全体表示

[ リスト ]

メイン州の入り組んだ岩場の海岸はロブスターにとって絶好のすみかである。深い入り江の冷たい水のなかや、海岸から少し離れた場所にロブスターは群れをなして棲んでいる。何百年にもわたって、ロブスターは捕獲され、ボストンやニューヨークの金持ちのごちそうとなってきた。原則的には誰もがロブスター漁師になることができる。わずかな金を払うだけで、簡単に州の許可証を取得することができる。繁殖中の雌や捕獲してよい大きさに達していないロブスターを捕らないかぎり、一人の漁師は何匹でも捕まえることができる。利益が大きい割に、必要な道具は少ない。

 いいかえれば、環境破壊のすべての材料が揃っているということである。これ以上捕獲すれば、ロブスターのストックがなくなるという限界地点にきていても、新たに参入した漁師がやらなければ、誰かがやるだろう。しかし、少なくともつい最近までは、メイン州のロブスター漁師はうまくやってきた。彼らはロブスターをとり過ぎないよう気をつけ、五十年ものあいだ、毎年、七二〇〇から1万トンというほぼ一定した水揚げを得ていたのである。彼らはどうやって危険な事態が起こるのを防いできたのだろうか。

 答えは財産権という言葉にある。前述のように、法律的には(注1)どこで誰がロブスターをとってもよいことになっている。漁場に所有者がいるわけではない。だが、実際には、漁を始める前にもう一度よく考えなさいとアドバイスを受けるだろう。海岸線はきっちりと区分けされ、それぞれの区画は特定の「漁師組合」の「なわばり」になっているのである。誰かのわなを切ってブイから外してしまうことは違法行為であるが、なわばりを侵す漁師のわなはしょっちゅう切られる。法的な境界線は存在しないが(注2)、漁師たちは海岸線の目印で、自分や仲間たちがわなを仕掛けてはいけない場所を知っているのである。なわばりは非常に正確に決められているので、現役のロブスター漁師に詳しく質問すれば、なわばりマップがかけるほどである。

 なわばりは、漁師組合が共同で所有している(注3)。個人の所有となっている場所はない。もし個人所有が許されているなら、そのようなシステムはうまくいかないだろう。なぜなら、ロブスターの群れは季節によって移動するので、個人が所有できる程度の狭い区画では確実にロブスターを収穫することが難しいからである。そのかわりに、組合のメンバーは季節が変わるたびに、二五〇平方キロメートルほどあるなわばり内でわなを移動させることができるのである。

 だが、一九二〇年以降、漁業人口が増えたことと技術革新によって、なわばりのありかたに徐々に変化があらわれ始めた。技術が進んだために、罰を受けずになわばりの境界を越えて漁をする事が容易になったのである。現在、多くのなわばりでは、守られているのは中心部だけで、周辺部は野放し状態になっている。このような「中央集中型のなわばり」には小さいロブスターしかおらず、しかもその数も少ないので、ここで漁をする人々の水揚げは年間一万六千ドルくらいと少ない。それに比較して、周辺部では二万に千ドルもの収穫がある。この中央集中型のなわばりは、別の言葉でいえば、誰もがロブスターを捕ることができるようになったことを意味する。そして許可不要のすべての漁業がそうであるように、乱獲のきざしがみえ始めている。

 ところで、このメイン州のロブスターの話で非常に驚くべきことは、これまで保たれてきた均衡が崩れつつあるということではなく、州政府からの強制も法的規制も受けず、漁をする場所を個人の所有物にもせずに(共同所有はしていたが)つい最近までは見事に運営されてきたという点なのである(注4)。

(hidaruma)
原著注釈は全て省略。本文中の注はhidarumaによるもの。

(注1)
 「法律的には」というの用語法について。

 「法的には」という言葉と、「法律的には」という言葉は法学的には明確に区別して用いられている。両語の意味する範囲は大部分において重複するが、そうでない部分もある。
 
 「法的には=理論的には」、「法律的には=条文に明文の定めがあるので、それを参照すると」と解すればよい。

 「徳の起源」においては、「法的には」「法律的には」という言葉の区別が曖昧に用いられているので、適宜注釈を挟むことにする。

(注2)
 「法的には」ではなく、「法律的には」がより適切である。

 法的には、「慣習」という「決まり」も「法」として認めうる。言い換えるなら、「なわばり」について成文化されておらずとも、明文の規定が無くとも、「なわばり」は裁判を経て保護を受ける可能性がある。

 「なわばりの範囲は、法律では決まっていない」という意味と解するべきであろう。

(注3)
 「共同所有」について
 日本民法の学説は「共同所有」を「共有」「合有」「総有」という概念で区別している。以下、おおまかに説明する。

「共有」とは、個人の所有の割合が明確であり、自由に使用でき、そこから収益をあげることも、それを売ることも自由にできる共同所有の形態。

「合有」とは、個人の所有の割合は明確であり、自由に使用でき、収益も上げられるが、自由に売ることはできない共同所有の形態(判例上は認められていない。学説上の概念)。もっとも、総有と共有の中間的概念であり、この定義は絶対ではない。

「総有」とは、個人の所有の割合は不明確であり、使用、収益、処分は個人が勝手にはできない共同所有の形態。

ここでいう「共同所有」は共有者の内の一人が独自に自らの持ち分を主張し、使用収益処分する権限がみとめられない「総有」にあたると考えてよいだろう。

後に「総有」と「共有」の差異が問題になるのでここで確認しておく。

(注4)
 第12章だけを抜き出して紹介しているために、少し分かりにくくなっている。
「エゴイストであるはずの人間が形成する自由主義社会において均衡が成立していたというのは、理屈に合わない。つまり、人間はエゴイストでないか、もしくは自由主義社会ではない。あるいは、その両方でない。」という事を著者はこれから考えたいのである。
社会とは人の思想とイデオロギーで形成されるという点も含めて、考えるべきであろう。

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事