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Gallery Project-PACINO
歴史、映画、自作の再現動画などを中心に綴る、手記風の趣味ブログ。

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久々の記事紹介と所感。
ビザンツ帝国がらみの情報を探していたら発見した。
なんと昨年末12月の記事で、しかも産経ではないか。何故見落としていたのだろうか。
例によって過去ニュースだが、時事的な記事ではないのでご容赦を。
 


 
【欲望の美術史】宮下規久朗(20)イコノクラスム 繰り返される芸術破壊
 
 
 
繰り返される芸術破壊
 誰にも破壊衝動はある。人間は創造するだけでなく、それらを破壊してきた。人類史上、芸術作品や記念物に対する破壊は定期的に行われてきたが、これをイコノクラスムという。
 この言葉は元来、8世紀にイコン(聖像)を禁止するために東ローマ帝国の皇帝レオン3世が発した法律のことで、イコンというものが聖書で禁止されている偶像にあたるため、帝国内のイコンをすべて破壊させたのであった。これに対し、イコンは神そのものではなく、神を見る窓にすぎないため、偶像にはあたらないとする聖像擁護論も生まれ、激しい論争になったが、このとき、古代末期から中世初期の貴重なキリスト教美術が徹底的に破壊されたのであった。…(略
 



聖像破壊運動(イコノクラスム)。
中世のビザンツ帝国で、あの時期これを強行したことは、結果論だが、長期的に見れば失敗だった。
東からはイスラム勢力が、北からはスラブ民族がコンスタンティノポリス城壁下にまで度々迫るという緊迫した情勢で、上下の一糸乱れぬ統率を求められる状況で、宗教という国家の大本に関わる部分を紫電一閃、大転換させたのだ。
実行者のレオーン3世は「獅子」のその名のとおり、まさに「ビザンツ帝国をぶっ壊した」構造改革者であった。
その混乱は想像に難くない。
 
イメージ 1
ビザンツ帝国の小泉純一郎・レオーン3世
 
 
加えてオリエント(中東)とヨーロッパに文字通りまたがる領土という地勢条件も悪すぎた。
中東の宗教は偶像崇拝を好まない傾向にある。「偶像の製作を禁じる」と十戒に明記したモーセに始まり、その流れを汲むユダヤ教も、さらにはイスラム教も偶像崇拝は禁止している。そういえば拝火教ことゾロアスター教も偶像はない。
一方のヨーロッパは偶像崇拝の本場といっても過言ではない地域だ。古代ギリシアのアクロポリスの神々、ローマの神々、さらに北欧の原始宗教。

 
当時の文化レベルの差もあったのだろう。
中東はそもそも文明の発祥の地・先進地域である。つい先頃までササン朝ペルシアがビザンツの不倶戴天の敵としてシルクロードの要衝の地を押さえており、東西交易の利潤により潤っていた。
気候の変動、森林資源の伐採、砂漠化進行などで経済的には衰退しつつあったとはいえ、古くはメソポタミアの時代から脈々と受け継がれてきた文明の知的遺産が残っていた。政治・学術・商業・福祉といったテクノロジーである。その遺産は新興のイスラム帝国に吸収され、その大帝国化・先進国化への動力源となる。
 
対照的に欧州は、ローマ滅亡後の暗黒時代。
栄光のローマが築き上げた文明の遺産は全て泡沫の夢と化した。
公共施設、舗装された道路、水道、橋などのインフラは戦乱により破壊されたり、リストアする手間と技術が失われて放置され、荒廃していった。商業、貨幣制度、教育、福祉、医療といったあらゆる制度も忘れ去られた。

 
先進地域の中東ならば、知的レベルも高いが為に、偶像崇拝が禁じられても教義を理解するのはさほど困難ではないだろう。古来、中東は商業も発達していた地域なのである。フェニキア人、ユダヤ人しかり。伝統的に「頭のいい地域」だったのだ。
ヨーロッパの方は、森の中の狩猟・牧畜のゲルマン民族である。スラブ人もまあ、似たようなものである。
はっきり言って、未開の地域同然だった。そんな未開の人間に複雑な教義を口八百並べるよりも、荘厳な礼拝堂を立て、七色の光が漏れ注ぐステンドグラスを飾り、神聖なイエス像と黄金の十字架を見せ付けて、まずイメージから刷り込みを掛けた方が遥かに効果的だったのだ。まさに「百聞は一見に如かず」である。
簡単に言えば、そのようにして時のローマ教会は、新たに進出してきたゲルマン人たちに教化を行っていたのだ。

 
荒涼とした偶像崇拝否定のオリエント。緑豊かな偶像崇拝の欧州。
そんな正反対の地域がせめぎ合うのが、ボスポラス海峡〜エーゲ海のラインなのだ。
この地域を股に架けたことで、東と西の文化的・宗教的齟齬に悩まされることになるのは、後世、ビザンツ帝国と呼ばれることになるローマ帝国の東半分の生き残り国家に(というよりローマ帝国そのものなのだが)、395年の東西分割から、1453年にテオドシウス城壁にオスマンの三日月旗が立つまで、徹頭徹尾課せられた宿命だったのだ。
絞りつくして疲弊した西の地域は、東西分割して捨て駒の「西ローマ帝国」として放り出し、オサラバしたはずだったのに、またしても別な東西問題に悩まされるとは皮肉である。
 
 
イメージ 2
皇帝権力強化が狙いだったのだろうか。富裕な教会・修道院を抑えて皇帝に権力を集中させて、東のイスラム・西のローマ教会への対抗策とする第一歩だったのか。
いすれにせよ、法令を出したレオーン3世、続くコンスタンティノス5世の目論見は外れ、聖像破壊論争は収まらず、ついにはゲルマン人への布教にイコン・聖像を使用していた西のローマ教会が態度を硬化させて、東西教会分裂→カール大帝の戴冠へと至る事になる。
 
 
結局、聖像禁止令は撤回され、聖像破壊派は異端扱いとなった。
この運動の流れの最中、修道院の所領を大量に没収してその経済力を殺ぎ、皇帝直轄領としたことで皇帝権強化には成功したが、対外的には影響力を強く残していた西方を離反させてローマ教皇を頂点とした西ヨーロッパ世界の成立を招き、ビザンツ帝国が完全に一地域大国化する要因となったといえる。
修道院層の経済力の削減→聖像禁止令の撤回を経て帝権自体は強化されたが、国内には後々までこの時の構造改革が尾を引き、後味の悪さが残ることになった。

 
こういった改革は、一時的に成果を挙げることは出来ても、長期的視野で見れば必ずしも成功とはいえない結果に終わるというのは洋の東西を問わず共通しているように思える。
江戸時代の享保の改革もそうだし、冒頭で少し持ち出したつい最近の小泉改革もそうである。
まあ、そもそも国がこのまま放っておけば転覆するからこそ改革を行うのであって、改革によって滅亡が先延ばしになるのなら失敗とはいえない気もするのだが。
考えてみれば、改革を行った結果、停滞していた国家が起死回生、パックス・ロマーナ、貞観の治もかくやというような復活を遂げたという例はない。もはや日本に再度のバブルは絶対に来ないだろう。

 
ビザンツのイコノクラスムにしても、その結果が果たして意図的なものだったのか、それとも想定外の結果だったのか、それは分からない。
聖像禁止令が撤回されて破壊派がタブーとなり、その資料の類が悉く焚書・発禁されて、背景をもはや知るすべがないからだ。その焚書・発禁も、背後にビザンツ政府の陰謀が感じられるのだが・・・。
大国であり続けることに疲れたのだろうか。
もはや西方世界の伸張やむなしと見て、国内統制にウェイトを置くことを決め、地中海の覇者「大ローマ」からバルカン・小アジアの「中世ローマ・ビザンツ帝国」へと転換を狙い、西欧の離反覚悟で断行したのか。
ともかく、ヨーロッパの盟主「東ローマ帝国」はこの時期を境に終焉を迎え、中世の「ビザンツ帝国」へと完全に変容していく。
 
 
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