Pの、遺跡侵攻記

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権現山城

かすみがうら市下志筑にある産業技術総合研究機構の農林試験場の北側にそびえる標高99.3mの三角点がある山が”権現山城”の跡で、かすみがうら市(旧千代田町)と石岡市(旧八郷町)の境界線上にあるため、所在地はかすみがうら市下志筑字権現下または、石岡市半田字金山(カネヤマ)という。

北側を志筑川(今は恋瀬川と呼ばれる)とその低地が広がり、低地との比高約80m、周囲は急斜面となり、西側のみ山続きとなる。

山上には2つの頂上があり、このうち東の頂上は昭和4年の陸軍特別大演習の際に昭和天皇が観覧した”御野立所”で、その記念碑が建っている。ほかにも、大日権現社があり、これがこの山の名称”権現山”の由来となっている。東方面の展望が大変良く、東の物見台であったと思われる。

一方の西の頂上がこの城のメインで、広さ約50m×約80mの歪な長方形状であまり平坦ではない。西や南東に土塁が残り、郭の外側を幅約4m〜約11mの横堀が、一部では折れを伴いながら、また東から北側では帯曲輪に変化しながら、ほぼ全周している。
虎口と思われる開口部が北中央部と、南に1箇所づつ設けられているほか、もともと岩が多い地質なためか、大きな岩が露出している場所が多く、天然の城壁や城門といった使われ方をしたのかもしれない。

遺構としては以上で、折れを伴った見事な横堀がからは戦国期の築城を感じさせ、また、山上は居住には不向きであることから、普段は麓のどこかに居館があったものと思われる。一番有力だとされているのが、東に約1.5kmの地点に位置する志筑城の詰の城ではないかと云われている。

歴史としては、鎌倉時代に益戸氏によって築かれたとされ、1300年代の南北朝期に、下河辺国行が足利利氏と戦って敗れた城とも云われる。また、戦国期の天正年間、小田氏に従った志筑氏が篭ったとも云われるなど、様々な説がある。

北西に約1.2kmという近距離に半田砦や上記の志筑城、更に北西には川又要害や、北には片野城、北東には府中城など、戦国期のこの地域は大掾氏を中心につくばの小田氏や真壁氏、そして佐竹氏といった面々が激戦を繰り広げた地域であり、志筑川沿いの谷筋を監視する砦・物見群の1箇所として、いずれかの勢力によって築かれたのかもしれない。

画像は上から所在地、縄張図、記念碑(図内①)、府中方面の展望(①より東を見た)、図内②の横堀の様子。


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