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哲学で愛を立証しようとするこの試みもサルトルで打ち止めです。
もう充分に煮詰まってきました。サルトル以降も哲学は続きますが
蛇足のように蛇行運伝して現在は無力化している。
サルトルは意識を鋭く考察し、デカルト以来の「自我」と区別しました。
無我夢中のなかのなかには自我はなく、意識だけが存在している。
この瞬間に裂け目(無)の存在(対自存在)があり、それが自由なのだと言った。
つまり、人間が生きているうえで生きるための「しがらみ」があります。
眠る、食べる、排泄する、争うなどなどであり、
痛みや悩みもそこから生まれます。そこに自我がある。
人間の望みはこの自我というしがらみからの解放である。それが自由だ。
人間が求めるもの。いうなれば人生の目的は自由だ。
だとすれば、生きていることと自我を切り離すことはできない。
それは物質化することであり死を意味する。
死ぬこと以外にそれを得られる手立てはないとのか?
ではなぜ人間は自然の摂理として生まれてきたのでしょう?
絶対になにか方策があるはずだ。
ここで考えてみる。
人間の自由を束縛するものは現実にあるしがらみです。
その現実の対極にあるものこそ、それではないのか・・・
それは、ロマンだ!
理想ともいわれますが、夢とロマンではないか。そしてそれは愛だ。
この夢とロマンと愛には、熱狂と無学夢中があります。
これがサルトルのいう自我からの解放状態である裂け目の無ではないか。
自分のことをほおっておける、つまり己を空しくさせられる(限界)状況。
「死んでもいい」と二葉亭四迷に訳されたLoveの暗号解読。
私達は愛を、自由を、正しく理解していない。
がゆえに様々な矛盾に立ち尽くしてしまうのだと思う。
無理して禁欲的に奔り挫折するか、自儘に暴走し破綻して絶望するか。
でなければ生きる屍となるか。
どの道、救われる手立ては存在しえないのだと思う。
ここで、哲学的な考察にピリオドを打ち、
ひとつの仮説を提示してみましょう。
人間が求める幸せとは自由だ。
人間を自由に解放してくれるのは愛である。
これに対する証は次項に結びます。
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