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リバイアサンの悲劇
ハーディンが残した遺産は、政府による強制の回復であった。これはまさにホッブズ派の勝利である。ホッブズは人民を強力に導くことのできる唯一の制度として専制君主制を擁護した。武力の後ろ盾なき契約は、ただの言葉にすぎず、人に保証を与える力はまったくない」と彼は書いている。一九七〇年代には、共有地の悲劇―現実のものにしろ、架空のものにしろ―のたった一つの解決法は、国有化であると考えられていた。共同所有がハーディンの理論によって非効率的であると非難されたことは、各国政府にとって国有化を進める格好の口実となった。一九七三年にある経済学者が悲しげに述べたように、「共有地の悲劇を回避するには、リバイアサン(旧約聖書ヨブ記に出てくる巨大な水生動物の名)の助けを借りるという悲劇的な方法しかないであろう」 このレシピが大惨事をひき起こすことは間違いない。リバイアサン―ホッブズは絶対主権をもって君臨する国家をこう呼んでいた―はこれまで平和が保たれていた共有地にも悲劇を呼ぶのである。アフリカの野生動物を考えてみよう。アフリカ諸国は、植民地時代および一九六〇年代、七〇年代の独立後、動物を国有化した。「密猟者」がこの共有資源を捕り尽くしてしまわぬようにするにはこれ以外に方法はないと考えたからだ。その結果はこうだ。農民は政府所有のゾウやバッファローとの競争に直面しており、自分たちの食料や利益の源として動物を世話する意欲をなくしてしまったのである。「アフリカの農民のゾウに対する敵意は、西洋人が寄せる激しい同情と同じくらいに激しい、心の底からの敵意なのです」とケニア野生動物保護局長、デイヴィッド・ウェスタンは語っている。アフリカのゾウや差異などの動物の減少は、国有化によって生まれた共有地の悲劇なのである。ジンバブエのキャンプファイヤー・プログラムのように、所有権が再び共同体に戻されると野生地区は驚くべき回復をみせるという事実がこれを証明している。キャンプファイヤー・プログラムでは、スポーツ狩猟家が村の委員会から動物を殺す権利を購入する仕組みになっている。となると、村人たちはにわかに自分の土地に住む動物たち―今では価値ある商品となった動物たち―に対する態度を変えたのである。野生地区に指定された私有地は、ジンバブエ政府が土地所有者に野生動物の権利を譲渡して以来、一万七千平方キロメートルから三万平方キロメートルに拡大した。 アジアの灌漑システムでは、政府の改良策によって衝撃的なダメージがもたらされた。ネパールの灌漑システムは、通常、上流の所有者と下流の所有者のデリケートな取引の上に成り立っている。上流の農家が、米のように大量の水を必要とする作物に水を浪費したり、あるいは無駄遣いすれば、水が使い果たされ、下流の農家が水不足に苦しむことになる。しかし、一般的に、上流の者たちはもっと寛大である。それは純粋に私的利益のためなのだ。分水ダムを維持することは容易ではない。だから、下流の農家が相応の水の分け前をもらうことの代償として労働力を提供しているのである。ところが、政府が永久的な分水ダム建設に乗りだすと―実際にカマラで起こったことなのだが―これまでの取り決めが崩れてしまう。上流の者たちはもはやよき隣人でいる必要がなくなり、下流の農家に届く水量が減少してしまうのである。計画は大変な失敗に終わった。それとは対照的に、ピテュワの例のように政府が下流に支流運河をつくる手助けをしたときには、水使用者たちが効率的に水を分配するための自治委員会をつくったので、水の恩恵を受ける地域が倍増した。 全体的に見て、ネパールでは、公共の灌漑システムのほうが、農家の自治にまかせた条件の悪い―つまり、下流への到達水量の少ない―システムよりも平均して二十パーセントほど収穫量が少ない。官僚の手で灌漑システムを集中管理することは、少なくともファラオの時代から続いてきた政府の大好きな政策である。植民地時代にもおこなわれていたし、現在でも援助団体なるものが熱心におこなっている。こうした政策は、自分たちのシステムを上手に運営することのできる人々の能力を過小評価しており、官僚の能力を過大評価しすぎているのである。そしてこれが共有地の悲劇を生むのだ。 インドネシアのバリ島にもう一つの例を見よう。バリ島の景色は人工的につくられたものである。耕せる土地はすべて段々畑にされている。環境の維持や生態学的美徳のうえでの問題点は一つもない。農夫は自分の畑でとった種を蒔き、殺虫剤や肥料は一切使わない(らん藻類が空気中の窒素を固定してくれる)。バリではコメは紀元前一〇〇〇年ころからつくられてきたし、それとほぼ同じくらい昔から灌漑がおこなわれていた。灌漑トンネルや運河は山の湖や川から水を運び、山腹の農村(スバクsubak)に流しているのである。 灌漑と宗教は密接に結びついており、運河ネットワークの各分岐部には寺院がもうけられている。上流の寺院に供え物を捧げ、お参りをする目的は、水が確実に届くことをいのるためであることは明白である。寺院は、各農村に田に水を満たす時期、そして田植えの時期を告げる。伝統的には、それぞれの村では、いっせいに田植えをし、いっせいに休閑期を迎える。 そして一九七〇年代、国際米作研究所による「緑の革命」なるものが始まった。より強健な種の米を広め、収穫と収穫の間に田を休めることをやめれば収穫量が上がると人々に約束したのである。ところが結果は悲惨なものだった。水不足と昆虫によって媒介されるウィルス病の大発生によって作物は大損害をこうむったのである。 なぜ、こうなってしまったのか。原因究明のために科学者が召集された。スティーブン・ランシングは問題全体を自分の分身である女神(つまり、コンピュータ)に託した。そして女神はこうのたもうた。以前には、各農村は一定期間、耕作をやすんでいたので、その間に病害虫は死滅していた。なぜなら休閑期中、病害虫は生きる場がなくなってしまうからである。そして、各農村の田植えの時期がずれているため、水は十分に行き渡っていた。ところが、「緑の革命」は、いっせいに休閑期を乱し、いくつかの村が同時に多量の水を要求する状況をつくりだしたために、これまで保たれてきた仕組みを崩してしまったのである。バリのシステムは単なる融通のきかない古めかしい慣例などではなく、非常に巧妙に設計された仕組みだったのである(注1)。 これほど巧妙な仕組みをつくりあげた人間はさぞかし利口で能力のある人間だったに違いない。その人とはいったい誰だったのだろう。コンピュータは再び語り始める。発明者はいない。カオスのなかからも完璧に秩序は生まれるのである。それは人間があれこれ口だしするからではなく、各個人が動機に対して合理的に反応するからなのである。最上流の寺院に全知の僧侶がいるのではなく、考えうる最も単純な習慣なのである。なすべきことは、じぶんよりうまくやっている隣の農家の真似をすることである。得られた結果は村のなかでは同時に、村どうしは時期をずらすということである。中央権力の影はまったくみられない。領主の支配する国にせよ社会主義国家にせよ、政府はこのシステムをつくりあげることになにも関与していない。ただ税金をとりたてるだけなのだ。(注2) どこをみまわしても、第三世界で起きている環境問題の原因は、所有権の喪失にあることがわかる。森から木の実や薬を収穫できるのに、なぜ人々は熱帯雨林の木々を伐採するのか。丸太になってしまえば所有できるのに、木のままでは所有できないからである。なぜメキシコは原油をそんなに早く使い尽くしてしまうのか。しかも米国よりずっと非効率的に、安値で売ってしまう。理由は、アメリカのほうが原油に対する所有権がはっきりしているからである。ペルーの経済学者エルナンド・デ・ソート―は、第三世界の貧困は財産権を確実にすることによって大きく癒されると述べている。財産権がなければ、人々には自分の富を築くチャンスがないからである。共有地の悲劇の解決策は政府ではない。むしろ、政府は悲劇の主原因なのである。 (hidaruma) (注1) 私は中国の毛沢東の農業合作、ポルポトの集団農場に連なる思想を連想せずにはいられない。 今に残る「伝統」は生き残りのための、(結果的に必要だった)、「戦略」の一部である可能性が高い。それら「伝統」を非合理的であるとして排する事ができるほど、我々の知見は十分と言えようか。 (注2) なすべきことは上手くいっている人の真似をする事。 私たちは絶えず周りの人間を観察し、上手くいく方法を探している。 重要なのは、道徳的に生きるように、あるいは目先の利益を最大化するように行動する人は少数であるということである。 大多数の人間は、自分が損をせず、そして自分の遺伝子を受け継ぐ者、やミーム(思考)を共有する者にも損をさせないような行動を心がけているということなのだ。 私たちは決して聖人君子でも、全く他人を顧みる事の無いエゴイストでもない。 |

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