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日本人のルーツ
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 (○´д`○)こんにちわぁ♪

 『ソウルの語源は日本の地名』

 ※出典:【真説】日本誕生:
  虚構の大化改新と日本(やまと)政権誕生
  173〜175頁

 天智天皇と
 木花開耶姫(このはなさくやひめ)とが、
 夫妻だったというような細部のほかは、
 本シリーズの読者には、
 別に驚きでもなかったとも思う。

 それは
 新羅の始祖王赫居世が
 あの邪馬壹国女王の壹與であり、

 彼女は
 「赫力居ゴ世シ国マ王」
  という名乗りと、

 「赫ハク(白)居世イヨ壹與)」
  という名乗りと、

 「居イ西セ千カン(伊勢神)」
  という称号をもっていたことを

 『三国史記』が記録していたことなどを、
 もうよくご存じだからである。

 それよりもさらに、
 誰もが納得できる証拠がある。

 それは今も使われていて世界中の人が
 よく知っている韓国の重要な名詞が、
 やはり日本語であり、

 沖縄〜鹿児島出身であり、
 奈良にも分布しているという事実である。

 それは韓国の首都の名
 「ソウル」である。

 この地名の古い形は

 『三国史記』や
 『三国遺事』などに、

 次のようなさまざまな当て字で
 記録されている。

  徐郡伐・
  徐羅伐・
  徐耶伐・
  徐伐

 この国名が
 新羅建国当時の
 どこかの地名であることは、

 新羅が
 「鶏林(チラン)」といっていた
 時代より前の国名だから、
 小さな地域をさす名だったことは
 すぐわかる。

 これが壹與の即位地も教えてくれる。

 まず何と読むのかから検討してみよう。

 「徐伐」以外が
 真ん中にもっている
 「羅・耶・郡」は
 「ラ・マ・ヤ・ナ」という
 国を意味する代名詞語尾であることは
 すぐおわかりになったと思う。

 「徐伐」は
 それを省略したものということになる。

 この「徐伐」の発音は
 『三国遺事』に説明がある。

 「今、俗に京の字の訓みを徐伐という」
 と書いてある。

 京は都のことだから
 大韓民国の首都は「京城」と書く。

 その京城を「ソウル」と読むのは
 今では常識である。

 これを「徐伐」と比べてみよう。

 今の朝鮮語は清音だから
 「徐(ジョ)」は「サー」と発音する。

 そして「伐木」を「パルモク」と発音する。

 「伐」は「パル」である。

 これを組合せると
 「徐伐」は「サーバル」。

 ソウルとはかなり違う。

 その違いは
 ソウルという地名が
 朝鮮語でないことを示している。

 邪馬壹国の宮殿の名は
 「高千穂の宮」である。

 『日本書紀』
 [天孫降臨]の一書の六にある
 「襲(そ)の高千穂添山峯」の説明に

 「添山、
  これは曽褒里能耶麻(ソホリノヤマ)
  という」と書いてある。

 第二次世界大戦までは
 「添」を「そふる」とカナ書きしていたから、
 「添=ソフル=曽褒里」であって、

 これは鹿児島語では
 「ソウル」と聞こえる。

 この昔の襲の国は、
 今は
 姶良(あいら)郡と
 曾於(そお)郡に分割されているが、

 この曾於も
 古代なら沖縄語の仲間である大隈語で
 「ソウ」と発音されていたのである。

 この「ソウ」は
 天智天皇たちと一緒に
 奈良へも「東征」している。

 現在奈良市がある地域は
 古くは「添」だった。

 『倭名類聚鈔』には大和国の筆頭に、

  添上(そふのかみ)、
  添下(そふのしも)の二群に分かれた

  10世紀の記録が残っている。

 「石体神社由緒書」
 
 天智天皇はここから「東征」した。

 その記録が
 「神武天皇」の中にまぎれこんでいるが、
 それはまぎれもない事実だったのだ。

 3世紀の昔、
 彼の先祖・垂仁天皇が
 邪馬臺、倭国女王政権を倒したのと
 同じことを、
 奇しくも彼は7世紀にまた
 繰り返すことになった。

 「石体神社」
 当石体神社の位置
 御祭神天津日高彦火火出見尊、
 豊玉姫命が都として
 高千穂宮を経営された
 正殿のあったところで
 そのまま社殿として祀ったもので、
 鹿児島神宮の起こりでもあります。

 出典:『三国志』(晉) 
    陳壽撰(宋)裴松之註

 『三國志巻三十』
 魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十倭章

 倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。

 舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。

 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、

 乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里、

 始度一海、千餘里至對馬國。

 其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。

 所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、

 道路如禽鹿徑。

 有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。

 
 倭の人々は、

 帶方〔郡〕の東南にある
 大海の中の〔島々〕に住んでいて、
 山や島によって国や村をつくっている。

 もとは百余の国々に分かれていて、
 漢の時代には朝見して来る国もあった。

 今、
 通訳をつれた使者が
 〔中国や帶方郡に〕通って来る所は、
 三十国である。

 帶方〔郡〕より倭に行くには、
 都を出発して、
 まず海岸に沿って航行し、
 韓の国々を経て、

 乍(しばらく)は南に、乍は東に進んで、
 その北岸の狗邪韓國に到着する
 〔この間の距離は〕七千余里である。

 〔そこから〕始めて一つの海を渡り、
 千余里にして対馬国到着する。

 この国の大官は卑狗といい、
 次〔官〕を卑奴母離という。

 住んでいる所は海に囲まれた孤島で、
 広さは四百余里四方ほどである。

 土地は山が險しく、深森が多く、
 道路は禽獣が通う小経のようで、
 狭く險しい。

 〔人家は〕千余戸もある。

 人々は海産物を食糧として
 自活しているが、
 船によって南北〔の国々に〕から
 米穀を買い入れている。

 ※出典:大学講義録34:9〜12頁

 「筆者は船旅をし、歩いて、
  眼と耳で確かめて書いた」

 この間(かん)、
 高句麗が魏に敗れて北の境界には
 変動があったが、
 半島が二分されて
 南半分が帯方郡だったことは動かない。

 仮にこの判定が間違っていて、
 三韓が帯方郡より南に独立していたのなら、
 どうなるか?。

 そのときは
 『魏書倭人章』の書き出しが
 「倭人在 三韓 東南大海之中」と変わる。

 しかし現実にはそうではなく
 「倭人在 帯方 東南大海之中」
 と明記してある。

 これを書いたのは単なる
 編集者に過ぎない陳寿ではない。

 彼は記録を寄せ集めただけで、
 その記録を書いたのは
 実際に倭国まで旅した
 梯儁と張政である。

 この二人は
 倭人の住む国がどこにあるかを
 はっきり聞き、
 そこへ往復する船旅を体験し、
 事実であることを眼で見、
 足で歩いて確かめたのだから、
 その記録が正確なことは疑う余地がない。

 彼らは二人とも、
 そのとき、
 帯方郡に勤務していた現役の役人である。

 帯方郡の範囲も、
 そこに含まれている地域の現状も
 歴史も知り尽くしていたのだから、
 三韓と帯方郡を間違えることはありえない。

 そして書いたのが
 「倭人在 帯方 東南」なのである。

 それは明確に三韓が
 帯方郡に包含されていた事実を、
 記録しているのである。

 もしそれが違っていたら、
 それは直ちに別の役人に指摘され、
 その場で訂正される。

 間違ったままで記録に残されることは
 絶対にない。

 だがその行程記事中に
 「韓国を経て」がある。

 これはどうなるか?。

 「狗邪韓国の全てまでわかる完全な記述」

 三韓が帯方郡に属しているのだから、
 単に「韓」だけなら
 その地域名として理解できるが、

 「韓国」とわざわざ断っている。

 これはなぜか?。

 それは三韓に属さない
 「韓国」を経由するからなのである。

 そんなものがあるか?。

 それこそがお気付きのように
 狗邪韓国なのだ。

 このことから、
 過去に何の答えも出ていない
 「狗邪韓国」の所属も明かである。

 この国は
 三韓の国名には含まれていないから、
 明かに帯方郡にも入っていない。

 「倭の北岸」と書かれた。
 間違いなく倭国の領土だと認識して、

 はっきり「倭国の北の端の国」と
 明記したのである。

 だからそこは半島本土ではない。

 離れた島なのである。

 それが地名の訛りからみて、
 過去に風島(カゼシマ)などと呼ばれた
 巨済島であることは、
 狗邪は「古謝」という
 沖縄の地名と姓の発音
 「クジャ」そのものであり、
 巨済も今「コチェ」と発音されて
 古謝の韓音「コチェ」と一致し、
 種子島音でコザ(古座)。

 コをカと発音する
 大隅訛りだと狗邪も巨済も
 カゼになる事実から、

 今は
 巨済大橋で半島本土と
 陸続き状態になったが、
 3世紀には完全に本土から隔離して、
 独立国だった大島(だいとう)、
 巨済島であることは先ず間違いない。

 この例は『魏書倭人章』が
 どんなに細部まで、
 気をくばって書かれているかを物語る。

 島国1つもおろそかにせず
 所属を明確にしている。

 どこから見ても
 三韓は帯方の中にあったのである。

 「帯方郡使の出発点。帯方郡治の位置」
 するとここで初めて、
 帯方郡使が
 出発した帯方郡の役所の所在地、
 いわゆる
 「帯方郡治(ち)」はどこにあったか、
 という謎が解け始める。

 それは半島南半を治め、
 同時に魏との往来にも
 便利な場所でなければならない。

 車馬が少なく、
 陸行の困難な時代だから、

 半島の中央部でもだめ、東でもだめ、
 南半の中心に近く、
 西の海に出られる港でなければならない。

 なぜ港だとわかるか、
 それは帯方郡使の出発点を、

 ただ「郡より倭に至る」と書くだけで、
 「郡からどこの港へいって、
  そこから船出して…」と
 断らないから、
 郡(郡治=郡役所の所在地)が出発点で、
 そこが港でもあったとわかるからである。

 ではそれはどこだったのだろう?。

 郡の都だったのだから、
 地名にもそれが残るはずである。

 上記の条件に完全に合う地域に
 「群山」がある。

 群の字が違うが、
 そこは海岸で
 山の群れなどありはしないから、
 当て字にきまっている。

 とすれば群は郡の名残(なごり)、
 山は権力の中心
 「本山(ほんざん)」とみると、
 かつての帯方郡治(ち)の遺跡になる。

 そこは大河。

 「錦江」の河口にあり、
 鹿児島湾の別名

 「錦江(きんこう)湾」との密接な
 繋(つな)がりを語っている。

 そこは後(のち)の半島百済喪失の舞台、
 架空の白村江とされた場所でもあり、
 その北の背後地に
 半島百済の首都で王陵のある扶余(フヨ)がある。

 南の背後地には大屯山国立公庫地域があって
 公孫康の屯有県帯方郡を思い起こさせる。

 これ以上の帯方郡治候補地はない。

 『距離が立証した
  群山の正しさと京城説の崩壊』

 ではそれが正しいか間違いか、
 決定的な史料で判定してみよう。

 史料は
 『魏書倭人章』のコースと行程である。

 よくご記憶だから原文だけにしておこう。

 「郡至倭 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍未 

  到其北岸 狗邪韓国 七千余里」。

 この中でも最も強力な決め手が距離である。

 到着点の狗邪韓国は巨済島だから、
 それから約7000×55mの地域に群山があれば、
 帯方郡治の位置として正解である。

 当時の船は海岸に沿って進み、
 毎日、夜には停泊して、
 翌日、また沖へ漕ぎ出す。

 それを計算しながら
 海岸線を糸で辿って行くと、
 ほぼ400Kmある。

 7000×55mは 385km。

 これに「余里」を足すと、
 ぴったり一致していることになる。

 在来はこの帯方郡治を
 今のソウル(京城)付近だとして
 疑わなかったが、そこまでだと、
 もう200km以上遠くなるから、
 少なく見積もっても
 「一万余里」以上になる。

 絶対にソウルでなかったことは
 いうまでもない。

 この講座ではたびたび
 「定点」の重要さについて
 お話ししてきたが、

 終わりに際して、
 さらに強調して梯儁・張政の出発点。

 それは
 『魏書倭人章』の出発点でもある位置を
 意義あるものにして戴きたかったのである。

 こうして
 帯方郡使の倭国への出発点が確定すると、
 私たちの倭人尺は、
 『魏書倭人章』の距離記事の信頼牲を、
 絶対のものにしたということになる。
 
 『位宮と壹與の即位地』

 こうしてみると
 「京城」の語源になった「徐那伐」は、
 姿は変っているが沖縄から関東地方にまで
 広がって残っていることが分る。

 それが沖縄人の足跡とどう関係があるかは
 今後の研究課題だが、
 それがこれまで謎のままで残っている

 「乎獲居(オワケ)の鉄剣」
 (埼玉県行田市稲荷山古墳出土)に
 見つかった「金象嵌銘文」などの解読に
 大きく役立つという予測が生まれてくる。

 当面の問題は
 壹與すなわち赫居世が即位した
 「徐那伐」はどこか?
 ということである。

 彼女の即位年は
 甲子の正始五年(244)だった。

 その年は
 父の位宮が北朝鮮から落ちのびた年である。

 老卑弥呼が
 狗奴国男王との不和を帯方郡に訴えたのは、
 その3年後の
 正始八年(247)だったから、
 正始五年にはまだ老卑弥呼政権は健在で、
 とても九州には侵入できない。

 位宮はまだ
 狗奴国男王になったばかりである。
 当然、
 邪馬臺国より南の海の彼方にいた時である。

 こう順を追って考え合わせると、
 その「徐那伐」は九州本土の中央にある

 熊本県の「米原(ヨナバル)」ではない。
 どうしても沖縄の
 「与那原(ヨナバル)だった
 ということになる。

 これは位宮が
 最初の神武天皇のモデルであることでも
 証明される。

 神武天皇の名乗りは
 「神日本磐余彦」で、
 その頭文字の
 「神」は「チヌ」を表わしており、
 「チヌ」とは「ウチヌ」
 すなわち沖縄にほかならないことを、

 「邪馬臺国の風雲」(前出)で
 詳しく説明しておいた。

 また壹與が天照大神であることを考えると
 彼女が「霊異之児」
 (=『日本書紀』)だからと、

 父母が
 「天上の事を授けよう
  (宗教を担当させよう)」といって、
 「天」に挙げた。

 という記事が参考になる。
 
 そのとき両親は
 「島」に天降(あまくだ)って「日本」を産む。

 どこからみても壹與の即位地は
 「島」だったのである。

 さらにもう一つ、
 沖縄から
 「姶良(カラ)国」
 「始羅国(シラギ)」への遠征が、
 「神功皇后の新羅」として記録されている。

 それは
 稲羽の素兎(イナバのシロウサギ)の
 話とも複合ており、
 その出発点は全て
 「オキの三つ子島」
 すなわち沖縄であったことを
 『異説・日本古国家』(前出)で解説してある。

 
 ※出典:加治木義博
     「コスモ出版社『邪馬臺国の言葉』

 『新羅建国地は天孫降臨地』

 以上六部の祖先は皆、
 天から山へ天降ったとしている。
 
 ということは、この人々もまた、
 もとは一つで、
 それが六つに分かれると共に、
 伝承も変って別々に
 天降ったということになったと考えるのが、
 理性的な見方である。

 そこで、
 この六つの山名を、
 もう一度一緒に見ることにしよう。

 <日向>の、
 <衣>の、
 <伊佐>の、
 <笠野>、
 <秋津島>、
 <金峯>となる。

 これは『記・紀』で
 馴染みぶかい天孫降臨の地名と
 実によく似ている。

 紀の記事は
 日向の襲の、
 高千穂の、
 槵触峯(クシフルタケ)となっていた。

 <衣>は別音で<ソ>である。

 この<日向>と<衣>は問題がないから、
 あとがどの程度合うか、

 もう一度、『記紀』の方に、
 原名を比べてみょう。

 まず可能性が目立つのは
 <高千穂>と<金峯>である。

 <高千>と<金>と比べると
 <コチ>と<コヌ>の関係は、
 はっきりしている。

 <チ>は沖縄弁で、
 本土語の<津>、す
 なわち現代語の「の」であった。

 <ヌ>もまた沖縄発音で、
 やはり「の」であった。

 残る<穂>と<峯>は
 <ホ>と<ホー>であって、
 <穂>は<峯>を意味することは、
 <穂高>といった語も証人になる。

 疑いもなくこれは同一のものである。

 <槵触>と<花山>、
 <明活山>を比べてみると、

 <槵>(クワン)の<クヮ>と
 <花>の<クヮ>と<活>(クワツ)の
 <クヮ>が同音である。

 また<槵>を<クシ>と発音しているが、
 これは<クワヌ>の<ヌ>を
 <之>の字に置きかえてみると
 <クヮシ>になり、
 私たちが菓子の字をあてているものと、

 <カシ>即ち
 <樫>、<柏>、<橿>という字が浮んでくる。

 さきに風土記逸文で、
 <槵>が<クリ><栗>のことだというのを
 見たが、
 これは<クリ>だけでなく
 、<カシ>や恐らく<シイ>、
 <カヤ>など穀斗科
 その他の乾果全体をさしていたもので、
 それが太古のお菓子でもあったのであろう。

 私たちは今でも
 <クリ>(マロン)や<クルミ>、
 <カシュウ>などを
 お菓子屋で買っているのである。

 <槵>の古音がわかると、
 <花山>も<活山>も
 <クヮシヌ>に対する当て字を
 山の意味にかけたもので、
 天から降ったのだから、
 それは<山>でなければならないという
 先入感が、
 <シヌ>に山(サヌ)の字を使わせた、
 とすべきである。

 これで従来続けて
 <クシフル>と発音していたものは、
 <槵>(クワシ)<ヌ>と<フル>とに
 分けるべきものであることがわかった。

 この<槵><ヌ>は<槵><ノ>としてもいいが
 それでは何のことか判らない。

 これを、
 さきにみた<栗野>という地名だとすると、
 倭人章の鬼奴国と三つのものが合致して、
 謎は消滅する。

 では、あとに残った<触>と<明>は何か。

 まず<触>を片づけよう。

 三国遺事の同じ始祖の条に、
 国号<徐羅伐>。
 又<徐伐>。

 と書き、割注で

 「今俗に京の字の訓(よみ)を
  <徐伐>と言う。
  それはこれが理由である」

 と説明している。

 朝鮮半島では
 首都のことを<ソウル>という。

 それはこの新羅の国号による。
 というのである。

 これは今の大
 韓民国になっても<京城>と書いて、
 やはり<ソウル>と発音しているから、
 <徐伐>を<ソウル>と読むことは
 疑う余地がない。

 では、
 <徐>が<ゾ>であり、
 清音化して<ソ>に用いたことはわかるとして、
 <伐>がどうして<ウル>と読めるのであろう。

 その手がかりは
 『日本書紀』の天孫降臨の一書の六にある。

 ここでは<日向襲之高千穂添山峯>とあり、
 訓(よみ)の割注があって

 「添山、これは
  曽褒里能耶麻(ソホリノヤマ)と言う」
 と説明がついている。

 <ソホリ>と読むというのである。

 また奈良県にもその北端に
 添(ソフ)の郡(コオリ)があり、
 のち添の上と下に分けられ、
 現在では大半が奈良市になって
 僅かに東北端に
 添上郡(ソエカミグン)が残っているが、
 <添>が<ソフ>、<ソエ>と 
 発音が変ることの
 よい証拠になってくれている。

 奈良も<ソホリ>であったのである。

 <添>はそれ以前に
 <ソホリ>と発音されていたのであるから、

 <ソフ>との間に<ソフリ>と
 発音された期間があると
 考えることができる。

 一方朝鮮語は
 <伐>の字を<パル>と発音する。
 <徐伐>が<ソフリ>だと知っていた
 時代がすぎると、
 次第にこの字音に影響されて、
 <ソフル>になりさらに
 <ソウル>になってしまったと
 考えることができる。

 この<ソフル>を問題の
 <フル>と比較すると、
 <ソフル>とは
 <襲>の国の<フル>であったことがわかる。

 これは襲の羅(くに)のフルであって、
 <徐羅伐>と書かれても
 同じ意味だという理由が
 至極明快にわかるのである。

 また、
 <徐>が<ジョ>の<ジ>に重点が移ると
 清音<シ>になり、
 <伐>が<キリ>から<キ>に移って
 <シラキ>という音になる。

 <シラキ>とはソラ郡であったから
 ソジシの空国と書かれ、

 空国はカラ国と読まれて
 韓国を生み出したことも不自然ではない。

 次に赫居世王という名が
 何を意味するかをみておこう。

 赫(力)
 居(コ)
 世(シ)と続くから王を国と入れかえると
 <国>は<マ>で「カコシマ」となる。

 これは明らかに鹿児島の朝鮮式発音である。

 すると
 明は<アカル>と読めば
 阿鹿児(アカル)であって、
 応神天皇の
 明の宮の名とも一致するのである。

 また
 <赫居世>は<朴赫居世>
 とも綴られている。

 <朴>は一般に
 <ポク>と卜の字音で呼ばれているが、
 
 木の名として用いられる場合は
 <ホウ>と発音されている。

 これを10世紀の百科辞典
 「倭名類聚鈔」によって
 古名を調べてみると、

 その巻二十中の木類の項に

 「厚朴、重皮附」

 本草云厚朴一名厚皮、楊氏漢語抄云、

 厚木保々加之波乃木 
 
 厚きホホカシハの木)。

 釈薬性云重皮、和名保々乃加波(ホホの皮)

 厚朴皮名也。」とある。

  <句読点( )注は筆者>。

 <朴>は<ホホ>であったのである。

 これは彦<火火>出見尊、
 または日子<穂穂>出見命、

 あるいは日子<日日>出見と書かれる
 <ホホ>と全く同音である。

 <朴>とはこの<ホホ>に対する
 当て字であったとすれば、

 このヒコ<ホホ>出見尊の山陵のある
 姶良郡との関係がさらに深く、
 またこの尊を祭るのが
 鹿児島神宮の名をもつことは当然で
 日子<朴>出見尊を祭る
 赫居世国神宮と書いても
 全く同じ読み方ができることに
 注意して戴きたい。

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