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![]() (○´д`○)こんにちわぁ♪![]() ![]() 《箕子朝鮮・衛氏朝鮮》
『箕子朝鮮』
(きしちょうせん、? - 紀元前194年)とは、
殷の箕子が建国したとされる
朝鮮の伝説的な古代国家。
いわゆる古朝鮮の一つで、
韓氏朝鮮・奇氏朝鮮とも呼ぶ。
首都は王倹城(現在の平壌)。
『三国志』 魏志書、
『魏略』逸文などにやや具体的な記述が
見えるものの、
未だに考古学的な裏付けが無く、
実在性は乏しいと考えられている。
『衛氏朝鮮』
衛氏朝鮮(えいしちょうせん
紀元前195年? - 紀元前108年)は、
考古学的に証明できる
朝鮮の最初の国家である。
中国資料の記述によれば、
燕の亡命者である衛満
(『史記』及び『漢書』には
名のみ「満」と記す。
姓を「衛」と記すのは『三国志』以降)
が今の朝鮮半島北部に立てたとされる。
『史記』によれば、
朝鮮は燕の全盛期その配下に入っていたが、
燕が秦に滅ぼされて後は
国外の属国という状態にあった。
前漢の高祖の時代、
燕王盧綰が漢に背いて匈奴に亡命すると、
満(衛満)も燕から亡命し、
千人余りの徒党と共に朝鮮に入った。
そこで、
朝鮮の非漢人系住民や燕・斉の亡命者などを
取り込み、
王険城(平壌)を首都として王位に就いた。
その後は
独立国家として振る舞い、
朝鮮周辺に覇を唱えたが、
孫の右渠の代に、
漢の意のままにならないことが
武帝の逆鱗に触れ、
紀元前109年、紀元前108年に
遠征が行われ、衛氏朝鮮は滅ぼされた。
その故地には
楽浪郡、
真番郡、
臨屯郡、
玄菟郡の四郡が置かれ、
漢の直轄地になったという。
なお、
『三国志』『魏略』及び『後漢書』には、
前漢建国当時の朝鮮は
箕子の子孫が代々朝鮮侯として治めていたが、
後に朝鮮王を僭称するようになったこと、
箕準の代に至り
亡命者衛満の手により王権を奪われたこと、
箕準は残兵を率いて南方の馬韓の地を攻略し、
そこで韓王となったという
新たな記述が付け加わっている
(→箕子朝鮮)。
出典:加治木義博
日本人のルーツ:151〜152頁
《具体的な歴史を比べてみると》
東西文化交流の歴史文献は大量にはないが、
本書でとりあげた例が、
文献史学的にどれだけ具体的に、
裏付けできるかを、
最後に要約して終わることにしよう。
まず間接的な背景になった事件を
年代史でみて行くと、
紀元前
(以下紀元を省略して「前」「後」とする)
前5000年頃 ブルガリアで
金属器使用が認められ、
前4000年頃 メソポタミアに
シユメル文化が興り、
前2500年頃 アーリア人の大移動が始まり、
前2000年頃 インドに侵入、
前1500年頃 中国に殷の青銅文化発生。
前1300年頃 鉄器文化をもった
ハッティ王国生まれ、
アッシリアがバビロンを支配、
前1200年頃 両王国とも滅亡。
「インド」では
前1000年頃 都市国家繁栄、
カースト制度が作られ、
ブラフマンが最高権力をにぎり、
バラモン教時代となる。
前 480年頃 釈迦が死に仏教興る。
前 327年 アレクサンドロス北インド征服。
前 322年 チャンドラグプタが
マガダ国をとり、
その子孫アショカ王は
前 244年 仏教々典を結集、
世界各地に宣教師団を派遣、
その磨崖法勅によれば、
その伝道は
西はギリシャ、エジプトを越えた。
東はヤナカ、スワンナプーミ、
タムバパンニディーパという
国名があり、
谷中や諏訪、不弥(ぶみ)、
丹波(たんば)という
日本の地名によく似ている。
その団長名もソナカという
『日本書紀』に登場する
外来者蘇那曷と同名の人物や
ミジマやサンバラという
三島、三原という
当て字のできる人々がいて
注意を要する。
前10世紀 殷滅亡直前、
王子箕子は亡命して
朝鮮国を建国した。
その子孫の準王は
燕人の衛満に国をとられて
海を渡って逃げ、
韓人の王となる(前194年)。
『漢書』にはまだ韓という名は見当らない
それは朝鮮半島から海を渡る所にあり、
後3世紀の『魏志』にある半島南部の韓は、
それ以後半島に移住したものである。
そうした位置関係からみて
準王の逃げた韓とは
日本列島以外にあり得ない。
この間、
後57年に倭奴国王が後漢の印綬を受けた。
1784年に福岡県志賀島で出土した
金印には『委奴(いぬ)国』とある。
イヌとインとはわずかな発音差しかない。
『記・紀』には
多くの移民が日本列島へやって来たことを
記録しているがそれは省略して、
時代は下るが
後10世紀に建国した
中国北宋の太宗皇帝のいった、
有名な日本評価を正史の
『宋史』で見てみよう。
彼はやってきた日本僧から
日本の歴史を聞き、
深いため息をついて宰相に話した。
「日本の天皇はすでに64代も続き
万世一系であり、
臣下も代々親のあとを継ぐという。
これに比べて中国は革命につぐ革命で、
宋になる前の5代など、
ひどいのは四年で亡びた。
朕が日夜政務に励むのは、
お前らの子孫の安定した暮しを
願うからだ。」
確かに日本の天皇制は
世界に類のない千数百年の安定をもたらした。
多少の動乱はあったが、
革命のたびに逃げまどい
生命財産を失った中国人に比べて、
日本人は幸福だったといえる。
そんな政治技術は未開人の間では生まれない。
多くの体験と高度の先行文明の実在を
立証しているのである。
出典:加治木義博 焼酎入門:88〜89頁
《焼酎と祭り:焼酎と泡盛の来た道》
酒池肉林で殷が亡びてのち、
王子の箕子(キシ)は東に移って国をたてた。
「箕子朝鮮」がそれである。
その子孫の準王は衛満という男に
国を乗っ盗られ、
海を渡って逃れ、
海の彼方に住んで朝鮮とは相往来せずとある。
半島から海を越えて逃げこむ国といえば
九州のほかに考えようがない。
これは紀元前200年頃の史実である。
<インドからのコース>
アレクサンドロスの東征によって、
ギリシャ人がインド北部に
仏像などの造像文化をもたらしたことは
よく知られている。
その後約1世紀。
アショカ王が四方に仏教宣教団を派遣。
東方へはソナカ王子を団長とする組が旅立った。
日本書紀をみると崇神天皇紀に
ソナカ王子が朝貢して来たという記事がある。
仲衷天皇と神功皇后もソナカと読める
名をもっている。
そして日本の古代文化ことに神道は、
インド教と仏教との混合した
原始仏教の証徴を大量にもっている。
それはすでに
祇園山鉾などでおわかりのとおりである。
<山地民族コース>
「焼酎のルーツ探検記」のように、
インドから東へのコースには
タイの山地民族や
台湾の高山族のような人々が、
いまだに非蘭引系の
逆ドーム型焼酎甑を伝えている。
これはソナカの東行コースと
結びつけて考えることのできる遺物である。
その焼酎甑は今なお南九州に健在で、
はっきり泡盛の蘭引と区別できる
姿をとどめている。
焼酎は日本人のルーツと
深い関係のある重要な文化財なのである。
① シュメル蒸溜器文化
紀元前3000年代
② 殷人日本移住
縄文時代
③ アレクサンドロス東征
紀元前4世紀
④ アショカ王 宣教師団派遣
紀元前3世紀
⑤ 弥生時代人渡来
紀元前3世紀ごろ
⑥ 泉州焼酒渡来
15世紀
⑦ シャム(タイ)から泡盛技術渡来
16世紀
⑧ ポルトガル蘭引渡来
16世紀
『三国志』
『三国史記』
『三国遺事』
『電子大藏經』
『倭・倭人関連の朝鮮文献』
『朝鮮の歴史』
M.K記
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