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倫理と本能、生物としてのあるべき姿は相反するもの。
種を繁栄させるのが生物の目的だとすれば、淘汰するべき不完全な遺伝子は淘汰されるのが本来。
しかし、倫理はあくまでもそれを拒もうとする。
野生の動物は、弱きものは淘汰され、弱き遺伝子は滅んでゆく。
奇形はうち捨てられる、あるいは、なすすべなく死んでゆく。
しかし、それは必然でしかない。
その一代はなんとかなったとしても、次の代、そしてその次の代で同じように繁栄することはできないだろう。
更に言えば、その弱き遺伝子が他の遺伝子に混ざってしまうことで、種としてはマイナスのファクターをゆるゆると引きずることとなる。
これはその生物としても得策ではないだろう。
種の繁栄の為に、ひとつの個体を犠牲にすることは当たり前に起こりうることなのだ。
しかし、人間はそうではない。
かつては生まれてきた障害児を間引いて死産扱いとしたり、殺さないまでも座敷に閉じ込めておいたり、間引くことのできなかった奇形の子供や障害者を何処かに捨てることもあったという。
今の社会では「あってはならないこと」かもしれないが、かつてはそれがまかり通ったし、純粋に生物としてのことを言うならば正しい選択でもあった。
現在はどうであろうか。
弱者に優しく。困っているものには支援を。障害者には手を差し伸べる。
倫理的で理性的で理想的で、とても素晴らしい文明社会。
倫理は本能に反しても、その倫理こそが美徳といわれる。
ニンゲンが高尚と思うものほど、無駄なものはない。
しかし、そんなものにこそ、人間は興味を抱き、面白さを感じてしまうようになってしまった。
理性も倫理も、究極的にいえば繁殖に不必要なもの。
しかし、現在の人間の社会で個体として人間的にも生物的にも成功するには、理性も倫理も必要なもの。
人間は変わった生き物。
だけれども、その矛盾こそが面白い。
そしてこれを面白いと感じるのもまた、人間は生物としての矛盾を孕んでいることの最たる例でもある。
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