。せいぜい怒られるからやらない。という
利害の学習効果だけです。
人間には自然と身につけた倫理観というか善悪を見抜くセンスがあります。
それを精神とするか、魂とするか、は別としてそれは在る。
ここで時間というものがようやく提示されました。
すべてはここに在る。
たとえば、歴史は繰り返すとまことしやかに囁かれる。
「だから戦争はなくならない」という証に使われる言葉として。
違う。歴史は繰り返さない。
なぜならば、それは時間だからです。
時間は後戻りしません。一方向に進んでいる。
歴史が繰り返されているように錯覚するのは、その推進が螺旋を描いて
その接点の一番近い部分が相似しているからだ。
そして、時間はある目的に向かって進んでいる。
その時の方舟の船長が私達自身の意志であると考えます。
すこしユングも入っていますが、これがここまでの哲学者たちの
考察をチェックしてみてもそう誤っていないと確信できる。
私達は時間のなかに在る。
そのなかで私達は有限の人生のなかにある。
愛も在る。それも時間のなかに在る。
形あるものは壊れてしまいますが、愛は形あるものではありません。
だから、愛を形にしてはいけないのです。
では、結婚は家族は、それを形にしてしまえば必ず壊れてしまうの?
それは形式ですから形ではないけれど、その形にこだわれば壊れます。
なんといっても人間は有限の時間のなかで生きている。
老いがあり死が存在します。江戸時代の家族は存在しません。
では永遠の愛とは存在しないのか?
時間とは記憶でもある。それは想いです、メモリー。
たとえば、結婚指や贈り物はモノでしかありませんが
そこに想いが込められその想いを受け取れれば記憶として存在します。
手作りのお弁当には想いが込められている。
アイロン掛けしてくれたズボンやシャツやハンカチには想いがある。
それを込められるか感じえるかどうか?
そこに愛があり、想いの記憶が存在します。
人間はあの世に何ももっていけません。何も残せないのです。
「子孫に美田を残さず」という言葉がありますが、形にすれば崩れてしまう。
残せるとしたら記憶だけです。
それは語り継がれていくことで永遠になりえる。
そう考えると愛はエネルギーであることが理解できるのではないでしょうか。
愛を考察するなかでのエロティシズムも時間だといわれます。
人間はこの時間の進行と変化にエロティシズムを感じる。
この世が何も変化しなければ愛は存在しません。
というか変化するから私達自身も存在するのです。
たとえば、私達はその時間に支配されている。
人生は有限ですからそれは宿命といってもいいでしょう。
そこに、夢中というものがある。そうキルケゴールが躊躇した熱狂です。
そのとき私達は時間から解放されていることに気づきませんか?
時間にも個人差があります。子供の時間と大人の時間はスピードが違います。
子供の時間は遅く、老人の時間は早い。
また、夢中な時は早く、退屈な時は遅い。
この時間のなかに私達は在る。棲息しているのです。
そして、一方通行の時間を逆行させて止めておくのが記憶です。
愛の記憶とは、異次元的タイムマシーンのようなラブマシーンであって
永遠の愛を立証するには時間が鍵なのではないか?
ここでの証は次項を参照にするとしておきます。
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