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ものまねの基本とは言うまでもなく形態模写である。歌まね、声まねももちろん、ものまねの一つとして くくられるだろうが、その根本は形態模写にあると思われる。つまり、動作の一つを真似る。その動作の大小 には関係がない。別に目を細めて「ヨコハマ」(五木ひろし)、泣きそうな顔で「ぅぉふくろすぁん」(森進一)など 顔の一部分を真似るもよし。耳の上の髪を書き上げ「こらぁ」(武田鉄矢)、髪をなで上げ「いらっしゃぁい」(桂 三枝)の仕草の一部分を真似るのもよし。かと思えば、身体全体をゆっくりと動かして「ぅポォ」(ジャイアント馬場 ←古いな)、両手を上げて「ゥシャア」(アントニオ猪木)など、身体全体を使った真似もあり得る。 これらどのものまねに関しても、まず大事なのは、見ている者がすぐさま「あ〜、あれだな」と元ネタの映像を 連想することができることである。なので、学校で英語教師のものまねをするのとは異なり、テレビでものまねを する場合、視聴者に幅広い認知がなされていることが求められる。ここで重要なのは、そのものまねの対象が 視聴者の記憶によく残っているということであり、別にものまねに使われやすいキーワードを含む(横山やすし 「怒るでしかし」、横山たかし「笑えよ〜」など)か否かは何ら大事ではないということである。 現在、ものまね番組等で見受けられるものまねとは、その大半が「ものまねのものまね」である。つまり、 いったんデフォルメされ定型化されたものまねを、いかに改良し、ブラッシュアップするかで、ものまねは 再生産される。たとえばホリの武田鉄矢のものまねは、三又等これまで何百人によって受け継がれてきた 「デフォルメされた金八っつぁん」を最もブラッシュアップされたものとして位置づけられよう。長州小力も 完全に定型化された「長州力スタイル」を演じているわけで、長州小力が直接「長州力」の新たな部分を開拓した 要素は皆無である。プロレスラーやサングラスをつけた芸能人がものまねされやすいのは、その定型化された ものの単純さ、その模倣の簡単さにあるのであり、「ガキの使いやあらへんで」で放送された全員が浜田省吾に なる「ハマショウだらけの野球大会」(チャゲだらけの野球大会もある)などは、デフォルメされたハマショウ像を うまく使った(バンダナにサングラス、デニム上下にしたら、誰でもハマショウになるという)企画であろう。 この「ものまねのものまね」が全盛を迎える(これはこれで成熟したものまね文化の行き着く先だろうが)、 昨今のものまね界にアンチとして位置するのが、「とんねるずのみなさんのおかげでした」の「細かすぎて伝わら ないモノマネ選手権」になると思われる。「ものまねのものまね」ではなく、ダイレクトにオリジナルを抽出 するものまね、されどこれまで誰もやったことのないものまねを長い時間演じるのは技術的にハードなので 一瞬だけものまねする、落とし穴に落とすことでさらに際立たせる、実に理にかなった企画だと思う。 ある意味、非常に純粋なものまねを求め、原点復帰を探ったといっても言いすぎではない。 博多華丸の児玉清(先日、アタック25に出演して、一緒に「アタックチャ〜ンス」を言っていた)、増谷キートン のRIKACOの笑い方、ガリットチュウ福島の藤原紀香のキャンギャルポーズなど、短時間と限定されること によって初めて表現された新鮮なものまねは実に楽しいのだが、何と言っても、我ながら驚いたのが「野球ネタ」 のおもしろさである。 よく考えたら、野球とは止まっているシーンが長いスポーツである。私がチビッコの頃は、野球をすると、 2人に1人が掛布の「お尻ふりふり」をバッターボックスで意味もなくしたものだが(今なら、松井秀のあご ぐりぐりになるのだろうか?)、あれはピッチャーが投げるまでの数秒間に掛布がお尻をフリフリしているシーン を何百回となく見て刷り込まれた結果である。実は野球とは、無意識のうちに膨大な量の選手の動作を視聴者に インプットさせている稀有なる競技と言えよう。(実際はどの競技、あらゆる人間に動作の癖はある。その 動作の認知度にかかわらず、勝手にものまねしているのが、くじらの釣り名人シリーズと言える) しかも、野球はバッターボックス内、マウンド上などその立ち位置の範囲が極めて狭いため、その動作はテレビ 画面上の同じ位置で反復され続け、なおさら記憶に残るのである。 この無意識のうちにいかに己れが選手の動作を脳が覚えていたのだろうと、今さら脳の働きに驚嘆するきっかけ を与えてくれたのが、「牧田知丈」という名古屋からやってきた素人による「落合博満のものまね」である。 何が驚きかというと、知っているのである。その落合の動作を私は知っているのである。別にファンでもない にもかかわらず、何百回とその仕草を目にしているうちに完全に脳が落合の動作をインプットしていたという 事実をまざまざと思い知らされるのである。その鈍重な仕草、ゆったりとした構え、人を喰ったコメント、 重いけれど滑らかなプレー、ボールをキャッチしたあとのミットの流れ――なぜか知っているのである。 「牧田知丈」の何よりも偉大なところは、そのものまねが身体全体を使っているところ、その対象が「落合博満」 というところに集約される。つまり、「牧田知丈」は「ものまねのものまね」をしていない。オリジナルなので ある。もはや未開の分野などなくなってしまったのではないか、と考えられていたものまね界に、完全な正統 としてキラ星のように現れたのである。しかも、一般人。しかも、この風体で28歳。 今回の選手権で優勝を勝ち取ったが、それはまさに当然のこと、「牧田知丈」はものまねの基本である形態模写 を身体全体で表現し、誰もやろうとしなかった落合博満を演じきったのだから。 ニッチを探って始めた小企画が、「ものまねのものまね」を人工物とすると「完全なものまね」という絶滅寸前の 天然物(しかも、かなり大きいぞ)を探り当ててしまった皮肉(いやあ、これはあまたのものまね番組への 強烈な皮肉であろう)。 相変わらずコンビとしてまったく機能していないとんねるず、張り付いた笑顔がいい加減見飽きた関根勤など、 有田一人の機転で持っている手前のレギュラー陣の不甲斐なさに腹を立てつつも、番組テロップが流れ、「企画」 のところに石橋・木梨・秋元の三人の名前しかないのを見て、ああ彼らしかこういうのは考え付かないのか、 それなら仕方ないと、その矛先を渋々納める私。すぐに消費されつくされるとはわかっていても、また次回の 「牧田知丈」の活躍を今から待ち遠しい私である。 |

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