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			<title>与太郎３７度８分</title>
			<description></description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/djkxq4472</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>与太郎３７度８分</title>
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		<item>
			<title>サルトルあとを濁さず</title>
			<description>&lt;font size=&quot;3&quot; color=&quot;silver&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
哲学で愛を立証しようとするこの試みもサルトルで打ち止めです。&lt;br /&gt;
もう充分に煮詰まってきました。サルトル以降も哲学は続きますが&lt;br /&gt;
蛇足のように蛇行運伝して現在は無力化している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
サルトルは意識を鋭く考察し、デカルト以来の「自我」と区別しました。&lt;br /&gt;
無我夢中のなかのなかには自我はなく、意識だけが存在している。&lt;br /&gt;
この瞬間に裂け目（無）の存在（対自存在）があり、それが自由なのだと言った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つまり、人間が生きているうえで生きるための「しがらみ」があります。&lt;br /&gt;
眠る、食べる、排泄する、争うなどなどであり、&lt;br /&gt;
痛みや悩みもそこから生まれます。そこに自我がある。&lt;br /&gt;
人間の望みはこの自我というしがらみからの解放である。それが自由だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人間が求めるもの。いうなれば人生の目的は自由だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だとすれば、生きていることと自我を切り離すことはできない。&lt;br /&gt;
それは物質化することであり死を意味する。&lt;br /&gt;
死ぬこと以外にそれを得られる手立てはないとのか？&lt;br /&gt;
ではなぜ人間は自然の摂理として生まれてきたのでしょう？&lt;br /&gt;
絶対になにか方策があるはずだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで考えてみる。&lt;br /&gt;
人間の自由を束縛するものは現実にあるしがらみです。&lt;br /&gt;
その現実の対極にあるものこそ、それではないのか・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは、ロマンだ！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
理想ともいわれますが、夢とロマンではないか。そしてそれは愛だ。&lt;br /&gt;
この夢とロマンと愛には、熱狂と無学夢中があります。&lt;br /&gt;
これがサルトルのいう自我からの解放状態である裂け目の無ではないか。&lt;br /&gt;
自分のことをほおっておける、つまり己を空しくさせられる（限界）状況。&lt;br /&gt;
「死んでもいい」と二葉亭四迷に訳されたLoveの暗号解読。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私達は愛を、自由を、正しく理解していない。&lt;br /&gt;
がゆえに様々な矛盾に立ち尽くしてしまうのだと思う。&lt;br /&gt;
無理して禁欲的に奔り挫折するか、自儘に暴走し破綻して絶望するか。&lt;br /&gt;
でなければ生きる屍となるか。&lt;br /&gt;
どの道、救われる手立ては存在しえないのだと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで、哲学的な考察にピリオドを打ち、&lt;br /&gt;
ひとつの仮説を提示してみましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人間が求める幸せとは自由だ。&lt;br /&gt;
人間を自由に解放してくれるのは愛である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対する証は次項に結びます。&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/djkxq4472/1941267.html</link>
			<pubDate>Mon, 14 Feb 2011 16:33:30 +0900</pubDate>
			<category>アドバイス</category>
		</item>
		<item>
			<title>ヤスパースの恋愛抗争論に脱帽！</title>
			<description>&lt;font size=&quot;3&quot; color=&quot;silver&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
哲学は継承され反駁され積み重なっていきます。&lt;br /&gt;
それはテーゼとアンチテーゼのつづれ織。&lt;br /&gt;
その知のパピルスに「愛は争いだ」と記したのが我らが勇者ヤスパース。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
愛は相手を理解し、お互いが確認しあおうとする争いなのだという。&lt;br /&gt;
「愛してる？」「愛してる」これだ。&lt;br /&gt;
これは駆け引きでも勝ち負けでもない。&lt;br /&gt;
確認することで実存と実存の本来相容れない結びつきが&lt;br /&gt;
アイデンティティーの確立につながる。&lt;br /&gt;
これこそ、自己愛の確認であり、そこに無償の愛がなければそれは獲られない。&lt;br /&gt;
この一見矛盾する定理をヤスパースが大きく後押ししてくれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヤスパースによると、人間は追い込まれる極限状態、つまり崖っぷち状況でないと&lt;br /&gt;
生きている実感は得られないという。これを「限界状況」と定義しました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
限界状況でなければ人間は動かない。&lt;br /&gt;
平穏を求めるけれど、その平穏では決して動かないのが人間の性なのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私達は争いを忌み嫌います。&lt;br /&gt;
よい例が戦争ですが、それ以外にも争いはたくさんある。&lt;br /&gt;
人間関係、競争社会にあるすべての争い。&lt;br /&gt;
確かに戦争はよくない。しかしそれをもってすべての争いを封印できるものなのか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
争いを否定する手法がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なんとなく、納得できそうですが、これは喜怒哀楽を抑えようとする手法に似ている。&lt;br /&gt;
ここで喜怒哀楽の「怒」はもっとも危惧される感情として、攻撃性に結ばれる。&lt;br /&gt;
しかし、これは衝動的攻撃と戦略的攻撃にわけられている。&lt;br /&gt;
私達が気にするべきは前者のコントロールです。&lt;br /&gt;
戦略的攻撃には目的があり、その目的の内容にもよりますが、このすべてを&lt;br /&gt;
封印してしまうのは危険である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
というか、人間から感情や意志を奪ってしまうと物質化してしまい&lt;br /&gt;
人間ではなくなってしまう。&lt;br /&gt;
かといってバランスとかよい加減というテクニカル的手法では納得できない。&lt;br /&gt;
マニュアル化した教育に慣れ親しんだ私達は応用がきかないのです。&lt;br /&gt;
「矛盾する」とか「難しい」とくちを尖らせる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここでヤスパースは愛は争いであるとして、その争いには&lt;br /&gt;
「力づくの闘争」と「愛しながらの闘争」があるとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そう、私達は「愛しながらの闘争」を選択すべきなのです。&lt;br /&gt;
というのも、現実的に闘争はなくすことはできないからだ。&lt;br /&gt;
禁欲では解決しようとするのはどだい無理。&lt;br /&gt;
けれども現実の争いの不毛を前にして心優しい良識派はどうしても&lt;br /&gt;
このストイックな方策に傾いてしまいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その喉元にナイフを突き付けるようなクイズをヤスパースは提示する。&lt;br /&gt;
遭難して海に投げ出されたあなたと私が波間に浮かぶイカダを発見した。&lt;br /&gt;
しかしこのイカダは一人しか支えられない。さて、どうするか？&lt;br /&gt;
相手を自分の大切は人に置き換え提示される場合もありますが、&lt;br /&gt;
いずれにしても結果は悲劇でしかなく、困惑させられる意地悪な心理クイズです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このクイズは選択の答えに意味はありません。考えることに意味がある。&lt;br /&gt;
つまり、力ずくの闘争で得られた生には意味がないのです。&lt;br /&gt;
なぜならそこで勝利しても孤独が待っている。人間は一人では生きられない。&lt;br /&gt;
では、二人とも死ぬのか。もしくは相手に譲って自分から死を選ぶのか？&lt;br /&gt;
ヤスパースはこの「死」と向かい合う（限界状況）が&lt;br /&gt;
生きている証となるというのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
争いとは死、苦しみ、罪責を与えあうものです。&lt;br /&gt;
たとえ、その時勝利しても、次回勝利できるとは限らない。&lt;br /&gt;
そこに不安と恐怖が存在している。&lt;br /&gt;
しかし、その争いに愛を重ね合わせたらどうでしょう。&lt;br /&gt;
自分のため、ではなく。愛するもののために生きる、死ぬ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たとえば、もっとも身近な、大切な、愛する人の死と直面したとする。&lt;br /&gt;
愛すればこそ、そこに記憶が残ります。その想い出を抱いて残されたものは生きる。&lt;br /&gt;
有限の人生のなかに死は存在しますが、愛は死と時間を超えてしまう。&lt;br /&gt;
ここに永遠が存在します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ブラボー！ ヤスパース　汝は知の勇者なり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この証として&lt;font size=&quot;1&quot; color=&quot;silver&quot;&gt;&lt;br /&gt;
【生きることと死ぬことは同じ】&lt;br /&gt;
宮本輝の作品や『ゲド戦記』にも登場した等価生死観です。&lt;br /&gt;
「命を惜しむな名を惜しめ」という戦国武将の心意気を補足しておきます。&lt;br /&gt;
また、イカダの意地悪クイズから愛の永遠については、映画『タイタニック』のラストで沈んでいったディカプリオと生還したヒロインを思い浮かべていただくと解りやすいかも。&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/djkxq4472/1940252.html</link>
			<pubDate>Mon, 14 Feb 2011 15:27:46 +0900</pubDate>
			<category>アドバイス</category>
		</item>
		<item>
			<title>ハイデガーのラブマシーン</title>
			<description>&lt;font size=&quot;3&quot; color=&quot;silver&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さあ気を取り直してハイデガーの登場です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「存在と時間」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これにてハイデガーの解説はおしまい。あとは勝手に話を進めます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
存在とは時間なのだ。&lt;br /&gt;
愛が存在するとすれば、それは時間だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
形、物質ではないものの存在を明らかにすることは難しいものです。&lt;br /&gt;
しかし、私達人間は物ではない。意志があります。&lt;br /&gt;
それを封印すれば、人間は生きる屍と化してしまう。&lt;br /&gt;
そこに本能を持ち出して犬猫と同等に拡大解釈してしまう人もありますが、&lt;br /&gt;
彼らには善悪の意識はない。せいぜい怒られるからやらない。という&lt;br /&gt;
利害の学習効果だけです。&lt;br /&gt;
人間には自然と身につけた倫理観というか善悪を見抜くセンスがあります。&lt;br /&gt;
それを精神とするか、魂とするか、は別としてそれは在る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで時間というものがようやく提示されました。&lt;br /&gt;
すべてはここに在る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たとえば、歴史は繰り返すとまことしやかに囁かれる。&lt;br /&gt;
「だから戦争はなくならない」という証に使われる言葉として。&lt;br /&gt;
違う。歴史は繰り返さない。&lt;br /&gt;
なぜならば、それは時間だからです。&lt;br /&gt;
時間は後戻りしません。一方向に進んでいる。&lt;br /&gt;
歴史が繰り返されているように錯覚するのは、その推進が螺旋を描いて&lt;br /&gt;
その接点の一番近い部分が相似しているからだ。&lt;br /&gt;
そして、時間はある目的に向かって進んでいる。&lt;br /&gt;
その時の方舟の船長が私達自身の意志であると考えます。&lt;br /&gt;
すこしユングも入っていますが、これがここまでの哲学者たちの&lt;br /&gt;
考察をチェックしてみてもそう誤っていないと確信できる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私達は時間のなかに在る。&lt;br /&gt;
そのなかで私達は有限の人生のなかにある。&lt;br /&gt;
愛も在る。それも時間のなかに在る。&lt;br /&gt;
形あるものは壊れてしまいますが、愛は形あるものではありません。&lt;br /&gt;
だから、愛を形にしてはいけないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では、結婚は家族は、それを形にしてしまえば必ず壊れてしまうの？&lt;br /&gt;
それは形式ですから形ではないけれど、その形にこだわれば壊れます。&lt;br /&gt;
なんといっても人間は有限の時間のなかで生きている。&lt;br /&gt;
老いがあり死が存在します。江戸時代の家族は存在しません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では永遠の愛とは存在しないのか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時間とは記憶でもある。それは想いです、メモリー。&lt;br /&gt;
たとえば、結婚指や贈り物はモノでしかありませんが&lt;br /&gt;
そこに想いが込められその想いを受け取れれば記憶として存在します。&lt;br /&gt;
手作りのお弁当には想いが込められている。&lt;br /&gt;
アイロン掛けしてくれたズボンやシャツやハンカチには想いがある。&lt;br /&gt;
それを込められるか感じえるかどうか？&lt;br /&gt;
そこに愛があり、想いの記憶が存在します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人間はあの世に何ももっていけません。何も残せないのです。&lt;br /&gt;
「子孫に美田を残さず」という言葉がありますが、形にすれば崩れてしまう。&lt;br /&gt;
残せるとしたら記憶だけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは語り継がれていくことで永遠になりえる。&lt;br /&gt;
そう考えると愛はエネルギーであることが理解できるのではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
愛を考察するなかでのエロティシズムも時間だといわれます。&lt;br /&gt;
人間はこの時間の進行と変化にエロティシズムを感じる。&lt;br /&gt;
この世が何も変化しなければ愛は存在しません。&lt;br /&gt;
というか変化するから私達自身も存在するのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たとえば、私達はその時間に支配されている。&lt;br /&gt;
人生は有限ですからそれは宿命といってもいいでしょう。&lt;br /&gt;
そこに、夢中というものがある。そうキルケゴールが躊躇した熱狂です。&lt;br /&gt;
そのとき私達は時間から解放されていることに気づきませんか？&lt;br /&gt;
時間にも個人差があります。子供の時間と大人の時間はスピードが違います。&lt;br /&gt;
子供の時間は遅く、老人の時間は早い。&lt;br /&gt;
また、夢中な時は早く、退屈な時は遅い。&lt;br /&gt;
この時間のなかに私達は在る。棲息しているのです。&lt;br /&gt;
そして、一方通行の時間を逆行させて止めておくのが記憶です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
愛の記憶とは、異次元的タイムマシーンのようなラブマシーンであって&lt;br /&gt;
永遠の愛を立証するには時間が鍵なのではないか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここでの証は次項を参照にするとしておきます。&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/djkxq4472/1932521.html</link>
			<pubDate>Sun, 13 Feb 2011 22:25:02 +0900</pubDate>
			<category>その他恋愛</category>
		</item>
		<item>
			<title>キルケゴールの情熱的忍ぶ恋</title>
			<description>&lt;font size=&quot;3&quot; color=&quot;silver&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ニーチェから熱狂の重要性を導き出しましたが、&lt;br /&gt;
それまでの哲学は客観的な姿勢から真理を追究してきました。&lt;br /&gt;
宇宙とかこの世とか物事すべてを客観的に冷静に捉える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、本音はそんなことどうでもいい。&lt;br /&gt;
私達が一番気になるのは、「私の」ことなのだ。&lt;br /&gt;
あるかないかではなく、私は存在する。これを実存主義といいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キルケゴールは私の悩みの解決に集約させていきます。&lt;br /&gt;
それは恋愛の悩みでもある。そして、私である主体が真理なのだ。&lt;br /&gt;
あれなんてどうでもいい。これが重要なのだと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「そんなことどうでもいいじゃん。お金儲けて面白おかしく楽しく生きれば」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と考える人は多いものです。それは正しい。&lt;br /&gt;
キルケゴールはそういった享楽的快楽主義を「美的実存段階」とした。&lt;br /&gt;
その美とは成功や快楽を指します。&lt;br /&gt;
そういうふうにいければいいのですが、そういうふうにいけない。&lt;br /&gt;
だから問題なのです。内的に外的にそうは問屋が卸さないのだ。&lt;br /&gt;
これは絶対にいかないと断言できる。&lt;br /&gt;
しかし、その信奉者はそれに固執します。だから苦悩すると&lt;br /&gt;
キルケゴールはその不効率を説くわけだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では、どうするか？&lt;br /&gt;
もっと手堅く「倫理的実存段階」に乗り換えたほうがダメージが少ないという。&lt;br /&gt;
これは読んで字のごとく、地道に真面目に良心的に誠実に生きる。ということです。&lt;br /&gt;
えっ？　なんか堅苦しい？&lt;br /&gt;
でも、傷ついて立ち直れなくて凹んで絶望するのは嫌ですよね。&lt;br /&gt;
特に最近の私達は傷つくことをもっと忌み嫌う。&lt;br /&gt;
がゆえに恋愛さえも封印してしまおうとします。でなければ&lt;br /&gt;
客観的真理とやらを持ち出して割り切ってしまうか、です。&lt;br /&gt;
キルケゴールはだから倫理的実存段階に乗り換えろと勧める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
けれども、その倫理的実存段階でも万全ではない。&lt;br /&gt;
それを用いれば決定的な大事故は避けられますよという&lt;br /&gt;
シートベルトのようなものです。&lt;br /&gt;
向こう見ずに首都高を大型バイクで疾走するのではなく&lt;br /&gt;
燃費のよい軽自動車でシートベルトしてマイペースで行きましょう。&lt;br /&gt;
それでも事故にあわないってことはない。相手のあることですからね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最終的には「宗教的実存段階」というので行き着くのだそうですが、&lt;br /&gt;
これはここでは触れない。はやい話が車から降りて家で写経でもしてなさい。&lt;br /&gt;
ってことだとしておきましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんななかで、キルケゴールは挫折や絶望こそに、発展や進歩があるという。&lt;br /&gt;
湿布のCMではありませんが「縮んで伸びる」です。&lt;br /&gt;
それもまた納得の一杯ではある。&lt;br /&gt;
彼もまた倫理的な前向きな人間であり、目的意識のハッキリした実存主義者なのですね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、ここに落とし穴があった。がゆえに、彼は痛恨の失敗をしてしまう。&lt;br /&gt;
それは恋愛において知的倒錯に陥ってしまったのでした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
簡単に紹介すれば、大恋愛相思相愛の相手との結婚を前に、&lt;br /&gt;
キルケゴールは突如婚約を解消させてしまう。&lt;br /&gt;
いったい何が起きたのか？　&lt;br /&gt;
心変わりした？　いえ、彼はその後もずっとその女性を愛していました。&lt;br /&gt;
その真相はいまだかって明らかにされていない謎のママです。&lt;br /&gt;
彼の思想から推理してみましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
美的実存主義から倫理的実存主義への乗り換えを提唱するこの哲学者は&lt;br /&gt;
ふと、結婚を前に自分が美的実存主義に陥っているのではないかと懐疑した。&lt;br /&gt;
もしそうであれば、この結婚の末路は・・・破綻する。&lt;br /&gt;
それは彼女を傷つけることでもあり幻滅させ落胆させることになる。&lt;br /&gt;
絶望することになるのではないかと考えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
であるならば、彼女を愛しているからこそ&lt;br /&gt;
この結婚をやめてしまおうと考えたと、推察してみる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なんともはや『葉隠』の「忍ぶ恋」ではないですか。&lt;br /&gt;
しかし、絶望から進歩が生まれるのであれば・・・&lt;br /&gt;
そうかあ、キルケゴールは結婚の破綻による絶望ではなく&lt;br /&gt;
結婚をあきらめる絶望を選んだわけだ。&lt;br /&gt;
その残酷に対する前か後かの強弱と、愛する彼女の関与の度合いを加味して。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なんとなく切なくもありますが、このキルケゴールの忍ぶ恋って、&lt;br /&gt;
当の彼女からすれば間抜けと移ったかもしれません。&lt;br /&gt;
やっぱり「実存」ってことにこだわり過ぎている。&lt;br /&gt;
それは今風にいえば「自己中」といわれても仕方がない。&lt;br /&gt;
考えすぎたわりには結果は浅はかだったとではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
何が足りなかったのか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
熱狂が足りなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
客観的なスタンスの哲学を否定して実存主義を提示した&lt;br /&gt;
キルケゴールでしたがどこかで客観的で熱狂に腰が引けてしまった。&lt;br /&gt;
そして実存だけに傾いたがゆえに本筋を読み違えたのではないでしょうか。&lt;br /&gt;
そして、キルケゴールは失恋しました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここでの証は&lt;font size=&quot;1&quot; color=&quot;silver&quot;&gt;&lt;br /&gt;
【自己に閉じ込められ自己にこだわっている間は世界を真に見ることができない&lt;br /&gt;
　自己が自由に、自在に動くとき世界もいきいきと生動する】（by道元）&lt;br /&gt;
【絶望は愚か者の結論である】&lt;br /&gt;
言葉尻をとらえるようで気がひけますが、キルケゴールが使った「絶望」は&lt;br /&gt;
立ち直れないほどの挫折であるわけですから、そこから発展進歩のヒントに&lt;br /&gt;
なるとするのは無理がある。&lt;br /&gt;
また、自らそれを利用するという発想も他力本願とか受動的でもあり、&lt;br /&gt;
それは震災や戦争によって新しい未来や原点回帰を求める愚者の発想にも&lt;br /&gt;
似ているかもしない。&lt;br /&gt;
すこし酷な指摘ですが、絶望という言葉を不用意に使った浅はかさとして&lt;br /&gt;
哲学者としては減点かもしれません。たとえ訳者の誤訳であっても&lt;br /&gt;
彼の行動がそれを証明している。&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/djkxq4472/1932420.html</link>
			<pubDate>Sun, 13 Feb 2011 22:21:56 +0900</pubDate>
			<category>アドバイス</category>
		</item>
		<item>
			<title>ニーチェの極道ニヒリズム</title>
			<description>&lt;font size=&quot;3&quot; color=&quot;silver&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、哲学史上最大の超人ニーチェの登場です。&lt;br /&gt;
この苦悩の満ちた世界（恋愛）を直視してショーペンハウアーは&lt;br /&gt;
禁欲でなんとかなしようとした。ニーチェはそれを認めつつも考えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人間の（生きる生きようとする）意志をは無限の力の意志である。&lt;br /&gt;
それを愛する愛したいという意志と置き換えてもいい。&lt;br /&gt;
もともと人間自体は非力なものだから現実のなかでそれを抑えつけることは無理だ。&lt;br /&gt;
これがショーペンハウアーの矛盾だ。&lt;br /&gt;
それならば否定ではなくて肯定して昇華させていまえばどうだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、この生命力の本質に狂乱と陶酔といった激情を読みとるのです。&lt;br /&gt;
非合理なパワーなものです。&lt;br /&gt;
それは理性と表裏一体のものでもある。&lt;br /&gt;
このダイナミックな発想の転換がニーチェの凄味です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、ここから発展していくニヒリズムは現実の事象すべてを否定しかねない。&lt;br /&gt;
神さえ死んだ。と表現したニーチェに対する風当たりと誤解はいまも存在する。&lt;br /&gt;
しかし、ニーチェのニヒリズムはひと味違う「能動的」なもので、&lt;br /&gt;
運不運、勝ち負けなどの事象に一喜一憂し、いじけたり嫉妬したり&lt;br /&gt;
悩み苛んだりするのではなくニヒリズムで（消極的）ニヒリズムを克服するという&lt;br /&gt;
（能動的）ニヒリズムなのだといいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
極める、ニヒリズム道ってところですかね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・・・あまりここで深く追求すると哲学的で（あたりまえですが）&lt;br /&gt;
難しくなるので、簡単に解説して愛の考察に移りますが、&lt;br /&gt;
要は最初から意味のないことなのだからクヨクヨしないで楽しもうという感じです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すこし話を逸らしますが、この世の事象であるラッキー、アンラッキーも&lt;br /&gt;
時間軸のジャッジから万事「塞翁が馬」でもある。&lt;br /&gt;
この世を人生を一幕の舞台として私達はその主人公であり&lt;br /&gt;
悲劇であろうと喜劇であろうとそれをどう楽しんで上手く演じるか。&lt;br /&gt;
極めるとは一生懸命の上にある楽しむということだともいいます。&lt;br /&gt;
また、一喜一憂するがゆえに、その事象にこだわり過ぎて御都合主義的に&lt;br /&gt;
暴走し理性を失ってしまうのが人間です。&lt;br /&gt;
そこに苦悩や嫉妬や憎悪が生まれて私達を苛んでしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ニーチェは運命愛という言葉で&lt;br /&gt;
どんな過酷な人生をも引き受ける覚悟が必要だと説きます。&lt;br /&gt;
人生はゲームといわれますが、ニーチェはそれならばこそ楽しもうと言う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なかなか厳しい覚悟です（汗）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで愛の考察としてピックアップしたいのはそういった覚悟ではなく、&lt;br /&gt;
「生命力の本質に狂乱と陶酔といった激情」という一点だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
恋愛は刺激であるとしました。これこそが狂乱と陶酔の激情ではないか！&lt;br /&gt;
愛は生命力の本質でもある。&lt;br /&gt;
図式にすれば、&lt;br /&gt;
生命力≧愛（恋愛）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ということがいえる。&lt;br /&gt;
愛は生命力の源でもある。それは理性と対岸にあり表裏一体のものだ。&lt;br /&gt;
熱狂する、できる場こそが人間の幸福な瞬間であり永遠ではないのか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
であれば愛（恋愛）は熱狂以外の何者でもない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして私達はそれを求めている。&lt;br /&gt;
決して誰に則されたわけではないのに、自然に本能として。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その証として&lt;font size=&quot;1&quot; color=&quot;silver&quot;&gt;&lt;br /&gt;
【狂の思想】&lt;br /&gt;
これを最初に説いたのは孔子で「論語」に人間を三分類したうちのひとつに&lt;br /&gt;
「狂・狷」がありました。&lt;br /&gt;
それを孟子は理想主義で言行不一致、不潔を嫌うと解説しました。&lt;br /&gt;
後に陽明学で「狂」は聖人となるために真の道であると信奉され、&lt;br /&gt;
幕末の吉田松陰もそれに強く影響を受けた一人です。&lt;br /&gt;
理想を高く持ち、何の虚飾も、隠しだてもなく、心のままに率直に行動する。&lt;br /&gt;
もし過失があっても改めればよしというものです。&lt;br /&gt;
世俗社会の常識に真っ向から挑戦する実践的理想主義といえるでしょう。&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/djkxq4472/1915364.html</link>
			<pubDate>Sun, 13 Feb 2011 09:43:55 +0900</pubDate>
			<category>アドバイス</category>
		</item>
		<item>
			<title>ショーペンハウアーの寝小便</title>
			<description>&lt;font size=&quot;3&quot; color=&quot;silver&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人生もそうですが、素晴らしい愛もつらく切ないものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
哲学史上ネガティブ思考の第一人者ショーペンハウアーによれば&lt;br /&gt;
ひとつの欲望が満たされても、それに対する満たされぬ一〇の願望が&lt;br /&gt;
置き去りにされたままなのだと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして欲望は長期的に継続し、欲求は無限に果てしないという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その克服法を即効的な一時しのぎであれば&lt;br /&gt;
芸術鑑賞と他人との同苦でとしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
悲劇は、効果の大きな点でも遂行の困難な点でも文芸の頂点である。&lt;br /&gt;
名状しがたい苦痛、悲嘆、不条理、救いのない顛末が諦めの境地を&lt;br /&gt;
目撃したとき、私達は救われるそうです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
失恋したときはそういったDVDで癒すののも手かもしれません。&lt;br /&gt;
しかし、それも頭痛のバファリン程度のものでしかない。&lt;br /&gt;
抜本的な解決法は・・・「禁欲」なのだと彼は説く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
禁欲？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つまり、その苦しみの原因は「意志」にある。&lt;br /&gt;
従って、その意志がなくなれば、欲求もなくなるわけだと。&lt;br /&gt;
そのためには意欲の脈絡すべてを断ち切ってしまうが一番だといいます。&lt;br /&gt;
はなしてそんな禁欲できるのでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんなの絶対に無理だ！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たとえそれがそうだとしても、それが真理であったとしても&lt;br /&gt;
物理的に不可能なお題目では意味がない。&lt;br /&gt;
毎日24時間勉強したら東大に合格できる。といった類のものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でもそういったストイックな信奉者って結構いますよね。&lt;br /&gt;
ニヒリズム（虚無主義）というか、ひと昔はニヒルなんて言葉がありました。&lt;br /&gt;
もう少しオシャレにすればペシミズム（悲観・厭世主義）でしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ショーペンハウアーは「ハリネズミ（ヤマアラシ）のジレンマ」の寓話で&lt;br /&gt;
御存知の方も多いかもしれません。&lt;br /&gt;
寒空に二匹のハリネズミが身を寄せて暖め合おうとするが、&lt;br /&gt;
お互いの針が刺さり、障害となって離れる。そこで体を離すと今度は寒さが身に染みる。&lt;br /&gt;
それを繰り返す内に適当な距離を見つけ出せるようになる。というお話。&lt;br /&gt;
この寓話は対人関係の二律背反性を表すために用いられるもので、&lt;br /&gt;
この葛藤は互いに傷付かない距離を保持しようとする対人関係に例えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは心理療法でよく使われているようですが、分析の域を超えていない。&lt;br /&gt;
最初にショーペンハウアーをネガティブとしたのも、ハリネズミの針ばかりに&lt;br /&gt;
気が注がれているからです。お腹の部分には針はなくて柔らかなのですから&lt;br /&gt;
視点はそこに注がれてハグすべきだったのではないのか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現代に私達がいかに傷つくことばかりを怖れているかの現れですね。&lt;br /&gt;
また、我慢しなければ成し得ない禁欲法も却下。&lt;br /&gt;
そういったわけでショーペンハウアーは座布団没収です。&lt;br /&gt;
ただし、ヒントとしてこの反対側、つまり背部の針ではなく腹部のふわふわに&lt;br /&gt;
愛の真実があるような気がします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その証としては&lt;font size=&quot;1&quot; color=&quot;silver&quot;&gt;&lt;br /&gt;
【他人の不幸は蜜の味】&lt;br /&gt;
嫌な言葉ですが実際にそを喜ぶ脳内のメカニズムが脳科学的に証明されたそうです。&lt;br /&gt;
他人をいじめて悦ぶ脳内物質の分泌もあるとか。&lt;br /&gt;
ただし、気をつけないと副作用というか弊害がありそうです。&lt;br /&gt;
【馬にはのってみろ人には添ってみろ】説明省略&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/djkxq4472/1914710.html</link>
			<pubDate>Sun, 13 Feb 2011 08:55:08 +0900</pubDate>
			<category>アドバイス</category>
		</item>
		<item>
			<title>ヘーゲルに座布団三枚！</title>
			<description>&lt;font size=&quot;3&quot; color=&quot;silver&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
積み重さなれていく哲学という知の積み木。&lt;br /&gt;
そのなかでヘーゲルは古典的ギリシャ哲学に終止符を打ったとされる。&lt;br /&gt;
それは宇宙の秘密を解明したという。&lt;br /&gt;
正確にその解明法を発見したということです。それが弁証法だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では、その弁証法で愛の謎を解き明かすとすれば&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず「愛」を規定し、固定化し固執してみる。（1）&lt;br /&gt;
次に、その愛の規定に対する矛盾する規定して、愛を規定することが&lt;br /&gt;
片手落ちであることを認識する。（2）&lt;br /&gt;
二つの相反する愛の規定を総合的に判断して&lt;br /&gt;
その対象の完全な規定を理解する。（3）&lt;br /&gt;
この三段階の思考プロセスを弁証法というのですが、さっぱり解りませんね（汗）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヘーゲルの弁証法はこの三段階のプロセスから一端解決させて、さらに&lt;br /&gt;
そこからの新たな矛盾を解決させていく作業を繰り返しいくそうです。&lt;br /&gt;
弁証法は濾過紙のようなもので、それを何度も繰り返すうちに&lt;br /&gt;
純正の真理に近づけるというものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では、その弁証法で愛の真実を解き明かしてみましょう！&lt;br /&gt;
（1）愛は素晴らしい。愛は地球を救う。人を愛することは素晴らしい。&lt;br /&gt;
（2）とはいっても、愛だけでは生きていけない。&lt;br /&gt;
お金がなければ生きてはいけないし、結婚したら誰でもかれでも愛せない。&lt;br /&gt;
好き嫌いもあるから誰でも彼でも愛せない！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と、ここまではスムーズですが、（3）の矛盾解決の段階でつまずいてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、大上段に最初から画一的な愛の本丸を攻めようとするから&lt;br /&gt;
無理があるのかもしれません。もっと身近な個人的な愛で探ってみましょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（1）正夫が好き。愛している。&lt;br /&gt;
（2）でも正夫は安月給のサラリーマン。一緒になっても大丈夫？&lt;br /&gt;
となって、（1）と（2）の対立が生まれて葛藤します。そして、&lt;br /&gt;
（3）子供ができるまでは夫婦共稼ぎでガンバルから大丈夫！&lt;br /&gt;
私達の愛は障害を乗り越えたわ。この愛は真実なのよ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
で、まずはメデタシメデタシです。真実の愛に一歩近づきました。&lt;br /&gt;
この後に、彼女は正夫のイビキや浮気疑惑、そして正夫のリストラなどと&lt;br /&gt;
自分の真実の愛の矛盾を弁証法で解決させて真実の愛を手に入れる。&lt;br /&gt;
という具合です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参考になりますかあ？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とにかく、人間はトラブルやアクシデントがあってこそ、&lt;br /&gt;
それを（矛盾を）乗り越えようとして進歩する。&lt;br /&gt;
どこに進むのかというと真実、真理に近づけるのだとヘーゲルは考えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なるほど、障害のある恋愛ほど萌えるといいますものね。&lt;br /&gt;
人間は常に満たされる平穏を求めています。が、それは逆に退屈にも変わる。&lt;br /&gt;
人間が頭脳をフル回転させて行動を起こせるのはピンチのときです。&lt;br /&gt;
それはプレッシャーだったりストレスだったりトラブルやアクシデントとして&lt;br /&gt;
私達に訪れる。これは誰も避けられるものではない。&lt;br /&gt;
そういう意味で、恋愛はまさにピンチのパンドラの箱だ。&lt;br /&gt;
なんでそんな厄介なものを私達は欲するのでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヘーゲルは物質の正体は「重さ」であるが、&lt;br /&gt;
人間の精神の実態・本質は「自由」であると言い切ります。&lt;br /&gt;
すべては自由によって成り立っていて、そのために行動しているのだと。&lt;br /&gt;
ここにも「自由」というキーワードが登場しました。&lt;br /&gt;
前項で人間が本能的欲求だけでは動かないとしましたが、&lt;br /&gt;
その人間のみにインプットされた知的本能があるとすれば、それは自由の渇望であるのではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが人間の行動原理の目的になっている。&lt;br /&gt;
ということは、恋愛もまた自由を求める手段なのではないかと&lt;br /&gt;
仮定してみるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
えっ？なんで？　恋愛は束縛でもあって、結婚はまさにそれではないか！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と異論を唱える方々もいるでしょう。&lt;br /&gt;
結婚は制度ですからここではスルーしますが、&lt;br /&gt;
恋愛は自由へのパスポートであると考えられなくもない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つまり、この堂々巡りのような弁証法をどこまで続けるのか、という点です。&lt;br /&gt;
ここにも最終段階、決着があるといいます。&lt;br /&gt;
そのゴールは「和解と宥和」なのだと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人間は対立しながらも（他者や問題、矛盾などに）&lt;br /&gt;
お互いを赦しあうにところに到達するのだといいます。&lt;br /&gt;
これを相互認証という。&lt;br /&gt;
ここに神が存在する。そこに自由があり、人間は自由によって解放される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人間の究極の欲求は解放されたいのだ！&lt;br /&gt;
つまり、人間の生きる目的は自由である。&lt;br /&gt;
ではなぜ恋愛が自由を獲るためのパスポートなのか？&lt;br /&gt;
それは、愛するもの存在が自己の封印を解いてくれるからです。&lt;br /&gt;
自分のことをほおっておいておける熱中や熱狂がそこにあるからだ。&lt;br /&gt;
私達を不自由にしている要因は、自分のことを第一として考えてしまう&lt;br /&gt;
生物生存の摂理にほかならない。&lt;br /&gt;
生きるためという宿命に私達は縛られている。&lt;br /&gt;
それを解き放つのは熱狂という刺激なのです。&lt;br /&gt;
恋愛にはそれがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その証としては&lt;font size=&quot;1&quot; color=&quot;silver&quot;&gt;&lt;br /&gt;
【死んでもいい】&lt;br /&gt;
明治期に西洋から入ってきた「Love」という外来語をどう訳すか？&lt;br /&gt;
日本人は苦心したすえに「愛」という言葉に置き換えた。&lt;br /&gt;
それがまだ普及する前に、知識人たちの間でそれを自分流にどう訳すかが&lt;br /&gt;
座興のクイズとなっていた。夏目漱石は「月が綺麗ですね」と訳しましたが、&lt;br /&gt;
二葉亭四迷は「死んでもいい」といった。&lt;br /&gt;
愛には熱狂がある。それは自由に向かっている。&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/djkxq4472/1892132.html</link>
			<pubDate>Sat, 12 Feb 2011 10:29:06 +0900</pubDate>
			<category>アドバイス</category>
		</item>
		<item>
			<title>本能という言い訳を却下したカント</title>
			<description>&lt;font size=&quot;3&quot; color=&quot;silver&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この世の法則を提示して、愛にもその法則があるとしました。&lt;br /&gt;
じゃあこの世ってなに？&lt;br /&gt;
カントは時間と空間という枠組みから認識するというルールを拵えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこからここでは本能について考えてみたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
所詮、人間は動物的な本能に逆らえないといわれたりする。&lt;br /&gt;
下半身に人格はないとか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たとえば、男子諸君ならば始皇帝のように何千人という美女を獲て&lt;br /&gt;
酒池肉林のハーレムを夢見たりするものです。&lt;br /&gt;
しかし、現実にそうなったとしてはたしてそうするか？&lt;br /&gt;
「そりゃするよ」と即答する方はそれでもいいのです。&lt;br /&gt;
そこでハタと考える人がいたら続きを読んでみてください。&lt;br /&gt;
据え膳食わぬは男の恥といいますが、はたしてそう割り切れるのだろうか？&lt;br /&gt;
だとしたら何もわざわざ「恥」という言葉を持ち出して背&lt;br /&gt;
中を押す必要もないのではないか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、女性であっても白馬の王子様を夢見たりします。&lt;br /&gt;
けれども、アイドルに憧れてはいても実際にそのアイドルが目の前に現れて&lt;br /&gt;
ちょっとそこのシティーホテルでベッドインと言って、はいはいとついていくか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なんとカントは戸惑うのではないかと考えた。&lt;br /&gt;
臆病？　いえ、カントはそれを道徳の法則として、人間の尊厳としての&lt;br /&gt;
自由と考えました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当然、する自由もある。しかし、しない自由もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つまり人間は本能だけで左右されるものではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本能的な欲求は存在します。しかし、それに対する抑制が働くわけです。&lt;br /&gt;
ここが他の動物と違うところです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この世で善悪をジャッジするは至難の業です。&lt;br /&gt;
それは合理論では無理ともいえる。経験論でも無理。&lt;br /&gt;
独善に陥るのがオチですが、がしかし私達は理性や良心というもので&lt;br /&gt;
それをジャッジすることはできる。たとえそれが独善であっても。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人間は恋愛という不条理な行為を行う生き物です。&lt;br /&gt;
心理学等ではそれを本能と結びつけて考察しますが、&lt;br /&gt;
どうも合点がいかないことがいくつかある。&lt;br /&gt;
ひとつは本能としての種の保存。&lt;br /&gt;
男は種を撒き、女はそれを育てるという役割がある。&lt;br /&gt;
しかし、恋愛はそれを目的にするものではない。それはあくまでも結果でしかない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
種の保存が最大目的ならばもっと効率よくあるべきだ。&lt;br /&gt;
性的快楽というならば、これほどに感情に左右されることはないはずだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尊厳と自由&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このカントの言い分にも一理はあると思うのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その証としては、&lt;font size=&quot;1&quot; color=&quot;silver&quot;&gt;&lt;br /&gt;
【人はパンのみにて生くるにあらず】新約聖書「マタイによる福音書」第４章&lt;br /&gt;
人間の基本的欲求には食欲・性欲・睡眠欲の三大欲求があげられるが、&lt;br /&gt;
内発的欲求として好奇欲（知的、活動的）や感情的な快不快に反応する情緒的動機や社会的欲求などもあげられる。&lt;br /&gt;
【武士は食うわねど高楊枝】&lt;br /&gt;
見栄というのも確かに存在はするが・・・&lt;br /&gt;
無論、本能自体を否定するものではありません。&lt;br /&gt;
たとえば、猿に自慰行為を教えると死ぬまでそれを続けるといわれます。&lt;br /&gt;
動物世界での発情期のオスは見境がない。メスは優勢遺伝にこだわりますが。&lt;br /&gt;
また、基本的に一夫多妻制でもあり、鳥類などは一夫一婦制でもある。&lt;br /&gt;
人間はどちらにもあたらない。ここには個人差があるけれど、いわゆる本能だけに支配されているわけではないの&lt;br /&gt;
証でもある。&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/djkxq4472/1892088.html</link>
			<pubDate>Sat, 12 Feb 2011 10:26:30 +0900</pubDate>
			<category>アドバイス</category>
		</item>
		<item>
			<title>ライプニッツのラブ間の法則</title>
			<description>&lt;font size=&quot;3&quot; color=&quot;silver&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
愛はエネルギーであるとしました。&lt;br /&gt;
この仮説を裏付けとしてライプニッツを登場させましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
デカルトが世界を幾何学的に捉えたのに対して、&lt;br /&gt;
ライプニッツは能動的な運動エネルギーと捉えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天には意志がある。宇宙には意志がある。&lt;br /&gt;
万物には意志があり、それはエネルギーである。&lt;br /&gt;
これが因果関係をもって動いているというわけだ。&lt;br /&gt;
私達人間にも意志がある。&lt;br /&gt;
物体は自分で動くことはない。なにかしら外部からのエネルギー（力）を&lt;br /&gt;
加えられて動くものである。&lt;br /&gt;
私達が自分の意志を抑えて動かざる負えないといういうことは&lt;br /&gt;
物体化していることであり、不自然であり、不協和音を醸すわけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この宇宙の法則性をライプニッツは「ラブマの法則」とした。&lt;br /&gt;
それは調和であると。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ということは愛にも法則があり、それは調和である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
相性と解してみるとわかりやすいですね。&lt;br /&gt;
心の相性もあれば、肌の相性もある。つまりセックスも相性でり、&lt;br /&gt;
それは調和であると考えられる。&lt;br /&gt;
離婚や破綻の原因には「性格の不一致」があげられているが、&lt;br /&gt;
この「性」にはセックスの問題が大きく占めているのだといわれます。&lt;br /&gt;
だから、絶倫が良いとか悪いとか簡単にいえない。&lt;br /&gt;
当然、自分だけよければいいというのでは不協和音となってしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
恋愛をダンスにたとえれば、当然ここに個人差があります。&lt;br /&gt;
上手い下手は強弱や能力と考えてみる。&lt;br /&gt;
上手同士なら上手くいきでしょう。と誰でも考えるものです。&lt;br /&gt;
だからみんな上手なパートナーを求める。&lt;br /&gt;
上手なパートナーならば、上手にリードしてくれますからね。&lt;br /&gt;
とは別に、&lt;br /&gt;
下手は下手同士で案外うまくやれるかもしれない。それなりに楽しむこともできる。&lt;br /&gt;
それもまた調和です。&lt;br /&gt;
ただ、相手がそれで満足してくれればいいのですが・・・&lt;br /&gt;
最初はそれでいい気分でしたが、やがてそれが負い目になったり疑心暗鬼に陥ったり・・・&lt;br /&gt;
いつまでたっても上達しないってこともある。&lt;br /&gt;
調和が乱れることもあるのものです。&lt;br /&gt;
実際に上手なパートナーが心変わりすることだってあるわけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男女間の破綻もそうだけれど、この世には犯罪や諍いや戦争などという&lt;br /&gt;
不協和音が存在する。&lt;br /&gt;
すべては不自然な調和を見出す不協和音といえるだろう。&lt;br /&gt;
それを奏でるのは人間であって、調和を見出すのはエゴに他ならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
愛の考察として、それ自体を賛美するむきもあるけれど&lt;br /&gt;
愛はエネルギーであり、それを育むためには互いが調和を&lt;br /&gt;
つまり相手を思いやる気持が大切なのだと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは善意と誠実さであり、信じあう気持であるとしてみよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでも誤解がある？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは信じあうエネルギーが足りなかっただけではないだろうか。&lt;br /&gt;
哲学的な考察における因果や法則性を引き出せば&lt;br /&gt;
愛の謎も一網打尽といえるのかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その証としては、&lt;font size=&quot;1&quot; color=&quot;silver&quot;&gt;&lt;br /&gt;
【風が吹いたら桶屋が儲かる】&lt;br /&gt;
風が吹いて土ぼこりが立つ→それが目に入って盲人が急増→盲人が三味線を買う（当時の盲人が就ける職に由来）→三味線に猫皮を使うことから猫が狩られる→猫が急減し鼠が急増→鼠が桶をかじる→桶の需要が増えて桶屋が儲かる&lt;br /&gt;
まったく関係ないような出来事が意外な結果の原因である因果関係を説明するときに使う諺。&lt;br /&gt;
【信じる者は救われる】解説不要&lt;br /&gt;
【割れ鍋に綴じ蓋】（われなべにとじぶた）&lt;br /&gt;
欠点があってもお互いがピッタリと調和してしっくりいく似たもの同士の&lt;br /&gt;
カップルがうまくいく諺。&lt;br /&gt;
【三年目の浮気ぐらい大目にみろよ】意味不明&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/djkxq4472/1878734.html</link>
			<pubDate>Fri, 11 Feb 2011 20:26:08 +0900</pubDate>
			<category>アドバイス</category>
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			<title>デカルトの落とし穴</title>
			<description>&lt;font size=&quot;3&quot; color=&quot;silver&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代は一気に16世紀に飛びます。&lt;br /&gt;
この間、人類は様々な試行錯誤く繰り返します。&lt;br /&gt;
その結果、デカルトは懐疑することを第一と考える。&lt;br /&gt;
この疑う知性は現在も呪縛となって私達の足枷にもなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つまり、愛さえも疑うのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼の目的はワタシも体？&lt;br /&gt;
彼女の目的はオレの金か？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その証として、オレオレ詐欺なんていう単純なコロッと騙される。&lt;br /&gt;
あれは被害者がボケ気味の老人だからじゃない。&lt;br /&gt;
愛するもの、大切なものを人質にするからだ。&lt;br /&gt;
それほどに、愛は冷静さを失うものなのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
デカルトは疑うことで真実を見出そうとしました。&lt;br /&gt;
その理性的判断というプロセスで愛を立証してみたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一プロセス&lt;br /&gt;
たとえ世間が他人がなんといっても、自分が納得しないと絶対に認めない。&lt;br /&gt;
第二プロセス&lt;br /&gt;
様々な問題や疑惑を整理し理解しやすくするために細分化して考察する。&lt;br /&gt;
第三プロセス&lt;br /&gt;
その場合に単純で簡単なものから考察吟味に優先順位をつけて、核心の本丸に至る。&lt;br /&gt;
第四プロセス&lt;br /&gt;
最後に見落としはないかと確認チェックする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
念の入ったことで、結構なことだと思う。石橋を叩いて渡る思考法のようだ。しかしこれは試験のマニュアルのようでもあり、落とし穴がある。&lt;br /&gt;
それは、最終的にそれをジャッジするのは自分自身という点です。&lt;br /&gt;
そこから導き出される真実は個人の能力を超えることはない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つまり、本人がそれで納得できれば「火もまた涼し」となる。&lt;br /&gt;
ましてや恋愛は盲目ですから・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
思い込みの罠があるわけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いや、それでもいいのでしょう。世の中はすべて思い込みで動くものだ。&lt;br /&gt;
しかし、それを踏まえればデカルトの推奨する懐疑の考察は無力化するとも言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もうひとつ、問題を細分化するのは効率的なことですが、細分化しすぎて、&lt;br /&gt;
その問題の本質を見失ってしまうケースが多々あるものです。&lt;br /&gt;
これを「知の暴走」といいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば彼が他の女性の優しくしたとする。&lt;br /&gt;
それだけで浮気していると勘ぐる女性は多いものです。&lt;br /&gt;
下手すれば、それだけで話がこじれて破局ということもある。&lt;br /&gt;
えっ？ 冷静な判断力？&lt;br /&gt;
そんなあ・・・（汗）&lt;br /&gt;
一番疑わしいのが私達自身ではないのでしょうか。&lt;br /&gt;
それに恋愛の場合はその冷静さを欠いている。&lt;br /&gt;
また、そこに冷静があるとしたら既にその恋愛は醒めているのかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さすがにデカルトもその辺りを気にして&lt;br /&gt;
誠実なる「神」という存在を持ち出しました。&lt;br /&gt;
確かに私達は不完全な生き物だが、神を信じる心があるということは&lt;br /&gt;
必ず神が存在するとデカルトは考えました。&lt;br /&gt;
従って、神の延長線（性質）上にあればその判断は間違いない。とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なんとなく、キリスト教的な力業のような気もします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
というわけで、デカルトの懐疑の考察法はさほどの効果はないようです。&lt;br /&gt;
その証としては、&lt;br /&gt;
【人を見たら泥棒と思え】解説不要&lt;br /&gt;
【岡目八目】第三者は当事者よりも情勢が客観的によく判断できる。&lt;br /&gt;
【人生欲と道連れ】解説不要&lt;br /&gt;
【つい魔がさして・・・】過ちの動機&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/djkxq4472/1878633.html</link>
			<pubDate>Fri, 11 Feb 2011 20:22:35 +0900</pubDate>
			<category>アドバイス</category>
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