2009年3月
八代宮
九州の春は早い
それは、ここ八代においても例外ではなかった。
街の中心に位置する八代城址
今では、八代宮という街の鎮守の社となっていた。
八代宮へと向かう参道も年に一度だけ
鮮やかな桜のトンネルとなって訪れる者たちを暖かく迎えてくれる。
三月下旬、八代はすっかり春でした。
参道を抜けて社内へと歩を進めると
先ほどの桜の参道とは対照的な
真っ青な空の下、これまた鮮やかな緑に彩られた木々
特筆すべきは、門のように植えられた二本の松に注連縄を渡し
まるで鳥居のように私を迎えてくれた。
さきほどまでの浮かれた気持ちはどこへやら
少しだけ身だしなみを整え
深呼吸をして門をくぐる
さてここでだ
八代宮は八代の城跡なのですが
いつのころから神社となったのか
おそらく地域性からして、戦国時代、江戸時代にはキリシタンの影響を色濃く受けていたと思うのだが、その辺はどうなのだろうか。
戦国時代、この地を治めていたのは“小西行長”
キリシタン大名として知られた大名でありました。
しかし、関が原の戦いにおいて西軍につき、敗北
キリストの教えのため、切腹(自殺)することができず斬首されたといいます。
その後に領主となったのは、加藤清正
熊本城の築城で有名な戦国武将であり
僕の旅行記でも名古屋城をはじめ、様々な場面ででてきた名将です。
そして、最後に八代を治めたのが細川氏
細川忠興、忠利の親子でした。
細川忠興・・・・足利将軍、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と多くの主君を変えながら出世した政治力に優れた人物でした。
そして明治3年に廃城となると
地域住民の熱心な要望により、明治17年
懐良親王(かねながしんのう)を主神としてこの地に鎮座し、八代宮になったのだそうです。
そうそう、余談ですが
細川元総理は細川家の子孫であり
選挙地盤もやはり熊本なんですね。
そんな八代宮ですが
主祭神の懐良親王についてまとめてみましょう。
●懐良親王(1329-1383)
時は鎌倉幕府の末期に後醍醐天皇の子供として生まれる。
性を懐良(カネナガorカネヨシ)、名を親王(チガウケド)
後醍醐天皇による建武の新政
後醍醐天皇「鎌倉幕府もつぶしたぜ
俺ってNo1、俺って最高、これからは俺の言うことを聞け(建武の新政)」
※天皇が直接政治を執り行うようになった
しかし
足利尊氏 「もうあんたの言うこと聞いてられませんわ。はっきりいって謀反です」
後醍醐天皇「むきーー!! もう許さねえ。者どもやっちまいな」
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後醍醐天皇「ぜ、全滅・・・・12人の大名が3ヶ月ももたずに、全滅」
足利尊氏 「もうあんたの時代は終わったよ。
これからは、光明さんに天皇になってもらうぜ。
後醍醐さん、あんた京都から出ていきな。」(北朝成立)
後醍醐天皇「くそ、覚えてやがれ。」奈良の吉野へと逃れる(南朝成立)
いわゆる南北朝時代のはじまりである。
ここからがやっと懐良親王の出番だ
建武の新政が崩壊し、吉野へと逃れた後醍醐天皇
南朝の力を強化するために日本全国に子供を派遣したのである。
後醍醐天皇「懐良ちゃん、ちょっと九州行ってきてちょうだい」
懐良親王 「わかったよ父ちゃん、九州は僕にまかせておきな」
そして、九州にて南朝の全盛期を築いたのが懐良親王なのでした。
懐良親王が亡くなったのが、ここ八代市といわれ
明治になり、八代宮が建立され
懐良親王が祀られるようになったのでした。
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