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メモ:個性

メモ書き:個性
 
個性的、とはどういう事だろうか。
個性的と調べると「人や物が、他と比較して異なる個性をもっているさま。独特であるさま。」という説明が出てくる。
それは相対的な評価であるが、客観的に評価されるものなのか、主観的に評価されるものなのかはわからない。
しかしこの言葉は、面白いだとか、変わっているだとか、何かに才能があるだとか、その様な事をさして言われることが多い。
 
一芸に秀でていれば、それは個性的になるのだろうか。
その一芸に対して、一般的な水準より5優れていれば個性的か。
それとも10優れていないと個性的とは言わないのか。
その一芸が唯一無二の物ならば話は別だが、多くは一芸自体もただ他よりも少し優れている程度である。
それは「少しの才能」かもしれないが、その少しを持っている人間はゴマンといる。
結局、それですら多くの中の一つに過ぎないのではないだろうか。
それぞれがオンリーワンという考え方も平和的かもしれないが、そこには何も光る要素が感じられない。

個性とはそれぞれの個別性ではないのか。
そう考えると、それぞれはそれぞれ個性的であるという言い方が出来ると思う。
これは言葉の意味として正しくないように感じる。

オンリーワンと言ったり、同じ人間がいないというのなら、個性的でない人間など存在しえないことになる。
しかし、相対評価の言葉であるということは、やはり個性的と無個性的が存在してしまう事になる。
 
では逆に一般的や平均的と殆ど同じならそれは無個性というのだろうか。
一般の平均は一体どのようなモノなのだろうか、
結局は、様々な項目の絶対値が大きく離れていようと、それが派手でなければ意味はなく、
目立つ項目が大きく基準値を外れていれば個性といってしまうのだろうか。
では、その基準値はどのように決める?

個性的という表現は、母集団の性質でも大きく意味を変える。
言葉自体の意味は変わらないが、その中身となる個性は大きく変わるはずである。
 
何が普通で何が普通でないのか。
何が個性的で何が無個性なのか。
 
もう少し考えをまとめようと思う。

経験は肉となる

 

経験が少ないという事は、それだけ貧しいという事。
見た物聞いた物やった事その全てが経験として蓄積される。
 
やってみて初めて、それがなんなのかわかることもある。
やってみて初めて、やった人の気持ちがわかる、どうやられたのかわかる。
 
ベクトルの元になってみてわかることもあれば、ベクトルの先になってわかることもある。
それぞれが、別々の経験である。
あるいは、どちらも経験して始めで気付くこともあるかもしれない。
 
自分が子供を育てて、初めて自分がどうやって育てられたのかわかるという。
大人になって初めて、子供のころ自分を叱った大人の気持ちが、その説教の意味がわかる。
 
その時期を過ぎて初めて、その時期の大切さがわかる。
失って初めて存在に気付く。
 
 
経験は財産。
時間を「何か」に使った人が、その時間でその経験をしながら知ったこと、思ったこと、得たことは、その時間を無為に過ごした人には判る筈がない。
本質は、触れたものにしかわからない。
 
しかしながら、誰かが「何か」をしたその時間を無為に過ごしていた者が「無経験」だとは思わない。
時間を「何か」に使った者には、無為に過ごした者の気持ち、得たもの、その無為自体の事を知ることはできない。
無為は、無為に過ごすという経験である。
 
無為に過ごした者は、その無為を後悔したかもしれない、その無為の時間に何かを考えたかもしれない、あるいは何も考えないという経験をしているかもしれない。
 
有意も経験であり、無為も経験である。
そのどちらも、内容は違えど同じもの。
価値が違うという者がいるかもしれないが、価値とはそれぞれが決めるもの。客観的な価値などに意味はない。
 
時間は平等。
使い方に違いはあれど、過ごした時間は変わらない。
その価値も、すべて自分が意味づけする事が出来る。
つまりは、そういうこと。
 
エントリ:アンチフェミニスの続き・補足。
つれづれなるままに。

女尊思考、男尊思考。
どちらの思想を持っていても、あるいはどちらでもなくてもいい。
しかしやはり、その考えを高らかに主張する事が出来る人間と言うのは少ないように思える。
主張するだけならどんな者でも簡単だが、それを表出して完全なる賛同を得ることが出来るだけの説得力というものがあるだろうか。
 
前エントリにおいて、男尊女卑を推したが、それはあくまで大きな単位の事。
最大値においての事であり、個人や集団レベルで同じ話をすることは出来ない。
つまり、個々人の男尊女卑思考を推す事は出来ないのである。
 
思想に取り憑かれた者は、その思想を通してしか物事を視ることができなくなる事が多い。思考の方向が、一元的になるのである。
たとえ事実がどうであろうと、無条件でその一個人が全ての異性より優れていると勘違いしてしまう事があるのである。
 
例を出せば、ある男尊女卑思想の男性が「これだから女は〜」と相手の事をよく知っているわけでもないのに言うのである。女性の中には彼よりも優れている者もいるのに、思想で盲目になっており、その事実に気付く事が出来ない。
 
男が、女が、そんな風に括ること自体が、思考の停止と同一なのではないだろうか。
先入観や自分の考えを押し付けて、それ以上の事を見ず、考えない。

これは男・女の部分を何か他の言葉に入れ替えることで、何に対しても言う事が出来る。
一つひとつについて考えることが出来るのならば、それが最善の方法ではないだろうか。

ただ残念ながら…
議論を「個々で違う」と言う事自体も、全体を視ることが出来ないのと同義と言えるかもしれない。
それぞれ違うよね、そんな結論も平和的だが、この結論だって決めつけと同じ思考の停止と言えるのだ。
 

男性、女性、集団、個々人。
性差はあるが、個体差もある。全ての個体を合わせた集団で判断する事と、個体で判断する事。
 
一つの思想にとらわれず、柔軟な考え方で全体を見渡せたら良いと思う。

自然と暮らす

オーガニックとかロハスとかエコとか。
そんな事を謳った商品が増えてきた。
 
自然由来だからアレルギーが出ない?身体に良い?健康的?
 
「なんとなく」良さそうだという事は理解が出来る。
しかし、なにを根拠にそれを言っているのだろうか。
 
元を正せば、大体のものは自然を加工することによって出来た物質である。
人間が無理やりに作り出した、完全に自然に由来しないものなんてそうそう有るわけではない。
 
上げるならば、非常に不安定で存在すら危うい新原子や粒子などはそうかもしれないが…。
確かに、中には石綿(アスベスト)や食品添加物、抗生物質のように、本来ならそこにあるべき物ではないせいで引き起こされた健康被害や災害はある。
 
しかし、それは天然由来も同じ。
 
形を変える、その地域にないものを持ってくる、抽出して濃くする、違うものと組み合わせる…
人の手に一度渡れば、「天然由来」という謳い文句とともにどんな加工品でも天然になり得る。
 
また、天然のものであるから良い、病気にならない、アレルギーが起きないなんて事は単なる幻想でしかない。
 
日光を浴びれば、人の細胞は害される。
風は体力を消耗させ、地には人を攻撃する細菌が住む。
水のアレルギー、木のアレルギーもある。
食物アレルギーは、どんな「天然」の物でもおこり得る。

結局は、人の造りだしたものも、元々そこにある天然の物も、さほど変わりはない。
問題なのは、使い手の使い方。
毒にも薬にも、という言葉が表す通り、それ自体が悪いもの良いものなんてそうそう存在するハズもない。

人工物に依存し、それだけで暮らす事は確かに褒められたことではないのかもしれない。
 
しかし、ただなんとなくという理由で自然に肩入れするのも、同じく褒められた事ではないのではなかろうか。
 
 
 

環境を保つという事

人間が文明を発達させるとの同じように、人間は環境を「破壊」してきたという。

空に粉塵が放たれ、土壌に薬品がしみこみ、海に海水以外の物質が流れ込む。
土にはコンクリートが敷かれ、木は切り倒され、そこに新たな都市が築かれた。

そして今、人々は口々に「環境の保全を!」と。


――地球の美しい環境を保つ


とても結構な事だ。

しかし、人間が創った人工物を全て「自然にあらず」として、 エ コ で ロ ハ ス なモノをよしとするのはどうかと思う。


はるか昔。地球はまだ無機物が集まってできただけの熱く新しい星だった。
誕生直後はマグマの海に覆われていたが、地殻と原始の海が出来、そこに有機化合物の化学進化の結果、最初の生命が生まれた。

その後、シアノバクテリアの光合成によって大気が形成され、ここから徐々に地球の環境が変化する。

自然とは何か。

自然をあるがままの状態とするならば、原始の地球の自然は「地殻と原始の海に覆われた、無機物で一杯の地球」だっただろう。
しかし、シアノバクテリアの発生によって、大気のない無機物で一杯の地球に、大気と有機物が生まれる。

シアノバクテリアが、それまでの原始の地球の環境を「破壊」したともいえる。
あるがままの自然である一方で、ここでは環境破壊も起こっているのではないか。


地球年表の中で、環境や生物は様々に変化し、進化を続け、競い合うように生きてきた。

環境の変化によって生物が進化したことも、ある生物の台頭によって周りの環境が変化したことも数えきれない程の回数があるだろう。
あるサボテンは陸にすむトカゲから身を守るために背を高くし、高い枝先に実をつけるようになったし、一方のキリンは背の高い木の葉を食べるために首を長くした。

そこにいる生物の為に環境が変化することも、またその逆も珍しいことではないのだ。



では、人間は?

人間が行った「環境破壊」の為に、地球の環境は少なからず変化した。
それまで無かったモノが地球上にあふれた。

多くの人は、これを自然ではない――不自然だという。

しかし、この「環境破壊」というものは、それまで他の生物が生命活動の中で行ってきた環境を変化させるという行為と少しも変わらないのではないか。

人間が手を加えているから自然ではないのか。
とはいえその人間も元々自然から発生したもの。
人間だけが他の生物と一線を画し、他の生物による環境の作り変えは自然で、人間による環境の作り変えは不自然だというのはただの驕りではないか――


地球の環境は常に変化している。

何億年も前の地球と今の地球とは似ても似つかない。

そしてこの地球は、生まれた時から今まで絶えず変化を続けてきた。
おそらく、これからも。

たとえ少々度合いが違くとも、変化してしかるべきなのではないか。

むしろ、変化を止めて今のままでいつまでも保たせようとしている方が、これまでの地球の歴史の中では不自然にあたるのではないか……。


自然、地球、環境。

それは、そこに住む人間も含めてのこと。


永い地球の歴史に人間の歴史を委ねるのも、ちゃんと「自然」な生き方だと思う。

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