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玲瓏
ようやく、ペースをつかんできました。(*´∀`*) 今年も、どうぞご贔屓に??

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さて、關一市長の都市計画の目玉のもう一つは現在も多くの乗客が利用する「御堂筋線」という地下鉄事業もありますが、今回は「大大阪時代」の面影を感じる場所へお散歩してみましょう!
そのうちの一つが、先般お昼(外食ランチ)に出かけた場所でもあります。
 念のため、
   御堂筋を挟んで 正面は心斎橋、難波方面。
   右が日生村。左が住友村。

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 大大阪時代の大阪の中心が「船場」であった事を前回少しお話しましたが、淀屋橋駅から銀杏並みの美しい御堂筋を本町方面にむかうと右手に西側に「大阪がスビル」が見えてきます。(写メの住友村側です)昭和8年に竣工したこのビルは、建築家 安井武雄氏の作品で、アイボリー一色のタイルの壁面とそれを水平に区切る黒色の庇(ひさし)の外観となっています。黒と白のコントラストがあまりにもモダンで斬新なので、私はこのビルがそんなに古いビルだとはつゆ知らず・・・.
 人々に「ガスビル」と呼ばれて親しまれているこのビルは最上階に昔ながらの洋食レストランを備えています。このビルの美しさは、御堂筋沿いの銀杏が緑に映える季節が一番うつくしいなぁと、思いながら眺めています。
次に、同じ安井武雄氏の作品では先ほどの「ガスビル」から5分ほどのところにある大正12年の作品で「大阪倶楽部」があります。現在の建物は二代目なんですけど、茶系の色の外壁は瀬戸内産の特殊な素焼きのタイルで仕上げられていています。
 「テラコッタ」と呼ばれる複雑な模様の大型の粘土細工が窓枠やアーチの装飾に使われているため、さながら洋館のようなたたずまいがあり、外観を眺めているだけでもオフィス街にいる事を忘れてしまいます。この建物は大阪財界人の倶楽部としてつくられた建物ですが、現在は毎年恒例の「一万人の第九」の練習場などにも使用されていて、市民の交流の場としても利用されています。
 また「大阪倶楽部」から筋を隔てた斜め向かいの三階建てのイタリア料理のお店があります。大正14年に建てられた元今橋消防署の建物の外観を残し、レストランとしてリノベートされています。消防署の時代には消防自動車が格納されていたのが、ちょうどお店の1階部分だったのでしょうか?店内の高い天井が当時の面影を残しています。もちろん、お料理も大変おいしくいただけます♪
 私が御堂筋に通勤し始めた頃には、まだこの消防署は現役で、高層ビルには対応できない大きさの消防自動車と毎日訓練をされている消防士さんたちの姿をよく見かけました。
 そこからさらに進むと、三井住友銀行大阪本店があります。建物は銀行の本店らしい風格と大きさがありますが外観は小さい窓が並び、今まで見てきた建物に比べ控えめな印象を受けます。ところが銀行内に入ると他では見られないような高い吹き抜けと、世界史の授業で習ったギリシア神殿と同じような円柱の柱の列に圧倒されます。銀行という、経済の心臓部であるにも関わらず、この銀行内に入ると時間がゆっくり流れていくような錯覚に陥ります。(もちろん銀行内なので写メは×!でした。)
 さて、大阪倶楽部から御堂筋までもどり、御堂筋を渡り東に行きます。(写メの日生村側です)御堂筋より一つ筋を東に行くと、私が外食ランチに出かけた場所。芝川ビルに到着します。このビルが私は御堂筋界隈のビルの中で一番といってもいいくらい気に入っているビルなのです。「芝川ビル」の冊子を参照し、このビルと芝川家について進めます。
 この芝川ビルは昭和2年に竣工したビルです。今回はこの芝川ビルについて詳しくお話をします。1883年(明治16年)芝川又四郎が誕生しました。芝川家は「大阪百足屋」という呉服屋を営んでいた芝川新助が、天保81837)年に大阪淀屋橋浮世小路から伏見町4丁目(当時)に移り、唐物商を始めたことに始まります。
 又四郎の曽祖父にあたる芝川新助が唐物商(欧米品の輸入業)を興し、商売は大いに盛んでしたが、又四郎の祖父・芝川又平(初代・又右衛門。又平は隠居後の名前)は、変動に満ちた近代社会の危険性をいちはやく感じ取り、リスクの高い唐物商を廃業、大阪の千島、千歳(ともに大阪市大正区)、加賀屋の三新田を購入し、土地経営というより確実な資産運用に転じます。又四郎も生野、豊能郡(大阪府)、六甲、多田村、長尾村大野(兵庫県)、和歌山県や宮崎県、鹿児島県など各地の土地を購入したほか、建築にも興味を持ち、家督を継いだ1923年(大正12)の前後には、満州、青島、上海、アメリカを旅行し、建築と土地の視察を行っています。
 明治期の伏見町の邸宅の多くは、大阪特有の格子づくりで、京都風の紅がらが塗ってあり、格子のうちは紙障子になっていました。芝川邸も半分は格子づくりで、東半分は下半分に船板を張り、上は壁塗りで瓦を乗せた塀になっていたそうです。1890年になると、芝川邸は煉瓦造2階建の洋館と、日本家屋、土蔵に建て替えられます。
 商家としての業務は洋館で行われていたようですが、洋館の屋根は木で、ドアも板に銅を貼っただけであるため、防火上心もとないとの理由から、帳簿は毎日、簿記係が土蔵から出し、業務が終わると蔵にしまっていたと言います。この洋館は、1995年の阪神・淡路大震災により大きな被害を受け、取り壊しを余儀なくされましたが、暖炉部分は現在も保存されています。
 1927年(昭和2年)、南米マヤ・インカの装飾を纏った芝川ビルが竣工します。芝川ビルを建てた芝川又四郎は、かねてから店を不燃性の建物に建替えたいと思っていました。そんな折、大阪倶楽部において建築家の片岡安のスピーチを聞き、鉄筋コンクリートが耐震・耐火性に優れていることを知り、鉄筋コンクリートへの建て替えを決意したと言います。こうして建設された芝川ビルは、耐震・耐火性に細心の注意が払われており、その意気込みは、現在も建物の随所に見ることができます。
 芝川ビルの竣工当時、ビルの建つ大阪・船場地区にはまだ和風の木造家屋が多く、問屋でも、配達用の手車が置け、小店員を泊めることもできる和風家屋が重宝され、洋風のビルでは都合が悪いといった時代でした。又四郎がビルを建てたのも、防火の目的が主で、部屋を賃貸するというような考えはなく、全てを応接室・娯楽室など自家用として使用するつもりだったそうです。しかしながら、芝川ビルは、自家用の使用だけではまだ余裕があったため、教育に関心を持っていた又四郎の意向で「芝蘭社家政学園」という花嫁学校として使われることになります。
 「芝蘭社家政学園」では、又四郎の義妹の芝川まき(千島土地㈱、百又㈱ 現社長・芝川能一の祖母)が園長を務め、当時、帝塚山学院の学長であった庄野貞一(さだいち)氏を学監(学長・校長を補佐し、学務をつかさどる役のこと。)に迎えて、洋裁、和裁、習字、生け花、茶道、割烹など多彩な授業を開講する私学として、自由な構想で教育が行われました。昭和41929)年の開校から昭和181943)年の閉校までに、関西一円の名門女学校を卒業した3,000人を超えるお嬢さんたち、いわゆる「いとはん」たちが学んだ「芝蘭社家政学園」は、現在の女子短期大学のはしりであったとも言われています。
 現在の芝川ビルの外観
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  このビルの中には、複数のお店が入っています。
   今回の私のランチは ビルの地下にある「ベトナム料理」のお店。
  このお店は夏場にビルの屋上でベトナム料理のビアガーデンをしています。
  屋上は結構、涼しく、開放感があって、街中にいるとは思えないです♪
     イギリスのパブをイメージしたバーもあります。
    
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 昔ながらの扉もそのまま使っています。
  ちなみに、このビルの地下からは 昭和初期のニッカウィスキーが出土(?)されました。
  全く問題なく飲めたそうです。
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いかがですか?御堂筋沿いも単なるビジネス街ではなく、なかなか盛りだくさんの街にみえませんか?これは本の一部で、もう少し足を運べば他にも沢山の見所があります。
今度のお休みに、まだ緑の銀杏の下で季節の風を感じながら、お散歩をしてみませんか?
先日、こんな地方ニュースがありました。
朝日新聞より(2011.8.8
「大畠章宏国土交通相は7日、来年に国から大阪市へ管理権限を移管することで大筋合意していた御堂筋(国道25号、約4キロ)について、移管時期を来年4月1日とする方針を表明した。平松邦夫市長と同市内で会談し、正式に伝えた。
 国は2014年度中に直轄国道の一部を自治体に移管する方針だが、御堂筋と周辺の街づくりを一体で進めたい市側が前倒しを求めていた。大畠氏は早期移管について「地域を知る市の管理下に置く方が地方分権の一環としてふさわしい」と述べた。年間約8千万円の維持管理費は14年度まで市が負担し、その後は国に財源移譲を求めるという。」
大阪の目抜き通り「御堂筋」が大阪市に戻ってくるのです。
と、言うと「?」と思われるかもしれませんが、御堂筋はそもそも大阪市の道であったのです。
今日は、關一市長が行った都市計画の中でも目玉となった、御堂筋の拡幅工事についてお話を進めていきたく思います。
「御堂筋」と言う名前が最初に登場するのは、1615年、大阪夏の陣が起こった年です。
 落人狩りなどを記録していたある藩の「大坂濫妨人落人改之帳」の中で、捕らえられた男女のうち、男1人の居場所として「大坂御堂筋」と記されていたことが記録されています。『奥の細道』で有名な、松尾芭蕉の終焉の地は今の拡幅された御堂筋上だそうです。(大阪市中央区久太郎三丁目付近)私は、南御堂さんと呼ばれている真宗大谷派難波別院の境内に辞世の句碑があるので、終焉の地は南御堂さんのなかなのかな〜?と思っていたのです。
 
江戸時代には土佐堀川に淀屋橋が架橋されたこともあり「淀屋橋筋」と呼ばれていたそうです。
 ご存知とはお思いますが、淀屋橋の由来は江戸時代の豪商淀屋が土佐堀川に架橋し、管理したので名付けられました。その淀屋(よどや)とは、江戸時代の大坂を代表する繁栄を極めた豪商です。
 特に、全国の米相場の基準となる米市を設立し、大坂が「天下の台所」と呼ばれると呼ばれる商都へ発展する事に大きく寄与しました。
 また米の市場以外にも様々な事業を手掛け莫大な財産を築くが、その財力が武家社会にも影響する事となった事により、幕府より闕所(けっしょ:財産没収のことです)処分にされた。しかし、闕所処分に先立ち伯耆国久米郡倉吉の地に暖簾分けした店を開き、後の世代に再び元の大坂の地で再興しました。幕末になり討幕運動に身を投じ、殆どの財産を自ら朝廷に献上して幕を閉じたました。淀屋を創業した岡本家によるものを前期淀屋、闕所後に牧田家により再興されたものを後期淀屋と呼びますが、淀屋が開拓した中之島には現在にも常安橋(元大阪大学医学部付近)も含めなくてはならない都市機能が形こそ変われども、名前を残しています。
 
 關一が市長となって行った御堂筋の拡幅工事。その姿が現在の御堂筋です。当時の大阪市は第一次世界大戦後の商工業の発達とそれに伴う人口の増加で飽和状態でした。
 「市民の活動の安息の場所が従来の大阪市の市域では不十分となった」状態に危機感をいだいた關は打開すべく大阪府と一体となり内務省(今の総務省)に対して、市域拡張を申請、政府より認可されます。
 これにより、市域(市内の面積)と人口(関東大震災で人口が激減した東京を抜く事になります。)で日本一の大都市となったのです。(「大大阪」の誕生)
 これを記念して、大阪市と大阪府では裕仁皇太子(後の昭和天皇)の行啓を願い出たところ、「幸に御聴許あらせられ」と1925年5月に京都と大阪を同時に訪問する事が決められました。当時の皇太子は病気のために公務につく事が出来なくなった大正天皇に変わる摂政宮になっていましたので、この行啓は事実上天皇の行啓匹敵するものといえます。
(当時の大阪朝日新聞は「無上の光栄」として皇太子の行啓が決まったニュースを伝えています。)
 1925年の裕仁皇太子の大阪訪問は、後藤新平と同様にかねてより都市計画に関心を持っていた皇太子が「自治生活に徹底した土地」を見いだし、「都市の改善発達に熱心なる」大阪の発展を認めた事を意味していました。 この時の行啓は市内の沿道で大掛かりな「奉迎」、「奉送」の儀式が行われ『我こそけふの晴れの行啓を拝まんもの』とばかりの早朝より大勢の市民が整列して赤誠を披瀝したそうです。皇太子の向かわれた天王寺公園には入場を前にして既に二万人の市民が埋め尽くしました。陸軍中佐の軍服を着用した皇太子が多くの市民を前に生身の姿で現れ、公的な場で「御詞」を読み上げたことは、帝都東京から離れた大阪では「驚き」の行為でもあり、「ありがたさ」もあり、また、大阪市民に対して述べられたお言葉は、「如何なる場合にも忘るべからずるもの」となったのでした。
 ところで、この多くの一般市民を前にして皇太子があらわれるというスタイルは当時の東京市長、後藤新平が発案し、裕仁皇太子によって実現されたものです。
やんごとなき皇族の方々、恐れ多くも天皇家の皆様が、大勢の一般市民の前に現れるなんて、明治以前では考えられなかった事でしょうね。
 
 さて、裕仁皇太子が大阪に行啓にこられた時の淀屋橋筋(今の御堂筋)は3間(けん:1間が約1.8182mm。約5.5m)の未舗装の裏通りにすぎませんでした。(この工事で24間(約44m)に拡幅されました。)
 大阪では「通り」と言えば東西の通りを指し、南北の通りは「筋」といいます。当時の「通り」は広くとられ4間(約7m)、筋の方は狭く3間(約5.m)が一般的でした。
 1926年10月からこの拡幅工事は始まります。この裏通りである淀屋橋筋を舗装した上で、大阪の北のターミナル梅田(阪急、阪神、当時の国鉄の駅がある)と大阪の南の中心で、南海電鉄のターミナル難波を直結するメインストリートとし、当時大阪城を中心とした街並と並ぶあたらしい中心地を作ろうとしたのでした。
 御堂筋拡幅の建設予定地の両側に住む地主から、その所有する土地を強制収用。
 費用は受益者負担(収用する土地面積に対して一定の比率に乗じた負担金)とするという、一見ちょっと手荒にも思える方法で全工事費の三分の一をまかなおうとしました。
 もちろん地主たちは、先祖伝来の土地の相当部分を道路用地として強制的に買収された上で、それによって上昇する地価に見合った分の負担金を要求されるので、当然この土地の明け渡しは拒否が多く、工事は難航を極めました。
 そこで、持ち出されたのが市民の記憶に新しい裕仁皇太子の行啓です。御堂筋の北橋が先に述べた国鉄の大阪駅がある場所であり天皇や皇太子が多く利用する駅でもあったのです。「天皇が行幸をされた時にお歩きなる道を作るのんや」を理由に、地主を納得させたのでした。
 大正天皇に代わって大阪市民のまえに颯爽と登場した昭和天皇の存在が市民にどれほど深い印象を与えていたのか、お分かりなるかとおもいます。
 この拡幅工事の影響で北御堂(「浄土真宗本願寺派 本願寺津村別院」)が南御堂と同じ沿線に並んだため、「御堂筋」と名付けられ、実際には1929年(昭和4年)に正式名称として決められました。
 これは、昭和天皇がご自身の思召し実現した大阪行幸の直前の事です。天皇が個人の希望する場所に行幸する事が難しいのは、昨今変わりはありませんが、裕仁皇太子即位され昭和天皇となられた御心には、明治天皇が即位後初めて京都御所を出て、訪問した場所が大阪であった事もふまえ、昭和天皇が明治天皇のような「大帝」となるには大阪に行く事が歴史的必然と考えたのかもしれません。
 そして、この行幸の時に、部分的に仮仕上げができていた御堂筋も進んでいます。沿線の土地の買収を担当した市の職員の言葉(殺し文句)が虚言ではなかったという事です。
 冒頭に取り上げたニュース、御堂筋が大阪市に戻ってくるという表現もご理解いただけましたでしょうか。
 御堂筋はぼーっと、歩いていると銀杏しか目に入らないのですが(笑)沿線の建物、歴史は結構ドラマチックだったり、「あー、今歩いているところは誰のおうちだったのか?)なんて・・・。

1.曇った日の御堂筋(今日は外食ランチをしにきます。
この写真の左側が 日本生命村
この写真の右側が 住友村です。
 イメージ 1

2。横断中の写メ。(かなり怪しまれている。)
  青々とした銀杏の並木。
  よくみると ぎんなんが たわわに実っています。
  靖国神社の銀杏には ぎんなんは なりませんが、
  御堂筋の銀杏にはほとんどぎんなんがなっています。

   おっと、一緒にランチをしにいく先輩が「他人のふり」をしはじめました

イメージ 2

 3。御堂筋が完成した当時の新聞(大阪朝日新聞)の記事。
 「北側にパッと展開する二十四間幅の行幸広路。なんとうい美しさだ。
  道路の中央の鹵簿(ろぼ)通御の路面は
  まるで新しいマットを敷き詰めたように
             塵一本も止めないほどの美しさである。」

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さかき きこ
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