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![]() (○´д`○)こんにちわぁ♪![]() ![]() 《『三国史記』&『三国遺事』》
『三国史記』(さんごくしき)は、
高麗17代仁宗
(在位:1123年-1147年)の命を奉じて
金富軾
らが1143年に執筆を開始し、
1145年に完成させた三国時
(新羅・高句麗・百済)から
統一新羅末期までを対象とする
紀伝体の正史である。
朝鮮半島に現存する最古の歴史書。
全50巻。
「解説」
『三国史記』は
12世紀の高麗の史官、
金富軾(コムプシ)の選修になるもので、
いわば『日本書紀』に似ている、
第三十四巻と第三十五巻が
地理誌になっていて、
州、郡、県名が、
二つあるいは三つの新旧名を対照して、
全部記録されている。
『三国史記』は朝鮮の正史だとはいっても、
12世紀半ばの1145〜1145年
(日本の平安後期、源義家・西行法師の時代)
になって「高麗」で編集された。
日本の『記・紀』より、
さらに4世紀以上も後のもので、
しかも別の国の記録を寄せ集めてあるから、
編集にはかなりの無理が見られ、
年代なども適当にはめこまれたものが多い。
※出典:加治木義博
大学講義録25:7頁
《『三国史記』と高族「欠史天皇」の実体》
『三国史記』は
9世紀に高麗(コウライ)が
朝鮮半島を征服してから、
新羅35代景徳王以来、
反日感情にみちている新羅史料をもとに、
中国史料から引用したものを加えて
作った作品で、
日本と朝鮮半島とは
血縁はないと強調する目的で作った、
意図的に手を加えた歴史書なので、
これまではその内容は
全て朝鮮半島だけの歴史だと
思い込まれていた。
しかし
高句麗王たちは高(コウ)を意味する
孝(コウ)の字のついた欠史天皇として、
神武天皇と崇神天皇の間に配列され、
その系譜をみると卑弥呼も、
日葉酢媛も共に、
その王統の出身なのである。
ここで日葉酢媛の名乗りの検討を
手抜きしてはならない。
それが
パーリ語仏典の教義の名「ミーマンサー」
奉じる子という意味であることは、
大学講義録24:30頁
でおわかり戴いたと思うが、
それは『魏書倭人章』が
弥馬升という当て字で
記録したものと同じだった。
その弥馬升には
崇神天皇の皇后御間城姫の名も一致するし、
地名にも
美作(ミマサカ)(岡山県)が実在するので、
それが正しいことが確認できる。
この御間城姫皇后が卑弥呼が死んだ直後、
卑弥呼の後継者になったが、
気性が激しくて
男王・崇神天皇の手に負えず、
別居してしまったことが
再び内乱を招いて崇神政権は崩壊した。
『日本書紀』では
御間城姫皇后は卑弥呼の死後は
「天照大神」と呼ばれている。
日葉酢媛は卑弥呼からは
3代目の天照大神であり、
3代目卑弥呼なのでもある。
大学講義録33:20頁
《いま我が建国史の重要史料になった
『三国史記』》
新羅35代・景徳王記を読むと、
その12年、
日本の国使が来たが
傲慢無礼(ごうまん・ぶれい)な
態度だったので、
景徳王は会わなかったという記事がある。
これは753年のことだから、
天武天皇の
壬申(じんしん)の乱(672年)から
80年たっていたが、
日本の使者は新羅王が知事だったことや
壬申(じんしん)の乱の敗北者だったことを
よく知っていた。
それが態度に現われていたので、
会わなかったばかりか、
それが原因で、
倭国時代の遺物である地名まで全面改定して、
鬱憤(うっぷん)を晴らしたのである。
ところが
『三国史記』は
改名以前の地名を記録している。
それをみると
倭国時代の地名が
日本語だったとよくわかるので、
景徳王は
逆に歴史の真相を裏書きした結果になっている。
新羅が太古からの独立国だったのなら、
何も地名を変更する必要はなく、
反対に尊重するし、
もとの高句麗や百済の地名まで
変える必要など、
あるはずがないからである。
これを一つだけ見ても、
新羅独立以前は、
半島が倭国の領土だったことは動かない。
またこのことは
新羅の起源を書く神話が、
半島のものではなかったことも
教えてくれた。
そこにある地名が
南九州のものだということは
本書でもお話ししたが、
荒唐無稽(こうとうむけい)にみえる
話もよく検討すれば史実につながる。
この意味で
『三国史記』は朝鮮半島史はもちろんだが、
我が国の建国史にとっても、
今、
重要で有力な史料に変身したことを
よくご認識戴きたい。
『三国遺事』(さんごくいじ)は、
13世紀末に
高麗の高僧一然
(1206年 - 1289年)によって
書かれた私撰の史書。
大部分の撰述の時期は
1270年代後半から1280年代中頃であり、
一然の没後に弟子の無極
(宝鑑国師の混丘)が
補筆・署名し、刊行されたと見られる。
朝鮮半島における現存最古の史書である
『三国史記』(1145年完成)に
次ぐ古文献ではあるが、
由来の怪しい古書を引用するなど、
史書としての問題点は少なくない。
しかし、
三国時代及びそれ以前の朝鮮半島の歴史を
記した資料は
極めて乏しいということもあって、
『三国史記』と並んで
朝鮮半島古代史の基本文献として
扱われている。
また、
『三国史記』が名だけを留めて収めなかった
郷歌(ヒャンガ)を14首伝えており、
言語学資料としての価値も高い。
「解説」
『三国遺事』は13世紀末、
丁度元寇当時の高麗の僧、無極一然の著書で、
『三国史記』を補うような形をしており、
古事記と似た働きをもっている。
※出典:加治木義博 邪馬臺国の言葉
《どちらが祖先か日鮮両語》
『三国遺事』は、
朝鮮の坊さんが1227年に、
朝鮮に伝わる伝説、逸話などを集めて
記録したものである。
新羅建国からは
少くとも1000年以上
経過しているとみなけれはならない。
それにもかかわらず、
いま謎ときができるだけの、
しつかりした中身を伝えていたのである。
著者、僧一然氏は、
殆んど700年目にあたる今、
彼の仕事がこんなにも認められて、
泉下で大いに満足していると思うのである。
こうして、作為なく、
収録者も話者も真相を知らぬままに話し、
書き綴ったものが、
新羅神話とは、
日本神話と同じ天孫降臨の
変型したものであることを証明した。
新羅の始祖は半島でなく鹿児島に住み、
その名も赫居(カゴ)之王と
名乗っていたのである。
とすれば後世朝鮮半島に住み、
新羅の国を発展させた人々は
血液も言語も、
日本人と共通であったはずである。
日鮮同祖論はここで
新らしい大きな証拠によって、
その正しさが証明されたことになる。
ただ従来は半島から日本列島へ、
人々が移り住んだと
全く反対に考えられてきた。
日鮮語の類似は、
朝鮮語が日本へ入ったためだ、
とされてきた。
だが、
どうやらそれは完全に間違っていて、
正反対に日本から半島へ
流入したとせねばならないようである。
それを確かめるのは、
別に難事でも何でもない。
日本人は、すでにみたように、
混成民族であることがはっきりしているから、
日本語もまた、
海外の言語が混入しているはずである。
朝鮮語は、
三韓が九州から移動したのであれば、
共通語があって当然だから反対側の国々、
南西諸島からさらに南西にひろがる
マレー語圏のことばと、
日本のことばを比較すれば、
日本を中心にして、
どちらからどちらへ移動したか、
かなりの精度でつかむことが
可能なはずである。
このことはまた当然、
これまで日本式発音だけで検討してきた
官名などが、
どういう構造になっているかを
確かめるのにも役立つはずである。
また日本語でとけない名詞。
<ヤマト>とか<アスカ>とか
邪馬臺とか狗奴国とかの正体を、
明らかにする手がかりが
得られるかもしれない。
沖縄の南にはすぐ台湾があるが、
その土着の言語はマレー語圏に属する。
マレー語には<クリ>という発音で
<毛>を意妹する語がある。
<粟野>はマレー語とすれば
「毛の」を意味し、
霧島の山ふところにあって
毛人の国にさらに有力な
証拠を加えることができる。
まず大きく網をひろげて、
さらに飛躍した証拠群を捉えるためにも、
マレー語は重要な対象であり、
それは大きな収穫を約束してくれている。
『三国史記』
『三国遺事』
『倭・倭人関連の朝鮮文献』
『朝鮮の歴史』
M.K記
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