生物系

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エントリ:アンチフェミニスの続き・補足。
つれづれなるままに。

女尊思考、男尊思考。
どちらの思想を持っていても、あるいはどちらでもなくてもいい。
しかしやはり、その考えを高らかに主張する事が出来る人間と言うのは少ないように思える。
主張するだけならどんな者でも簡単だが、それを表出して完全なる賛同を得ることが出来るだけの説得力というものがあるだろうか。
 
前エントリにおいて、男尊女卑を推したが、それはあくまで大きな単位の事。
最大値においての事であり、個人や集団レベルで同じ話をすることは出来ない。
つまり、個々人の男尊女卑思考を推す事は出来ないのである。
 
思想に取り憑かれた者は、その思想を通してしか物事を視ることができなくなる事が多い。思考の方向が、一元的になるのである。
たとえ事実がどうであろうと、無条件でその一個人が全ての異性より優れていると勘違いしてしまう事があるのである。
 
例を出せば、ある男尊女卑思想の男性が「これだから女は〜」と相手の事をよく知っているわけでもないのに言うのである。女性の中には彼よりも優れている者もいるのに、思想で盲目になっており、その事実に気付く事が出来ない。
 
男が、女が、そんな風に括ること自体が、思考の停止と同一なのではないだろうか。
先入観や自分の考えを押し付けて、それ以上の事を見ず、考えない。

これは男・女の部分を何か他の言葉に入れ替えることで、何に対しても言う事が出来る。
一つひとつについて考えることが出来るのならば、それが最善の方法ではないだろうか。

ただ残念ながら…
議論を「個々で違う」と言う事自体も、全体を視ることが出来ないのと同義と言えるかもしれない。
それぞれ違うよね、そんな結論も平和的だが、この結論だって決めつけと同じ思考の停止と言えるのだ。
 

男性、女性、集団、個々人。
性差はあるが、個体差もある。全ての個体を合わせた集団で判断する事と、個体で判断する事。
 
一つの思想にとらわれず、柔軟な考え方で全体を見渡せたら良いと思う。

自然と暮らす

オーガニックとかロハスとかエコとか。
そんな事を謳った商品が増えてきた。
 
自然由来だからアレルギーが出ない?身体に良い?健康的?
 
「なんとなく」良さそうだという事は理解が出来る。
しかし、なにを根拠にそれを言っているのだろうか。
 
元を正せば、大体のものは自然を加工することによって出来た物質である。
人間が無理やりに作り出した、完全に自然に由来しないものなんてそうそう有るわけではない。
 
上げるならば、非常に不安定で存在すら危うい新原子や粒子などはそうかもしれないが…。
確かに、中には石綿(アスベスト)や食品添加物、抗生物質のように、本来ならそこにあるべき物ではないせいで引き起こされた健康被害や災害はある。
 
しかし、それは天然由来も同じ。
 
形を変える、その地域にないものを持ってくる、抽出して濃くする、違うものと組み合わせる…
人の手に一度渡れば、「天然由来」という謳い文句とともにどんな加工品でも天然になり得る。
 
また、天然のものであるから良い、病気にならない、アレルギーが起きないなんて事は単なる幻想でしかない。
 
日光を浴びれば、人の細胞は害される。
風は体力を消耗させ、地には人を攻撃する細菌が住む。
水のアレルギー、木のアレルギーもある。
食物アレルギーは、どんな「天然」の物でもおこり得る。

結局は、人の造りだしたものも、元々そこにある天然の物も、さほど変わりはない。
問題なのは、使い手の使い方。
毒にも薬にも、という言葉が表す通り、それ自体が悪いもの良いものなんてそうそう存在するハズもない。

人工物に依存し、それだけで暮らす事は確かに褒められたことではないのかもしれない。
 
しかし、ただなんとなくという理由で自然に肩入れするのも、同じく褒められた事ではないのではなかろうか。
 
 
 

環境を保つという事

人間が文明を発達させるとの同じように、人間は環境を「破壊」してきたという。

空に粉塵が放たれ、土壌に薬品がしみこみ、海に海水以外の物質が流れ込む。
土にはコンクリートが敷かれ、木は切り倒され、そこに新たな都市が築かれた。

そして今、人々は口々に「環境の保全を!」と。


――地球の美しい環境を保つ


とても結構な事だ。

しかし、人間が創った人工物を全て「自然にあらず」として、 エ コ で ロ ハ ス なモノをよしとするのはどうかと思う。


はるか昔。地球はまだ無機物が集まってできただけの熱く新しい星だった。
誕生直後はマグマの海に覆われていたが、地殻と原始の海が出来、そこに有機化合物の化学進化の結果、最初の生命が生まれた。

その後、シアノバクテリアの光合成によって大気が形成され、ここから徐々に地球の環境が変化する。

自然とは何か。

自然をあるがままの状態とするならば、原始の地球の自然は「地殻と原始の海に覆われた、無機物で一杯の地球」だっただろう。
しかし、シアノバクテリアの発生によって、大気のない無機物で一杯の地球に、大気と有機物が生まれる。

シアノバクテリアが、それまでの原始の地球の環境を「破壊」したともいえる。
あるがままの自然である一方で、ここでは環境破壊も起こっているのではないか。


地球年表の中で、環境や生物は様々に変化し、進化を続け、競い合うように生きてきた。

環境の変化によって生物が進化したことも、ある生物の台頭によって周りの環境が変化したことも数えきれない程の回数があるだろう。
あるサボテンは陸にすむトカゲから身を守るために背を高くし、高い枝先に実をつけるようになったし、一方のキリンは背の高い木の葉を食べるために首を長くした。

そこにいる生物の為に環境が変化することも、またその逆も珍しいことではないのだ。



では、人間は?

人間が行った「環境破壊」の為に、地球の環境は少なからず変化した。
それまで無かったモノが地球上にあふれた。

多くの人は、これを自然ではない――不自然だという。

しかし、この「環境破壊」というものは、それまで他の生物が生命活動の中で行ってきた環境を変化させるという行為と少しも変わらないのではないか。

人間が手を加えているから自然ではないのか。
とはいえその人間も元々自然から発生したもの。
人間だけが他の生物と一線を画し、他の生物による環境の作り変えは自然で、人間による環境の作り変えは不自然だというのはただの驕りではないか――


地球の環境は常に変化している。

何億年も前の地球と今の地球とは似ても似つかない。

そしてこの地球は、生まれた時から今まで絶えず変化を続けてきた。
おそらく、これからも。

たとえ少々度合いが違くとも、変化してしかるべきなのではないか。

むしろ、変化を止めて今のままでいつまでも保たせようとしている方が、これまでの地球の歴史の中では不自然にあたるのではないか……。


自然、地球、環境。

それは、そこに住む人間も含めてのこと。


永い地球の歴史に人間の歴史を委ねるのも、ちゃんと「自然」な生き方だと思う。

アンチフェミニス

男女平等という名の女尊風潮が広まっている。
レディファーストを押し付け、権利ばかりを主張する女が増えた。
社会進出だとか、女性の活躍だとか、そんな名前までつけての社会への侵蝕。
全てにおいて男性と対等、あるいはそれ以上の対応を求める。

こんな見せかけの地位の向上は、とても美しいものとは思えない。

なぜなら、「優秀な女性たち」はどうやっても優秀な男性たちに劣る能力しか持っていないからである。

確かに、優秀な女性たちよりも幾らか劣る男性がいるのも事実ではある。
しかし、何らかの基準を作って男女の能力を数値化し、それらを並べ、それぞれの平均値以上の個体のさらに平均を取ると、確実に女性の平均値のほうが男性の平均値よりも劣るのではないかと思う。

というのも、女性のほうが生物としての「振れ幅」が狭く作られているのではと感じるからだ。

女は子供を産む。男性は遺伝子を提供する。
この時子供の元となるのは、女性側の身体から作られる卵だ。
また、子供を産み育てるのも女性側であることが多い。

つまり、次世代となる子供を形作る時に、配合のメイン(メインといっても女性側の性質6割:男性側の性質4割という程度だと思うが)となるのは女性側である。
遺伝子的には確かに雌雄半々の性質を受け継ぐことになるが、児の身体の肉となる卵の細胞質はすべて女性側から作られたものだ。
つまり、肉体自体には雌側の個体の影響が強くなることになる。

このことから、雌の個体にあまりにも低い性質を持たせるのは子供を育てるうえでよろしくない。
同じ理由で、突飛な性質を持たせるのは生物として得策ではないのだ。

一方遺伝子の提供者としての雄個体には、生物の多様性を持たせるために上下方向どちらにも振れが必要である。
抜群の運動能力を持つが、その他がはるかに平均を下回る個体。
知性だけがきらめく、変わり者の個体。
逆に、何もかもが平均値の個体。

雌に比べて繁殖リスクが少ないからこそできる多様化。
しかし、このおかげでより優れた個体を生みだすこともできる。

どの生物でも、雄は生殖のために競争をする。
そしてその敗者は遺伝子を残すことが叶わない。
種全体の為に「同じ種の雄同士で」潰しあうのだから、残ってくるのは当然優良な個体である。

一方、雌が競うことは少ない。
生物としての変化の幅が少なく、どれも「それなり」であることが多い。
同じ性別どうして競うことがないのだから、劣等な個体もそこそこ残る。

切磋琢磨しあった男、待つだけの女。

女尊風潮には、生物としての違和感と疑問しか残らない。



ただ、それが文化とか倫理とか、生き物としての秤にかけるのが難しいものなのだけれども。

美しく無駄なもの

倫理と本能、生物としてのあるべき姿は相反するもの。
種を繁栄させるのが生物の目的だとすれば、淘汰するべき不完全な遺伝子は淘汰されるのが本来。

しかし、倫理はあくまでもそれを拒もうとする。

野生の動物は、弱きものは淘汰され、弱き遺伝子は滅んでゆく。
奇形はうち捨てられる、あるいは、なすすべなく死んでゆく。
しかし、それは必然でしかない。

その一代はなんとかなったとしても、次の代、そしてその次の代で同じように繁栄することはできないだろう。
更に言えば、その弱き遺伝子が他の遺伝子に混ざってしまうことで、種としてはマイナスのファクターをゆるゆると引きずることとなる。
これはその生物としても得策ではないだろう。
種の繁栄の為に、ひとつの個体を犠牲にすることは当たり前に起こりうることなのだ。

しかし、人間はそうではない。

かつては生まれてきた障害児を間引いて死産扱いとしたり、殺さないまでも座敷に閉じ込めておいたり、間引くことのできなかった奇形の子供や障害者を何処かに捨てることもあったという。
今の社会では「あってはならないこと」かもしれないが、かつてはそれがまかり通ったし、純粋に生物としてのことを言うならば正しい選択でもあった。

現在はどうであろうか。
弱者に優しく。困っているものには支援を。障害者には手を差し伸べる。
倫理的で理性的で理想的で、とても素晴らしい文明社会。
倫理は本能に反しても、その倫理こそが美徳といわれる。

ニンゲンが高尚と思うものほど、無駄なものはない。
しかし、そんなものにこそ、人間は興味を抱き、面白さを感じてしまうようになってしまった。

理性も倫理も、究極的にいえば繁殖に不必要なもの。
しかし、現在の人間の社会で個体として人間的にも生物的にも成功するには、理性も倫理も必要なもの。

人間は変わった生き物。
だけれども、その矛盾こそが面白い。





そしてこれを面白いと感じるのもまた、人間は生物としての矛盾を孕んでいることの最たる例でもある。

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