2008年初夏
4年ぶり2度目となる山形市
風薫る心地よい新緑の道を歩いての散策
山形城址へとやってきた
スーツを腕にかけて歩く社会人の姿
まだまだ涼しさの残る過ごしやすい季節
山形を治めていた藩主最上義光公の山形城。
別名を霞城とも呼ばれる山形城
この時もまた4年前と同じ景色を映していた。
時は戦国、各地で群優雅割拠し
戦場で覇を競いあっていた時代
その生涯を全力で駆け抜けた一人の英雄が
ここ山形にも舞い降りた
山形の最盛期を築いた最上義光公である。
最近では、独眼竜こと伊達政宗が戦国武将ランキングの5本の指に入る人気によって
東北での武将人気度勢力図は伊達家に軍配があがっているが
その伊達と常に互角の戦いを続けたのが最上義光であった。
しかし、伊達政宗の人気が上がれば上がるほど、最上義光の人気は下がっていく
その理由は、政宗のライバルだからではない
ただ一点
政宗の母である義姫が、最上義光の妹であったからにつきるといえる。
母による政宗の毒殺を謀った歴史は、政宗をさらに悲劇の主人公へと引き上げたのである。
さて、話は最上義光に戻すとしよう
●(最上義光公 勇戦の像)
中央で織田信長が没し
豊臣秀吉が日の本統一に向けて小田原城を攻めると小田原に参陣。
豊臣家との接近を計り、秀吉の養子秀次に妹である駒姫を嫁がせたのだが
その駒姫が処刑されてしまった。
これによって豊臣家から徳川家へと変えて、その結びつきを強めていった。
その後、秀吉は、徳川に味方する大名を牽制するように
山形のすぐ南の会津・米沢には上杉景勝率いる家臣(直江兼継等)が移封されてきたことで
東北は、独特の熱を帯びる地域となっていった。
そして、そんな両者が激突したのが
1600年「長谷堂城の戦い」であった。
その話題の中心にいるのは
東軍(徳川家康側):伊達政宗、最上義光
西軍(石田光成側):上杉景勝 等である。
1600年、ご存じ関ヶ原で徳川家康と石田光成が日本統一を賭けて戦った年である。
東北では、上杉景勝が直江兼継等の国造り政策によって圧倒的な国力を保持していた。
それでも、上杉家に降伏するをよしとしなかった最上義光は、上杉景勝と対峙する。
直江兼継の兵力2万5千人に対して
最上義光の兵力は7000人余
上杉景勝は、直江兼継を大将として戦をしかけた。
怒涛の勢いで攻め上がる直江軍を迎え撃った最後の砦が長谷堂城であった。
陣頭に立って直江兼継を相手に奮戦する最上義光。
しかし、いかんせん、3倍以上もの兵力差を覆すのは不可能
最上義光の命も風前の灯となった。
そこに一つの救いがもたらされた
関ヶ原での石田光成の敗戦の報である。
石田光成についていた直江兼継は、これにより撤退を余儀なくされる。
最上義光が圧倒的な兵力差の中、城を守りぬいたのである。
この上杉家の進行を防いだ功によって
最上義光は、現在の山形県を中心とした57万石を領する大大名となり
出羽山形藩の初代藩主となったのでした。
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