Pの、遺跡侵攻記

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墓・塚

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伝:佐竹氏の墓

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城里町の”龍崖城”の1回目の攻めの帰りに訪れたお寺の紹介です。

城里町内を走る県道61号を城里市街地方面より笠間方面へ西進、しばらく走ると”古内(フルウチ)地区”に入り、水戸市成沢町方面より来た県道51号と合流する信号を過ぎて少し走ると右手に、”清音寺”というお寺がある。ここは一旦、旧道に入らなければならないが、案内板やら看板等が建っているので場所は分かると思う。

清音寺は南側を除く3方を高い山に囲まれた谷間にあり、また現在は、鳥居の建つ入口から舗装道が真っ直ぐ伸びているので、車で入ることが出来るが、すぐ脇には旧参道や門等が今も残っている。

太古山獅子院清音禅寺といい、大同4年(809年)に弘法大師が草庵を設けたのが始まりとされ、その後、文和元年(1345年)に時の領主”佐竹9代貞義”が没し、子の”10代義篤”が100日忌のため復庵宗己を招いて開いた”臨済宗”のお寺である。
境内を見ると建物等が新しく感じるが、1237年の鎌倉時代、1580年の戦国時代の2回を兵火で、昭和15年に伽藍等と、過去3回燃えてしまったことが原因のようである。

歴史も古い由緒あるお寺だが、ここにはまたスゴイ方々のお墓がある。
入口(旧門脇)を抜けて左の案内板の更に奥に、5基の宝篋印塔がある。1基は清音寺を開山した復庵宗己、残りがなんと常陸領主”佐竹氏”の墓石である。その造りから、南北朝期の建立されたといわれ、史実の通り、義篤さんの頃なのであろうと思う。


一番上の画像は国土地理院の地形図に描き込んだ寺の所在地(赤×印)。

2番目の画像は清音寺本堂。

一番下の画像は、境内西側にある宝篋印塔。
画像右から、1180年に”源頼朝”が現在の石岡市辺りまで”佐竹討伐”のために挙兵し、金砂山城にて戦闘を繰り広げた”金砂城の戦い”。奇策により落城して常陸北部(奥州)、現在の北茨城市に山奥にある花園神社に敗走した常陸4代目領主”佐竹秀義”さんの墓石と云われる。

右から2番目の一番小さい墓石
初期の佐竹氏は常陸平氏と親密であった。1180年の”富士川の戦い”で平氏と戦い勝利した源頼朝は、源氏でありながら平氏と親密で敵対関係である佐竹氏討伐のため挙兵した際、頼朝の縁者”上総広常”に矢立橋に呼ばれ、謀殺されてしまった佐竹4代目秀義の実兄”佐竹義政”の墓石と云われる(現地案内板では名前が”政義”なので注意)。本来は別の場所に首塚として埋骨されていたが、江戸時代の天保年間に弟の眠る清音寺に改葬したのだという。

右から3番目の墓石
1303年に多賀郡手綱に竜弧山(現在の竜子山)に興禅寺を建立、また、鎌倉幕府の討幕運動の際に幕府軍として”笠置山攻め”に参加、後に”足利尊氏”の調略を受けて討幕軍に寝返り、1335年に常陸守護に任じられた9代目領主”佐竹貞義”さんの墓石。

右から4番目の墓石
清音寺を開山した”大光禅師復庵宗己”和尚の墓石。

一番左(奥)の墓石
父である9代目領主”佐竹貞義”の菩提寺として清音寺を開いた張本人、10代目領主”佐竹義篤”の墓石。

結構山奥の田舎である旧常北町、意外な史跡が多くて非常に侮りがたし…


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