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			<title>忘備録</title>
			<description></description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/dolce_hornist</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>忘備録</title>
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			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/dolce_hornist</link>
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		<item>
			<title>メモ：個性</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;font style=&quot;BACKGROUND-COLOR:#f8f8f2;&quot;&gt;メモ書き：&lt;/font&gt;&lt;font style=&quot;BACKGROUND-COLOR:#f8f8f2;&quot;&gt;個性&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font style=&quot;BACKGROUND-COLOR:#f8f8f2;&quot;&gt;&lt;/font&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;個性的、とはどういう事だろうか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;個性的と調べると「人や物が、他と比較して異なる個性をもっているさま。独特であるさま。」という説明が出てくる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それは相対的な評価であるが、客観的に評価されるものなのか、主観的に評価されるものなのかはわからない。&lt;br&gt;
しかしこの言葉は、面白いだとか、変わっているだとか、何かに才能があるだとか、その様な事をさして言われることが多い。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;一芸に秀でていれば、それは個性的になるのだろうか。&lt;br&gt;
その一芸に対して、一般的な水準より５優れていれば個性的か。&lt;br&gt;
それとも１０優れていないと個性的とは言わないのか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その一芸が唯一無二の物ならば話は別だが、多くは一芸自体もただ他よりも少し優れている程度である。&lt;br&gt;
それは「少しの才能」かもしれないが、その少しを持っている人間はゴマンといる。&lt;br&gt;
結局、それですら多くの中の一つに過ぎないのではないだろうか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それぞれがオンリーワンという考え方も平和的かもしれないが、そこには何も光る要素が感じられない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
個性とはそれぞれの個別性ではないのか。&lt;br&gt;
そう考えると、それぞれはそれぞれ個性的であるという言い方が出来ると思う。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;これは言葉の意味として正しくないように感じる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
オンリーワンと言ったり、同じ人間がいないというのなら、個性的でない人間など存在しえないことになる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし、相対評価の言葉であるということは、やはり個性的と無個性的が存在してしまう事になる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;では逆に一般的や平均的と殆ど同じならそれは無個性というのだろうか。&lt;br&gt;
一般の平均は一体どのようなモノなのだろうか、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;結局は、様々な項目の絶対値が大きく離れていようと、それが派手でなければ意味はなく、&lt;br&gt;
目立つ項目が大きく基準値を外れていれば個性といってしまうのだろうか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;では、その基準値はどのように決める？&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
個性的という表現は、母集団の性質でも大きく意味を変える。&lt;br&gt;
言葉自体の意味は変わらないが、その中身となる個性は大きく変わるはずである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;何が普通で何が普通でないのか。&lt;br&gt;
何が個性的で何が無個性なのか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;もう少し考えをまとめようと思う。&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/dolce_hornist/19054319.html</link>
			<pubDate>Sun, 03 Oct 2010 19:43:17 +0900</pubDate>
			<category>その他人文科学</category>
		</item>
		<item>
			<title>経験は肉となる</title>
			<description>&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
経験が少ないという事は、それだけ貧しいという事。&lt;br&gt;
見た物聞いた物やった事その全てが経験として蓄積される。&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
やってみて初めて、それがなんなのかわかることもある。&lt;br&gt;
やってみて初めて、やった人の気持ちがわかる、どうやられたのかわかる。&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
ベクトルの元になってみてわかることもあれば、ベクトルの先になってわかることもある。&lt;br&gt;
それぞれが、別々の経験である。&lt;br&gt;
あるいは、どちらも経験して始めで気付くこともあるかもしれない。&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
自分が子供を育てて、初めて自分がどうやって育てられたのかわかるという。&lt;br&gt;
大人になって初めて、子供のころ自分を叱った大人の気持ちが、その説教の意味がわかる。&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
その時期を過ぎて初めて、その時期の大切さがわかる。&lt;br&gt;
失って初めて存在に気付く。&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
経験は財産。&lt;br&gt;
時間を「何か」に使った人が、その時間でその経験をしながら知ったこと、思ったこと、得たことは、その時間を無為に過ごした人には判る筈がない。&lt;br&gt;
本質は、触れたものにしかわからない。&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
しかしながら、誰かが「何か」をしたその時間を無為に過ごしていた者が「無経験」だとは思わない。&lt;br&gt;
時間を「何か」に使った者には、無為に過ごした者の気持ち、得たもの、その無為自体の事を知ることはできない。&lt;br&gt;
無為は、無為に過ごすという経験である。&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
無為に過ごした者は、その無為を後悔したかもしれない、その無為の時間に何かを考えたかもしれない、あるいは何も考えないという経験をしているかもしれない。&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
有意も経験であり、無為も経験である。&lt;br&gt;
そのどちらも、内容は違えど同じもの。&lt;br&gt;
価値が違うという者がいるかもしれないが、価値とはそれぞれが決めるもの。客観的な価値などに意味はない。&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
時間は平等。&lt;br&gt;
使い方に違いはあれど、過ごした時間は変わらない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その価値も、すべて自分が意味づけする事が出来る。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;つまりは、そういうこと。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/dolce_hornist/15848337.html</link>
			<pubDate>Fri, 02 Jul 2010 12:57:15 +0900</pubDate>
			<category>天文学</category>
		</item>
		<item>
			<title>アンチフェミニス・アンチマスキュリス</title>
			<description>&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;エントリ：アンチフェミニスの続き・補足。&lt;br&gt;
つれづれなるままに。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
女尊思考、男尊思考。&lt;br&gt;
どちらの思想を持っていても、あるいはどちらでもなくてもいい。&lt;br&gt;
しかしやはり、その考えを高らかに主張する事が出来る人間と言うのは少ないように思える。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;主張するだけならどんな者でも簡単だが、それを表出して完全なる賛同を得ることが出来るだけの説得力というものがあるだろうか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;前エントリにおいて、男尊女卑を推したが、それはあくまで大きな単位の事。&lt;br&gt;
最大値においての事であり、個人や集団レベルで同じ話をすることは出来ない。&lt;br&gt;
つまり、個々人の男尊女卑思考を推す事は出来ないのである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;思想に取り憑かれた者は、その思想を通してしか物事を視ることができなくなる事が多い。思考の方向が、一元的になるのである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;たとえ事実がどうであろうと、無条件でその一個人が全ての異性より優れていると勘違いしてしまう事があるのである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;例を出せば、ある男尊女卑思想の男性が「これだから女は～」と相手の事をよく知っているわけでもないのに言うのである。女性の中には彼よりも優れている者もいるのに、思想で盲目になっており、その事実に気付く事が出来ない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;男が、女が、そんな風に括ること自体が、思考の停止と同一なのではないだろうか。&lt;br&gt;
先入観や自分の考えを押し付けて、それ以上の事を見ず、考えない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
これは男・女の部分を何か他の言葉に入れ替えることで、何に対しても言う事が出来る。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;一つひとつについて考えることが出来るのならば、それが最善の方法ではないだろうか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
ただ残念ながら…&lt;br&gt;
議論を「個々で違う」と言う事自体も、全体を視ることが出来ないのと同義と言えるかもしれない。&lt;br&gt;
それぞれ違うよね、そんな結論も平和的だが、この結論だって決めつけと同じ思考の停止と言えるのだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
男性、女性、集団、個々人。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;性差はあるが、個体差もある。全ての個体を合わせた集団で判断する事と、個体で判断する事。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;一つの思想にとらわれず、柔軟な考え方で全体を見渡せたら良いと思う。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/dolce_hornist/15361526.html</link>
			<pubDate>Fri, 18 Jun 2010 15:57:18 +0900</pubDate>
			<category>その他社会学</category>
		</item>
		<item>
			<title>自然と暮らす</title>
			<description>&lt;div&gt;オーガニックとかロハスとかエコとか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そんな事を謳った商品が増えてきた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;自然由来だからアレルギーが出ない？身体に良い？健康的？&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「なんとなく」良さそうだという事は理解が出来る。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし、なにを根拠にそれを言っているのだろうか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;元を正せば、大体のものは自然を加工することによって出来た物質である。&lt;br&gt;
人間が無理やりに作り出した、完全に自然に由来しないものなんてそうそう有るわけではない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;上げるならば、非常に不安定で存在すら危うい新原子や粒子などはそうかもしれないが…。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;確かに、中には石綿（アスベスト）や食品添加物、抗生物質のように、本来ならそこにあるべき物ではないせいで引き起こされた健康被害や災害はある。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし、それは天然由来も同じ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;形を変える、その地域にないものを持ってくる、抽出して濃くする、違うものと組み合わせる…&lt;br&gt;
人の手に一度渡れば、「天然由来」という謳い文句とともにどんな加工品でも天然になり得る。&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
また、天然のものであるから良い、病気にならない、アレルギーが起きないなんて事は単なる幻想でしかない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;日光を浴びれば、人の細胞は害される。&lt;br&gt;
風は体力を消耗させ、地には人を攻撃する細菌が住む。&lt;br&gt;
水のアレルギー、木のアレルギーもある。&lt;br&gt;
食物アレルギーは、どんな「天然」の物でもおこり得る。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
結局は、人の造りだしたものも、元々そこにある天然の物も、さほど変わりはない。&lt;br&gt;
問題なのは、使い手の使い方。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;毒にも薬にも、という言葉が表す通り、それ自体が悪いもの良いものなんてそうそう存在するハズもない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
人工物に依存し、それだけで暮らす事は確かに褒められたことではないのかもしれない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし、ただなんとなくという理由で自然に肩入れするのも、同じく褒められた事ではないのではなかろうか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/dolce_hornist/14332458.html</link>
			<pubDate>Fri, 21 May 2010 19:54:31 +0900</pubDate>
			<category>生物学</category>
		</item>
		<item>
			<title>環境を保つという事</title>
			<description>人間が文明を発達させるとの同じように、人間は環境を「破壊」してきたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
空に粉塵が放たれ、土壌に薬品がしみこみ、海に海水以外の物質が流れ込む。&lt;br /&gt;
土にはコンクリートが敷かれ、木は切り倒され、そこに新たな都市が築かれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして今、人々は口々に「環境の保全を！」と。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
――地球の美しい環境を保つ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とても結構な事だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、人間が創った人工物を全て「自然にあらず」として、　エ　コ　で　ロ　ハ　ス　なモノをよしとするのはどうかと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
はるか昔。地球はまだ無機物が集まってできただけの熱く新しい星だった。&lt;br /&gt;
誕生直後はマグマの海に覆われていたが、地殻と原始の海が出来、そこに有機化合物の化学進化の結果、最初の生命が生まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、シアノバクテリアの光合成によって大気が形成され、ここから徐々に地球の環境が変化する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自然とは何か。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自然をあるがままの状態とするならば、原始の地球の自然は「地殻と原始の海に覆われた、無機物で一杯の地球」だっただろう。&lt;br /&gt;
しかし、シアノバクテリアの発生によって、大気のない無機物で一杯の地球に、大気と有機物が生まれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
シアノバクテリアが、それまでの原始の地球の環境を「破壊」したともいえる。&lt;br /&gt;
あるがままの自然である一方で、ここでは環境破壊も起こっているのではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地球年表の中で、環境や生物は様々に変化し、進化を続け、競い合うように生きてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
環境の変化によって生物が進化したことも、ある生物の台頭によって周りの環境が変化したことも数えきれない程の回数があるだろう。&lt;br /&gt;
あるサボテンは陸にすむトカゲから身を守るために背を高くし、高い枝先に実をつけるようになったし、一方のキリンは背の高い木の葉を食べるために首を長くした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこにいる生物の為に環境が変化することも、またその逆も珍しいことではないのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では、人間は？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人間が行った「環境破壊」の為に、地球の環境は少なからず変化した。&lt;br /&gt;
それまで無かったモノが地球上にあふれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
多くの人は、これを自然ではない――不自然だという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、この「環境破壊」というものは、それまで他の生物が生命活動の中で行ってきた環境を変化させるという行為と少しも変わらないのではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人間が手を加えているから自然ではないのか。&lt;br /&gt;
とはいえその人間も元々自然から発生したもの。&lt;br /&gt;
人間だけが他の生物と一線を画し、他の生物による環境の作り変えは自然で、人間による環境の作り変えは不自然だというのはただの驕りではないか――&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地球の環境は常に変化している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
何億年も前の地球と今の地球とは似ても似つかない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてこの地球は、生まれた時から今まで絶えず変化を続けてきた。&lt;br /&gt;
おそらく、これからも。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たとえ少々度合いが違くとも、変化してしかるべきなのではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
むしろ、変化を止めて今のままでいつまでも保たせようとしている方が、これまでの地球の歴史の中では不自然にあたるのではないか……。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自然、地球、環境。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは、そこに住む人間も含めてのこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永い地球の歴史に人間の歴史を委ねるのも、ちゃんと「自然」な生き方だと思う。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/dolce_hornist/10132252.html</link>
			<pubDate>Sun, 07 Mar 2010 12:56:04 +0900</pubDate>
			<category>生物学</category>
		</item>
		<item>
			<title>アンチフェミニス</title>
			<description>男女平等という名の女尊風潮が広まっている。&lt;br /&gt;
レディファーストを押し付け、権利ばかりを主張する女が増えた。&lt;br /&gt;
社会進出だとか、女性の活躍だとか、そんな名前までつけての社会への侵蝕。&lt;br /&gt;
全てにおいて男性と対等、あるいはそれ以上の対応を求める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こんな見せかけの地位の向上は、とても美しいものとは思えない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜなら、「優秀な女性たち」はどうやっても優秀な男性たちに劣る能力しか持っていないからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
確かに、優秀な女性たちよりも幾らか劣る男性がいるのも事実ではある。&lt;br /&gt;
しかし、何らかの基準を作って男女の能力を数値化し、それらを並べ、それぞれの平均値以上の個体のさらに平均を取ると、確実に女性の平均値のほうが男性の平均値よりも劣るのではないかと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
というのも、女性のほうが生物としての「振れ幅」が狭く作られているのではと感じるからだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
女は子供を産む。男性は遺伝子を提供する。&lt;br /&gt;
この時子供の元となるのは、女性側の身体から作られる卵だ。&lt;br /&gt;
また、子供を産み育てるのも女性側であることが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つまり、次世代となる子供を形作る時に、配合のメイン（メインといっても女性側の性質６割：男性側の性質４割という程度だと思うが）となるのは女性側である。&lt;br /&gt;
遺伝子的には確かに雌雄半々の性質を受け継ぐことになるが、児の身体の肉となる卵の細胞質はすべて女性側から作られたものだ。&lt;br /&gt;
つまり、肉体自体には雌側の個体の影響が強くなることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このことから、雌の個体にあまりにも低い性質を持たせるのは子供を育てるうえでよろしくない。&lt;br /&gt;
同じ理由で、突飛な性質を持たせるのは生物として得策ではないのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方遺伝子の提供者としての雄個体には、生物の多様性を持たせるために上下方向どちらにも振れが必要である。&lt;br /&gt;
抜群の運動能力を持つが、その他がはるかに平均を下回る個体。&lt;br /&gt;
知性だけがきらめく、変わり者の個体。&lt;br /&gt;
逆に、何もかもが平均値の個体。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雌に比べて繁殖リスクが少ないからこそできる多様化。&lt;br /&gt;
しかし、このおかげでより優れた個体を生みだすこともできる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どの生物でも、雄は生殖のために競争をする。&lt;br /&gt;
そしてその敗者は遺伝子を残すことが叶わない。&lt;br /&gt;
種全体の為に「同じ種の雄同士で」潰しあうのだから、残ってくるのは当然優良な個体である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、雌が競うことは少ない。&lt;br /&gt;
生物としての変化の幅が少なく、どれも「それなり」であることが多い。&lt;br /&gt;
同じ性別どうして競うことがないのだから、劣等な個体もそこそこ残る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
切磋琢磨しあった男、待つだけの女。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
女尊風潮には、生物としての違和感と疑問しか残らない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、それが文化とか倫理とか、生き物としての秤にかけるのが難しいものなのだけれども。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/dolce_hornist/7025889.html</link>
			<pubDate>Mon, 18 Jan 2010 00:23:41 +0900</pubDate>
			<category>生物学</category>
		</item>
		<item>
			<title>美しく無駄なもの</title>
			<description>倫理と本能、生物としてのあるべき姿は相反するもの。&lt;br /&gt;
種を繁栄させるのが生物の目的だとすれば、淘汰するべき不完全な遺伝子は淘汰されるのが本来。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、倫理はあくまでもそれを拒もうとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
野生の動物は、弱きものは淘汰され、弱き遺伝子は滅んでゆく。&lt;br /&gt;
奇形はうち捨てられる、あるいは、なすすべなく死んでゆく。&lt;br /&gt;
しかし、それは必然でしかない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その一代はなんとかなったとしても、次の代、そしてその次の代で同じように繁栄することはできないだろう。&lt;br /&gt;
更に言えば、その弱き遺伝子が他の遺伝子に混ざってしまうことで、種としてはマイナスのファクターをゆるゆると引きずることとなる。&lt;br /&gt;
これはその生物としても得策ではないだろう。&lt;br /&gt;
種の繁栄の為に、ひとつの個体を犠牲にすることは当たり前に起こりうることなのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、人間はそうではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かつては生まれてきた障害児を間引いて死産扱いとしたり、殺さないまでも座敷に閉じ込めておいたり、間引くことのできなかった奇形の子供や障害者を何処かに捨てることもあったという。&lt;br /&gt;
今の社会では「あってはならないこと」かもしれないが、かつてはそれがまかり通ったし、純粋に生物としてのことを言うならば正しい選択でもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在はどうであろうか。&lt;br /&gt;
弱者に優しく。困っているものには支援を。障害者には手を差し伸べる。&lt;br /&gt;
倫理的で理性的で理想的で、とても素晴らしい文明社会。&lt;br /&gt;
倫理は本能に反しても、その倫理こそが美徳といわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ニンゲンが高尚と思うものほど、無駄なものはない。&lt;br /&gt;
しかし、そんなものにこそ、人間は興味を抱き、面白さを感じてしまうようになってしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
理性も倫理も、究極的にいえば繁殖に不必要なもの。&lt;br /&gt;
しかし、現在の人間の社会で個体として人間的にも生物的にも成功するには、理性も倫理も必要なもの。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人間は変わった生き物。&lt;br /&gt;
だけれども、その矛盾こそが面白い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてこれを面白いと感じるのもまた、人間は生物としての矛盾を孕んでいることの最たる例でもある。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/dolce_hornist/5016300.html</link>
			<pubDate>Wed, 16 Dec 2009 00:15:17 +0900</pubDate>
			<category>人類学と考古学</category>
		</item>
		<item>
			<title>漢字遊び</title>
			<description>日本の言葉、漢字はとてもよく出来ている。&lt;br /&gt;
「熟語」と言うように、文字を組み合わせた言葉はそれ自体で完結出来るだけの成り立ちと意味を持っていることが多い。&lt;br /&gt;
日ごろ何気なく使っている単語、漢字。ちょっとだけ立ち止まって見直してみると、そこには日本人らしい粋な想いや風刺が潜んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「儚い」&lt;br /&gt;
儚いとは、つかの間であっけない様。むなしく消えてゆく様。&lt;br /&gt;
不確実さや、頼りなさ、ぼんやりとした見通しを表す事にも使われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
壊れてしまいやすいような、そんな繊細で美しい響き。&lt;br /&gt;
しかし、これを分解してみると、そこにあるのは「人」の「夢」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人の夢と書いて、奇しくも儚いと読む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同じように、&lt;br /&gt;
「偽る」&lt;br /&gt;
事実や自分の本心を隠し、真実を曲げて言うこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
偽善だとか偽造だとか、悪いイメージとして使われるニセモノの漢字。&lt;br /&gt;
にも拘らず、「人」の「為」と書いて表す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが自分という人間の為でも、他人の為でも。&lt;br /&gt;
「偽」という漢字は、偽るという行為そのものの悪性と、その裏にある人の利を両方とも表す漢字になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「毎」&lt;br /&gt;
そのことをする度にいつも、どれもみな、という意味の接尾語。&lt;br /&gt;
つねに、まいど、など、恒常を表す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人は毎（つねに）に「侮る」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「憂」&lt;br /&gt;
憂えるの意味は、心配し、心を痛める事。あるいは嘆くこと。&lt;br /&gt;
これだけではマイナスの言葉でも、誰かを心配し、心を痛められるのは…&lt;br /&gt;
人のために憂えるは「優しさ」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「亜」&lt;br /&gt;
象形文字。古代の墓の形から作られているという。&lt;br /&gt;
そのことから、「次」という意味が生まれた。&lt;br /&gt;
しかし、もう一つの意味は「みにくい」。&lt;br /&gt;
亜（醜）い心は「悪」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
何かを崇め、盲信する者。&lt;br /&gt;
信者は「儲かる」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
貴方を思い、いとしい、いとしい、と言う心。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
糸言糸 &lt;br /&gt;
　心 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは「戀（恋）」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ毎日何となく使っている漢字。&lt;br /&gt;
少しだけ思い返してみると、きっと違う世界が広がる筈。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/dolce_hornist/4803330.html</link>
			<pubDate>Sat, 12 Dec 2009 19:36:16 +0900</pubDate>
			<category>その他人文科学</category>
		</item>
		<item>
			<title>進化の行方</title>
			<description>生物は恒常ではない。&lt;br /&gt;
元ある個体から突然変異が生じ、自然選択だとか、遺伝的浮動だとか、様々な事象によって新しく発生したその形質がその種のスタンダードになってゆく。その時、その環境に適した形に「進化」する。&lt;br /&gt;
環境に適したタイプが残り、悲しきかな「型遅れ」あるいは劣等種が淘汰されてゆく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中で、悠久の時を経て人間は今の形に進化した。&lt;br /&gt;
陸上での生活に都合がいいように２本の足で歩き、道具を使う為に指が細く長く器用に、力の代用として知識を得、考えるために頭が大きくなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生物の多くは何らかの、生きる為の能力に特化している。&lt;br /&gt;
ある生物は腕力が強く、ある生物は餌を捕食する為に触手を生やした。植物は虫を集めるために鮮やかに、あるいは芳しい香りを放つようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人間は、木の上を自由に動き回る身軽さやバランス、力を代償にして、知恵という能力を手に入れた。&lt;br /&gt;
ここまでは他の生物と変わらず、ただ「生きるのに必要なある能力に特化した」というだけである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、ここからが人間と他の生物を隔したのではないだろうか。&lt;br /&gt;
この隔すは、ただ文明を得たという意味では無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人間はこうして得た知能を発達させて、文明を築く。そして、人間に代わって人間を支える技術を発展させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この技術の発達は、これからは自分たちが適応することなく、周囲の環境を人間が過ごしやすいように適応させるだけの魔法を、この動物に与えてしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人は、技術を進化させることで、生物としての進化を止めたのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
運輸が、道具が、情報が、全てが進化し、人間の暮らしはどんどん便利になった。&lt;br /&gt;
身近な所では炊事洗濯などの家事、電話や交通などの情報通信、運輸手段。&lt;br /&gt;
手間や時間、労力は省かれ、日増しに人間が行うタスクは減っている。&lt;br /&gt;
その為だろうか、先進国の人間の身体能力は、かつてに比べてだいぶ低下したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
単純に身体能力の低下だけだったら、それも一つの進化の形なのかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、今度はそれだけでなく、便利なシステムや情報機器が、今まで人間が何を捨てても守って来た知的領域を侵食している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本で言えば、携帯やＰＣでの入力の補助のせいで「漢字が書けなくなる」と言われていたりする。また、何も考えなくとも便利に暮らしていけるだけの設備は、知恵を回す事を忘れさせる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
技術を活用して自分の能力を最大限に駆使するものが居る一方、技術に依存して能力を退化させる人間の多いこと……。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
思考の補助が外部の機器によって行われるのが当たり前になってしまったら……。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
全てのプロセスは、進化のひとつながりかもしれない。&lt;br /&gt;
しかし、知恵の為に力を犠牲にした生物が、その叡智までもを失うとしたら？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆるやかに生物としての破滅に向けて歩んでいるのかもしれない。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/dolce_hornist/4341534.html</link>
			<pubDate>Fri, 04 Dec 2009 16:27:02 +0900</pubDate>
			<category>その他自然科学</category>
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